フィレンツェ観光 
シニョリーア広場
 ウフィッツィ美術館を出たわたしたちは、ドォーモ見学のために来た道を戻り始めた。
 画像は、シニョリーア広場に向かって歩く一行。
 シニョリーア広場は共和国時代からの政治の中心で、ヴェッキオ宮殿に面している。
 わたしたちの突きあたりにある「ランツィの回廊」にはメデューサの首をとるヘラクレス像など、たくさんの彫像が展示されている。
 広場中央にあるコジモ1世(1519年〜1574年)の騎馬像。ジャンボローニャ作。
 それまでフィレンツェを支配しながらも一介の商家でしかなかったメディチ家が、名実ともに君主となった初代トスカーナ大公である。
 ウフィツィ美術館やヴァザーリの回廊を建設した人。

 ヴェッキオ宮殿前にある「ネプチューンの噴水」。
 
 「ネプチューンの噴水」、反対側。
 向こう側の石の建物がヴェッキオ宮殿だ。
 シニョリーア広場全景。左端がヴェッキオ宮殿、奥に見える右隣りの建物がウフィッツィ美術館だ。
 ヴァザーリの回廊は宮殿、美術館、そして中央の「ランツィの回廊」を通ってアルノ川を渡り、ピッキオ宮殿へと続いている。
ヴェッキオ宮殿
 
 広場に面したヴェッキオ宮殿は、14世紀初頭のゴシック建築だ。
 コジモ1世が居城とした16世紀にルネッサンス様式に改築された。担当したのはヴァザーリ。2階の「五百人広間」にも彼と弟子によるフレスコ画があり、特に有名だそうである。
 鐘楼は高さ94メートル。
 驚くべきは現在でも市庁舎として使われており、各種届け出などで市民が日常的に利用しているとのこと。なんと600年前の建物だそうである。
 宮殿の玄関にしては非常に地味で狭いが、ここが見学コースの入り口。
 左側に立つのはミケランジェロ作「ダヴィデ像」のレプリカ。かつては本物がここに立っていたが、1873年にアカデミア美術館に移され、1910年から複製が置かれた。
 あとで本物とご対面することになる。
 外は地味だが、一歩中に入るとなかなか華麗。さすがルネッサンス発祥の地、フィレンツェの宮殿である。
 2階、3階部分も見たかったが、1階のみチラッと覗いて見学終了。もちろん、ここから奥は有料になっている。
ドゥオーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)
 サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、通称ドォーモ。
 ブルネレスキが発案した二重構造の建築方法により、1436年に完成した。
 前ページで紹介したサン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼を含む三つの建築物で構成されている。
 教会八角形の内陣の上に高さ107メートルの巨大なクーポラが載る。
 1478年の復活祭ミサの日、メディチ家と対立するパッツィ家がロレンツォ、ジュリアーノ兄弟を暗殺しようとする事件が起こった。ロレンツォは逃れたが、ジュリアーノは死亡。
 暗殺者の他、パッツィ家当主を始め100人近くが捕らえられ死刑になった。これがきっかけとなって、教皇庁とフィレンツェとの間で2年にもおよぶパッツィ戦争が起こることとなった。
 大聖堂のクーポラ。
 奥行き153メートル、最大幅90メートルの大聖堂は、聖堂としては世界で4番目に大きいそうだ。
 クーポラ内部に描かれたフレスコ画「最後の審判」は、ヴァザーリらによって1579年に完成した。
 ジョルジョ・ヴァザーリ(1511年〜1574年)はコジモ1世お抱えの芸術家であった。コジモ1世の命により、あちこちバラバラに存在していた行政機関を一カ所に集め、ウフィッツィ美術館の建物を建てた。のちにヴァザーリの回廊を作り、ヴェッキオ宮殿の「五百人広間」の壁を飾る絵を描いた。
 また、当時職人の一種と考えられていた画家や彫刻家たちを芸術家として紹介し、その地位を確立させた。
 ヴァザーリは「最後の審判」が完成する前の1574年、逝去した。
 入り口の上にある「24時間時計」は、パオロ・ウッチェロによる1443年の作品。
 このドォーモ、1296年から140年以上をかけて建設されたものだそうだ。
 そのため資金が底をつき、聖堂内に置くはずだった代理石像の制作が滞ったという。
 外装は白大理石を基調に緑、ピンクの大理石によって装飾されていて大変美しい。
ツアーから離脱!
 ドォーモを出たところで、わたしはツアーから離脱した。もちろん勝手に離れたのではなく、前日から添乗員さんにお願いしておいたのである。
 ツアーはこのあと革製品の免税店に行き、バスに乗ってフィレンツェを一望できるミケランジェロ広場で展望を楽しみ、再びバスで中華料理レストランに行き昼食をとる予定。
 しかしわたしはコースに入っていないアカデミア美術館やメディチ家礼拝堂、ピッティ宮殿などをどうしても見学したかったのである。
 ツアーから離脱する、というのは通常ではなかなか考えにくい行動パターンだろう。
 しかし、わたしたちの一行には、ミラノ空港に到着すると同時に離脱し、このフィレンツェで再び合流した一組のご夫婦がいた。あとで聞いたらやっぱり新婚旅行だそうで、年齢的には30歳代だろうか。
 そうか、ツアーってこんな風に離脱できるものなのか。いや、していいんだ。
 と、目から鱗が落ちる想いだった。
 そのご夫婦のお陰で、わたしは自分の行きたいところに行く決意を固めることができた。
 しかし、ネックが2つあった。
 それは、午後にピサへのオプショナルツアーが入っていることだ。他のほとんどの人たちはフィレンツェ郊外にあるアウトレットモールに行くことになっているが、わたしはグッチよりピサの斜塔見学を望んでいた。
 他にピサ見学を希望する人はいなかった。ピサに行きたい人は、あらかじめピサ観光が組み込まれているツアーを申し込むのだそうだ。
 添乗員さんはわたしたちのために、MyBus社の現地ツアーに申し込んでくれた。
 その現地ツアー出発は午後2時。場所はサンタ・マリア・ノヴェッラ中央駅前のバスターミナル。わたしは好き勝手にほっつき歩くのはよいが、自力でそこへ行かなければならなかった。
 さらに2つめのネックは、息子だ。
 わたしの散策に付き合わされても、彼はつまらないだろう。そこで前日、「あなたはツアーに残って皆さんと一緒に行動して」と言い渡した。
 案の定、息子は「なにそれ、ひどい。置いてく気?」と抗議してきた。
 「置いてくったって、添乗員さんも他のみんなも一緒なんだよ。ママと一緒に歩き回るよりいいでしょ。しかもママはお昼抜きだよ」と言うと、渋々承知してくれたようだった。
 以下は、添乗員さんと付き合わせたプランだ。
 わたしはひととおり観光を終えたら息子を残して離脱する。残るメンバーはフィレンツェ半日観光の後、レストランに行ってお昼ごはん。食べ終わったらお店にタクシーを呼んでもらい、息子を乗せてもらう。添乗員さんからドライバーに行き先を告げてもらい、出発。
 あとはバスターミナルに到着した息子をわたしが見つけだし、ピサ行きのツアーに入るだけである。
アカデミア美術館
 わたしは添乗員さんから教えられた道と地図を頼りに、不慣れなフィレンツェの街へと独り繰り出した。
 ああ、これがパリだったら自分の庭のように歩けるんだけどな。(大ボラ)
 ドゥオーモ横の道から美術館までは一本道だったが、そのリカソール通りというのがなかなか見つけられず、結局ドゥオーモの周りを一周してしまった。
 ああ、前途多難。
 一時はどうなることかと思ったが、無事にリカソール通りを発見。
 石畳の舗道をてくてくと歩く。
 暖冬のせいで気温が高めで、わたしはダウンコートの下にうっすらと汗をかき始めていた。
 距離にして約400メートルほど進んだところで、アカデミア美術館を発見。
 だが、想像していたような宮殿みたいな建物ではなく、いたって地味な外観だった。これを目的に探さなければ気づかず通り過ぎてしまうような、ごちゃごちゃした裏通りの一角にある。
 地図の様子から「この建物じゃないかな〜」とつぶさに眺めて、ようやく小さいイタリア語の看板を発見したのだった。
 この美術館、コジモ1世が初代総裁を務めた美術アカデミーが前身。芸術家を目指す若者を集めた教育機関として、手本となる美術品が収集された。
 19世紀に美術館として開館した。
 入り口がまたわかりづらくて、2カ所のドアを行ったり来たりしたあげく、ようやく中へ入ることができた。。
 チケットを購入して厳重な荷物検査を受け、いよいよ念願の「ダヴィデ像」にご対面。ようやく憧れの男性?に会えて実に嬉しい。
 カメラ撮影禁止というマークに恐れをなしながらも、こっそり撮影してきた。
 像の周囲をすごい数の学生がびっしりと取り巻いていた。
 このダヴィデ像は、ミケランジェロが1501年から2年の歳月を費やした、大理石を素材とした作品だ。
 ダヴィデは紀元前10世紀頃の、第2代イスラエル王国国王(在位前1000年〜前961年頃)。
 旧約聖書ではペリシテの巨人ゴリアテを投石道具で倒したとされ、この像はその決戦に臨む前の緊張感に溢れた一瞬の姿を克明に描いている。
 ダヴィデは全イスラエルを統一し、エルサレムに都を定め、近隣諸国の征服併合を行った。すべての王の模範とされ、キリストもこの系譜を継ぐものとされた。
 この作品は当初、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に飾る12の巨像のうちの一つとして計画された。15世紀初頭からミラノ公国をはじめとする外敵の脅威が迫っていたため、聖書中の聖人や英雄の像を大聖堂に飾り、興国の気運を高めようという意図であった。
 しかし、いろいろな作家に打診し、契約を結ぶなどしたがなかなか完成に至らず、遠くから切り出した大理石が25年も放置される始末であった。
 結局1501年、当時26歳だったミケランジェロがこの仕事を引き受け、1504年にようやく完成した。
 途中、ピエタの制作に取りかかるなどの中断があり、またミケランジェロが工房を設立して弟子と分担するという方法を嫌ったため、作業が停滞気味だったという。
 ダヴィデ像は当初は大聖堂内に置くという計画だったが、フィレンツェ市民の気運を高めるという目的を考え、屋外に設置されることになった。
 雨ざらしにすると傷むため「ランツィの回廊」に置くことが提案され、レオナルド・ダ・ヴィンチもこれに賛同したという。しかし、市政長官の裁定により、市庁舎(ヴェッキオ宮殿)の正面入口脇に置かれることになった。
 もともと市庁舎前にはメディチ家を礼賛する意図で制作された彫像が置かれていたが、これを移動してダヴィデ像を置いたのは、メディチ家への批判と反発を込めてのことであった。
 このときまさに、メディチ家はフィレンツェを追放されていたのである。
 メディチ家は1512年に復権するが、1527年の「ローマ略奪」に乗じて反メディチ革命が起きる。このときダヴィデ像が打ち壊され、左腕が大きく破損した。のちにヴァザーリが左腕の破片を拾い集めて修復したという。
 こうした損害や風雨によって大理石が劣化することを憂え、1873年にこのアカデミア美術館へと移動された。市庁舎前にレプリカが置かれたのは、1910年のことであった。
 この美術館の目玉はこのダヴィデ像だけらしかったが、他の部屋も覗いてみる。
 2階に行く人の数は少なくて、非常に閑散としていた。まあ、せっかく来たのだからと2階にも登ってみた。
 ルネッサンス以前の古い宗教画が至るところに展示されていた。血を流したキリストとか後光が差したマリア様とか、嫌というくらい同じパターンの絵がこれでもかっていうくらいに並んでいる。
 人間の肉体や女性の美しさを描く、いわゆる人間賛美に溢れたルネッサンス絵画に比べて構図に奥行きがなく、顔つきも固くて、正直あまり魅力的とは言い難い。
 これが前ページで書いた「教会に支配されていた芸術」というものなんだろう。
 敬虔なクリスチャンだったら実に有り難いものには違いないが。
 わたしはトイレを探して階下に降りた。
 下では凄まじいほどの工事音が響き渡っていて、相変わらずのイタリア調だ(つまりどこでも工事中ってことね)。 
 地下1階にある無料のトイレを借りてからアカデミアを後にし、次の見学場所へと移動を開始した。


- 戻る - 次へ - 秋のイタリア四都市周遊の旅Topに戻る - 海外旅行記Topに戻る -


[平成11年Top] [平成12年Top] [平成13年Top] [平成14年Top] [平成15年Top] [平成16年Top] [平成17年Top]
[平成18年Top][県別キャンプ地一覧][県別温泉一覧] [トレーラーってなに?] [子どもと一日遊べる場所][掲示板][HOME]

Copyright(C) 2002〜 Clara 画像、記述内容などすべての転用を禁じます。