フィレンツェ観光 
サン・ロレンツォ教会
 わたしは次に、メディチ家礼拝堂とサン・ロレンツォ教会を目指して歩いた。
 教会の前までやってくると、凄まじい数の革製品をぶら下げた屋台が軒を連ねていた。
 さすがは職人の街・フィレンツェ。先日もNHKの「ファースト・ジャパニーズ」という番組で紹介していたが、フィレンツェの革製品は世界的に有名で、革靴をオーダーメイドで作る優れた職人が多くいるのだそうだ。
 いま思えばゆっくり土産物でも探してみればよかったのだが、限られた時間を有効に使わねばと焦っていたので、横目に見るだけで急ぎ足でここを通り抜けてしまった。
 で、目的のサン・ロレンツォ教会はこの屋台のすぐ裏手にある建物で、左の画像にも映っている。茶色のクーポラがメディチ家礼拝堂で、教会は背中合わせにくっついている手前側の建物だ。
 サン・ロレンツォ教会建設にはミケランジェロも携わったというが、そのファサードは未完のままだ。完成していれば表面を大理石が覆うはずであった。
 歴史と政治の変遷により、ミケランジェロによる設計とデザインが形を成すことはついになかったが、フィレンツェ博物館には彼の手による多数の素描、壮大な記録、木製の模型が保存されている。
 ガイドブックの作家アントニオ・パオルッチは、「完成していればミケランジェロにとって最高傑作となるファサードとなったはずだ。
 荒壁のままの簡素な姿は、後生の建築家により僭越で不適切な処理をされるより好ましい」と述べている。
 ドアから中に入ると、中は緑豊かな中庭になっていた。中庭を囲む回廊はイオニア式の円柱によって支えられている。
 突きあたりのオレンジの木にはたわわに果実が実っていた。
 中庭に面した回廊にはなにかのモニュメントがたくさんある。
 もしかしたらお墓なのかな。 
 このサン・ロレンツォ教会はもともとミラノの司教によって献堂された教会だった。やがてメディチ家教区教会として機能するようになり、コジモ・デ・メディチがブルネレスキに再建させ1461年に完成した。
 2階にはラウレンツィアーナ図書館がある。天井から机、椅子に至るまでミケランジェロが設計した閲覧室もあり、無料で見学できる。・・・とガイドブックには書いてあったが、残念無念。
 教会へのドアは閉まっていて、イタリア語でなにやら断り書きが書かれていた。うう、読めない・・・。
 日本人のカップルがそれを見て「入れない」とか言っていたので、たぶん閉館中だったのだろうと思う。
 わたしは見学を諦め、メディチ家礼拝堂に向かった。
 途中、中庭のような小さな緑地に白い彫像がひっそりと置かれているのを見つけた。中庭は柵で囲まれていて、中に入ることはできない。
 台座には「ANNA MARIA LVIZA DE MEDICI」という文字。メディチ家の女性のようだし、どこかで見た彫像だと思って写真に収めておいた。
 帰国してから「世界ふしぎ発見」の番組録画を確認して、この女性がメディチ家最後の相続人、アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチであることを知った。
 前ページでも書いたが、彼女は第7代トスカーナ大公ジャン・ガストーネの姉。1737年、ジャン・ガストーネが跡継ぎを残さぬまま死去したので、メディチ家は断絶した。
 アンナ・マリア・ルイーザの遺言により、歴代の当主達が集めた美術品などはウフィツィ美術館などに残され、またピッティ宮殿などの建造物も多数残された。
 しかし、今日的な感覚からすれば、なぜ彼女がメディチ家の当主になれなかったのか不思議だ。女性が当主になれないしきたりだとしても、お婿さんを当主に据えて断絶を防ごうとは思わなかったのだろうか。
メディチ家礼拝堂
 サン・ロレンツォ教会の建物とくっついていながら入り口は別にある、メディチ家礼拝堂。 
 入り口正面にまわるが、あいにく工事中。足場が組まれ、無粋な布で覆われたその姿は見る陰もない。
 茶色いクーポラを頂いた建物は八角形だそうで、その名の通り君主・メディチ家の礼拝堂だ。
 入り口のドアには張り紙がしてあって、イタリア人のおじさんが熱心に読んでいる。「もしもしシニョール、よかったら何が書いてあるのか英語で解説してくださいな」と聞きたかったが、今ひとつ勇気がなくて諦めてしまった。
 とりあえず中に入ってみると普通に見学できるようだ。
 入り口でチケットを購入し、ゲートを通って中へ。ここは荷物検査はなかった。
 中はがらんと広いホールになっており、薄暗い。左側に売店があり、正面突きあたりには棺が置かれている。
 おそらくメディチ家の誰かのお墓だろう。
 2階に上がってみる。
 2階は「君主の礼拝堂」と呼ばれる。17世紀に世界中から大理石と貴石を集めて造られたという。
 クーポラの内部に描かれた絵が見事。作者はピエトロ・ベンヴェンーティで、旧約・新約聖書物語を描いたものだ。
 しかし、天井が高すぎてなんだかよくわからないぞ。
 
 彫像の人物はフェルディナンド1世。とにかく重厚かつ壮麗な廟だが、ミケランジェロが設計した新聖具室に比べると趣味が悪いという意見もあるようだ。
 上の方にあるテントウムシみたいなマークがメディチ家の紋章だ。丸い玉は丸薬で、メディチ家のルーツを表すものである。
 こちらが祭壇か。フェルディナンド廟と同じ大理石が使用されている。
 ちなみにミケランジェロの新聖具室とはロレンツォ・メディチやジュリアーノ・メディチなどのお墓がある部屋で、墓のデザインもミケランジェロが手がけている。
 わたしはお墓とは思わず、ただただ素晴らしい彫刻に見入った。
 残念だったのは、写真撮影禁止のためカメラに収められなかったこと。売店で買ったガイドブックからスキャンしたものを掲載しておく。
 「新聖具室」は、サン・ロレンツォ教会にある聖具室に対応する形で作られた。ミケランジェロの最高傑作であるヌムール公ジュリアーノ、ウルビーノ公ロレンツォの墓碑彫刻がある。
 メディチ家出身の教皇レオ10世の発案により誕生したこの部屋には、父ロレンツォ豪華王、叔父ジュリアーノ、弟・ヌムール公ジュリアーノ、甥・ウルビーノ公ロレンツォの墓碑が置かれている。
 ここはメディチ家の荘厳で華麗な菩提寺というわけだ。
 工事はやはりメディチ家出身の教皇クレメンス7世により引き継がれ、1520年ミケランジェロに委ねられた。
 ミケランジェロは14年に渡りこの部屋で作業を続け、ローマに移り住んだ。
 その後、コジモ1世の命により、ヴァザーリらの手によって新聖具室が完成した。
 左の画像はヌムール公ジュリアーノ・ド・メディチ(1479年〜1516年)の埋蔵祈念碑で、彼は兄であるレオ10世のもと1515年から教皇庁軍隊長を勤めた。
 この像ができあがったとき、「ジュリアーノにぜんぜん似ていないじゃないか」という批評があがったが、ミケランジェロは「500年たったら誰もそんなことは言わなくなるだろうさ」と言ったという。
 また、ジュリアーノの足元に横たわる2体の寓意像は、左が「昼」、右が「夜」を表している。
 「夜」は眠る若い女性によって表現されている。表面が艶やかな光沢を放っており、月の輝きを表わす。
 一方、「昼は」顔をこちらに向けている男性だ。表面はざらざらしており、太陽のぬくもりと光を表わしている。頭部は完全に仕上げられていないという。
 ウルビーノ公ロレンツォに捧げられた同じ形式の墓所で、ジュリアーノの墓所と向かい合わせに位置している。
 ロレンツォは、病気により職を退いたジュリアーノの後を受けて、隊長となった。二人が騎士のような衣装をまとっているのは、指揮官としてのコスチュームを表現しているのである。
 この墓碑は1531年から1533年、ミケランジェロのフィレンツェ滞在最後の数年間に制作された。
こちらでは「曙」と「黄昏」が表現されている。
 ジュリアーノは活動的な人生を象徴し、思慮深いロレンツォは思考と瞑想のシンボルであった。
 右が「曙」で、ゆっくりと眠りから覚める女性の姿で表されている。「黄昏」は年老いた男性で表現される。こちらも頭部が未完だそうだ。
ピッティ宮殿
 次にピッティ宮殿に行くことにしたわたしは、大通りに出てタクシーを捉まえようと試みた。
 だが、イタリアでは流しのタクシーを呼び止めて乗る習慣があまりないそうで、タクシー乗り場を探がさないといけなかった。
 実際、空のタクシーに向かって手を挙げても停まってくれない。
 わたしは大通り沿いを歩きながらタクシー乗り場を探したが、見つからない。仕方なく確実にタクシー乗り場のあるドゥオーモに戻ることにした。
 だが、途中で乗客を降ろしている最中のタクシーを発見。すかさず運転手さんに「ピッティ宮殿まで行けるか?」と地図を指し示しながら英語で訊いた。
 運転手さんはなんだか都合が悪いようなことを言っていたが、まあいいです、という感じで乗せてくれた。
 遠回りされてボラレないよう、わたしは地図と地形を見比べながら後部座席にいた。
 すると、タクシーは橋に出た。アルノ川にかかるグラッツェ橋である。そして右手には、あの「ヴァザーリの回廊」が載るヴェッキオ橋が見えた。
 わーい、ラッキー。なかなかいい眺めだ。
 400年以上も前にメディチ家の人々があの回廊の中を歩いていたのかと思うと、なんとも感慨無量だ。
 橋を渡り終わったタクシーはクイッと右折し、川沿いに走り始めた。
 おっ、対岸の建物はもしや?
 わたしは運転手さんに「あれはウフィッツィ?」と訊くと、そうだと答える。
 そして、彼は「停まろうか?」とまで言ってくれて、車を右に寄せてくれたのだった。
 先ほど、あの建物の2階から撮った写真が「ヴァザーリの回廊」のところで紹介してある。
 やがてタクシーは橋のようなものの下をくぐり、左折した。いま思えばこの「橋のようなもの」が「ヴァザーリの回廊」だったのだのだが、このときは気づかなかった。
 運転手さんが「あれがピッティだよ」と左手を指さした。石造りの堅牢そうな建物が横に広がっている。そして、彼は「タクシー乗り場はあそこだよ。そこに行けばすぐに乗れるよ」と、宮殿前の乗り場を教えてくれた。
 わざわざ教えられなくても誰でも気づくくらい、たくさんのタクシーが並んでいる。それでも親切な気持ちが嬉しかった。
 タクシー乗り場の手前で車が停まった。わたしはお礼を言って料金を支払った。よくしてくれたので、チップを多めに渡す。
 ボラレないか、口説いてこないか(パリでは運転手さんに言い寄られた)と身構えていたのだが、いい人でよかった。
 このとき時刻は12時20分。まだまだ余裕はたっぷりある。
 わたしは宮殿前の広い広い広場を横切り、入り口に向かった。
 それにしても馬鹿でっかい宮殿だ。
 宮殿と呼ぶには華麗さに欠け、やや無骨な印象がある。フランスのお城や宮殿のような外観の豪華絢爛さ、瀟洒さはイタリアの宮殿ではあまり見られないような気がする。
 例えば、イタリアのヴェルサイユ宮殿とも称されるカゼルタ宮殿(詳しくは南イタリア&ギリシア旅行記をご覧ください)。内装こそ豪華絢爛だが、外観はあっさりしているのが返って印象的だった。
 わたしは入り口まで行き、チケット売り場を探した。
 なんとなくそれらしいイタリア語の案内があったのでそちらに行くと、離れたところにチケット売り場を発見した。
 料金表には英語が併記されており、なにやら複雑な料金体系になっている。
 ピッティ宮殿だけの見学と、パラティーナ美術館も含んだ見学とで料金が分かれているらしい。
 わたしは「Include all,please」(これで合っているのか?)と言って全部見学できるチケットを購入し、入り口に戻って中に入った。
 ピッティ宮殿はメディチ家の住居として有名だが、もともとはメディチ家のライバル、ルカ・ピッティが1458年に工事を開始したものだ。
 建築半ばでルカが死亡、ピッティ家は没落して建物は建築途中で放置されたままになっていたのを、1549年、コジモ1世が病身の妻エレオノーラのために買い取った。その際、左右の翼とファサードが増築された。
 メディチ家が断絶した後は大公位を継承したハプスブルク=ロートリンゲン家が美術館を充実させていった。
 1861年のイタリア統一後、宮殿は王家の所有となった。フィレンツェが首都だった時代には、王家の住居として使用される。
 1919年、ヴィットリオ・エマヌエーレ3世はピッティ宮殿を国家に寄贈した。
 現在、宮殿内にはパラティーナ美術館や銀器博物館、近代美術館などの5つのミュージアムが入っている。
 パラティーナ美術館は2階にあり、16世紀から17世紀の名画を中心としたコレクションが展示されている。
 メディチ家のコレクションを当時の配列のままに公開しているので、時代別や作者別に分けて展示する従来の美術館とはやや趣が違う。
 そのため「ラファエロの絵はどこ〜」とさまよい歩くことになったが、こうした飾り方も宮殿らしくてよいかもしれない。
 当時、絵画は裕福さを示すものであり、特に高名な画家が描いた絵を所蔵することは最大のステイタスであった。メディチ家は自らが援助した画家たちによる作品を飾り、その富と芸術への見識を誇ったのである。
 下の絵はなんだかモネ風で気になったが、作者不明。ガイドブックがないのでなにがなんだかわからない。ここはちゃんと事前に購入してからまわるのがベストだろう。
 
 途中、見えた中庭。
 金の時計の右側にある胸像はもしや、マリー・アントワネット? しかしガイドブックにも載っておらず、わからずじまい。
 階段を登って階上へ。
 そこには椅子に座っておしゃべりしていた男女一組の監視員がいた。
 わたしがそのそばを通り過ぎようとすると、「マダム」と呼び止められ、チケットを見せるよう言われた。ポケットからチケットを出してみせると、どうぞと通された。どうやら、ここから先は別料金の場所らしい。
 ということはつまり、ここからがパラティーナ美術館なのだ。今まで見てきたのは、美術館ではなくピッティ宮殿だったのだろう。
 
 ←ここからはパラティーナ美術館の中でも特別な区画で、撮影禁止になっていた。
 いわゆる「国王夫妻の居室」と呼ばれる区域で、保護のためカーテンを閉め切っており、薄暗い。こっそり撮影したのでピンぼけばかりだ。
 
 ←「玉座の間」。ロレーヌ家(ハプスブルク=ロートリンゲン家)時代は侍従の間だったが、サヴォイア家時代に現在のように改装された。
 とにかく素晴らしい装飾の内装で、当時の王侯たちの暮らしぶりが伺える。
 
 ←「青の間」。19世紀初めの絹張りの壁が特徴だが、損傷が激しく窓と扉の豪華な布飾りは一部しか残っていない。
 フランドルの画家ユストゥス・シュステルマンスによって描かれたメディチ家の人々の肖像画が展示されている。 「王妃の居室」の一角、王妃の寝室。壁は絹張りで、17世紀から19世紀にかけての家具、絵画、陶器が置かれている。
 奥まで行くと突きあたりになっていて、先ほどの監視員の前を通って反対側の翼へと移動。その先はたくさんの絵画が展示され、美術館らしい雰囲気になっていた。
 しかし悲しいかな、このときはガイドブックを買う前だったので、今ひとつよくわからない。
 それでも唯一わかった絵画がこれ。ラファエロの「小椅子の聖母」である(1515年)。
 聖母マリアとイエスの姿を描いたもので、絢爛豪華な額に納められ「サトゥルヌスの間」にある。
←マウスを乗せると拡大写真になります。
 ラファエロは1483年、宮廷画家の子としてウルビーノに生まれ、絵の教育を受けた。1504年、フィレンツェに拠点を移して数々の名作を残した。
 他に「アポロの間」にはティツィアーノの「マグダラのマリア」、「ヴィーナスの間」にはフィリッポ・リッピの「聖母子」、「プロメテウスの間」にはボッティチェリの「若い男の肖像」が置かれているということである。
 「ナポレオンの浴室」と呼ばれているバスタブ。
 1809年、ナポレオンは妹のエリーズをトスカーナ大公に立て、エリーズ・ボナパルトは短いあいだピッティ宮殿に滞在した。そのとき使われたものだと思われる。
 あとでピッティ宮殿の公式サイトを見たら、まだまだ見学していない部屋があることに気づいた。それに、「世界ふしぎ発見」でレポーターが立ってしゃべっていた部屋も見ていない。
 全部見たつもりだったが、複雑な構造になっているためわからなかったのかもしれない。
 残念だ。ぜひまた時間に余裕を持って見学に来たいものである。


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