前のページに戻る
 平成20年キャンプ
 ■平成20年5月3日(土)〜6日(火)
ゴールデンウィーク、地ビールの旅〜秦野編
やま@秦野さん宅へ
 GW最後の夜、神奈川県秦野市にあるC.C.Cの仲間、やまちゃんのお宅でホームパーティが開かれた。
 わたしたちはやまちゃんの手配で某所にトレーラーを停め、やま家に一泊させていただくことになっていた。
 少し遅れて、成田家も到着。さっそくお庭の一角でバーベキューが開始された。
 鶏肉を焼いてくれる、やまちゃん。
 テーブルの上には飛騨高山で購入した地ビールとレストラン特製のビアカップ。
 飛騨高山では暖かい陽気に恵まれたGWだったが、関東に帰ってきてからは一転、寒いくらいの天候であった。
 そのため、焼き地鶏を食べ終わると家の中に入って続きをすることにした。

 やま家が用意してくれた豪華舟盛りと、お寿司がわたしたちを待っていた。
 心からのもてなしと美味しい食事に大満足。お酒も進む。
 やまちゃん、メニーさん、大変ご馳走になり、ありがとうございました。
田原ふるさと公園〜そば処「東雲」
 翌朝、やまちゃん&メニーさんの案内で、同じ秦野市内にある田原ふるさと公園にやってきた。
 まずは「東雲」でお蕎麦を食べる。水車小屋を備えた、なかなか風情のある蕎麦屋だ。
 秦野産の玄そばを水車で製粉し、秦野名水で二八そばを作っているそうだ。
 30分くらいは待ったが、それだけのことはあった。そば、天ぷらともに大変おいしい。
 他ではあまり見られない、そばがきのデザートもあった。 
 これが、そばがき。
 長野の十割蕎麦の店で初めてそばがきのお汁粉を食べて以来、蕎麦屋に行くたびに食べたいと思っていたものだ。
 それが意外とどこの蕎麦屋でも置いていないのである。
 そばがきはお餅より噛みやすく、さっくりした歯触りが特徴。大好きなそばがき、他のお店でももっと出してほしいな。
源実朝御首塚(みなもとさねとも・みしるしづか)
 「東雲」の目の前に、意外な遺跡があった。
 鎌倉幕府の第3代将軍、源実朝の首塚である。
 実朝は鎌倉幕府を開いた頼朝の子で、1192年鎌倉で生まれた。母は正室の北条政子、兄は2代将軍・頼家。
 鎌倉の将軍の首塚が、どうして遠く離れた秦野にあるの? と不思議に思ったが、いきさつはこうである。
 1219年、実朝は鶴岡八幡宮拝賀を終えて出てきたところを、2代将軍の遺児で甥の公暁に暗殺される。
 公暁は切り落とした首を抱え逃走したが、乳母の夫である三浦義村によって殺害された。
 実朝の首は行方不明のままで、胴体だけが鎌倉の寿福寺に葬られた。
 この先は首塚の説明書きによるものだが、後に三浦義村の家臣・武常晴が首を発見し、波多野氏を頼ってこの地に葬ったという。
 画像にもある五輪塔が、その首塚だそうだ。
 波多野忠綱は実朝の菩提を弔うため、首塚の近くにあった金剛寺を再興した。この寺には実朝の木像と念持仏などが保管されている。
 では、どうして実朝は甥に暗殺されたのだろうか? それを理解するには、主要人物たちの乳母とその一族にまで目を向ける必要がある。
 頼家、実朝、公暁には、それぞれ比企氏、北条氏、三浦氏という乳母一族の後ろ盾が存在した。いずれも関東に強い勢力を持つ豪族たちである。
 この時代の乳母は単に乳をやるだけでなく、夫や息子・娘ともども養君に仕え、その立身出世を陰になり日向になって盛りたてる心強い存在であった。
 養君の出世は、乳母一族の立身出世にも直結する。養君が没落すれば乳母一族も命運を共にする、いわば運命共同体なのである。
 まず、頼朝の嫡男で2代将軍であった頼家からみていこう。
 彼の乳母は比企氏である。頼朝の乳母をしていた比企尼(ひきあま)は頼朝が14歳で伊豆国に流されて以来、長年に渡って援助を続けてきた。その功をねぎらうため、頼朝は信頼篤い比企尼の娘たちを嫡男の乳母に任じた。
 比企尼の甥で猶子の比企能員の妻も乳母となり、能員は乳母父となった。
 1202年、頼家が将軍になると、比企一族が重用された。さらに能員は外戚として権勢を誇るようになった。娘の若狭局が頼家の嫡男、一幡を生んでいたからだ。
 疎外された北条氏は強い危機感を抱き、将軍の独裁を牽制すべく13人合議制をしいた。
 翌年、頼家が重病に陥ったため、執権・北条時政は後継を実朝に決定。さらに先手を打って、無警戒であった能員を謀殺してしまう。
 若狭局と6歳の一幡も戦火の中で命を落とし、比企一族は滅亡した。後ろ盾を失った頼家は伊豆国に流罪となり、1203年、北条氏により殺害される。
 次に征夷大将軍の地位に就いたのは、12歳の実朝であった。実朝の乳母は政子の妹で、頼家の排除には政子も関与していたとされている。
 頼家と一幡、そしてそれを支えてきた比企一族を皆殺しにすることで、北条氏は政治の実権を握ったのである。
 つまり、幕府開設当時から実権を握っていたように思われがちな北条氏は、この時までは単に「妻の実家」というだけで執権の地位にあったにすぎないと考えることができる。
 1218年、実朝は武士としては初めてとなる右大臣に任じられた。
 しかし翌年の1月、八幡宮拝賀の夜、頼家の二男である公暁に暗殺される。時に公暁19歳。「親の仇」と叫んだと、公式の記録には書かれている。実朝は26歳であった。
 打ち落とされた首は公暁が持ち去り、行方がわからなくなったという。
 公暁の乳母は、三浦氏であった。公暁に実朝を討てとそそのかしたのは、乳母の夫である三浦義村だと言われている。
 それでいながら、義村は自分を頼って屋敷を訪れようとした公暁を討った。
 実は、したたかな北条義時が暗殺現場から直前に逃亡したため、義村の作戦に大きな狂いが生じた。北条義時に「公暁を討て」と命じられた義村は、一族の安泰をはかるため養君を討たざるを得なかったのである。
 大事な旗頭である実朝を見殺しにして逃げた北条義時と、やはり大事な養君を殺させた三浦義村。二人とも決して血も涙もない冷血漢などではなかったはずだし、養君を大事に扱ってきたはずだ。
 それでも一族のため涙を呑んだ判断をせざるをならなかった、というところかもしれない。
 で、この実朝の首が埋められているのが、秦野にある首塚というわけである。昭和46年、秦野市指定の史跡となった。
 首塚の近くには実朝が詠んだ歌の歌碑が建っている。
 実朝は歌人として名高く、勅撰和歌集、小倉百人一首、金槐和歌集などに数多くの和歌が残されている。
 歌碑には金塊和歌集にも入集した、
 「ものいはぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるなや 親の子をおもふ」
 という歌が佐佐木信綱の筆によって刻まれている。
 さて、果たして首塚の真否のほどはどうなのだろう。本当に実朝の首が葬られているのだろうか。
 発掘調査をしてみればわかることなのだが、実際に掘り返してみようということにならないのは残念なことだ。
 秦野市さん、どうか首塚の下を掘ってみてくださ〜い。
秦野戸川公園
 県立秦野戸川公園にやってきた。水無川の河川敷にある広大な公園で、川遊びやバーベキューなどが楽しめる。
 上流には、丹沢の山々を背にした「風の吊り橋」がある。全長267メートル、川からの高さ35メートル。
 歩いて渡ってみたいような、渡ってみたくないような。
 吊り橋と言ってもインディ・ジョーンズに出てくるような木の吊り橋ではないので、ご安心を。風速80メートルにも耐えられる構造になっているそうだ。
 成田さんの愛犬・ゴールが川で遊び始めた。
 わたしもレディを連れてはいたが、乾きにくい毛質のため水遊びを断念した。
 サマーカットした今なら、川に入れても大丈夫だったのだが。うーん、残念。
 川から上がったゴール、いきなり砂地でごろごろ。や、やっぱ、レディを川に入れなくて良かったかも。
 このあと車に戻ってそれぞれ帰宅。皆さん、お世話になりました。
 わずか3泊のみのGWキャラバンだったが、ひじょうに内容の濃い楽しい旅となった。最後を締めくくる秦野でのおもてなしもありがたかった。本当にありがとうございました。

前ページに戻る 進 む


[平成11年Top] [平成12年Top] [平成13年Top] [平成14年Top] [平成15年Top] [平成16年Top] [平成17年Top] [平成18年Top]
[平成19年Top] [県別キャンプ地一覧][県別温泉一覧] [トレーラーってなに?] [子どもと一日遊べる場所][掲示板][HOME]

杉江家のどこでも別荘:キャンプ日記
Copyright(C) 2002〜 Clara 画像、記述内容などすべての転用を禁じます。