次にピッティ宮殿に行くことにしたわたしは、大通りに出てタクシーを捉まえようと試みた。
だが、イタリアでは流しのタクシーを呼び止めて乗る習慣があまりないそうで、タクシー乗り場を探がさないといけなかった。
実際、空のタクシーに向かって手を挙げても停まってくれない。
わたしは大通り沿いを歩きながらタクシー乗り場を探したが、見つからない。仕方なく確実にタクシー乗り場のあるドゥオーモに戻ることにした。
だが、途中で乗客を降ろしている最中のタクシーを発見。すかさず運転手さんに「ピッティ宮殿まで行けるか?」と地図を指し示しながら英語で訊いた。
運転手さんはなんだか都合が悪いようなことを言っていたが、まあいいです、という感じで乗せてくれた。 |
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遠回りされてボラレないよう、わたしは地図と地形を見比べながら後部座席にいた。
すると、タクシーは橋に出た。アルノ川にかかるグラッツェ橋である。そして右手には、あの「ヴァザーリの回廊」が載るヴェッキオ橋が見えた。
わーい、ラッキー。なかなかいい眺めだ。
400年以上も前にメディチ家の人々があの回廊の中を歩いていたのかと思うと、なんとも感慨無量だ。 |
橋を渡り終わったタクシーはクイッと右折し、川沿いに走り始めた。
おっ、対岸の建物はもしや?
わたしは運転手さんに「あれはウフィッツィ?」と訊くと、そうだと答える。
そして、彼は「停まろうか?」とまで言ってくれて、車を右に寄せてくれたのだった。
先ほど、あの建物の2階から撮った写真が「ヴァザーリの回廊」のところで紹介してある。
やがてタクシーは橋のようなものの下をくぐり、左折した。いま思えばこの「橋のようなもの」が「ヴァザーリの回廊」だったのだのだが、このときは気づかなかった。
運転手さんが「あれがピッティだよ」と左手を指さした。石造りの堅牢そうな建物が横に広がっている。そして、彼は「タクシー乗り場はあそこだよ。そこに行けばすぐに乗れるよ」と、宮殿前の乗り場を教えてくれた。
わざわざ教えられなくても誰でも気づくくらい、たくさんのタクシーが並んでいる。それでも親切な気持ちが嬉しかった。 |
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タクシー乗り場の手前で車が停まった。わたしはお礼を言って料金を支払った。よくしてくれたので、チップを多めに渡す。
ボラレないか、口説いてこないか(パリでは運転手さんに言い寄られた)と身構えていたのだが、いい人でよかった。
このとき時刻は12時20分。まだまだ余裕はたっぷりある。
わたしは宮殿前の広い広い広場を横切り、入り口に向かった。
それにしても馬鹿でっかい宮殿だ。
宮殿と呼ぶには華麗さに欠け、やや無骨な印象がある。フランスのお城や宮殿のような外観の豪華絢爛さ、瀟洒さはイタリアの宮殿ではあまり見られないような気がする。
例えば、イタリアのヴェルサイユ宮殿とも称されるカゼルタ宮殿(詳しくは南イタリア&ギリシア旅行記をご覧ください)。内装こそ豪華絢爛だが、外観はあっさりしているのが返って印象的だった。
わたしは入り口まで行き、チケット売り場を探した。
なんとなくそれらしいイタリア語の案内があったのでそちらに行くと、離れたところにチケット売り場を発見した。
料金表には英語が併記されており、なにやら複雑な料金体系になっている。
ピッティ宮殿だけの見学と、パラティーナ美術館も含んだ見学とで料金が分かれているらしい。
わたしは「Include all,please」(これで合っているのか?)と言って全部見学できるチケットを購入し、入り口に戻って中に入った。
ピッティ宮殿はメディチ家の住居として有名だが、もともとはメディチ家のライバル、ルカ・ピッティが1458年に工事を開始したものだ。
建築半ばでルカが死亡、ピッティ家は没落して建物は建築途中で放置されたままになっていたのを、1549年、コジモ1世が病身の妻エレオノーラのために買い取った。その際、左右の翼とファサードが増築された。
メディチ家が断絶した後は大公位を継承したハプスブルク=ロートリンゲン家が美術館を充実させていった。
1861年のイタリア統一後、宮殿は王家の所有となった。フィレンツェが首都だった時代には、王家の住居として使用される。
1919年、ヴィットリオ・エマヌエーレ3世はピッティ宮殿を国家に寄贈した。
現在、宮殿内にはパラティーナ美術館や銀器博物館、近代美術館などの5つのミュージアムが入っている。 |
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パラティーナ美術館は2階にあり、16世紀から17世紀の名画を中心としたコレクションが展示されている。
メディチ家のコレクションを当時の配列のままに公開しているので、時代別や作者別に分けて展示する従来の美術館とはやや趣が違う。
そのため「ラファエロの絵はどこ〜」とさまよい歩くことになったが、こうした飾り方も宮殿らしくてよいかもしれない。
当時、絵画は裕福さを示すものであり、特に高名な画家が描いた絵を所蔵することは最大のステイタスであった。メディチ家は自らが援助した画家たちによる作品を飾り、その富と芸術への見識を誇ったのである。
下の絵はなんだかモネ風で気になったが、作者不明。ガイドブックがないのでなにがなんだかわからない。ここはちゃんと事前に購入してからまわるのがベストだろう。 |
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途中、見えた中庭。 |
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金の時計の右側にある胸像はもしや、マリー・アントワネット? しかしガイドブックにも載っておらず、わからずじまい。 |
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階段を登って階上へ。
そこには椅子に座っておしゃべりしていた男女一組の監視員がいた。
わたしがそのそばを通り過ぎようとすると、「マダム」と呼び止められ、チケットを見せるよう言われた。ポケットからチケットを出してみせると、どうぞと通された。どうやら、ここから先は別料金の場所らしい。
ということはつまり、ここからがパラティーナ美術館なのだ。今まで見てきたのは、美術館ではなくピッティ宮殿だったのだろう。
←ここからはパラティーナ美術館の中でも特別な区画で、撮影禁止になっていた。
いわゆる「国王夫妻の居室」と呼ばれる区域で、保護のためカーテンを閉め切っており、薄暗い。こっそり撮影したのでピンぼけばかりだ。
←「玉座の間」。ロレーヌ家(ハプスブルク=ロートリンゲン家)時代は侍従の間だったが、サヴォイア家時代に現在のように改装された。
とにかく素晴らしい装飾の内装で、当時の王侯たちの暮らしぶりが伺える。
←「青の間」。19世紀初めの絹張りの壁が特徴だが、損傷が激しく窓と扉の豪華な布飾りは一部しか残っていない。
フランドルの画家ユストゥス・シュステルマンスによって描かれたメディチ家の人々の肖像画が展示されている。 「王妃の居室」の一角、王妃の寝室。壁は絹張りで、17世紀から19世紀にかけての家具、絵画、陶器が置かれている。 |
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| 奥まで行くと突きあたりになっていて、先ほどの監視員の前を通って反対側の翼へと移動。その先はたくさんの絵画が展示され、美術館らしい雰囲気になっていた。 |
しかし悲しいかな、このときはガイドブックを買う前だったので、今ひとつよくわからない。
それでも唯一わかった絵画がこれ。ラファエロの「小椅子の聖母」である(1515年)。
聖母マリアとイエスの姿を描いたもので、絢爛豪華な額に納められ「サトゥルヌスの間」にある。
←マウスを乗せると拡大写真になります。
ラファエロは1483年、宮廷画家の子としてウルビーノに生まれ、絵の教育を受けた。1504年、フィレンツェに拠点を移して数々の名作を残した。
他に「アポロの間」にはティツィアーノの「マグダラのマリア」、「ヴィーナスの間」にはフィリッポ・リッピの「聖母子」、「プロメテウスの間」にはボッティチェリの「若い男の肖像」が置かれているということである。 |
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「ナポレオンの浴室」と呼ばれているバスタブ。
1809年、ナポレオンは妹のエリーズをトスカーナ大公に立て、エリーズ・ボナパルトは短いあいだピッティ宮殿に滞在した。そのとき使われたものだと思われる。 |
あとでピッティ宮殿の公式サイトを見たら、まだまだ見学していない部屋があることに気づいた。それに、「世界ふしぎ発見」でレポーターが立ってしゃべっていた部屋も見ていない。
全部見たつもりだったが、複雑な構造になっているためわからなかったのかもしれない。
残念だ。ぜひまた時間に余裕を持って見学に来たいものである。 |
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