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 平成20年キャンプ
  平成19年12月30日(日)〜平成20年1月3日(木)Vol.217
 
奈良・大和路をゆく年越しキャラバン〜飛鳥編Part3
         
飛 鳥 寺
 この飛鳥寺は蘇我馬子が587年(用明天皇2年)に発願し、翌年から建立が始められた日本最初の本格的寺院である。
 「日本書紀」によると、排仏派の物部氏との戦いに勝利したら仏寺を建立することを誓い、無事勝利をおさめたので、馬子がこの真神原(まかみのはら)の地に寺を建てたという。
 元は法興寺といい、東西200メートル、南北300メートルの大寺院であったことが近年の発掘調査で判明している。
 しかし、仏教では殺生を禁じているのに、なんともちぐはぐな願掛けのエピソードである。
 廐戸皇子も、物部氏との戦いのさなかに仏法の加護を得ようと木を切って四天王の像を作り、勝利すれば仏塔を建て仏法の弘通に努めると誓っている。
 結果、物部氏は家長の守屋と子らが殺害されて滅亡した。馬子は彼らの領地の半分を我がものにし、厩戸は祈願通り四天王寺を建立した。
 いやはや、まったく。
 仏教の神を戦勝祈願の対象としかみない彼らの姿勢は、とても仏法で国を治めようという政治的指導者の立場とは思えない。ここに、宗教オンチな日本人が誕生する土壌があったとは考えられないだろうか。
 いや、日本人は宗教オンチというのではなく、無宗教というのでもない。
 どんな神様でも受け入れる、寛容な民族なのだ。だから、神社がどんな神を祀っているか知らずに七五三のお宮参をしたり、菅原道真がどんな死に方をしたのかも知らずに菅原天満宮で受験の合格祈願をしたりする。また、クリスチャンでもないのにキリスト教の教会で結婚式を挙げたり(そりゃー、わたしだ)、死に際しては仏教で送りだされる。
 豊臣秀吉も徳川家康も死後は神として祀られているし、日本人の神様ってなんでもあり。使える神様はなんでも受け入れ、土着化させてしまう、およそ「異教」という概念は持ち合わせていない多神教民族、それが日本人なのである。
 これをいい加減だとか無知だとか言うのは、おそらくキリスト教的な一神教の考え方だ。むしろ一つの神に束縛された欧米人の精神世界はひどく狭く限られたものになってしまっている。
 中世ヨーロッパに吹き荒れた魔女狩りなどは、その狭い精神が生みだした暗部の最たるものだ。幸い日本人は宗教にはきわめて寛容で柔軟な精神の持ち主なので、一般市民が宗教戦争に巻きこまれることはなかった。
 そういう意味でも、この蘇我氏対物部氏の尊仏廃仏戦争は、日本ではきわめて稀な宗教戦争だったのである。
 さて、710年の平城京遷都によって法興寺は奈良に移り、元興寺となった。しかし、法興寺もこのまま残ってのちに飛鳥寺と呼ばれるようになった。
 2度ほど火災にあって大伽藍は失われたが、日本最古の飛鳥大仏は創建時の位置のまま本堂に安置されているという。
 現在の講堂は江戸時代に再建されたもの。
 中に入ると、職員の方が説明をしてくれた。
 銅製の釈迦如来坐像は飛鳥大仏の通称で知られ、国の重要文化財となっている。
 鎌倉時代(1196年)の落雷が原因でおこった火災で被害を受け、顔の上半分と左耳、右手の指3本を残して焼けてしまったという。
 その後、補修されたが、現存する最古の大仏ということになっている。
 高さは台座も入れて約4.85メートル。本体のみだと3メートルほどだろうか。
 大仏と言われて想像するような大きさではなく、また顔が少し面長だったのも意外だった。当時の人々にとってはすごく大きいものだったのだろうし、東大寺の大仏はずっとずっと後の奈良時代にできたものだから、これはこれで古式っぽくて納得させられてしまった。
 説明で興味深かったのは、大仏様のお顔は左右で表情が違うということ。いったん火事で失われかけたことを考えると、単に補修の人がヘタだったんじゃないのと思ってしまう。
 ちなみに創建時の作者は、法隆寺講堂の釈迦三尊像を作ったことでも知られる渡来帰化人系の鞍作止利だという。
 写真撮影は自由にどうぞということだったが、フラッシュを使わなかったのでブレてしまった。
 左右の違いは写真ではわかりにくいが、実際に見てみると確かに法令線の深さが違っていた。
 
 室町時代末期に作られた「聖徳太子立像」。
 太子16歳のときの姿で、病におちた父・用明天皇の回復祈願をしている様子を描いたものだという。
 本堂を出ると、古い仏像などが展示されているコーナーを通って外に出る。
 創建当時の壮麗さを偲ぶにはちょっと苦しい小ぢんまりとした寺だが、それもこれも蘇我宗家が滅んでしまったせいだろう。
 この展示コーナーなどは、田舎の旧家のお屋敷や古い旅館が、先祖伝来の宝物を飾ってあるような印象を受けた。
 境内の西南側の隅には延享2年(1745年)に建立された「鐘楼」が建つ。
 鐘は祈念をしつつ一回だけ突いてよいということなので、わたしも願いをこめてボーンと突いてみた。
 お寺の鐘を突くのは子どものとき以来だ。実家の近くに観音寺というお寺があって、子どもたちの遊び場であった。当時は鐘を突くのも自由だったので、時々突いたおぼえがある。
 飛鳥寺の鐘は実に懐かしい、いい音がした。
 飛鳥寺memo
 本堂拝観300円(境内内は見学自由)
 9:00〜17:15(下記は16:45まで)
 駐車場あり  
 西側の出口から外に出ると、旧飛鳥寺の西門跡がある。
 中大兄皇子と中臣鎌足はこのあたりで開かれた蹴鞠の会で知り合ったと言われている。中大兄の靴が脱げたので、鎌足が拾って皇子に捧げたのがきっかけだという。
 二人はやがて乙巳の変(蘇我入鹿の暗殺)を起こすが、そのとき法興寺(飛鳥寺)に陣を構え、西門から甘樫丘の上に建つ蝦夷・入鹿親子の館を睨んだ。
 画像にも写っている緑の丘が、その甘樫丘である。
 左の画像は現地説明書にあった遺構の画像。
 672年の壬申の乱の際は、この広場を軍隊が埋めつくしたという。その後は外国からの使節などを歓迎する宴会の場となり、噴水もあった。発掘では土管を繋いだ上水道が発見されている。
 西門を出たところにある道標。
 「蘇我入鹿首塚」とある方向に歩を進めていく。実は2枚上の画像にも小さく写っており、赤い矢印をつけて示したのがそれだ。
 入鹿の首塚なるものは、西門を出て100メートル先にある。 
 これが入鹿の首塚。バックには彼の邸宅があった甘樫丘が写っている。
 645年、飛鳥板蓋宮の大極殿で入鹿は暗殺され、跳ねとばされた入鹿の首がここに落ちたとされるのが、ここである。
 さて、それではクイズの答え。事件のあった飛鳥板蓋宮からここまで、直線で617メートルだ。いくらなんでも飛びすぎでしょう、というくらいの距離である。
 向こう側に回りこんで、飛鳥寺を背景に首塚を写してみた。
 この五輪塔は南北朝時代あたりに多く建てられたお墓の形式だそうで、やはり入鹿の首塚というのは後世の想像だと思われる。
 元々は南北朝時代に葬られた誰かの墓だったのではないだろうか。
 これは、そばの畑に埋もれかかった大きな石。
 よく見ると、工具の跡が伺える。どこかの巨石遺跡から切り取って運ばれてきたものかも。って、ただそれだけです。 
 ひとしきり飛鳥見学をした後にこんな石を見ると、なんの変哲もない石でもつい何かの遺跡では? と条件反射的に考えてしまうクセがついてしまう。
 ところで、飛鳥寺正門横に珍しく売店が建っていたので、お昼ご飯を買い求めようと中に入った。
 わたしは古代米おにぎりとお茶の他、ふと目に入った「蘇」という食べ物を購入した。
 蘇とは牛乳をゆっくりと特殊な方法で煮詰めたチーズとヨーグルトの中間のような食べ物。7世紀末の文武天皇の時代に蘇が作られたという記録が残っているという。
 この頃、人々はすでに牛や馬の肉を食べていたので、貴族の間ではもう少し前から蘇が広まっていたと思われる。
 中央アジアで誕生した蘇は、はるかシルクロードを通って飛鳥の都に伝わってきた。当時の飛鳥には多くの異国人が住んでいたので、彼らがその製法を伝え、超高級料理として皇族や貴族たちに食された。美容と不老長寿の効果も期待されていたという。
 前々からこれを食べてみたいと思ったわたしはさっそく車の中で「蘇」を開け、一切れ口に入れてみた。
 チーズのような風味だが、チーズのようにトロリとはしていなくて、ややザラついたテイスト。
 焼きチーズケーキのような色合いと形で、なんとも不思議な淡い味が舌の上に広がる。牛乳に含まれる脂肪分が凝縮した濃厚な後味が印象的だ。
 すっごく美味しいというわけではないが、なんだかとってもあとを引く。
 小さくスライスして、ちびちびと食した。パンに乗せて食べるのには合わない感じ。コーヒーと一緒に・・・いや、これもなんだか違う。あえて言えば、牛乳か抹茶あたりと一緒に食べると相性がいいかもしれない。
石 神 遺 跡
 旧飛鳥小学校付近で発見された遺跡。
 飛鳥寺の旧寺域に接する西北一帯は石神遺跡と呼ばれているため、この名がついたと思われる。
 明治時代、そこから巨石を加工して組み合わせた「須弥山石」(高さ2.3メートル)や男女が抱き合う姿を現した石人像(1.7メートル)などが発掘された。
 細い穴が通されているため、これらは斉明天皇の頃の饗宴施設で使用された噴水装置の一部と考えられている。
 昭和58年以降、継続的に調査が行われ、斉明天皇時代の頃を中心に遺構が幾重にも重なっていることが明らかになった。
 2006年3月には「観世音経」(観音経)の存在を示す最古の木簡が発見されている。「日本書紀」には天武天皇の病気平癒のため、観音経を読ませたという記述があり、観音信仰が当時盛んだったことが実証された。
 翌年12月には石組み水路や塀跡が見つかったという発表がされ、ここが外交使節をもてなした迎賓館であったことが裏付けされた。奈良文化財研究所は「外交戦略として、精巧な石組み水路や噴水施設など高度な技術を誇示したのではないか」と推測している。
水落遺跡
 石神遺跡のすぐ南側にある「水落遺跡」。 
 660年(斉明天皇6年)、中大兄皇子は日本で初めて水時計を作って人々に時刻を知らせたと、「日本書紀」には書かれている。
 堅固な2階建ての時計塔を築き、木樋や銅管をめぐらせて水時計を動かし、2階の鐘で都じゅうに時を告げた。
 →ここがサイフォンの原理を応用して水を溜めた場所で、水の溜まり具合で時間を測ったという。
甘 樫 丘
 甘樫丘は、明日香村豊浦にある丘陵地帯である。東西の幅は大きいところで300メートルあまり、南北は約1,000メートル、標高は148メートル。
 ←甘樫丘展望台への入り口はちょっとした公園のようになっている。集落に囲まれていて、車が走る一般道路からは見えない場所にある。
 644年、丘の上と麓に蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅が築かれたとされる。飛鳥板蓋宮に優る邸宅だったそうで、兵を備え、城柵が設けられていたという。
 近年、丘の東麓で建物跡や大規模な石垣、さらには兵舎や武器庫跡などが発見されており、「日本書紀」の記述を裏づけるものとして注目を集めている。現在も発掘調査が進んでいるそうで、今後の成果が楽しみだ。
 「日本書紀」によれば、父親の蝦夷は丘の上にある「上宮門」に住み、入鹿はその下、「谷宮門」と呼ばれた邸宅に住んでいた。また、入鹿は自分の子どもたちを「皇子(みこ)」と呼ばせていたというので、たいそう評判が悪い。
 しかし、彼の姉妹や叔母らが天皇に嫁いでいるので、本当の「皇子(みこ)」「皇女(ひめみこ)」たちが屋敷内にいたことは想像に難くない。入鹿の傲慢さを印象づけるため、「日本書紀」はわざとそれを歪曲して書いたのではないだろうか。 
 645年、入鹿は飛鳥板蓋宮で暗殺され、その遺骸が邸宅に運びこまれた。
 眼下の法興寺(飛鳥寺)には中大兄皇子と藤原鎌足が入り、軍勢を固めている。蝦夷は息子の遺骸を前に嘆き、無用な争いを避けるため邸宅に火をかけて自殺を図ったという。
 となると、父子の邸宅がここに建っていたのは、わずか一年足らずだったことになる。もっと長く威勢を誇っていたような印象があるが、あっという間にすべてが灰となってしまったのだ。 
 レディを連れて遊歩道を登る。
 登り初めてすぐに、大きなラブラドールを連れて降りてきた男女二人組とすれ違った。犬がノーリードだったことに最初驚いたが、レディにリードを引っ張られながら登ってみて、すぐにその理由が理解できた。
 四つ足歩行の犬は段差などものともせず、実に素早くタッタカと登っていく。しかし、人間はその早さに追いつけない。
 これが下りとなると益々ペースに隔たりがあり、力の強い犬に引っ張られようものなら転げ落ちる危険がある。そこで、ノーリードで降りてきたのだろう。
 他に誰もいないので、わたしはレディのリードを離し、好きに登らせることにした。
 彼女は鼻歌でも聞こえてきそうほど嬉しそうに段を上り、時おりガサガサと草むらの匂いを嗅いでいた。
 しかし、わたしが「レディたん、待って〜(ゼイゼイ)」と声をかけると、ちゃんとその場で待ってくれる。
 ヒマラヤザクラがちょうど満開で、終わりかけた花びらを散らしていた。
 てっぺんの展望台に到着した。飛鳥盆地が見渡せる素晴らしい眺めだ。
 ちょっと大変だったけど、登って本当によかった。
 正面に見える、やや斜めに傾いたような山が畝傍山。耳成山、天香具山とともに大和三山の一つに数えられる山だ。標高199メートルの死火山で、古来より神聖視されてきた。
 北西方向をさらにアップ。
 畝傍山はここから近鉄橿原線を越えた3キロ先、神武天皇陵のすぐ近くにそびえる。
 こうして平地を見おろしていると、緑が盛りあがったところがすべて古墳に見えてしまうから不思議だ。
 現に、あとで写真と地図を照らし合わせてみたら、懿徳天皇陵(畝傍山左麓)と孝元天皇陵(池の左側)の2つが写っていることが判明した。
 次にほぼ真北の方角を見渡す。すると、約4キロ向こう正面に耳成山がぽこんと見える。
 これも大和三山の一つで、やはり死火山。元はもっと高い山であったのが、盆地の陥没で沈下し、山の頭部だけが残されたという。
 その手前の緑は藤原京跡、そのさらに右の方には天香具山が見える。
 天香具山は古来より古来より和歌に詠まれてきた標高152メートルのなだらかな山で、大和三山の一つ。
 「伊予国風土記逸文」には天から降ってきた山であるとの伝承があり、特別に神聖視されてきた。
 万葉集には持統天皇の「春過ぎて夏来たるらし白たへの 衣干したり天の香具山」という歌が残っている。(意味は、「春が過ぎ去って、夏がやって来たようだ。夏になると、天香具山に白い衣がたくさん乾してあることよ」)
 また、舒明天皇が頂上から大和盆地を見おろして詠ったという国見の歌も有名である。
 今度は西南に視線を転じると、彼方に金剛山(奈良県御所市)が見える。
 画面中央やや下に見える盛りあがった緑は天武・持統天皇陵、その向こうの細長い緑の丘陵地帯は高松塚古墳のある飛鳥歴史公園ではないかと思う。
 次に東側を見ると、先ほど見学してきた飛鳥寺が見えた。
 ゴーンという鐘の音も聞こえてくる。さっきわたしが打ち鳴らした鐘だ。
 こうして甘樫丘に登って周囲を見渡してみると、改めて蘇我氏の威勢のほどがよくわかる。甘樫丘は大和盆地のほぼ中央に位置しており、そこからは、板蓋宮、藤原宮、そして自らが建立した飛鳥寺(法興寺)など、ほとんどすべてのものが見下ろせるのである。
 彼らは皇族よりも高い位置に居を構え、彼らをも支配下におさめた気分でいたのだろうか。
 あるいは、天皇家を、そして都を大国・唐から護るため、甘樫丘を中心とした都の要塞化をはかったのか。
 NHKで昨年2月に放送された「大化改新 隠された真相〜飛鳥発掘調査報告」では、そんな革新的学説が披露されている。
 それによると、蘇我氏は自らの大陸情報網により唐が侵略の手を伸ばしてきていることをいち早く察知し、都と天皇家を護るため私財を投じて飛鳥の防衛網構築に力を注いだそうだ。
 その一方で、海の玄関口であった難波を整備し、東アジア諸国と協調路線の外交を繰り広げようとしたという。
 蘇我氏にかなり好意的な解釈だが、これが本当だとすると蘇我氏はそれまでの常識を覆す忠臣であり、きわめてグローバルな視点を持つ開明的な政治家だったということになる。
 むしろ中大兄皇子こそ反動保守的な存在であり、外交戦略をめぐって対立する蘇我氏を急襲して攻め滅ぼした人物だと、番組では述べている。
 これには異論を唱える向きもあり、わたしにも正否はわからない。 
 ところで、難波というと蘇我氏の本拠地であり、聖徳太子が葬られたとされる陵墓があり、孝徳天皇が都を移した場所でもある所だ。
 孝徳は蘇我入鹿暗殺の翌年、皇極帝の譲位を受けて即位した。中大兄を皇太子に立て、翌年には難波に遷都している。
 このときから「大化の改新」と呼ばれる各種の改革が行われたとされていが、孝徳はなぜわざわざ難波に遷都したのだろう。
 実は、難波は孝徳の本拠地だったといわれている。バックアップしてくれる一族が勢力を持つところに朝廷を持ってこようとするのは当時の習いなので、納得できる。
 彼は飛鳥の勢力と中大兄を切り離し、自らの勢力を強めようとしたのかもしれない。
 この孝徳という人物、これまで歴史のスポットライトが当たらなかった、いわば天皇の谷間に位置するような陰の人だ。
 しかし、この陰の人こそ「大化の改新」の黒幕であったとする説が、近年浮上してきている。
 孝徳は、いや当時は軽皇子であった皇極天皇弟は、蘇我氏に不満を抱いていた中臣鎌足に近づいてクーデター計画を持ちかけた。鎌足も難波に近いところに本拠地があったので、密談しやすかったのかもしれない。
 二人は最後に中大兄皇子と石川麻呂を引きこみ、クーデターを成功させた。
 中大兄は、この時まだ19歳。若気の至りで荒っぽいクーデターを思いつき敢行したと考えることもできるが、一方の中臣鎌足は熟年ともいうべき31歳だ。親友同士が語らって進めた、とは考えにくい年齢差ではないだろうか。
 しかし、軽皇子は49歳。当時としては老人の部類に入るが、年下の連中をコマとして動かすには十分な老獪さを身につけた年齢だ。
 長年「大化の改新」の首謀者と思われてきた中大兄は、単なる斬りこみ役だったのである。だが、天皇と三韓大使の目の前で大臣・入鹿を切り捨てても咎められなかったのは、今上天皇の皇子だったからだろう。
 孝徳自身が実行犯となっていたら、こうはいかないに違いない。
 皇極帝はこの暗殺劇にショックを受け、すぐさま退位を宣言。中大兄に即位を促したが、中大兄はこれを辞退して軽皇子に即位を勧めた。
 軽皇子も辞退して、古人大兄皇子を推薦した。
 古人大兄は皇極のかたわらで事件をしっかり目撃した一人で、入鹿が次期天皇にと推していた人物。中大兄の異母兄で、蘇我馬子の娘を母に持つ蘇我系皇族なのである。
 しかし、すっかり恐れをなした古人大兄は固辞し、すぐさま頭を丸めて出家してしまった。
 そこで、ようやく軽皇子は即位を承諾する。
 この中大兄と軽皇子の譲りあい、なんだかわざとらしくはないか。事前に示し合わせていたような不自然な空気を感じる。この連中、そんなに謙虚でいい人たちなのだろうか。
 前にも書いたが、中大兄は内心即位したくてたまらなかったはずだが、なぜここで辞退したのか。
 「皇太子の立場の方が自由で、改革を進めるには都合がいいから」と中大兄が思ったから。または、「天皇の御前で血を流し、批判を受けたから」などとする説が一般的だが、果たしてそうだろうか。
 特に中大兄が首謀者だったとした場合、自ら皇位に就かないのはかなり不自然。軽皇子を傀儡に据えて実際の権力は中大兄が握ったとするのがこれまでの通説だが、19歳でそんな真似ができるだろうか。
 それに、皇位を我が子に継がせるという観念は奈良時代以降当たり前のものになったが、このときはまだまだ実力主義。息子はまだ若くて非力だったりするので、弟が実力で皇位を継ぐことが多かったのである。
 従って、軽皇子(孝徳天皇)、中臣鎌足、中大兄の年齢や立場から考えると、「ここは天皇の弟が皇位に就き、中大兄を皇太子に就ける」というシナリオができていたとする考えが一番納得できるのではないだろうか。
 さて、念願叶って皇位に就いた孝徳は、いよいよ難波に都を移した。
 しかし7年後、中大兄は叔父を見事に裏切る。
 「やっぱり飛鳥の方がいい」と、都を戻すことを奏上したが、孝徳はこれに反対した。すると、中大兄は「じゃあご勝手に」とばかりに、皇極や大海人皇子ら皇族と臣下の大半を引き連れ、とっとと飛鳥に帰ってしまったのだ。
 天皇を一人難波に置き去りにして、政府機能は丸ごと飛鳥に戻された。だけじゃなく、なんと孝徳の皇后、間人皇女(はしひとのひめみこ。中大兄の同母妹)すらも夫を見捨てて難波を去ってしまったのである。
 7年の間に孝徳は老い、中大兄は力をつけ、二人の立場はすっかり逆転していた。
 取り残された孝徳は失意のうちに翌年病死した。
 「大化の改新」の黒幕にしては物足りない、寂しい最後だ。裏にはもっとなにかあって、例えば孝徳が兵を集めて中大兄を討とうとしたが、逆に返り討ちにあって殺されたのだとしても、全然おかしくない。だが、記録にはなにも残っていない。あったとしたら、当然抹消されている事件に違いない。
 孝徳以上に気の毒なのは、遺児である有間皇子である。彼は中大兄を恐れて気が触れたふりを装っていたが、奸計にはめられ捕らえられる。そして、謀反を企てた科を着せられ、18歳で刑死するのだ。
 里中満智子著の劇画「天上の虹〜持統天皇物語」では、悲劇的な最後を迎える有間皇子と、幼い鵜野讃良皇女(のちの持統天皇)との悲恋がドラマチックに描かれており、涙を誘う。
 また、ここでは間人皇后と中大兄は関係を持っていたという説が採用されている。皇后が孝徳を見捨てて兄に従ったのは、夫より兄を愛していたからだという。
 この「天上の虹」、たいへん長く続いていて20巻以上も刊行されている。このほどブックオフで第1巻を買ってきて読んだが、とてもおもしろかった。
 全巻買って読みたいが、置き場所がない。あとの処分が大変。と思って、オンラインコミックの「Yahoo!コミック」を探したが、ない。諦めず検索したら、ブックオフのオンラインレンタルサービス「コミかる」でとうとう見っけ! さっそく会員登録(月額525円)して15巻まで借りることにした。
 これを読んだら、飛鳥時代の人々への認識もだいぶ変わるかも知れない。
 駐車場は丘の下にある。有料で、丘陵公園とは関係ない経営のように感じたが、閉まっていた。
 駐車場から道路を渡って集落の間を抜けた先が甘樫丘への登り口だ。
 
      

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