| ■■■ ローマ市街観光Part4 ■■■ |
1日自由観光 Part1 |
いよいよ観光最終日。明日は帰国の途につく日なので、この日が実質最終日というわけだ。
前の晩、新婚カップルさんたちから一緒に観光しませんかとお誘いいただき、ロビーで待ち合わせしてホテルを出発した。
やっぱりわたしも日本人。群れていると安心できるのかもしれない。
あらかじめ添乗員さんが地図のコピーに見所などを書いたプリントをくれたし、念のため自分の地図にもマーカーでラインを引いてもらい、目的地へのルートは万全。まず最初は「真実の口」の観光からだ。 |
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画像は、カブール通りのゆるい下り坂をホテル・メディテラネオから少し下ったところにあるサンタ・マリア・マッジョーレ教会。
その名の通り聖母マリアのための教会で、彼女のお告げ通り356年の真夏に雪が降ったという奇跡の地に建つ。
内部の身廊には5世紀のモザイク画が残っており、初期キリスト教時代の遺産である。
鐘楼は1377年に建てられ、ローマでもっとも高い75mを誇る。 |
ここは中に入らず、外観だけ見て通り過ぎる。次に訪れるときにはぜひ中に入りたいと思う。
ちなみにここの広場はエスクイリーノ広場といい、右にオベリスクがさりげなく写っている。これは1世紀後半にエジプトから運ばれてきたものだそうだ。(オベリスクについてはこのページの最後の方で詳しく書きます)
教会を右手に見ながら、さらにカブール通りを下る。途中、1ユーロショップなるものがあって、みんなで衝動的に入っていった。基本的に日本の100均と同じような感じだが、観光都市ローマらしくお土産によさそうなものもいくつかあった。
1ユーロショップを出て、さらに歩く。 |
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舗道の無人ガソリンスタンド。バイクの人などが自分でガソリンを入れていた。 |
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白馬のおまわりさん。
このあと、わたしたちはフォロ・ロマーノの横を通る坂道を登って、丘の向こう側へと向かう。
このフォロ・ロマーノ、パラティーノの丘からヴェネツィア広場にかけては小高い丘陵地となっており、坂や階段が多いのだ。 |
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坂道の途中、フォロ・ロマーノの凱旋門を背景に記念撮影。 |
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サンタ・マリア・イン・コスメディン教会「真実の口」 |
「真実の口」のあるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会に到着した。
一緒にホテルを出ながら途中から別ルートをとった栃木のK夫妻とも合流し、いよいよ「真実の口」に対面すべく中に入る。
サンタ・マリア・イン・コスメディン教会は6世紀に建立され、コリント式円柱やビザンチン様式のモザイクで飾られた古い教会である。 |
意外なことに、「真実の口」は道路に面した格子の中にあった。こんなに有名なものが道路際にあるとは予想しておらず、わたしは思わず「えー、こんなところにあるんだっ?」と声をあげていた。
格子の切れ目に回りこみ、身廊に入る。
添乗員さんに「真実の口」に行くなら朝イチと言われていたので真っ先に来たのだが、それでもいちおう行列ができていた。が、これは空いている方だということだ。
この「真実の口」見学が観光に入っているツアーもあるが、わたしたちのこのツアーにはコースに入っていなかった。そこで自由行動のときに来たわけだが、とってもとっても見たかった遺跡(?)であった。
見たかった理由は、やっぱり映画「ローマの休日」の影響だろうか。 |
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映画でグレゴリー・ペック演じる新聞記者が手を入れて抜けなくなるふりをしてアン王女を驚かせていた「真実の口」は、トリトンの顔をかたどった石盤。もともとは古代ローマ時代の井戸、もしくは下水溝のフタだったもの。つまり、マンホールというわけだ。
1632年教会の外壁から発見され、ここに飾られるようになった。
トリトンは海神ポセイドンの息子で、トレヴィの泉ではポセイドンの足元で法螺貝のラッパを吹いている。
この口の中に手を入れると嘘つきは手首を噛み切られる、または手が抜けなくなるという伝説があるが、こうした噂はどこから来たものだろう。まあ、入れるところが口だけに「噛まれる」という感覚はわからないでもない。
栃木のK君などは鼻の中に手を入れたり、鼻の下に二本指をあてて「カトちゃんペッ」とやった写真を撮ったりして、わたしたちも大笑いしながら見ていた。ああ、不謹慎、不謹慎。 |
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はい、新婚さんもやってます、やってます。こういう写真をポストカードにして「結婚しました」なんて送るのかしら。うーん、羨ましい!
余談だが、わたしたちの新婚旅行はロサンゼルスだった。観光した先といえば、ディズニーランドとマジックマウンテン、ユニバーサルスタジオ、ビバリーヒルズ、ロデオドライブと、アメリカ文化どっぷりの8日間だった。
イタリアとフランスにどっぷりの現在からはちょっと想像できないほどミーハーチックだった。それだけ今は幅が広がったってことだろうか。いや、カラダの横幅のことではありませんよ。
閑話休題。
見学が終わったがこのまま帰るのもなんなので、教会の方にもちょっと入ってみた。
天井が低くて内装もシックな礼拝堂だ。(それだけかいっ) |
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この「真実の口」には公式ページがある。英語で長々と書いてあって、開くなりくじけてしまった。暇なときに読んでみよう。
「BOCCA DELLA VERITA official web site」
←道路から見た「真実の口」。 |
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フォルトゥナ神殿? |
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サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の近くにあった遺跡。その時は何の遺跡だろうと思いながらカメラに収めたが、あとでガイドブックを見たら「教会前にはローマに現存するもっとも古い神殿、フォルトゥナが残る」と書いてあった。
おそらくそれだと思うが、未確認。紀元前3世紀頃のものだという。 |
フォルトゥナとは関係ないが、こんな古いのと近代的なのとをつなぎ合わせた建造物もある。
こういう建物ひとつ見ても、右側の古いのは元々なんの建物だったんだろう、誰が造ったんだろうと知りたくなってしまう。 |
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| サンタ・マリア・イン・コスメディン教会からヴェネチア広場に抜ける細い坂道。添乗員さんに教えてもらった裏道で、単独行動だとちょっと不安になるかもしれない雰囲気だ。 |
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ヴェネチア広場へ〜カンピドリオ広場、市庁舎 |
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長い階段を登るとカンピドリオ広場で、正面の建物は市庁舎。広場のデザインはミケランジェロが手がけたという。
このあたりには美術館が多く建っており、文字通りローマの中心地だ。 |
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またまた長い階段。若い人たちはさっさか登っていく。わたしは半分ほどで息切れしてしまった。この日はちょっと肌寒かったが12月にしては暖かい方で、革のジャケットの中は汗をかくほどだった。
階段を登り切ったところにある建物はサンタ・マリア・イン・アラコエリ教会。
さて、ここで問題です。ミラノからここまで、「サンタ・マリア」と名の付く教会はいくつ登場してきたでしょう? |
答えは、すぐ上のサンタ・マリア・イン・アラコエリ教会も含めて6つ。
1つめはミラノ、ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」のあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会。
2つめはフィレンツェ、ドゥオーモと呼ばれるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。
3つめはヴェネチア、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会。
4つめはこのページの冒頭に出てきたサンタ・マリア・マッジョーレ教会。
5つめは「真実の口」のあるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会である。
しかも、名前だけで画像のない教会や現存しない教会、例えばミラノのサンタ・マリア・アラ・スカラ教会、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の2つを含めたら8つにも上る。
さらにサンタ・マリア・ノヴェッラ中央駅という駅まであって、とにかくカソリックの国・イタリアは聖母マリア崇拝が非常に強い。それにしても、サンタ・マリアなんとかが多すぎて覚えられないのは困ったものである。 |
教会の内部。天井の格子細工などがたいへん見事だ。
ここは実はおトイレを借りるために入ったもので、さらっと見ただけで出てきてしまった。ガイドブックの地図に載ってはいるが解説がないため、謂われなどがわからなかった。
この教会の起源は6世紀。冒頭のサンタ・マリア・マッジョーレ教会同様、やはりお告げのあった場所に建っているようだ。
「”ちゃおちゃお”のローマ美術案内 ROMAの休日」というサイトで非常に詳しく解説されているので、興味のある方はどうぞ。サンタ・マリア・イン・アラコエリ教会のページはこちらです。 |
後陣と祭壇。
ここを見学したあと横手の売店から外に出てトイレを借りたが、非常に長蛇の列ができていた。
よく「日本人はトイレが近くてしょっちゅうトイレトイレと言っているが、欧米人は体のつくりが違うためあまりトイレに行かない」みたいなことが言われるが、列にはイタリア人女性もたくさん並んでいた。やっぱりイタリア人だってトイレに行くんじゃん。 |
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小さなトイレだが、中に移民系の若い女性が座っていて傍らにはチップの小銭を入れるカゴがあった。順番が来たのでわたしも50セントコインを投じてトイレに入ったが、彼女が何をするわけでもないのにどうしてお金を取るんだろう。
そのお金でトイレットペーパー代に当てているのだろうか。 |
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ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂、ヴェネチア広場 |
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トイレを出て教会の壁に沿って進むと、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂に行きあたった。高台にあるため見晴らしがよい。
下の画像はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂。この方は長いイタリア統一戦争ののち、1870年に統一を成し遂げた初代国王だ。
ミラノのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世アーケードは彼の偉業を讃えて建設されたものである。
騎馬像はこの王のものだと思われる。 |
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この記念堂はアーケード同様、統一の偉業を讃えるため1895年に着工し、1911年に完成した。
下のロータリーはヴェネチア広場になっている。記念堂の隣りにヴェネチア宮殿が建っているためにこう呼ばれている。
ヴェネチア宮殿は1455年、のちに法王パウロ2世となるバルロ卿のために建てられた初期ルネッサンス建築の建物。16世紀半ばにヴェネチア共和国の大使館となったため、ヴェネチア宮殿という名前が付いた。
かつてはムッソリーニ(1883年〜1945年)もここに住んだという。 |
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ヴェネチア広場からコルソ通りに出た。
ここでわたしたちはいったん解散したが、夜にスペイン広場で再び集合し、一緒に夕食をとることになっていた。
道を歩きながら、道ばたで売っている焼き栗を購入した。確か3ユーロほどだっただろうか。
日本の栗ほど甘みがないように感じた。 |
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パンテオン |
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コルソ通りとナヴォーナ広場の中間にあるパンテオン。
紀元前27年にアウグストゥス帝の娘婿アグリッパがローマ神を祀るために建立した神殿だが、紀元80年に火事で焼失した。その後、紀元120年頃にハドリアヌス帝が再建した。
列柱の上には「アグリッパが三度目の執政官のときに建造」という文字が刻まれており、ハドリアヌス帝がアグリッパに敬意を表したものなのだそうだ。 |
当時のコンクリート技術の最高峰であり、修復の手は加えられているものの現在の姿は再建当時のまま。現存する古代ローマ建築ではもっともよく保存されたものの一つである。
また入り口の16本の柱のうちの13本と、入り口の鉄の扉が当時のままということで、驚かされる。
608年、聖母マリアと殉教者に捧げる教会となった。ちなみにパリのマドレーヌ寺院の外観にとてもよく似ているが、もちろんローマの方がオリジナルだ。
そのパリにもちゃんとパンテオンがあって、そちらにはビクトル・ユーゴーや「三銃士」の作者アレクサンドル・デュマ、キュリー夫妻などが葬られているという。
わたしが小学生の頃、牛若丸、良寛の次に読んだ伝記がマリー・キュリーだった。勉強が苦手だったわたしにとって、勉学好きで努力家のマリーは長いこと憧れの人だった。ぜひとも今度、お墓参りに行かなくては。 |
パンテオンという名称は、元々すべての神々を祀る神殿のことを指していた。一神教のキリスト教が広まると、神々ではなく偉人たちを祀る建造物のことをパンテオンというようになっていった。
ラファエロやヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、その息子ウンベルト1世などがここに葬られている。
←天窓から光が差し込む半球形のクーポラ。
内部はとても広く、よほどの広角カメラでないと全景を写しきれない。床から天井までは43.3メートルあるが、アーチが過重を分散するため堂内に柱は存在しない。
さらに天窓の直径は9mもあるとか。 |
祭壇・・・それともお墓か?誰か教えてください・・・。 |
ラファエロ・サンティ(1483年〜1520年)のお墓。
ルネッサンス期の芸術家というと日本ではダ・ヴィンチが特に注目されがちだが、女性を描いた絵画の美しさではラファエロの方が勝るとわたしは思っている。
ダ・ヴィンチが描く女性は「モナ・リザ」に見られるように、少し男性的な印象を受ける。一方、ラファエロの描く女性はより女性的で、例えばパラティーナ美術館にある「小椅子の聖母」のマリアのように、たいへん優美で魅力的であるように思う。 |
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ラファエロはサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家を任され頂点を極めたが、37歳の若さで亡くなった。最近の研究では性感染症によるものという説がある。
ラファエロのお墓はわかったが、さて、王様のお墓はどれだろう。わからないままに出てきてしまった。残念。 |
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ロトンダ広場 |
パンテオン前のロトンダ広場の噴水。
1711年、教皇クレメンス11世がすでにあった噴水の上にオベリスクを据え、このような形になった。 |
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広場に面したオープンカフェで飲んだカプチーノ。息子はオレンジジュースを注文し、しばしの休憩を取った。
わたしはイタリアに来てから飲みだめをするかのようにカプチーノばかりだ。 |
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モンテチトリオ広場 |
パンテオンからコロンナ広場に抜ける手前にある広場。ここにもオベリスクが建つ。
背後のモンテチトリオ宮殿は現在、下院の国会議事堂になっている。隣のキージ宮殿は総理府の建物だ。
このオベリスクはこのエジプト第26王朝(紀元前6世紀〜5世紀)の第3代のファラオ、プサメティコス2世が太陽神殿に建てさせたもののうちの一本であった。
紀元前31年にエジプトを征服したオクタヴィアヌス(紀元前62年〜紀元前62年。カエサルの養子で、のちの古代ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス帝)は2本のオベリスクを運び出し、ローマに持ち帰った。
そのうちの1本は現在もポポロ広場に建っている。しかし、もう1本がこのモンテチトリオ広場に建つまでには紆余曲折があった。
エジプトから持ってきた直後はカンポ・マルツィオ広場に日時計として建てられたのだが、10〜11世紀頃に倒れ、そのまま地中に埋もれてしまった。
16世紀に発掘されたが、結局この広場に建て直されたのは1787年のことだった。 |
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コロンナ広場 |
コルソ通りに面したコロンナ広場。ここにもまたまたオベリスクの姿が。
こんなにたくさん持ち去って、エジプトからオベリスクがなくならないのだろうか・・・と思っていたら、「世界のオベリスク」というサイトによれば、ローマには13本のオベリスクがあり、一方エジプトにはわずか7本しか残っていないのだそうだ。
また、このサイトの記述によると、サンタ・マリア・マッジョーレ教会前のオベリスクにはヒエログリフが書かれておらず、ローマ人による模作が考えられるという。ヴァチカンのオベリスクも同様だというから驚きだ。
ローマ人はよほどオベリスクに強い憧れを抱いていたに違いない。 |
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