ヴァチカン市国 
サン・ピエトロ大聖堂
 システィーナ礼拝堂を出ると、階段を下りてサン・ピエトロ大聖堂へと向かう。
 330年頃、コンスタンティヌス帝の命によって着工された大聖堂で、世界最大級の大きさ。初代ローマ教皇と見なされる聖ペテロが殉教し、葬られた地に建てられた。
 (※ペテロについては「最後の晩餐」のページを参照してください)
 最初のバシリカ式教会堂は15世紀半ば頃、老朽化のため倒壊の危険があると指摘されるようになった。
 そこで1505年、教皇ユリウス2世により改築の決定が下され、コンテストによりブラマンテが主任建築家に任命された。
 1514年にブラマンテが死去したため、工事はラファエロに引き継がれた。
 このあと何人かの建築家を経て、72歳と高齢になっていたミケランジェロが主任建築家となる。
 彼が設計し創りあげたドーム部分は、この画像ではファサードに隠れててっぺんしか見えていない。実はヴァチカン市国から出て撮影した方が、このドームをカメラに収めることができるらしい。
 さて、1624年にはベルニーニが改築を手がけた大聖堂は、1667年にようやく完成した。改築開始から実に120年の歳月を経ていた。
 この工期の長さにはまことに驚嘆させられる。また、ラファエロ、ミケランジェロといった当時の芸術家たちが一流の画家であり建築家であったという事実にも感服である。
 
 ←サン・ピエトロ大聖堂の入り口。
 アトリウムと呼ばれる玄関廊の右側にはブロンズ製の大扉が5つ並んでいる。 
 
 そのうちの一つ、「聖なる扉」は25年に一度の「聖年」にのみ教皇の手によって開かれるという特別なドアなのだそうだ。
 聖年とは、カトリック教会において、ローマ巡礼者に特別の赦しを与える、とした年のこと。
 教皇ボニファティウス8世が1300年を聖年と定めたのを最初に、1400年以降ほぼ25年ごとに聖年祭が行われている。
 2000年は「大聖年」の年だったそうで、特に巡礼者が多かったようだ。
 
 大聖堂の中に入る。
 ラテン十字の形をした大聖堂は南北約150メートル、東西約210メートル、床面積は2万3000平方メートルだ。
 まず入ってすぐの右側に、ミケランジェロの彫刻作品としてもっとも有名な「ピエタ」がある。
 ミラノのところでも述べたとおり、ミケランジェロはいくつものピエタを残しているが、みな未完のまま。(※ミラノの「ロンダニーニのピエタ」はこちらをご覧下さい)
 ここサン・ピエトロ大聖堂のピエタは21歳の時の作品である。
 フィレンツェを離れローマに移ったミケランジェロは、1498年からこの作品に取り組んだ。
 2年の月日をかけて大理石の一枚岩から壮麗な彫刻を彫り上げ、ミケランジェロの名声は不動のものとなった。
 最初は別の礼拝堂にある枢機卿の墓の上に設置されていたが、サン・ピエトロ大聖堂改築にあたって礼拝堂が取り壊されたため、大聖堂内に移された。
 ピエタとは「慈悲」といった意味で、十字架に掛けられて亡くなったイエス・キリストを降ろし、その亡骸を抱きかかえて深い嘆きに沈む聖母マリアの心情を表すものだ。
 衣装のひだの見事さ、聖母の悲しみに沈むつつましい表情、若々しく美しい顔、ぐったりと力なく横たわるキリスト、そのどれもが息を呑むほどの迫力で迫ってくる。
 聖母の肩からかかる帯にはミケランジェロのサインが施されており、みずから署名を入れた唯一の作品であった。
 後年、マリアの指を折ったりハンマーで叩き割るといった破壊行為がおこったため、現在では防弾ガラスによって保護されている。
 ピエタ鑑賞後、大聖堂の中を移動。
 至るところに教皇やメディチ家の人物のお墓がある。
 昨年もパリ郊外のサン・ドニ大聖堂でたくさんのお墓を見てきてお墓は見慣れたはずのわたしでも、このお墓にはさすがに度肝を抜かれた。
 なんと、教皇のご遺体がガラス越しに見えるのだ。
 ただし、お顔にはマスクが被せられているという。
 こちらにも教皇のご遺体が。
 生前の姿を刻んだ彫刻を棺桶の上に載せるお墓のタイプすら日本人にはちょっと衝撃的なのに、ご遺体をそのまま晒すとは・・・。これまたちょっとショッキング。
 聖ペテロのブロンズ像。
 伝統的にアルノルファ・ディ・カンビオの作品とされてきたが、近年の説によれば4世紀にシリアの無名の作家によって制作されたものだという。
 信者が右足にキスをしていくため、ペテロのつま先がすり減ってしまっている。
 下の画像は、地下にあるペテロのお墓を蓋越しに見ている様子。マンホールの蓋のようなのが透かしになっていて、地下のお墓が見えるのである。
 最初に、このサン・ピエトロ大聖堂はペテロのお墓の上に建てられたと書いたが、実はその信憑性を疑う向きもあった。しかし、第260代ピウス12世(在位1939年〜1958年)がペテロの墓を発見し、その後の研究によりほぼ確実視されているという。 
 何回か書いているが、カトリックでは聖ペテロが初代教皇とされ、イエス・キリストから信徒の赦免・破門の権限を与えられたと言われている。
 聖ペトロはガリラヤ湖畔のベトサイダ出身で、イエス・キリストの最初の弟子。
 イエスに「私についてきなさい。あなたを人間を漁(すな)どる漁師にしてあげよう」と誘われ、弟子となった。
 (ペトロのその後の活動についてはこちらを参照してください)

 この天使の水盤の前で写真を撮ると幸せになると言われているらしい。
 今でもじゅうぶん幸せなのだが、ガイドさんにカメラを渡し、息子と二人で写真を撮ってもらった。さて、その御利益はいかに?
大聖堂後方から内陣方向を見る。 クーポラの真下にある教皇の祭壇。
 上の写真だと小さく見える教皇の祭壇。人一人が立ってちょうどよいサイズに見えるが、実はこんなに大きいものなのだということをわかっていただくためにガイドブックから転載してみた。
 教皇の祭壇はブロンズの天蓋で作られており、ベルニーニの作品。
 赤い絨毯の中央にいるのが前教皇ヨハネ・パウロ2世。2005年4月2日に亡くなり、この地下に埋葬されている。
 また天井近くに書かれている文字はキリストが聖ペテロに「天国の鍵」を渡すときに語った言葉、「あなたはペテロ(石)である。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。(中略)わたしは、あなたに天国の鍵を授けよう」を刻んだものだということだ。
 この言葉によりペテロはローマに赴いて殉教し、この場所に埋葬された。
 天蓋の柱とクーポラ。
 クーポラの内側には天井の丸みに沿って通路があり、階段で上ることができる。一般の観光客も上から見学できるようになっており、実際、下から見ていると、上の通路からこちらを見下ろす人影が見える。その人影がとても小さくて、この屋根がいかに巨大なものかを知ることができる。
 わたしも次に訪れるときにはぜひ登ってみたいと思っている。
 内部の見学を終えて、外に出た。
 入り口のかたわらではスイス衛兵の姿を見ることができた。があった。
 スイス傭兵は1505年1月22日に教皇ユリウス2世が私的な傭兵として雇い入れたのが始まり。なんでわざわざスイス人を雇ったかというと、当時スイス人の傭兵は忠誠心が高く強いと評判だったためだ。
 中世以降のスイスでは現金収入を得るため、若い男性が出稼ぎ兵としてあちこちの国へ出て行ったという。
 時代こそ違うが、1682年に着工したヴェルサイユ宮殿の庭園には「スイス人の池」と呼ばれる池があり、スイス人傭兵の献身的な作業により完成したものだという。
 話をヴァチカンに戻す。
 1527年5月6日の「ローマ略奪」の際には189人のスイス衛兵のうち、147人がクレメンス7世を救うために戦死している。このときクレメンス7世は前ページにも出てくるサンタンジェロ城に逃れて無事だった。
 これ以降、教皇を警護するのはスイス人というのが伝統になった。
 ちなみにクレメンス7世はメディチ家出身の教皇であったため、スイス衛兵のユニフォームはメディチ家の色である青、黄、赤でデザインされている。ミケランジェロがデザインしたものという逸話もあるが、真意のほどは明らかではない(違うという説もある)。
 現在では100人前後のスイス人衛兵がおり、教皇の身辺警護と宮殿やヴァチカンの入り口の警護に当たっている。 
 隊員はカトリック教徒であるスイス市民で、スイス軍で一定の経験を積んだ者が選ばれる。ガイドさんは成績優秀で長身・容姿端麗な子弟が選ばれると言っていた。
 わたしたちが見た衛兵さんたちはとても愛想がよく、カメラに笑顔で応え、手間で振っていた。
 うーん、ス・テ・キ。
 が、冬服のマント姿だったのが、ちょっと残念なところ。マントなしのユニフォーム姿は、インターネット百科事典「ウィキペディア」でご覧ください。

 さて、ここで短い時間ながら自由行動となったので、わたしたちは郵便局に駆け込んだ。
 小さいながらも独立国であるヴァチカンには、ちゃんと郵便局もあるのである。
 わたしは英語とイタリア語がごっちゃになった言葉で絵はがきと切手を買い求め、日本で待つ娘を差出人にして宛名を書いてポストに投函した。
 この絵はがき、帰国してから約1週間で到着した。投函直後に「Air Mail」と書かなかったことに気づいたが、ちゃんと届いたので安堵した。
 添乗員さんの勧めに従ってとった行動だったが、よい記念になった。

 
 広場から臨むサン・ピエトロ大聖堂。
 さらに広場の中へと進む。遠ざかってやっと、クーポラの丸屋根が見えてきた。
 向きを変えて大聖堂に背を向けると、正面に噴水やアーチがある。
 ひときわ高い茶色の建物は、教皇の住まう宮殿。
 教皇はヨハンネス23世から始まった伝統に従って、毎週日曜日の正午に宮殿4階にある書斎の窓に姿を現す(右から2番目だとか)。
 そして、サン・ピエトロ広場に集まった信者とともに祈りを唱えるのだという。
 広場の一角ではクリスマスの飾りつけの準備が行われており、クレーンを使っての大がかりな作業の様子だった。
 だが、イブまであと9日だというのに、これから飾りつけというのは悠長すぎないだろうか。それとも11月に入ったとたんにクリスマス一色になる日本の方がせっかちすぎるのかな。
 とにかく、世界遺産の次にクリスマスのディスプレイを楽しみにしてきたというのに、まだ飾っていないところが多くて、ちょっとガッカリなのであった。
 ちなみにカトリックの影響の強いイタリアでは、クリスマス・ツリーではなくプレセピオと呼ばれる飾りつけをする習慣がある。
 プレセピオはイエス・キリストが馬小屋で誕生した瞬間を人形で表したディスプレイで、左の画像がそれ。これは翌日訪れたサンタ・マリア・イン・アラコエリ教会の内部に飾られていたものだ。
 一方、世界最大と言われるカゼルダ宮殿のはこんな感じ。人形の数が多すぎてゴチャゴチャとわかりづらいが、中央にはマリアとヨゼフの夫婦が座り、その周囲に東方からやってきた三博士が立っているはずだ。
 (東方三博士については、こちらを参照してください)
 これがもっともシンプルな原型だと思うが、サンタ・マリア・イン・アラコエリ教会のプレセピオにヨゼフの姿は見あたらない。聖書でも影の薄いイエスの父ヨセフは、ここでも存在を忘れられているのであった。
 彼らの中央には赤ん坊のための籠が置かれているが、中身はクリスマスまで空っぽのままにされるのが習慣。そして、まさに12月25日の朝、イエスの人形が置かれるのだ。
 このプレセピオ、23日くらいから飾りつけを始めるということなので、この日ヴァチカンのそれが完成していなかったのは至極普通のことだったようだ。
 ガイドブックから転載したサン・ピエトロ大聖堂とサン・ピエトロ広場の全景。というか、ほとんどヴァチカン市国の全景といってもいいだろう。
 広場を囲むアーチを抜けて外に出ると、そこはもうヴァチカンの外。
 拍子抜けするくらいあっさりと出入りできる世界一小さな独立国なのであった。
 外から見たヴァチカン出入り口。ここにもスイス人衛兵の姿があった。
 最初にヴァチカン博物館のゲートをくぐってからここまで約2時間。小さいけど壮大なスケールのヴァチカンを見学し尽くすにはあまりにも短い滞在時間だった。
 また来年か再来年にでも再訪し、もっとゆっくり美術館と大聖堂を見て回りたいと思う。


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