永らく来ていなかった奥日光の光徳駐車場にやってきた。
2年ぶりの光徳は、本当に懐かしさでいっぱい。トレーラーを買った年の9月に初めて来て以来、奥日光の魅力にすっかりはまってしまい、年に数回は通うようになっていた。
C.C.Cに入ってからはオフ会で忙しくなって足が遠のいたが、本当は来たくてたまらなかったのである。
到着したのは、金曜日の夜。正確に言うと、とっくに日付が変わった午前2時くらい。スーパーやドンキホーテなどで買い出しをしていて、すっかり遅くなってしまった。
見あげると、暗い夜空にはかすかに天の川が横たわっているのが見える。
おお、懐かしい光徳よ。などと感慨にふけりながらも、闇の向こうに停まっているキャンピングカーが気になってしかたがない。
なんだか見覚えのあるキャンピングカーだ。誰だろう。知ってる人かしら。でも、C.C.Cのステッカーは見あたらない。
さて、わたしたちはトレーラーの中で軽く遅い晩ご飯を食べた。ビールなどを飲みながら疲れを癒していると、ふと鳥のさえずりが耳に入ってきた。
ハッと時計を見ると、4時10分前だ。窓の外がかすかに白んでいる。
まずい、もう夜明けだ。早く起きてトレッキングに行こうと思っていたのに、もう朝になっちゃったよ。
わたしたちは慌てて就寝した。 |
 |
たった4時間眠って、8時に起床。大急ぎで支度をし、そのあいだに娘にレディの散歩を託す。
支度を終えて外にでて、改めて向こうのキャンピングカーを見る。側面に「RV
Land」の文字発見。
オーナーは、「さすらいの駒ちゃん」であった。
朝一番、わざわざ向こうから挨拶に来てくれた駒ちゃん、コーヒーをご馳走してくれたのだった。 |
 |
ところで今回の目的は、バードウォッチングを兼ねた戦場ヶ原のトレッキング。
わたしたちはオフ会で飲んでばかりのグータラキャンパーであるが、たまにはこんな健康的なこともやるのだ。
しかし、午前9時にはトレーラーを出発して赤沼茶屋に向かう予定が大幅に遅れ、ドタバタしながら出発したのは9時20分くらい。途中、三本松に停めて戦場ヶ原展望台で写真を撮り、赤沼茶屋に着いたのが9時50分くらいであった。
ところが、茶屋の裏手にある公共駐車場は満車。入庫のための列が出来ていた。やっぱり、ちょっと遅かったのだ。少なくとも9時前には着いてなくちゃいけなかった。
さて、戦場ヶ原トレッキングのルートはたいていこうだった。
「光徳入口」という進入口まで車で送ってもらって、ハイキングルートに入る。泉門池を通り小田代ヶ原へ。そこから赤沼茶屋に抜け、車で迎えに来てもらって帰投。あるいはその逆のコースを辿る、というのが標準的なパターンである。 しかし、今回はいつも送り迎えをしてくれる夫も同行するため、アッシー君がいない。そこでバスを使って駐車場に戻る方法を考えていた。 |
|
|
 |
赤沼茶屋から出発し、戦場ヶ原を一周して光徳入口に到着。そこから赤沼茶屋まで公共のバスを使うという方法だ。
だが、駐車場が一杯なので、そこから1キロほど戻った所にある三本松駐車場に車を置くことにした。
大変だが、夫に三本松に車を置きに行ってもらうしかない。
←三本松駐車場。駐車場。「レストハウス郭公」という店が建つ。 |
 |
夫が三本松から歩いて戻ってくる間、わたしと娘は一足先に戦場ヶ原のハイキングコースに足を踏み入れていた。
歩き始めたのは、10時きっかり。
ここは一昨年、長男と一緒に歩いたコースだ。
細い小川沿いに小田代ヶ原へと向かう。周囲は背の高い木に覆われ、視界は遮られている。 |
 |
道ばたでは可憐な山野草が控えめな花を咲かせていた。
普段、改良に改良を重ねられた華やかなカラーや形状の園芸品種を育てているので、こうした清楚な花々がとても新鮮に映る。
この花はツマトリソウと思われる。 |
 |
 |
10分ほど歩くと、湯川にかかる橋に出た。
戦場ヶ原の湿地帯と中禅寺湖は、この湯川が男体山の噴火によって堰き止められてできたものだ。 |
 |
橋を渡って、さらに先に進む。川には釣り人の姿があった。 |
|
 |
やがて電気柵のある一角に出た。柵の向こうからが小田代ヶ原だ。回転ドアをくぐって、向こう側に入る。
小田代ヶ原は湯川によって戦場ヶ原と隔てられた特別保護地区で、面積65ヘクタールの湿原。南側は標高1,667.5メートルの高山から続くミズナラ、ブナの林、東と西側はカラマツ林、北側はミズナラ林に囲まれている。
ヌマガヤ低層湿原に位置づけられているが、アザミ、ホザキシモツケなど草原・湿原に生える様々な植物が見られる。
近年、草花を食べる鹿が増えすぎたために、花の種類も年々少なくなってしまった。そのため鹿が入りこまないよう小田代ヶ原周囲を電気柵で囲んで、その回復を図っているのだ。
左下の画像はマイヅルソウ、下はハクサンフウロ。 |
 |
 |
 |
 |
アヤメはここ小田代ヶ原だけでなく、国道沿いの草むらなど至るところに花を咲かせていた。 |
|
 |
しばらくして夫が追いついてきた。3人一緒に林の中を歩き、やがて再び電気柵の回転ドアをくぐる。
出た場所は、バス通りになっていた。
バスといってもハイブリッドバスのみ通行できる、保護地域内の道路だ。このコースを歩いていると、嫌でも外に出てしまうのである。
これはバス道路の道ばたに咲いていたミヤマキンバイ。もちろん遊歩道でも見られるが、日当たりがよいせいか、こちらの方が群生して見事に咲いていた。
その傍らでは、望遠カメラを乗せた三脚をセットした男性が一人たたずんでいた。小田代ヶ原を狙っているようなので、わたしはカメラの先を目で追った。
そこには一本の白樺の姿があった。かの有名な「小田代ヶ原の貴婦人」である。
前回は展望台から見たのだが、この道路からも見られることは知らなかった。
カメラマンの話によると、この角度からだと枝を広げた白樺の姿が見られるとのこと。 |
 |
なるほど、展望台からの白樺とは枝振りが違って見えるし、より近くに見えるのである。
しかし、カメラマンのおじさんは、その手前のレンゲツツジをカメラに納めようとしていたのだそうだ。 |
 |
道路に沿って少し行くと、バス停に出た。
前々回のトレッキングでは光徳入口から小田代ヶ原を通り、ここから赤沼茶屋行きのバスに乗って帰投した。
前回は今回と同じコースなので、ハイブリッドバスには乗らない予定だ。 |
 |
また回転ドアを通って小田代ヶ原に入る。
ここは展望台になっていて(と言っても高台になっているわけではない)、休息のためのベンチもある。 |
 |
さて、ここから見た「小田代ヶ原の貴婦人」と、先ほどのバス道路から見た貴婦人とを見比べてみてほしい。赤マルで囲んだのが、貴婦人こと白樺。距離がぜんぜん違うのだ。
知らない人は、この展望台で貴婦人を見るものと思っていて、先ほどの景観を見逃してしまうのではないだろうか。(知らないのはワタシだけだったりして・・・) |
 |
 |
 |
トンボ。 |
 |
小田代ヶ原に出てからは、しばらく見晴らしのよいコースが続く。 |
 |
木の歩道の周囲はびっしりとクマザサに覆われ、ところどころアヤメが咲いている。
ここにも小田代ヶ原の草原化という憂うべき事態を伺うことができる。
このクマザサは本来乾いた森林などに生えているもの。湿地帯である小田代ヶ原がクマザサで覆われることは、本来歓迎すべきことではないそうだ。 |
 |
やがて再び、木々に覆われた林間コースに入っていく。
↓なにやら美味しそうなキノコ。食べられるのかな? |
 |
 |
 |
人の顔みたいな木のコブ。 |
 |
枯れて倒れた木には、美しい緑色のコケがびっしりと生えていた。 |
 |
こちらの倒木には草が生えていた。
こうした枯れ木は他の植物が生きる温床となり、やがて朽ち果てていくのだろう。
昆虫や小さな虫たち、微生物たちが枯木の分解を進め、他の植物や生きものらの栄養分となって森に貢献するのだ。
森において、木の終焉は死ではなく生の再生の始まりかもしれない。 |
 |
これはなんという植物かな? |
 |
分岐点にやってきた。
赤沼まで2.8キロとあるから、ここまでそれだけ歩いてきたわけだ。
普段は街中で1キロ以上歩かないわたしたちであるが、豊かな自然の中でちゃんとした靴を履けば、10キロくらいは軽く歩けそうな気がするから不思議だ。 |
 |
休憩スペースがあったので、ここでちょっと一休み。おにぎりを食べ、チョコレートをつまむ。
夫は内股が痛いと言って笑った。普段使わない筋肉なのだろう。
わたしは足そのものの疲れはないのだが、靴擦れを起こしていた。原因はシューズと靴下の相性にあった。いつもより薄い靴下を履いていたためシューズがちょっとぶかぶかしてしまい、擦れる原因となったのである。
バンドエイドがあればよかったのだが、あいにく持ち合わせていなかった。 |
| 履き慣れたシューズだからと油断してしまった。トレッキングの際の靴下選びはかなり重要な要素だと思う。ちなみに翌日、靴擦れの患部にカットバンを張り、分厚い靴下を履いて歩いたら全然平気だった。長距離歩くときは、厚めの靴下がいいのだ。 |
|
 |
泉門池に到着。夏になっても渡りをしないカモが子育て中との話であったが、姿はなかった。
わたしはこの泉門池、戦場ヶ原で随一の美しい場所だと思っている。
池から流れでた川に沿って、再び歩き始めた。
倒木が魅力的な景観を作りだしている。
ここでも釣り人が一人、フライフィッシングをしていた。 |
 |
 |
 |
やがて、驚くほど赤く染まった小川に出会った。
多量に含まれる鉄分のため、このような色になっているという。
↓湿地帯の至るところに咲き誇る、わたすげの花。木の舗道の上からだったので、うまく撮影できず白ボケしてしまった。 |
 |
 |
 |
地下に石油でも溜まっているのだろうか。ギラギラとした油が滲み出て、水に浮かんでいた。 |
 |
ホオアカが枝の先に止まって、さえずりを聴かせてくれた。唯一、双眼鏡を使って野鳥の姿を確認できた瞬間だった。 道はまた林の中に入っていった。草原や湿地帯の風景も美しいが、森林の花や虫たちもたいそう魅力的だ。ここがトレッキングコース最後の林となる。
ここでカッコウのさえずりが聞かれた。
↓真っ赤な体がひときわ目立つ、オトシブミ。葉っぱを四角くつむぎ合わせて揺りかごを作る昆虫だ。 |
 |
 |
国道に出た。三本松駐車場に向かって歩く。
道路に出ることなく戦場ヶ原を一周できないのが、このコースの残念なところだ。 |
 |
少し歩くと「光徳入口」だ。
ここのバス停で赤沼茶屋行きを待つことにするが、次のバスは20分後であった。
それならわたしが行って車を取ってくるわと、歩き疲れた夫と娘をバス停に残して歩きだす。
しかし、蝶だの花だのをカメラに納めながら歩いていたので、下手をしたらバスに抜かれるというくらい時間が経っていた。
わたしは最後の数分、足を速めて三本松に辿りついた。光徳入口からきっかり15分であった。 |
 |
 |
 |
 |
三本松でも、カッコウの歌声がどこからともなく聞こえてきた。男体山もくっきりと勇壮な姿を見せている。
天気予報では終日曇りの予報だったが、ときおり晴れ間が見えるほどの好天気に恵まれた。汗ばんで防寒着がぐっしょり濡れるほどの、予想外の陽気だ。
天気予報が良くないので止めようかどうしようか迷っていた今回のトレッキングキャンプだったが、思い切って来て良かった。 |
ちなみに男体山は中禅寺湖の北岸に位置する標高2,484.5メートルの山だ。戦場ヶ原の湿地と中禅寺湖は、約1万4千年前の噴火によりできたものである。(「戦場ヶ原についてとトレッキング心得」参照)
活火山とは過去1万年以内に噴火したか、現在活発に活動している山を指すので、男体山は活火山ではないとされていた。1万4千年前の噴火は、溶岩が現在日光市があるところまで流れ出すほどの大噴火だったという。
しかし、このほど行われた調査によって、7千年前にも噴火していたことが明らかになった。そのため、男体山も活火山の仲間入りをする可能性があるそうだ。 |
 |
 |
三本松駐車場から車を出し、光徳入口のバス停で夫と娘を拾うと、光徳駐車場に戻った。
朝9時20分頃出て、戻ってきたのは午後1時半。約4時間、トレッキングに費やしたことになる。
わたしは一息つく間もなく、ひとりでお留守番をしていたレディを散歩に連れ出した。
一緒に牧場や光徳沼あたりを歩こうと思って娘を誘ったが、疲れたからいいという、気のない答えが返ってきた。 |
 |
レディと二人、光徳牧場へ。
牛が草をはみ、奥の方には馬も一頭いる。 |
 |
好奇心の強い牛が柵の際まで来ていた。
レディの姿に、牛も「アンタなんなのさー」と近づいてくる。 |
 |
及び腰で牛に近づくレディ。びびってる、びびってる。 |
 |
牧場の柵に沿って、光徳沼の方に歩いていく。 |
 |
光徳沼に到着。新緑のこの時期ももちろん綺麗なのだが、木や草が黄色に色づく晩秋もたいそう美しい場所である。 |
 |
 |
 |
とっても芸術的な模様の昆虫。なんだか未開の部族の盾みたいだ。
カメムシかと思ったが、のちにオオギンスジハマキと判明。オレンジ色に銀色の筋が入った、綺麗な蛾である。 |
名称不明の花。(あとで調べる予定)
牧草地のまわりを一周しようと思い、最初は優雅に歩いていたが、途中から道がなくなってしまった。牛舎らしい建物があったりして、牧場のプラべートエリアのようだ。
行けば行くほどますます歩行困難な難所があって、元々人が歩くところではないのだと悟った。
しかし、今さら引き返すのは面倒。わたしは木を払うようにして無理矢理進んだ。
その姿がよほど怪しかったのか、柵の向こうから雄牛が「モーッ」と声をかけてきた。それも何回も。そのたびに振り向いて牛を見ると、牛もわたしを見ている。
なんだよ、文句あっか? |
 |
老朽化した怪しい橋を渡り、道なき道を進む。
だが、この先、橋のない小川が行く手に横たわっていた。わたしは助走をつけて飛び越えたが、レディにはできなかった。
小川に入って渡ろうか、飛び越えようか、回り道はないか、ウロウロとうろたえている。
飛び越えろと声を掛けたが、訓練もしたことのないレディには無理な話。わたしはわざと「バイバイ」と言って先に進んだ。
小川を跳び越えて追いかけてくるのではないかと思ったが、意外な行動に出た。 |
柵をくぐっていったん牧草地に入り、中を通って小川をやり過ごしたのだ。
賢いのか、単なる鈍ちんなのか。ちょっと判断に迷う選択であった。 |
 |
 |
 |
やがて牧場の売店に出た。やれやれ一安心。
というわけで、売店でアイスクリームを購入。
うーん、懐かしい味だ。
アイスを頬ばりながら駐車場に戻る。ちょっとハードな散歩だったけど、楽しかったね。レディ。
レディ「ぜいぜい・・・」
さてここで、ちょっとお昼寝タイム。1時間半ほど休んでから、お風呂に出かける。 |
 |
が、温泉に行く前に、ちょっと観光?をと思い、湯元温泉とは逆方向になるが明智平に向かった。
天気は崩れ始めており、雨雲と濃い霧があたりを覆っていた。トレッキングの間だけ天気をもたせてくれて、山の神様に感謝。 |
 |
明智平はロープウェイの駅がある展望スポットで、第2いろは坂の終点近くにある。
実を言うと、わたしは最近はやりの「歴史のトンデモ新説」にかなりカブレている。
最近テレビで観たものをいくつか挙げると、「聖徳太子はペルシャ人だった」「8代将軍吉宗の母親は忍者だった」「春日局は三代将軍・家光の実の母親だった」「上杉謙信は女だった」といった、歴史学者は証拠文献が出てこない限り絶対認めないだろうというものだ。 |
で、この明智平は「天海は明智光秀だった!」という、以前からわりと有名な「新説」に縁(ゆかり)の土地なのである。
この地名を付けたのは天海だったと言われている。では、天海はいったい何者なのか。簡単に説明しておこう。 |
 |
|
 |
|
|
|
天海は徳川家康の政治的ブレーンであり、宗教政策顧問として活躍した天台宗の大僧正。大変な長寿を保ち、家光まで3代の将軍に仕えた。陰陽道や風水によって鎮護された江戸都市の設計にも携わったという。
1613年、家康の新任篤い天海は日光山貫首に任ぜられた。
その3年後に逝去した家康は、遺言によっていったん駿府の久能山に埋葬された。その家康になんという神号を奉るか、幕府内では論争となる。
天海は「権現」を、金地院崇伝らは「明神」を主張した。
最終的に天海の主張が通り、「東照大権現」として日光山に祀ることを決定させた。
1616年4月東照宮が建てられ、家康は奥院霊廟に改葬された。
この改葬については家康自らが遺言していたことであった。江戸の北120キロのところに位置する日光山は陰陽道や風水でいう「玄武」の方角に当たる。家康はその地に神として祀られることにより「八州の鎮守」たらんとしたのである。
その国家守護の地を選定する段階で、天海は大きく関わっていたに違いない。
天海は家康の死後も2代・秀忠、3代・家光に重んじられ、幕府の政務にも携わっていった。
天海の生年月日、生い立ちなど含めて前半生には謎が多い。陸奥国の出自とされるが、本人が「氏も姓も、これまで何年生きてきたかも忘れてしまった」と言うくらい、自らについて語ることはなかったという。
亡くなったのは、寛永20年(1643年)。106歳であったと言われている。96歳だった、いや134歳で没したという説まであり、それもこれも生年がわからず年齢不詳なせいだ。
天海は東照宮のすぐ南側にある輪王寺に葬られた。つまり家康と同じ日光で、しかもわずか400メートル足らずの近距離に二人は眠っているのである。 |
|
|
 |
|
 |
|
1582年「本能寺の変」で主君・信長を討ったものの、豊臣軍に破れた明智光秀。しかし、敗走中、落ち武者狩りにあって命を落としたのは影武者で、光秀は寺に入って僧となり、やがて家康の側近として幕府をも動かす権力を持つに至ったという説があるのだ。
「天海=光秀」説を裏づける根拠については、書き出せば膨大な行数となってしまうが、あえて一つだけ、わたしが気に入っている「根拠」を書いておきたい。
それは、「2代将軍・秀忠の嫡男、家光の乳母に、光秀の家老で一族でもあった斎藤利三の娘おふくが任じられた」というものだ。
天海が光秀だったとすると、おふくを推薦した理由も見えてくる。斎藤利三は敗走の末に捕らえられ、刑場の露と消えている。光秀はその罪滅ぼしの意味もこめて、おふくの立身に尽力したのかもしれない。さらには身内を幕府の内部に送りこむという意図もあったと考えることができる。
明智光秀は史上稀に見る謀反人というレッテルを貼られ、歴史の表舞台から姿を消した。いわば「負け組」である。
そして、「謀反人の家臣の娘」おふく。実は公家である三条西家の縁続きだったため、おふくはその庇護を受けて育っている。ドラマなどでは生活に困窮し、まるで「おしん」のような貧しい暮らしを送ったという描かれ方をされるが、事実は違うようだ。
しかし、やはり決して晴れがましい身の上ではなかっただろう。やはり、「負け組」としての悔しさを背負い、大人になったはずである。
しかし、時を経て、光秀=天海は表から幕府を動かし、おふくは大奥(つまり裏)から幕府を動かすこととなった。二人の明智一族は、表と裏の両面から国を支配する「勝ち組」となったのだ。
なにしろ、おふくは「将軍の乳母」という権威の他、「従三位」の位と「春日局」の称号を朝廷から賜り(幕府の方から強引に下さいと迫ったのであるが)、老中も頭が上がらないほどの権力を握るに至るのである。これ以降、徳川幕府が終焉の時を迎えるまでの220数年間、これほど絶大な権力をふるった乳母は現れなかった。
歴史を読み解く醍醐味に溢れたこの説は、源義経が大陸に渡ってチンギス・ハーンになったという「トンデモ説」よりはるかに信憑性があり、また大変に魅力的だと思う。
しかし、この新説は残念ながら、光秀の年齢がネックとなって信憑性が薄いと判断せざるを得ない。
というのも、光秀が「山崎の合戦」で死んだとき、55歳もしくは57歳だったとされるからだ。天海が死んだのは、それよりさらに61年後なのだ。つまり「55+61」、または「57+61」で、116歳か118歳で光秀は亡くなったということになる。
75歳でエベレスト登頂に成功した三浦雄一郎さんなら、あるいはそれくらい生きられるかもしれない。しかし、なにせ江戸時代である。ワクチンも抗生物質もない時代に、それほどの長寿を保てる人間が果たして存在しえただろうか。
もしかしたら、光秀の元々の年齢が間違っていたのではないか? と考えたくもなるが、没年齢は67歳だったというさらなる新説も出てきており、可能性がますます低くなるばかり。どうしたって、光秀がもっと若かったという説は出てこないのである。
となると、この「光秀=天海」説、わたしは信じたい気持ちは非常にあるのだが、光秀の年齢を覆す新史料が発見されてこない限り、歴史学会では永遠に認められないまま終わるだろうと思われる。
「光秀じゃなくて、娘婿の秀満が天海だった」という説や、「光秀と秀満が2代で天海を務めた」という合体説なんかもあるのだが、それにしたって秀満は107歳で死んだことになってしまう。
「世界ふしぎ発見!」が番組中で行った筆跡鑑定によれば、天海と光秀の筆跡は明らかに違うという。
「天海=秀満」説となると、魅力が半減してしまうと感じるのは、わたしだけだろうか。
やっぱり光秀には生き延びて、春日局とともに幕府を影で操ったとする説が真実であったら楽しいのにな、と思う。いっそ「天海=光秀=マスター・ヨーダ」説をうちたてば、134歳で亡くなったという話にも説明がつくのだが・・・。 |
 |
さて、明智平に立つと、そこから「いろは坂」と華厳の滝が見えるらしい。説明書きにそう書かれていたので、わたしは目の前に見える滝を、単純に華厳の滝だと思いこんでいた。
だが、よく考えるとなんだかおかしい。華厳の滝はいろは坂を登りきった所にあるはずだし、湖の水が落下しているところだから、こんな下の方、しかもいろは坂の隣りにあるはずがないのだ。
本当の華厳の滝は霧に包まれて見えなかった。それとも、展望台に登らないと見えないのかな?
しかし、ロープウェイは営業時間を終えており、乗ることはできなかった。
次回、晴れたときにぜひ展望台に登ってみたいものだ。
←ロープウェイ駅のある明智平展望台。 |
 |
 |
明智平の見学を短時間に切り上げ、湯の湖方面へと引き返す。
→雨雲に覆われた中禅寺湖。鳥居は二荒山神社のもの。 |
 |
さらに湯の湖。こちらも雨雲が低くたちこめてどんよりとした天気。
わたしたちは駒ちゃんにもらった割引クーポンを手に、湯元温泉にある奥日光高原ホテルにやってきた。
このホテルの温泉には入ったかどうか記憶がなくて、自分で書いた温泉データベースにも記載がない。しかし、ロビーに入って、一度来たことがあることを思い出していた。2〜3年くらい前の夜のことだった。 |
 |
 |
わたしは独りでお風呂に入りに来たのだが、フロントでお金を払う段になって財布を忘れたことに気づいた。しかし、引き返しては入浴時間が終わってしまう。
すると、フロントの男性は「あとで返しに来てくれればいいですよ」と言って、無一文のわたしをお風呂に入れてくれたのである。
もちろんお風呂から出たわたしが光徳駐車場に戻り、ただちにお金を持って引き返したことは言うまでもない。 |
| それほどの善意を受けたにもかかわらず、わたしはこのホテルの入湯記を記載し忘れていたのだった。なんという恩知らず。感謝の意をこめて、最大級の賛辞とともに入湯記を書かせていただこうと思う。 |
 |
浴室は二つあって、露天風呂を備えているのは建物の奥に位置する「男体湯」と「女峰湯」の方だ。
それぞれ奥日光の象徴である男体山と女峰山からとった名前で、いやらしい意味はない。
乳白色、やや緑がかった綺麗な色のお湯で、やや熱め。酸っぱさはなく、やや渋い味がする。 |
 |
露天風呂は小さいが湯温が低めなので気持ちがいい。わたしはずっとここばかり入っていた。
いずれも加水なし、加温なしの掛け流しである。 |
|
 |
こちらは大浴場の「高原の湯」。上記の「男体湯」「女峰湯」の少し手前にある浴室で、露天風呂はない。
日帰り入浴客は制限を受けることが多いものだが、このホテルでは両方ともお入り下さいという姿勢で好感が持てる。
今回のフロント係はわたしが一人で来たときの人とは違う人だったが、やはり優しい笑顔が素敵ないい人だった。こういう外来にも親切な宿は、絶対に泊まっても失敗はないと言える。 |
経営者の教育が行き届いているのだろうが、職場環境もよいからお客に優しく接することができるのだと思う。
もし湯元温泉に宿をとる機会があったら、ぜひこの奥日光高原ホテルに泊まりたいと思っている。実はペンションでもないのにペットも可という、珍しいホテルなのだ。 |