ミラノ観光 
 さて。少しだけミラノについて説明を加えておく。
 ミラノはロンバルディア州の州都で北緯45°28′0″と、北海道の稚内とほぼ同緯度。トリノ・オリンピンクが開催されたトリノから、さらに北東に位置している。
 イタリアではローマに次ぐ第二の都市であり、北イタリア最大の都市でもある。
 ミラノコレクションで知られるように、服飾・繊維産業などファッション関連が盛ん。道行く女性は洗練された装いに身を包んでおり、皆さん非常におしゃれだ。
 機械産業も盛んで、イタリア最大の経済地域でもある。
 日本ではイタリア語の発音そのままに「ミラノ」と呼んでいるが、英語では「ミラン」と発音されている。
 313年、西ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスが、ミラノにおいてキリスト教を公認する勅令を発布した。「ミラノ勅令」として知られるこの勅令は、それまで迫害されてきたキリスト教の信仰の自由を認めるものであった。
 キリスト教はその後の380年、国教として定められる。
 11世紀、神聖ローマ帝国から都市国家として独立し、13世紀にはヴィスコンティ家がミラノを支配する。
 一族からローマ教皇グレゴリウス10世(在位1271年〜1276年)を輩出し、1395年にはジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが皇帝に認められてミラノ公となった。
 「ヴェニスに死す」「イノセント」などの作品で知られるルキノ・ヴィスコンティ監督は、このヴィスコンティ家出身の伯爵である。
 
スフォルツェスコ城〜Castello Sforzesco
 朝の9時半ちょっと過ぎ、ヴィスコンティ家が建てたスフォルツェスコ城に到着した。
 バスを降りると、わたしたちの前に二人の女性ガイドが現れた。一人は日本人、一人はイタリア人のガイドだ。
 イタリアでは日本から付いてきた添乗員がガイドをすることを禁じており、必ずライセンスを持ったイタリア人のガイドが案内をしなければならないことになっている。
 これは雇用対策のためと言われているが、必ずしも二人いる必要があるわけではない。
 イタリア在住の日本人でも試験を受けてライセンスを取得すれば2人分を兼ねることができるらしいし、日本語ぺらぺらのイタリア人が2人分を兼ねることもある。
 ここミラノの日本人ガイドさんはちょっと女優の麻美れいに似た感じで、ユーモラスな語り口が魅力的だった。もう一人のブロンドのイタリア人女性はなにをしゃべるでもなく、ただ同行しているだけ。
 この人がいる分だけツアー代金が高くなっているのだから、なんとなく釈然としないと思うのは、わたしだけだろうか。
 ちなみに、わたしたちは常に成田空港で配られたオーディオガイドを首から提げ、耳にイヤホンをはめて、ガイドさんがマイクを通じて語る内容を聞きながらの見学であった。
 スフォルツェスコ城は、14世紀に権勢をふるったヴィスコンティ家の居城を、15世紀半ばにスフォルツァ家が改築したルネッサンス様式の城である。
 フランチェスコ・スフォルツァはミラノ公ヴィスコンティ家に仕える傭兵隊長であったが、ヴィスコンティ家の娘と結婚し、1450年にミラノ公となった。
 塀の中央にある時計塔のファサードは20世紀に造り替えられており、彫像と浮き彫りにより二人の人物が飾られている。
 上の彫像は4世紀のミラノ最初の司教で、ミラノの守護聖人となっているアンブロージョ。下はイタリア王国2番目の王、ウンベルト1世(在位1878年〜1900年)である。
 ウンベルト1世の父親はイタリアを統一したヴィットーリオ・エマヌエーレ2世で、あとで見学に訪れるガッレリア「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世アーケード」にその名を留めている。
 一方、ナポリにはウンベルト1世の名を冠したガレリアがあり、ミラノのガレリアを模して建てさせたものだ。
 →昨年見学をした「ウンベルト1世アーケード」の模様はこちら
 塀の前に張り巡らされたお堀。かつては水が張られていたが、現在はこのように武器として使われた石球が置かれている。
 時計塔の左右、塀の両翼には同じ形の塔が控えている。
 この塔を造っていた頃、ちょうどフィレンツェから招かれてやってきたレオナルド・ダ・ヴィンチが、スクリュー式ポンプで堀の水を汲み上げ塔を水道塔にするプランをスケッチしたのだそうだ。しかし当時のテクノロジーでは追いつかず、完成には至らなかったという。
 時計塔の下をくぐり、中庭へと入っていく。ガイドさんは「練兵場」と言っていたが、改修工事の真っ最中。重機がうなりを上げて土を掘り繰り返していた。
 とにかくイタリア中どこを訪れても工事、工事、工事で、見学できないこともしばしば。
 ここは無料なのでまだいいが、8ユーロも支払って中に入ったのに肝心の目玉が改修中のため見られない、なんてことも当然のように行われているのがイタリアなのだ。
 中庭から、ダ・ヴィンチが水道塔にしようと試みた塔が見える。
 塔の左側の建物は図書館などとして使われているという。壁に描かれているヴィスコンティ家の紋章は「敵を呑み込む竜と楯」をあしらったものだが、そっくりそのまま左右を入れ替えた形でイタリアの自動車メーカー・アルファロメオ社のエンブレムとなっている。
 ちなみに建物にボコボコ空いている穴は、足場を組むときに木材を差し込んだものである。
 中庭を突っ切り、時計塔の反対側にある、現在は市立博物館となっている建物に入る。
 これは最盛期だった頃の城の全容を描いたもので、中央のコの字型の部分が建物にあたる。
 五稜郭ならぬ六稜郭で、周囲を取り囲む塀の内側はいわゆる武家屋敷が建ち並んでいた。しかし、ナポレオンが侵攻してきてすべて取り払ってしまったため、現在は建物の部分しか残っていない。
 大理石で造られた、ミラノ領主ベルナボ・ヴィスコンティのお墓。
 ベルナボは非常に残忍な領主だったそうだ。
 その馬の右側に立つ小さな彫像は、ベルナボに嫁いだヴェローナ領主スカリジェリ家のレジーナだという。
 ヴェローナは「ロミオとジュリエット」の舞台として有名で、イタリアのツアーに組み込まれていることが多い街だ。
 スカリジェリ家はデッラ・スカラ家とも呼ばれ、レジーナのために建てられたサンタ・マリア・アラ・スカラ教会はその名にちなんで名付けられた。
 だが、その教会も1778年に取り壊され、2年前に焼失したオペラハウスの替わりが建てられることになった。それが世界一有名なオペラハウス、スカラ座というわけなのである。
 スカラとは「階段」という意味で、スカリジェリ家の紋章は「丸に梯子」の絵だそうだ。これがエスカレータの語源にもなっているという。
 ちなみに、スカラ座の設計案を承認したのは当時ミラノを統治していたオーストリアのマリア・テレジア女帝、こけら落としで上演されたオペラを手がけたのはアントニオ・サリエリであった。
 マリア・テレジアはフランス王妃マリー・アントワネットの母親で、サリエリは映画「アマデウス」でモーツァルトを死に追い込んだ張本人とされる音楽家である。
 この後、部屋を移動。たくさんの石棺や遺物などが展示されていてゆっくり見たかったが、素通りされてしまった。
 次に大きなタペストリーが展示された部屋にやってきた。
 タペストリーは石の壁に掛けて装飾と保温を兼ねた高級品である。ベルギーなどで織らせたものが多いという。
 このタペストリーに刺繍されているのは、ミラノ最初の司教アンブロージョ。
 わたしがカメラを構えてタペストリーを撮っていたら、監視員のおじさんがトントンとわたしの肩を突っついた。こっちおいでとジェスチャーで招き、窓のそばに立ってあの銅像を撮れというように指示してくる。
 どんな意図があってのことか不明だが、彼の好意を無下にもできず、わたしは言われるままに裸の男性の銅像を撮影した。彼には、どうしてもこのアングルから撮らせたい理由がなにかあったのだろうか。
 ここは掃除のために入れなかった部屋だが、天井にはレオナルド・ダ・ヴィンチがデザインした天井画が残っていた。
 彼自ら筆を執ったものではなくて、弟子に描かせたものだという。
 下の2枚もダ・ヴィンチによるフレスコ画で、「最後の晩餐」を描く数年前に描かれたもの。最近になって修復され蘇った。
 フレスコ画とは、壁や天井に漆喰を塗って、それが乾かないうちに絵の具で絵を描いた画法のことである。漆喰が乾燥して絵の具の成分が閉じこめられて、長い年月色あせしにくい。
 またフレスコとは、英語の「フレッシュ」という意味だという。
 
 たくさんの鎧や剣なども展示されている。
 下は石棺の蓋。
 最後にわたしたちが見学したのは、「ロンダニーニのピエタ」という作品。作者はミケランジェロ(1475年〜1564年)である。
 ミケランジェロは正式の名をミケランジェロ・ブオナローティと言い、フィレンツェ共和国生まれ。ロレンツォ・デ・メディチに才能を見こまれ、メディチ家に引き取られてて彫刻を学んだ。
 ミケランジェロはダ・ヴィンチと同時代に生きた、彫刻を得意とした芸術家であるが、ダ・ヴィンチより20歳ほど若い。ダ・ヴィンチに対して強いライバル心を抱いていたという。
 若いときに喧嘩をして鼻が折れてしまい、それがコンプレックスとなって偏屈な性格になったという。
 メディチ家の庇護を失った後、ローマに移ってサン・ピエトロ大聖堂のピエタ(5日目に見学)を制作した。
 ピエタとは、十字架に掛けられて亡くなったイエス・キリストと、その亡骸を抱きかかえて深い嘆きに沈む聖母マリアを描いた作品で、ミケランジェロのライフワークのようなものであった。
 サン・ピエトロ大聖堂のピエタの他にもフィレンツェに残る2作品がある。
 この「ロンダニーニのピエタ」はミケランジェロ最後の作品となり、彼は視力を失いながらも倒れる直前まで制作にとりくみ、当時としては異例の89歳で死去した。
 つまり、このピエタは未完のままというわけである。
 ミケランジェロがミラノで仕事をしたという記録は残っていないそうで、このピエタはスフォルツェスコ博物館に収蔵されるまでローマのロンダニーニ邸にあったため、「ロンダニーニのピエタ」と呼ばれている。
 サン・ピエトロ大聖堂のピエタのキリストとはだいぶ姿勢が違っていて、立たせて見るのが正しいのか、寝かせてみるのが正しいのか、判然としない。
 ところで、この後フィレンツェやローマに移っても、ダ・ヴィンチやミケランジェロの作品にはちょくちょくお目にかかる。そこで、ちょっと整理してみたくなったので、ダ・ヴィンチとミケランジェロの生涯と残した作品のタイムテーブルを作ってみた。ご参考までに。
 →レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの年表
 これで見学はおしまい。
 中庭を抜けて・・・
 城の外に出た。
 どうやら裏口のようで、周囲は緑豊かな公園となっていた。
 正面には、凱旋門のような建物が。
 上に人や馬のような彫像が立っている。この様子、なんだかパリのカルーセル凱旋門に似てない? と息子と話していると、「ナポレオンがミラノに侵攻してきたときに造らせた」と、ガイドさんの説明がイヤホンから流れてきた。
 やっぱりねーと、いかにもナポレオンらしい仕事に思わず笑った。

 「あ、電話! ねえ、撮って撮って!」
 「あ〜はいはい」(まったくお子ちゃまなんだから・・・)

 バスに乗りこみ、今度はガッレリアに向かう。
 左手に見えてきたのはミラノ中央駅。なんか、駅とは思えぬクラシック&ゴージャスな造りなんですけど・・・。
 「欧州で最も壮大な駅」と言われているらしい。


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