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 平成20年キャンプ
 ■平成20年5月3日(土)〜6日(火)
ゴールデンウィーク、地ビールの旅〜松本編
松 本 城
 松本城にやってきた。場所は長野県松本市、松本インターチェンジから数キロの所にある。
 実は最初から計画していたわけではなかったが、カーナビの松本城という名前を見ているうちに急に行きたくなったのである。
 途中、交差点で長い渋滞にあたったので、ひょいと裏道に逸れたら、妙な裏道に入りこんでしまった。
 だが、その先にはたまたま大きな駐車場があった。
 大通りで「バスは大手門前駐車場へ」という看板を見たが、そこまで行かなくても済んでよかった。後で観光マップを見たら、「市営開智駐車場」という名前だそうだ。1時間200円と安いが、我が家はヘッド+トレーラーなので、2時間停めて2千円ほどだった。
 隣にはシビリアンみたいなマイクロバス型のキャンピングカーが停まっていた。やはり城見学に来ているのだろうか。
 こちらは城の正面入り口側ではなかったが、近くにおそば屋さんもある。
 よし、帰りにそこでおそばを食べて帰ろう。
 しかし、駐車場から見える城は意外なほど小さかった。丘の上に建つわけでもなく、思いきり平城だ。「えっ、あれがお城? お寺かと思った」というくらい、小さい。
 ちょっと意外であった。

 駐車場から城へは徒歩数分。
 堀にかかる赤い橋の向こうに黒い天守閣がそびえる様子は、しかし思わず息を呑むほど美しかった。
 現在の日本には、江戸時代以前に建設された天守を持つ城が12箇所しか残っていない。その一つということで国の史跡に指定され、天守閣は国宝にもなっている。
 別名は「烏城(からすじょう)」。
 わたしが昨年秋に訪れた姫路城は、その白く優美な姿から白鷺に例えられている。
 それとは対照的に、松本城は黒っぽいのでカラスというわけだ。
 不思議なことに、写真で見るより実際の目で見た方が、城全体がより黒っぽく神秘的に見える。
 戦国時代、信濃守護・小笠原氏によって築城された深志城が前身で、1504年、室町時代末期の築城と伝えられている。
 ちなみに姫路城の最初の建築は1346年というから、古さではかなわない。しかし、松本城の五層の天守閣は日本最古だそうである。
 武田晴信(のちの信玄)の侵攻によって小笠原長時は信濃を逃れ、深志城は武田家の支配下に入った。
 余談だが、2007年の大河ドラマ「風林火山」で、小笠原長時は小心で器量の小さい人物として描かれていた。(ちなみに、演じていたのは今井朋彦という俳優さん。消臭プラグのCMで殿様の扮装をして「小さいけれど〜♪ 部屋いっぱい消臭♪」と歌っていた)
 しかし、後で紹介する長時の逸話は、花を愛する風流なお殿様だったことを窺わせる。
 1582年4月、武田勝頼が自害して武田家は滅亡した。その3ヶ月後には本能寺の変が起こり、織田信長も自刃。
 これにより徳川家康に仕えた長時の三男・貞慶が旧領を回復した。深志城に入り、松本城と改名する。
 翌年、小笠原長時は身を寄せていた会津で死去した。享年70歳。越後、京、再び越後と、あちこち放浪した末の客死であった。
 1585年、貞慶は徳川家康の重臣・石川数正とともに家康の元から出奔し、豊臣秀吉に仕えるようになった。 
 1590年、秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡したため、徳川家康は関東に転封させられた。貞慶から家督を譲られた長男・秀政も下総古河に領地を賜る。
 石川数正は信濃松本10万石に加増移封され、深志城の城主となる。これにより、松本藩の初代藩主は石川数正であるとする説が一般的である。
 数正はその嫡男・康長とともに天守閣、城郭、城下町の整備にあたるものの、1592年に病死。
 一方、小笠原貞慶は秀吉の怒りを買って改易されたため、長男ともども再び家康の元へ戻っていた。
 康長も1600年の「関ヶ原の合戦」において東軍に与した功により所領を安堵されたが、1613年に起こった「大久保長安事件」に連座していたとして、改易させられてしまう。
 康長は二人の弟とともに豊後国(現在の大分県)に流罪となり、その地で没した。
 石川氏に代わって松本城に入ったのは、小笠原秀政であった。こうして再度、小笠原氏が返り咲くこととなる。

 橋を渡って、本丸虎口にある料金所に着いた。
 人が多いなとは思っていたが、そこに立つ職員が「お城の入場まで40分待ちになってます」と告げてきて、たいそう驚いた。
 城の方を見ると、確かに長蛇の列ができている。さすがに国宝・松本城だ。
 せっかく来たんだから庭園だけでも歩こうかということになって、料金を支払ってゲートをくぐった。←入り口のパーゴラの藤が美しく咲きほこり、芳香を放っていた。
 松本城は姫路城、彦根城、犬山城とともに4つある国宝城郭のひとつだ。
 5重6階の天守を中心にした連結複合式天守で、日本最古といわれている。初期の天守に多く見られる、土壁の下部を板で覆った下見板張が特徴だという。
 さて、せっかく松本の地に復帰した小笠原秀政であったが、1615年の「大坂夏の陣」で嫡男ともども戦死してしまった。
 家督を継いだのは次男であったが、後に明石藩へ領地替えとなり、以後は松平氏、水野氏、戸田氏とめまぐるしく城主が代わった。
 明治維新後、松本城は競売に掛けられるが、地元有力者の尽力によって買い戻され、明治、大正、昭和時代の修復・復元工事を経て現在に至っている。
 城の正面にやってきた。確かに入場のための長い行列ができている。
 ←「ここが最後尾です」という看板を持った職員さんが立つ。
 わたしたちは列には並ばないが城の真下まで行きたかったので、職員さんに断って列の横を歩いていった。
 近くで見ると、なかなか威風堂々として男性的な城だ。
 姫路城は女性的な美しさの中にも雄々しさすら感じさせる城。その優美さ、華麗さは誰もが認めるところであろう。例えるなら、白い衣装をまとった花嫁。
 対するに松本城は男性的で実質剛健。簡素な中にも類い希な美意識の高さを感じる。こちらは、黒衣の騎士である。
 あるいは「黒装束の盗賊たちの根城」か、ダースベイダー卿が出てきそうなイメージと言ったら、松本の人に失礼だろうか。
 現在、ユネスコ世界遺産への登録を申請中だそうだ。姫路城に続いて頑張れ!

 庭園でひときわ華麗に咲く「小笠原牡丹」。
 説明の立て看板によると、「天文19年(1550年)7月、甲斐の武田信玄に攻められた小笠原長時は、純白の牡丹が敵兵に踏み荒らされることを憂えて、里山辺の兎川寺に託して去った。
 この牡丹を守ってきた久根下家は、昭和32年と平成18年にその株を松本城本丸に移した。
 これが小笠原牡丹である」とのこと。
 これが長時が愛でたという純白の牡丹か・・・って、これピンクじゃーん!! まわりを見回しても、純白の牡丹なんてない。これってどういうこと?
 預かった久根下家が牡丹を枯らしてしまって、適当な株を「こ、これこの通り、無事にございます」と言って提供したはいいけど、咲いてみたらなんとピンクだった・・・なんてことじゃないよね、たぶん。
 そもそも、牡丹の株って400年も長生きするものだろうか。
 しかし、先ほどは「風流なお殿様」と評した小笠原長時だが、敵が攻めこんでくるっていう非常時に牡丹を移植させるような殿って、どーよ?
 一刻も早く逃げたい家臣としては、「牡丹なんかどうでもいいから早く早く!」という心境に違いない。まあ、移植作業を見届けたわけじゃなくて、誰かに「任せたぞ」と言って落ちのびたのだろうが、これを風流とみるか、バカ殿とみるかは意見の分かれるところだ。
 花好きのわたしとしては、長時の牡丹を想う気持ちがとてもよく理解できる。時代を経て無事にお城に戻った牡丹を見て、よかったねとつぶやいてみる。
 しかし、色が違うのがちょっと気になるけど。(別の場所にちゃんと白牡丹があることが、後ほど判明しました。じゃあ、あのピンクはいったい何!?)
 さて、ぼちぼち帰ろうかというときだ。
 ヨロイ兜を身にまとい、鉄砲を持った戦国武者がいきなり現れた。
 記念撮影のサービスがあるらしい。しかも、2,500円くらい取るのかと思いきや、なんと無料だという。
 ローマのコロッセオでは、古代戦士の格好をした人がお金を取って記念写真に収まっていたぞ。なんと太っ腹なんだ、松本市!
 というわけで、わたしたちも写真を撮ってもらうことにした。
 最初の数組のときは2人の武者しかいなかったが、わたしたちの番になると数が増え、ちょっとした小隊編成くらいにはなっていた。
 少々武者らしからぬ人も混じっていたものの、本物の鉄砲も持たせてもらい、ずっしりと重さを感じての撮影だった。
 シャッターを押してくれたのは、やはり武者の扮装をした男性。撮影が終わってカメラをわたしに返すと、武者は被っていた兜を脱いだ。今日は日差しが強く、歩いているだけで汗ばむような陽気である。彼はハンカチで、したたる額の汗を拭いた。
 わたしが「熱いのに大変ですね」とねぎらうと、頭髪のちょっと寂しい武者兼撮影担当さん、「そうなんですよ、髪が薄くなっちゃってねえ」と笑い、再び兜を被った。(カブトをかぶっとこ、なんてね(笑))
 実際、戦国時代半ばから武士に定着した月代(さかやき。頭の一部を剃ること)は、兜で頭が蒸れることから始まった。
 頭が熱くなってのぼせ、おかしくなる人がいたからとか、髪が抜けちゃうからなど諸説あるが、そのうち兜を被らない町人まで剃るようになったんだから、風俗・文化とはおもしろいものだ。
 ただ城を見て帰るだけで終わらず、こうしたイベントがあってひときわ印象深い松本城であった。

 城の正面口にある「黒門」。昭和35(1960年)に復興されたもの。
 他に平成11年に復元された「太鼓門」がある。
 また本丸御殿は享保12年(1727年)に焼失した。御殿は城主の住居と政庁を兼ねたものだが、焼失以降は再建されなかったという。
 黒門から出て、内堀の外を散策。
 堀の向こうに見えるアルプスの山々が美しい。
 水に映りこんだ様も絵になる城だ。
 ↓左が小天守、右が大天守。見学の際は小天守からのルートだそうで、上の階に上がるにつれて階段が急勾配になっているという。
 姫路城も同様であったが、これは戦いに備えて工夫されたものである。
 
 天守を眺めていると、一羽の白鳥がしずしずとやってきた。
 公園になっているこちら側に、いつも餌をやっているおじさんが現れたためらしい。
 近づくや、突如羽ばたきを見せてくれた白鳥。これは嬉しい大サービスだ。
 とても人なつこい白鳥で、子どもたちの手から直接、草をついばんでいた。
 鯉もわらわら寄ってくる。

 おそば屋さんにやってきた。「そば庄」という店で、観光マップにも載っている。
 たいへんな行列ができていたが、さくさく進んであっという間に2階のお座敷席に案内された。
 2階の眺めはいい。窓の向こうには天守閣が見え、最高のロケーションだ。
 床の間には鎧兜が飾られ、伝統ある蕎麦屋の雰囲気を醸しだしている。
 わたしたちは、蕎麦に牛刺し、天ぷらが付いたセットを注文した。
 更級蕎麦のように細くて綺麗な麺だ。
 味はごく平均的なおいしい蕎麦といったところ。
 しかし、店内が禁煙でないのは残念だった。タバコの煙で蕎麦のおいしさが台無しである。
 おやきを販売していたので買って帰ったが、ちょっとイマイチでした。
そば庄データ
 ◎住所 松本市城西2-3-11
 ◎ 0263-36-3003
 ◎営業時間 11:00〜18:00
 ◎定休日 不定休
 ◎クーポンサイト ドリンク1杯サービス URL

松本城データ
 ◎交通 JR松本駅より徒歩15分
 ◎開館時間 8:30分〜17:00(入城は4:30まで)
※4/28〜5/6は18:00まで
 ◎休館日 12/29〜1/3
 ◎入場料 大人 520円、小人 250円(日本民俗資料館と共通)
 ◎問合せ  松本城管理事務所 пF0263-32-2902 
松本市観光案内所 пF0263-32-2814
  

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