ローマへ 
ホテルを出発〜ユーロスターに乗る
 一夜明けて、フィレンツェ最終日。ここのホテルでは2泊できたので、比較的ゆっくりできてよかった。
 ローマへと出発するべく、わたしたちはホテル前に横付けされたバスに乗り込んだ。
 バスが走り出して5分もしないうちに、息子が「時計・・・」とつぶやいて何もついていない手首をさすった。
 「なに、忘れたの?」
 わたしはギョッとして隣りに座る息子の横顔を見た。だから、そこに置いておかないですぐに付けなさいとあれほど言っておいたのに。
 すると、添乗員さんが敏感に反応した。
 「忘れ物?」
 と、わたし以上に緊迫した声で訊いてくる。
 運のよいことに、バスはUターンしてホテルの近くまで戻っていた。そのまま遠ざかっていたら5分は痛かったが、ユーロスターの駅がバスの進行方向と逆だったのが幸いした。
 バスを停めてもらい、添乗員さんと息子、そしてわたしの3人はまだ薄暗いフィレンツェの新市街地を走り出した。
 近くとはいえ、けっこう走る。
 しかもホテルは敷地が広く、表通りから入ると建物はかなり奥に位置する。おまけに途中に坂道まであって非常にしんどい。
 息切れして、わたしは途中で失速した。
 息子が添乗員さんとともに先行し、フロントデスクのある棟に入っていった。事情を説明して鍵を借り出し、息子が一人で部屋に戻る。
 このとき、ようやくわたしも建物の前に到着した。ぜいぜいしながら待っていると、やがて新館から息子の姿が現れた。
 あったよ、と嬉しげに時計を見せる。喜んでる場合じゃないよ、馬鹿たれ。
 無事にバスに戻ったが、皆さんをバスの中で10分ほど待たせてしまった。本当に申し訳ない。馬鹿息子に免じて、ひとつご容赦を。
 バスは再び出発し、渋滞にあうこともなくサンタ・マリア・ノヴェッラ中央駅に到着した。わたしたちはかなり早めに出発していたので、ユーロスターの時間にはまだまだ余裕があった。
 集合場所と時間を決めて、10分程度の自由行動があったくらいだ。
 わたしたちは駅構内にあるマクドナルドに入り、ハンバーガーやコーヒーなどを購入した。
 ホテルを発つ時間が早くて朝食をとれなかったため、わたしたちはお弁当のバッグをひとつずつもらっていた。中にはパンやラスク、チョコ菓子、ジュース、ミネラルウォーターなどが入っていたが、ちょっと味気ない気がしたので、マクドナルドで補充。
 やがて時間になったのでホームに入る。
 間もなくやって来た列車を見て、おお、これがユーロスターかと写真を撮ったが、違っていた。
 ところで、わたしたちはスーツケースのような大荷物はいっさい持たず、すべてバスに置いてきていた。ここがツアーの良いところなのだが、バスは荷物を載せたまま、一路ローマを目指すのだ。
 わたしたちは手荷物ひとつでユーロスターに乗れるわけで、これが個人旅行だったらそういはいかない。
 7時43分、ホームにユーロスターが入ってきた。なんだか悪魔が笑っているような、不気味な顔だち。今にも「ケケケ・・・」という声が聞こえてきそう。
 ユーロスターはイタリア国内を走る全席指定の新幹線。正式名称はユーロスター・イタリア(EUROSTAR ITALIA)で、ローマ〜フィレンツェ間の他、ミラノ〜ヴェネツィア間、ローマ〜トリノ間などを走る。
 わたしはぜひともこれに乗りたくて、ユーロスターに乗れるツアーを探し回った。あるようで意外にないのだ、これが。
 あればあったでナポリに行くプランが入っていたり。結局、ピサ観光が組み込まれていない今回のツアーに落ち着いたわけだが、お陰でアウトレット・モールに行くことができなかった。本当はグッチのバックがほしかったのよ。
 実を言うと、わたしはそれほど鉄道ファンというわけではない。もちろん日本で新幹線に乗ればワクワクするし写真も撮るが、まあ、その程度。
 ではなぜユーロスターにこだわったかというと、バスでの長距離移動に飽き飽きしていたからだ。ユーロスターならフィレンツェからローマまで約1時間45分の所を、バスだと4時間はかかってしまう。その間、トイレはサービスエリアに停まる2回程度。しかも、行きたいときに行けない。
 なにより息子がバス移動を嫌っていた。新幹線に乗れば息子も喜ぶかなあと思ったのである。
 いよいよ乗車。
 クジ引きのように引き当てたチケットの番号に従って席に着く。お隣りは新婚カップル2組で、あとの人たちは別の車両となった。
 ありがたいことに、お喋りがうるさい祖母・母・娘3人組とは別々だった。この3人、よくぞそんなに話すことがあるなと感心するくらい喋り続ける親子で、イタリア行きの飛行機でもずーっっとずーっと喋っていた。できれば離れていたいというのが本音だった。
 定刻から数分遅れの7時55分頃、列車が走りだした。
 よくイタリアでは時間の観念がルーズなので、列車が定刻通りに出ることはないと聞いていたが、これはまあまあ定刻通りと言っていいのではないだろうか。
 隣りの席ではホテルで受け取ったお弁当の中身を出したり、マックで買ったハンバーガーを食べ始めていた。
 座席は強制的に向かい合わせで、最初からテーブル台が真ん中に用意されている。
 そこには電源まで用意されていて、パソコンや携帯を充電しながら使用することができる。
 携帯で通話するときにデッキに出ないといけない日本とは大変な違いだった。
 余談だが、北海道から本州へ戻るフェリーの寝台に泊まったとき、電源がないので困ったことがあった。ノートパソコンでDVDを観たりゲームをするのに電源は必要だし、デジカメの充電もしたい。
 しかし、寝台や大部屋に電源はなかった。
 おそらく個室にはあるのだろうが、フェリーの大多数の乗客は寝台や大部屋なのである。
 困った挙げ句、通路やレストランのコンセントを使って携帯やデジカメの充電をする光景が見られた。他人事ながら盗まれないかなと気になったが、空いているコンセントはほとんど充電で占領されていたくらいだ。
 それも当然である。
 わたしたちが使う電子製品は充電しないと使えないものばかり。それなのに、コンセントを用意していないとは、フェリー会社も配慮が足りない。
 それともフェリーの電力に限界があるため、用意したくても不可能なのだろうか。
 いずれにしても、イタリアを見習ってもらいたいものである。
 ユーロスターでの移動は、なによりトイレがあるのでとっても楽ちん。
 窓の外には田園風景が広がっている。
 ちなみに、わたしの正面には向かい合わせでイタリア人の若い女性が座っており、ずっと雑誌を読んでいた。
 特に会話もなかったが、ローマ・テルミニ駅に到着して降車する際には、わたしに「チャオ」と挨拶して降りていったのが印象的だった。
ローマ到着
 9時40分、ローマ・テルミニ駅到着。
 年に数回はニュースで観るような「日本人旅行客が列車事故に巻き込まれる」というシチュエーションにはならず、ほっと胸を撫で下ろす。
 窓から見える駅の様子はなんだかローカルな印象で、ローマに来たという実感が湧いてこない。
 駅の構内にはクリスマスらしい飾り付けもあった。
 ローマは、キリスト教の総本山であるヴァチカン市国の他、古代遺跡などが残るイタリア随一の大都市だ。
 神話では、軍神マルスの双子の子、ロムルスとレムスが雌オオカミに育てられ成長した後、ローマの基となる街を建設したと伝えられる。
 紀元前753年4月21日、ロムルスがローマ初代国王となったとされるこの日は、ローマ市の祝日と定められている。
 紀元前509年、エトルリア人の王による専制に立ち上がった民衆が共和制を樹立。
 紀元前264年から前146年のポエニ戦争でカルタゴ、マケドニアを撃破し、地中海全域に勢力を拡大するが、強大になりすぎた国内は混乱する。
 各地で起こる反乱を収め三頭政治に参加したガイウス・ユリウス・カエサル(紀元前100年7月生まれ)は、政敵・ポンペイウスを倒し、前46年、終身独裁官に就任して国内を統一した。
 カエサルは英語読みではジュリアス・シーザーと呼ばれ、古代共和政ローマ最大の軍人で政治家。
 名門貴族の出身で、3人の妻と結婚したほか数多くの愛人がいたが、ポンペイウスを追撃して到達したエジプトの地でプトレマイオス王朝クレオパトラ7世と出会い、息子をもうけている。
 しかし、カエサルへの権力集中に危機感を抱いたブルートゥスカッシウスらにより、紀元前44年3月15日、元老院の列柱廊にて暗殺された。
 数日後、遺言に従ってカエサルの姪の子で養子となっていた18歳のガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスが後継者に指名された。
 この後継者こそ、後に初代ローマ皇帝となるアウグストゥスである。彼は「青の洞窟」のあるカプリ島をたいそう気に入り、所有者である家臣に「わたしのイスキア島と交換してくれ」と申し出、手に入れたという逸話が残っている。
 わたしたちはバスに乗って、ヴァチカンへと向かっていた。
 このバスは、ローマで新たにチャーターしたもの。これまで一緒に旅してきたドライバーさんはわたしたちを追ってフィレンツェからローマに向かっている途中で、まだ到着していない。
 左画像は、ローマを守ってきた城壁の一部。
 ヴァチカン市国 
 バスはヴァチカン市国に到着した。
 世界で最小の独立国であり、カトリック教の総本山でもあるヴァチカン市国。
 面積は0.44平方キロメートルで、東京ディズニーランドとほぼ同じ広さである。人口はわずかに921人。そのほとんどが教皇を初めとする聖職者で、スイス人衛兵も市民だ。
 統治者はもちろんローマ教皇で、現在の教皇はベネディクト16世。日本では「法王」の呼称の方が一般的だが、ローマ・カトリック教会では「教皇」の呼称を使用するよう求めているそうである。
 しかし、日本とバチカンが外交関係を樹立した当時の翻訳が「法王」だったため、マスコミもそれに倣っているということらしい。
 ここでは混乱を避けるためにも、「教皇」の呼称で書き進めていていきたい。
 上と左の画像は135年、ローマ皇帝ハドリアヌスが自らの霊廟として建てさせ、139年に完成したサンタンジェロ城。のちに軍事施設として使われ、要塞化していった。
 590年、ローマでペストが大流行した際、時の教皇グレゴリウス1世が、建物の上に舞い降りた天使が剣でペストを追い払うのを見たことから、「サンタンジェロ=聖天使の城」と呼ばれた。
 1527年に神聖ローマ帝国によるローマ略奪が行われたときには、教皇クレメンス7世がヴァチカン宮殿と結ばれた避難路を通って、この城に逃げこんだ。 
 16世紀には、城の頂きに大理石製の天使の像が設置されている。
 ヴァチカン市国の面積は0.44平方キロメートル、人口は921人。公用語はラテン語だが、教皇の公式文書にのみ使用され、普段はイタリア語で話している。
 ヴァチカンは元々、イエス・キリストの使徒の一人で、キリストから後を託されたとされるペドロが死んだ地。そのお墓の上に建てられたのがサン・ピエトロ大聖堂だと言われている(ピエトロとはペトロのこと)。
 →参照「最後の晩餐
ヴァチカン美術館
 見学はヴァチカン美術館から開始。
 建物の中に入る前に、まずものものしい手荷物検査を受ける。こういうご時世だから仕方がない。
 で、ガイドさんから受け取ったチケットを機械に通して入場。
 エスカレータに乗り、階上へ。
 「ピーニャの中庭」という場所に出た。
 ブラマンテが構想した「ベルヴェデーレの中庭」の、最上階のテラスにあたる。
 ブロンズ製の松ぼっくり(ピーニャ)は1〜2世紀に造られたローマ時代の噴水で、別の場所にあった。
 左右にある孔雀はハドリアヌス帝時代のもののコピー。本物は「ブラッチョ・ヌーヴォ」と呼ばれる新館にある。
 また、この階段は手すりも含めてミケランジェロが造ったもの。噴水の左右にある2頭のライオン像は紀元前4世紀エジプトの、第30王朝時代の作品である。
 この中庭にシスティーナ礼拝堂のフレスコ画を写したパネルが置かれており、現地ガイドさんがそのパネルを前に説明を繰り広げた。
 システィーナ礼拝堂はヴァチカン中もっとも観光客を集める目玉であるが、神聖な場所であるために私語禁止。ガイドによる説明も禁止されているため、あらかじめ熱弁がふるわれたいうことなのである。
 さて、いよいよヴァチカン美術館内へ。
 ヴァチカン美術館は、古代から現代に至る芸術品の数々を収める世界最大の美術館。
 教皇領内などで発掘された美術品や、歴代教皇たちの美術収集品を保存するために造られた27もの美術館と博物館とで構成されている。
 展示コースは延べ7キロ以上。ルーブル美術館もやたらめったら広いが、こちらも負けてはいない。
地図のギャラリー
 壁には、天文学者イニャーツィオ・ダンティの地図が40点、フレスコ手法で描かれている。
 描かれているのは、多くはイタリアの地図だ。「われわれローマの領土支配はこんなに広がったんだよ〜ん」というアピールらしい。
 この天井は、まるで大理石を彫り込んだもののように立体的に見えるが、実はトリックだという。つまりただの平面に絵で描いたものなんだそうだ。
 またシスティーナ礼拝堂に至る廊下には、ボッティチェリらの手によって描かれたモーゼとキリストの生涯をたどった絵画が飾られてある。その中には弟子のペドロに鍵を渡すキリストの絵もある。
 ペトロを初代教皇とするカトリックにおいて、ヴァチカンの優位性を示すものだと言える。
システィーナ礼拝堂
 礼拝堂はシクストゥス4世の発願により1475年に建設が始まり、1481年に完成した。
 内部の奥行きは40.25メートル、幅13.41メートル、高さ20.73メートル。
 サン・ピエトロ大聖堂に隣接しており、教皇を選出するコンクラーヴェの会場でもある。
 建設当初、ボッティチェリら初期ルネサンスの画家が、モーゼやキリストの生涯にわたるエピソードを壁面に描いた。
 1506年、シクストゥス4世の甥であるユリウス2世が、ミケランジェロに天井画の制作を命じた。彫刻家であったミケランジェロは絵を描くことを好まず、最初は弟子に作業を任せていた。
 だが、弟子の仕事が気に入らなくて、結局は自ら足場に横たわっての作業に入った。当時35歳で背中がせむしになっていたミケランジェロに仰向けの作業は辛いものだったらしく、手紙に「首が痛い。粉が目に入る」などと、絵入りで苦情を書き連ねていたという。
 1512年に完成した天井画は旧約聖書『創世記』の9場面を描いたもので、天地創造、楽園追放、大洪水などで構成されている。
 2005年にヨハネ・パウロ2世が亡くなったとき、この部屋において次教皇を選出する「コンクラーベ」という会議が行われた。当時は「なかなか決まらないから根くらべだ」という冗談も言われたものである。
 「創世記」の天井画完成から20年後、今度はクレメンス7世の企画で祭壇の背面に壁画が描かれることになった。
 それは次のパウルス3世によってミケランジェロに依頼され、1535年から1541年にかけて制作された。
 およそ226平方メートルを覆う巨大な「最後の審判」は、新約聖書にあるこの世の終末を描いた作品で、画面中央にはキリストと聖母マリアが座している。
 周囲の人間たちのうち、神を信じ正しい行いをした者は地上から天国に昇り、悪人は地獄に突き落とされている。 
 つまり最後のその時、人間は審判を受け、天国に行く者と地獄に堕ちる者とに選別される、という「マタイの福音書」における記述をリアルに描いたものなのである。
 キリストは右手を挙げ、審判者として描かれており、そのかたわらに寄り添う聖母マリアは周囲の渦から顔を背けている。
 キリストの向かって右下にいるのは守護聖人である聖バルトロメオ、彼が左手に持っている人間の皮はミケランジェロの自画像だという。
 壁画の上の方は天使たちの姿が描かれる。
 一方、最下層に描かれているのは地獄に引きずり落とされる人間と、天国へと救い出される人間の2種類だ。
 後者の中には黒人も描かれており(左端)、ミケランジェロ独特の世界観がうかがえる。
 そして、一番下にある岩が地獄の入り口である。
 しかし、あまりにも多くの裸体が描かれているため、依頼者のパウルス3世死去後、下腹部を隠す腰布が描き足されたという。
 1565年以降、壁画の上に塗られたニカワが温度変化のために収縮し、顔料の細片が剥離する現象を起こしていたことが確認された。
 また、ホコリや煤、油煙などのせいで全体が黒ずんできており、修復と洗浄が必要となっていた。
 1980年から日本テレビ放送網の資金提供によりこれらの作業が開始され、製作当時の鮮やかな色彩が蘇った。さらに、あとから書き加えられた腰巻も一部を除いて元に戻された。
 ガイドさんの説明によると、日本テレビが壁画の著作権を所有しているため、いっさい撮影は禁止されているのだという。
 とはいえ、こっそり撮ってきちゃったけど、HPに載せるのも駄目なのかな。
 上の「最後の審判」は、ガイドブックのものを転載した。
 また、ここは私語禁止で、観光客にも静寂が求められる。
 監視員が常に眼光鋭く群衆を見据えており、カメラを向ける者、階段に座りこむ者、お喋りする者などを厳しく叱責する。
 おしゃべりの声が高まってくると、監視員が「しーっ!」と声を発して咎め、その時はいったん声が静まる。
 しかし、見学者の数が多いため、最初のうちはヒソヒソ声でも次第に大きなざわめきとなっていく。すると、また「しーっ!」の声が飛び、いったん静まる、ということの繰り返しだった。
 わたしは監視員の動向がやけに気になってしまい、いつこの「しーっ!」が飛ぶのかと冷や冷やしながらの「最後の審判」鑑賞だった。


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