ヴェネツィア観光 
ホテルプラザ
 わたしたちが泊まったホテルはヴェネツィア本島内ではなく、ちょっと離れたメストレ地区というところに位置している。
 ヴェネツィア本島に泊まるツアーというのは少ない。あることはあるのだが、ほとんどが高めのツアーのようだ。
 個人で泊まるのなら本島がよいかも知れないが、ツアーなので場所はどこでもよいと思って気にしていなかった。
 ホテルの外から外観を写すのを忘れてしまって、画像はない。近代的なビル街の一角にあるホテルのようだ。
ヴェネチア本島へ
 バスは街中を走り抜け、やがて大きな橋を渡る。地平線の彼方には雪をかぶったアルプスの山々が見える。
 イタリア北東部にあるヴェネツィアはスイス、オーストリア、そしてスロヴェニアと国境を接しており、アドリア海に面している。
 バスは大きな駐車場に入り、わたしたちは歩いて船の桟橋に到着した。
 小さなボートに乗りこみ、出発。
 ところで、ヴェネツィアという名前の表記だが、一般的にはベネチア、英語表記ではベニス、ヴェニスなどと書き表される。わたしのガイドブックにはヴェネツィアとあるので、それに従って書き進めることにする。
 都市の興りについて説明しておくと、時は5〜6世紀。本土のアドリア海沿岸に住んでいた人々がゲルマン民族の脅威にさらされ、陸地から離れた内海に浮かぶラグーナ(干潟)に避難をしたのがはじまりである。
 829年には2人の商人がエジプトのアレキサンドリアから聖マルコの遺体を持ち帰り、街の守護聖人とした。その象徴である羽を持つ獅子像は、今も市の紋章となっている。
 海洋国家として栄え、ピザンチン帝国とともにアドリア海の海賊を撃墜し、第四回十字軍では海上輸送の任を負って主導権を握った。この遠征でコンスタンチノープルを占領し、さらに多数の島や沿岸地方を獲得、東方貿易の利益に浴した。
14世紀、地中海の派遣を競っていたジェノバに勝利し、海運国家としての絶頂期を迎える。
 15世紀に入ると、アジア貿易の中心が地中海からインド航路へと移行し、ヴェネツィアの繁栄にも陰りが見え始めた。一方で陸地での領土拡大に努め、文化・芸術の振興に力を入れた。
 特に発展したのが、ヴェネツィアン・グラスの技術だった。
 さて、わたしたちのボートは運河をさかのぼり、街中へと進んでいく。なんだかディズニーシーの風景に似ている。いやいや、もちろんこちらがご本家で、あちらがヴェネツィアの街並みを真似したのであるが。
 ヴェネツィアには大小の運河がめぐり、自動車の乗り入れは一切できない。公共の交通手段は水上バスである。
 右は運河の交差点の一角で、向こうに伸びている運河は大運河「カナル・グランデ」だ。この運河沿いには共和国時代の貴族の館や外国人商人の商館が建ち並ぶという。
 ↑画像左側の丸屋根の建物はサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会。その手前は税関事務所で、1600年代に建てられた。1797年、ナポレオン・ボナパルトに侵略され、ナポレオン支配下のイタリア王国に帰属した。1815年にはオーストリアの支配下に置かれるようになった。
 1866年の普墺戦争、第3次イタリア統一戦争を経て、ヴェネツィアはイタリア王国に編入された。
 1987年、世界遺産に「ヴェネツィアとその潟」として登録された。
 ヴェネツィア本島に到着。
 海岸沿いを歩いてサンマルコ広場、ドゥカーレ宮殿方面へ向かう。
 船着き場に並ぶゴンドラは一様に真っ黒。かつては色が自由でカラフルだったものが、ヴェネツィアにふさわしくないということで黒に統一されたという。
ドゥカーレ宮殿
 ドゥカーレ宮殿に到着した。これまで見てきた宮殿の中ではわりと地味な方だが、イスラム風の装飾がなかなか美しい。内部も金がふんだんに使われ、豪華絢爛である。
 さて、ここでイタリア人現地ガイドさんが合流。30歳代前半の女性の方で流ちょうな日本語を話すが、独特の癖があってちょっとわかりにくい部分もある。
 でも、ユーモアたっぷりでとても楽しいガイドさんだ。
 彼女によるとヴェネツィア本島のアパートは家賃が高いので外に住んでおり、本島の人口もどんどん減ってきているとのことだった。
 
←宮殿の隣りに建つ丸屋根の建物はサン・マルコ寺院。
 時刻は8時45分より少し前。まだ入場時間前だが、見学のための行列に並ぶ。
 わたしたちは2番目のグループで、前のグループも日本人だった。ガイドさんによると、この時間に動いているのは日本人観光客ばかりだという。
 オフシーズンのせいかどこも空いており、どこへ行ってもあまり並ぶということがなくて(手際の悪さから待たされることはたくさんあったけど)、12月の旅行っていいなあと思った。
 開場を待ちながら、ガイドさんの説明を聞く。それによると、ヴェネツィアは干潟に建設された街であるため地盤が非常に軟らかいそうだ。
 そこで長い杭を固い地盤まで打ち込み、丈夫な木に防腐剤を塗っものを土の中に埋め込んで、その上に建物を建てたという。
 また、温暖化の影響でここ数年、満潮時の浸水がひどく、数日前もサン・マルコ広場が海水に浸ったと言っていた。
 これを「アクア・アルタ」(高い水)と呼び、秋から冬にかけてよく発生するという。
 このドゥカーレ宮殿はヴェネツィア共和国の総督邸兼政庁、裁判所だった建造物で、サン・マルコ広場に面して建っている。総督宮殿とも呼ばれる。
 9世紀に古代ローマ時代の城砦あとに創建され、14世紀から16世紀にかけて現在のピザンチン様式に改修された。
 ゴシック風のアーチが連なり、イスラム建築の影響を受けた細やかな装飾が施されている。
 
 時間となり、中に入る。9時より10分も前だ。ここの職員は、フランスのヴェルサイユ宮殿よりずっと勤勉のようだ。
 中庭にも瀟洒なデザインの建物が建っている。その向こうに見える丸い屋根は、サン・マルコ寺院のもの。 
 水鉢のようなものは井戸でブロンズ製。
 
 16世紀に創られた、サンソヴィーノ設計による黄金の階段。
 天井の装飾がそりゃあ見事。
 かつては共和国の高位官や身分の高い貴族専用のものだったとか。
 宮殿内部は撮影禁止なのだが、ここまではOKとのこと。 
 「10人評議会の間」。現地で8ユーロで買ったガイドブックから転載したもの。
 国家の謀反人を裁く裁判所であった広間。総監を筆頭に10人の大評議員と6人の評議員で構成されていた。
 この部屋を出て小さな運河を渡った先に牢獄があり、ここで有罪を言い渡された囚人は「ためいき橋」と呼ばれる渡り廊下を通ってそこへ向かったという。
 天井には1554年に創られた「悪徳に稲妻を落とすジュピター」という絵画が飾られていたが、1797年、攻め入ってきたナポレオンにより持ち出された。現在にいたるまでルーブル美術館に展示されている。
 非常に軟弱な地盤の上に建てられたこの宮殿は、人が歩くとまるで海に浮かぶ小舟のようにぷかぷかと揺れるのだ。
 特に数十人のグループが一斉に移動すると、震度3くらいにはなる。
 現地ガイドさんは「ヴェネツィアには地震がないので大丈夫」と笑うのだが、地震大国日本から来たわたしたちは非常に怖い思いをした。
 「大評議会の間」。ガイドブックより転載。
 長さ54メートル、幅25メートルと大変広い部屋で、宮殿南翼すべてを占めている。
 1577年の火災で焼失し、ただちに修復された。中奥の壁一面を幅22メートル、高さ7メートルという、世界でもっとも巨大な油絵が占める。
 作者はヤコポ・ティントレットと息子のドメニコ。1590年に完成した。
 「10人評議会の間」以上に金きらき〜んな部屋だ。
 NHKの世界遺産スペシャルでは、ヴェネツィアにおける貴族とは大商人がなる議員であり、総督はその中から抽選などの手法をとって選出されたと紹介していた。
 また、総督に権力が集中しないよう、細かい決まり事があった。資源や領土に恵まれなかったヴェネツィアでは、権力の集中は国を弱らせると考えたのである。
 富も同様に考え、一つの家が利益を独占しないよう、富の分配を行ったりしたという。
 その努力が実り、千年にも渡るヴェネツィアの歴史において王や独裁者は登場していない。
 銃や兜の展示品。ガラスケースの左端に貞操帯が展示されていて、写真で見たことはあるものの実物は初めてなので、その造りの精密さにまじまじと見入ってしまった。
 貞操帯とは、十字軍に従軍する兵士が、妻や恋人が浮気をしないよう装着させた器具である。用を足す部分はちゃんと開いていて、守りたい箇所にはギザギザが付いている。
 当然のことながら鍵付きで、キーは旦那さんが戦地に持って行ったとか。
 それにしても、こんなものを身につけさせられた奥さんたちは気の毒。拭くとき大変だっただろうなあ。
 まあ、奥さんたちの方も一枚上手で、ちゃっかり合い鍵を造っていたというから、どっちもどっちでショー。

 さて、ドゥカーレ宮殿の見学を終えたわたしたちは牢獄へと向かう。
 そして途中、例の「ためいき橋」を通る。この橋はイタリア旅行のパンフレットにはよく載っており、わたしは最初、運河に掛かる橋なのだろうと思っていた。
 そして名前から連想されるロマンチックなイメージから、帰らぬ恋人または片思いの異性を想って溜息をついたことが由来の橋なのかなあ、さすが「アモーレの国」イタリア、ロマンチックだなあ。と、勝手に思っていたのである。
  だが、それはまったく違っていた。溜息は溜息でも、二度と見ることはないヴェネツィアの景色を見てついた溜息だったのである。
 裁判所で有罪を言い渡された囚人が窓からわずかに見えるヴェネツィアの街を眺め、悲しみと絶望の溜息をついて牢獄へと向かったことから「ためいき橋」となったのだ。
 
←囚人たちが最後のヴェネツィアを見た透かし入りの小窓。
 ガイドブックから転載した、「ためいき橋」の外観。
 左が宮殿、右が牢獄である。
 囚人たちの涙と嘆きを吸いこんだ橋は、思いもかけず美しい装飾であった。
 下の四枚は別名「鉛の監獄」とも称される牢獄の画像。
 藁を敷いて使用したという。家畜じゃないんだぞう。
 もっとも新しい囚人の落書き。なんでも1900年代まで軽犯罪による囚人が収監されていたそうだ。
 プレイボーイとして映画にもなったカサノヴァ(1725年ヴェネツィア生まれ〜1798年)も1755年、異端信仰の罪でここに投獄され、5年後脱獄に成功してパリに逃亡している。
 実はかつて宝塚歌劇団ファンだったわたしは、ヴェネツィアにまつわる2つの舞台に強い影響を受けている。
 ひとつは大浦みずき主演の花組公演「ベネチアの紋章」(1991年)、もうひとつは紫苑ゆう主演の星組公演「カサノヴァ・夢のかたみ」(1994年) だ。
 前者は塩野七生著の「緋色のヴェネツィア 〜聖マルコ殺人事件」を原作としており、16世紀のヴェネツィアが舞台の歴史絵巻。
 原作と主人公が違っていたり、結末が違っていたりするそうだが、ヴェネツィアへの関心を大きく掻きたてた作品である。
 後者は脱獄してパリに逃れたカサノヴァが、ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人と再会し(二人はかつてヴェネツィアで出会っている)、恋に落ちるというフィクションを交えたお話。他にフリーメイスンやルイ15世の暗殺事件も絡めた冒険物語となっている。
 今回のイタリア旅行にどうしてもヴェネツィアを入れたいと思ったのは、この過去の作品のせいであった。

 さて、再び回廊を通って中庭に面した宮殿に戻る。
 なんか、お尻ばっか。(苦笑)
 お尻を向けている像は左がネプチューン(ギリシア神話におけるポセイドン)、右が軍神マルス(ギリシア神話のアーレス)だ。
 この下が階段になっており、「巨人の階段」と呼ばれている。
 1400年に設計され造られた階段で、この踊り場で総監就任式が行われた。
 廊下が傾いているように見えるのは錯覚ではない。地盤沈下を起こして、宮殿自体が海側に傾いているという。
 ガイドさん、大丈夫って笑ってたのに、駄目駄目じゃん、この建物。
  
 わたしたちが出てきたのは「文書の門」と呼ばれる出入り口。大きな尖塔型アーチの上部はゴシック様式の彫刻と飾りで縁取られている。
 一番下が「フランチェスコ・フォスカリと有翼のライオン像」、さらに頂上には「正義の像」がある。


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