2日目Prat3 ポンペイの遺跡見学 |
 |
カプリ島からナポリ湾に戻り、バスに乗ってポンペイに向かう。ここも世界遺産に登録されている遺跡だ。
街をまるごとその灰によって埋もれさせたヴェスヴィオ火山を左手に見ながら、揺られること約40分。広場のような所に到着し、降ろされる。ここが遺跡の入り口だ。
土産物の出店がいくつか並び、日本人が来たと見るや、店員が日本語で呼び込みを始めた。ここにも野犬がたくさんいて、暑いのか気だるそうに寝そべっている。 |
ポンペイの遺跡とは? |
さてここで、ポンペイの遺跡がなにか知らない人のために、ちょっと解説。
ポンペイはローマ帝国時代栄えた都市で、劇場、神殿、公衆浴場、商店などが居並んでいた。水道や舗装道路なども整備されており、ローマ人の保養地として別荘もできた。
79年8月24日午前、ヴェスヴィオ山が大爆発を起こし、TBSのドキュメンタリー番組によれば火砕流が発生したと言われる。
それ以前に逃げ出した者もいたが、火山爆発の危険性が知られていなかった当時のこと、留まって被害にあった者も多かった。死者は約2000人から1万人以上とされている。
一説には、家財調度品、貴金属、金銀などを運び出すために逃げ遅れ、犠牲となったとも言われている。
その後、降り続ける火山灰が積もり積もって、街を埋もれさせた。そのため、死者は死んだままの姿で灰の中に埋もれ、肉体が朽ちた後もその空洞は残った。 |
 |
 |
また、建物の屋根は灰の重みで落ちたが、建物そのものは灰のお陰で倒れることなく残ったものが多かった。
埋もれた街は人々から忘れ去られ、1630年間眠り続けることになる。
1709年、今から約296年前、一人の農夫が偶然にも壷を掘り起こした。それがきっかけで街そのものが発見されることになるが、本格的に発掘されだしたのは1748年から。ナポリ王国により行われたが、当初はまだ宝探しの域を出ない状態だったという。
1927年以降、組織的な発掘が開始され、公共建築や住宅の跡が発見された。
19世紀半ばのポンペイ発掘調査の指揮にあたったフィオレルリは、肉体が朽ちた後に残った空洞に石膏を流し込み、固まったところを掘り起こすという手法を考案した。
こうして、ポンペイ市民の衣装、装身具をまとったままの姿が再現され、息を引き取ったときの苦悶する表情までリアルに甦らせることに成功した。顔を覆った状態で座りこんだ石膏像はとても生々しい。
そしてなにより興味深いのは、1900年も昔の都市でありながら近代的な機能を備えていたこと、また現代人となんら変わることのない人々の営みである。 |
 |
現地ガイドさんが窓口で人数分のチケットを購入し、みんなでゲートをくぐる。
時刻はすでに午後5時を大きくまわっていた。日本の観光地なら、とっくに閉まっている時間帯だ。ここイタリアはシエスタという習慣があって観光客泣かせでもあるが、一方、そのお陰でけっこう遅い時間まで店などが開いていたりする。この遺跡がそうである。あちこち見て回って7時くらいまでいたが、とてもそんな時間とは思えない空の蒼さだった。 |
 |
マリーナ門という門から、街の中に入る。海に向かっているところからこの名が付けられたそうだ。門は2つのアーチに分かれており、一つは歩行者用、もう一つは荷馬車など動物が通過するためのものとして利用されていたという。
遺跡はまだまだ補修中で、あちこちにこうした工事の跡が伺える。
のんびりしたイタリア人のことだから、今世紀中に完成するものかどうかは、かなり怪しい。 |
ポンペイの街 |
 |
門をくぐって、街の中に入った。
舗装された道路や歩道などは当時のままである。馬車は中央の車道、歩行者は左右の歩道を通るよう分けられており、雨が降っても冠水しないよう、歩道はやや高く造ってある。
現代の日本にも歩道のない車道はたくさんあるのに、1900年も前のイタリアの街にこうしてちゃんと整備されているのは驚きだ。
しかも、車道を横切るための横断歩道まである。中央に写っている3つの丸い石がそれ。馬車の車輪が通れるよう、ちゃんと間が開いているという芸の細かさだ。
おまけに夜道でも事故を起こさないよう、道路にはキラキラと光る素材も埋め込まれている。これって、日本の交差点付近でよく見られる、キラキラ光る舗装と同じではないか。なんと良くできた街だろう。ガスや電気、機械、電子機器がなかったというだけで、今とほとんど変わらないではないか。 |
 |
 |
|
 |
この穴は、馬をつなぎ止めておくための棒が差してあったのだろうということだ。この前の建物は住居か商店だったのだろうか。 |
ゼウス神殿周辺 |
 |
ゼウス神殿跡。この神殿の建立は紀元前6世紀まで遡ると言われている。ゼウスはギリシャ神話の最高神で、ポンペイの守護神。
中央の台は生贄を神に捧げるための台で、左の円柱は日時計になっていた。 |
 |
 |
 |
 |
 |
壁に縁に施された飾りが朽ちかけているため、プラスティックで覆って保護していた。
精巧で繊細な、美しい彫刻である。 |
 |
|
これは、なんと両替所。3つのブースに分かれている。外国人がここで両替してから、街に入っていったそうだ。 |
 |
両替を済ませ、この門から街の中心部分に入っていくということなのだろう。 |
 |
ポンペイ人の石膏像 |
 |
先に説明した、人体があった空洞に石膏を流し込むという手法で掘り出した像である。
よく見ると、頭部から頭蓋骨がのぞいていた。そう、これは単に空洞をかたどったものというだけでなく、中に人骨も含まれているのだった。 |
 |
同じ像を反対側から見たもの。体を反らし気味にして、苦痛を訴えているように見える。
ウェストにベルトが巻かれてあるのは、奴隷の証しだそうだ。 |
 |
もう一体の石膏像。これもあばら骨が浮いて見える。 |
 |
同じものを反対側から見たところ。ああ、なんか怖くなってきた・・・。
石膏像が置かれているのは、「フロントーネの家」と呼ばれる遺跡。家の内部は美しい壁画で飾られている。これは裕福な家の食堂に描かれていたものだそうだ。 |
 |
 |
フィットネスクラブ&スパ? |
 |
ここはサウナや入浴設備のある運動施設。今でいうところのフィットネスクラブである。
並べられている椅子・テーブルはもちろん現代のもの。中庭部分で運動したとされている。 |
 |
驚くのは、脱衣所、サウナ、冷水室、温浴室などと、部屋が奥へ続いていること。もちろん、すべて男女別。
脱衣所には、脱いだ衣類などを入れる窪みが壁に造られている。日本の温泉のように、ここへカゴが置かれていたら完璧だ。 |
 |
奥に進むとサウナ室になっている。
運動場を含む全室が床下暖房になっていたというから、またまた驚き。 |
 |
天井にくりぬかれた灯り取りの窓。 |
 |
サウナ室を暖めるための暖房器具。現代のサウナと、原理はまったく同じである。 |
 |
サウナで熱くなった体を冷ますための浴槽。冷水が注がれていたそうだ。 |
 |
次の間は暖かいお風呂のある浴室になっている。これは大理石づくりの大きな浴槽。とても綺麗なもので、今でもお湯を張って入浴できそうな状態だった。 |
 |
浴槽の反対側に置かれていた、丸い水飲み場。真ん中から泉の水が湧いていたらしい。
大理石でできた豪華な鉢の縁には、これを寄贈した人の名前が刻んである。
「次の選挙でも、どうぞわたしに」というようなことが書いてあるのだとか。なにやら現代の政治家と、やることが似ているようで。
それにしても、2千年も前の者とは思えぬ美しさだった。 |
 |
ところで、ここの入浴施設は温泉が供給されていたのだろうか。近くに活火山ヴェスヴィオ山が控えていたのだから、もし温泉だったら、さぞや良質の硫黄泉が湧いていたことだろう。
下の画像は壁画と5体の男性像。 |
 |
 |
居酒屋さん |
| ここは浴場の玄関。お風呂から出た正面には、一軒のお店が・・・。 |
 |
| それは居酒屋さん。入浴後の一杯は格別! というのは、現代も昔も同じだったらしい。 |
 |
悲劇詩人の家 |
 |
玄関前の床には犬のモザイク画が。汚れていてみにくいが、足元に「猛犬注意」という警告文が書かれている。
それにしたって、あまり猛犬じゃなさそうなところが憎いね。可愛がっていたペットみたいで、今にも躍りだしそうな躍動感が伝わってくる。こういう防犯モザイクは他の家でも見られたらしい。ただしこれはレプリカだそうだ。本物は博物館で大事に展示されているとか。
日本でも「猛犬注意」のプレートを玄関に貼った家は多く見られるが、そのローマ版はなかなか芸術的。レプリカであっても見所のひとつであるのは確かだ。
その「悲劇詩人」の家の内部。向こう側の入り口に犬のモザイクがある。
ここは比較的小規模な中流階級の家だそうだ。 |
 |
 |
床の模様も精密。あとでギリシャの考古学博物館で知ったが、この幾何学模様は永遠の命を現わすのだそうだ。 |
 |
 |
娼館あと |
古今東西変わらないもの、それは人の欲望。これは当然のごとくあった、ポンペイの娼館である。
柵がしてあって入れなかったのだが、中にはエッチな絵が数枚掲げられてあるのだそうだ。その「春画」みたいなものを指さして、客はしてもらいたいサービスのリクエストをしたとか。言葉の違う外国人客でも意志が通じるようにという配慮らしい。 |
 |
娼婦が顔を出し、道行く馬車を呼び止めたという高窓。呼ばれた馬車が急ブレーキをかけるものだから、館の前の道路にはその痕がくっきり残っているんだって。
日本の時代劇でたまに見る、遊郭の「ちょいとお兄さん、寄ってかない?」みたいなことを、2千年も前のポンペイでもやっていたんだなぁ。 |
 |
ピザ屋さん |
 |
ピザ屋さんの石臼と、焼き釜。今のピザ焼き炉と基本的な形状が変わっていない。
下の画像は水道の水飲み場。蛇口は現代のもので、水は今でも出ている。 |
 |
 |
収納庫? |
発掘された遺物の収納庫らしきものが、右側の柵の向こうにある。
そこには、先ほど見たのと同様の人型の石膏像が収められていた。遺体も同然のものがこうして無造作に置かれているのにやや違和感を覚えた。もそっと敬意を払って保管できないものだろうか。
下は体をねじ曲げて苦悶の体の犬。人も犬も哀れである。 |
 |
 |
 |
 |
 |
おしまいに |
約2千年前、栄華を極めたポンペイの街。奴隷制度はあったが、汚らわしい存在とは考えていなかった。奴隷はただ肉体労働に従事するだけではなく、子ど もの家庭教師になったり家計を預かるなど、その能力によって様々な仕事を任されていた。
ポンペイの人口の約半数が奴隷だったと考えられ、市民の生活にとって欠くことのできない働き手だった。奴隷は生まれながらにして奴隷なのではなく、運命によるものだと考えられていた。同じ人間として認めていたため、同じ浴場を使うことに抵抗がなく、夜遅くには同じ共同浴場に汗を流しに行っていたという。
奴隷制度の是非は別として、そんなポンペイ人のおおらかさがわたしは好きだ。
まだキリスト教が広まっていなかったおおらかな時代に、豊かな生活を享受していたポンペイ人。かなり退廃を極めていたとも言われるが、今の日本だって同じようなものだ。
そんな平和な暮らしをわずか1日で崩壊させたヴェスヴィオ火山の怒り。自然の驚異はかくも残酷なものか。ポンペイの人々が日々往来した道を歩きながら、街と命運を共にした人々のことを想った。 |
 |
ゲートを出たところにあるフルーツ屋さん。バスに乗りこむためのひととき、オレンジジュースを注文した。 |
 |
とっても濃厚で美味しかったよ。 |
| ちなみに、同じ79年のヴェスビオ山の噴火によって滅亡した街は、他にエルコラーノというものもある。別名ヘラクレスの町ともいわれ、ギリシャ神話の英雄・ヘラクレスが建設したという伝説がある。ポンペイが灰によって埋もれたのに対し、エルコラーノはは一瞬にして流れ込んだ溶岩によって密封された。ポンペイでは焼けてしまった遺跡も、エルコラーノでは、住居に用いられた木材をはじめとして、建物の骨組み、梁、階段や扉、仕切り壁等、かなり当時の姿のまま見ることができる。 |