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この飛鳥寺は蘇我馬子が587年(用明天皇2年)に発願し、翌年から建立が始められた日本最初の本格的寺院である。
「日本書紀」によると、排仏派の物部氏との戦いに勝利したら仏寺を建立することを誓い、無事勝利をおさめたので、馬子がこの真神原(まかみのはら)の地に寺を建てたという。
元は法興寺といい、東西200メートル、南北300メートルの大寺院であったことが近年の発掘調査で判明している。 |
しかし、仏教では殺生を禁じているのに、なんともちぐはぐな願掛けのエピソードである。
廐戸皇子も、物部氏との戦いのさなかに仏法の加護を得ようと木を切って四天王の像を作り、勝利すれば仏塔を建て仏法の弘通に努めると誓っている。
結果、物部氏は家長の守屋と子らが殺害されて滅亡した。馬子は彼らの領地の半分を我がものにし、厩戸は祈願通り四天王寺を建立した。
いやはや、まったく。
仏教の神を戦勝祈願の対象としかみない彼らの姿勢は、とても仏法で国を治めようという政治的指導者の立場とは思えない。ここに、宗教オンチな日本人が誕生する土壌があったとは考えられないだろうか。
いや、日本人は宗教オンチというのではなく、無宗教というのでもない。
どんな神様でも受け入れる、寛容な民族なのだ。だから、神社がどんな神を祀っているか知らずに七五三のお宮参をしたり、菅原道真がどんな死に方をしたのかも知らずに菅原天満宮で受験の合格祈願をしたりする。また、クリスチャンでもないのにキリスト教の教会で結婚式を挙げたり(そりゃー、わたしだ)、死に際しては仏教で送りだされる。
豊臣秀吉も徳川家康も死後は神として祀られているし、日本人の神様ってなんでもあり。使える神様はなんでも受け入れ、土着化させてしまう、およそ「異教」という概念は持ち合わせていない多神教民族、それが日本人なのである。
これをいい加減だとか無知だとか言うのは、おそらくキリスト教的な一神教の考え方だ。むしろ一つの神に束縛された欧米人の精神世界はひどく狭く限られたものになってしまっている。
中世ヨーロッパに吹き荒れた魔女狩りなどは、その狭い精神が生みだした暗部の最たるものだ。幸い日本人は宗教にはきわめて寛容で柔軟な精神の持ち主なので、一般市民が宗教戦争に巻きこまれることはなかった。
そういう意味でも、この蘇我氏対物部氏の尊仏廃仏戦争は、日本ではきわめて稀な宗教戦争だったのである。 |
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さて、710年の平城京遷都によって法興寺は奈良に移り、元興寺となった。しかし、法興寺もこのまま残ってのちに飛鳥寺と呼ばれるようになった。
2度ほど火災にあって大伽藍は失われたが、日本最古の飛鳥大仏は創建時の位置のまま本堂に安置されているという。
現在の講堂は江戸時代に再建されたもの。 |
中に入ると、職員の方が説明をしてくれた。
銅製の釈迦如来坐像は飛鳥大仏の通称で知られ、国の重要文化財となっている。
鎌倉時代(1196年)の落雷が原因でおこった火災で被害を受け、顔の上半分と左耳、右手の指3本を残して焼けてしまったという。
その後、補修されたが、現存する最古の大仏ということになっている。
高さは台座も入れて約4.85メートル。本体のみだと3メートルほどだろうか。 |
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大仏と言われて想像するような大きさではなく、また顔が少し面長だったのも意外だった。当時の人々にとってはすごく大きいものだったのだろうし、東大寺の大仏はずっとずっと後の奈良時代にできたものだから、これはこれで古式っぽくて納得させられてしまった。
説明で興味深かったのは、大仏様のお顔は左右で表情が違うということ。いったん火事で失われかけたことを考えると、単に補修の人がヘタだったんじゃないのと思ってしまう。
ちなみに創建時の作者は、法隆寺講堂の釈迦三尊像を作ったことでも知られる渡来帰化人系の鞍作止利だという。
写真撮影は自由にどうぞということだったが、フラッシュを使わなかったのでブレてしまった。
左右の違いは写真ではわかりにくいが、実際に見てみると確かに法令線の深さが違っていた。 |
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室町時代末期に作られた「聖徳太子立像」。
太子16歳のときの姿で、病におちた父・用明天皇の回復祈願をしている様子を描いたものだという。 |
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本堂を出ると、古い仏像などが展示されているコーナーを通って外に出る。
創建当時の壮麗さを偲ぶにはちょっと苦しい小ぢんまりとした寺だが、それもこれも蘇我宗家が滅んでしまったせいだろう。
この展示コーナーなどは、田舎の旧家のお屋敷や古い旅館が、先祖伝来の宝物を飾ってあるような印象を受けた。 |
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境内の西南側の隅には延享2年(1745年)に建立された「鐘楼」が建つ。
鐘は祈念をしつつ一回だけ突いてよいということなので、わたしも願いをこめてボーンと突いてみた。
お寺の鐘を突くのは子どものとき以来だ。実家の近くに観音寺というお寺があって、子どもたちの遊び場であった。当時は鐘を突くのも自由だったので、時々突いたおぼえがある。
飛鳥寺の鐘は実に懐かしい、いい音がした。 |
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飛鳥寺memo
本堂拝観300円(境内内は見学自由)
9:00〜17:15(下記は16:45まで)
駐車場あり |
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西側の出口から外に出ると、旧飛鳥寺の西門跡がある。
中大兄皇子と中臣鎌足はこのあたりで開かれた蹴鞠の会で知り合ったと言われている。中大兄の靴が脱げたので、鎌足が拾って皇子に捧げたのがきっかけだという。
二人はやがて乙巳の変(蘇我入鹿の暗殺)を起こすが、そのとき法興寺(飛鳥寺)に陣を構え、西門から甘樫丘の上に建つ蝦夷・入鹿親子の館を睨んだ。
画像にも写っている緑の丘が、その甘樫丘である。
左の画像は現地説明書にあった遺構の画像。
672年の壬申の乱の際は、この広場を軍隊が埋めつくしたという。その後は外国からの使節などを歓迎する宴会の場となり、噴水もあった。発掘では土管を繋いだ上水道が発見されている。 |
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西門を出たところにある道標。
「蘇我入鹿首塚」とある方向に歩を進めていく。実は2枚上の画像にも小さく写っており、赤い矢印をつけて示したのがそれだ。
入鹿の首塚なるものは、西門を出て100メートル先にある。 |
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これが入鹿の首塚。バックには彼の邸宅があった甘樫丘が写っている。
645年、飛鳥板蓋宮の大極殿で入鹿は暗殺され、跳ねとばされた入鹿の首がここに落ちたとされるのが、ここである。
さて、それではクイズの答え。事件のあった飛鳥板蓋宮からここまで、直線で617メートルだ。いくらなんでも飛びすぎでしょう、というくらいの距離である。 |
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向こう側に回りこんで、飛鳥寺を背景に首塚を写してみた。
この五輪塔は南北朝時代あたりに多く建てられたお墓の形式だそうで、やはり入鹿の首塚というのは後世の想像だと思われる。
元々は南北朝時代に葬られた誰かの墓だったのではないだろうか。 |
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これは、そばの畑に埋もれかかった大きな石。
よく見ると、工具の跡が伺える。どこかの巨石遺跡から切り取って運ばれてきたものかも。って、ただそれだけです。
ひとしきり飛鳥見学をした後にこんな石を見ると、なんの変哲もない石でもつい何かの遺跡では? と条件反射的に考えてしまうクセがついてしまう。
ところで、飛鳥寺正門横に珍しく売店が建っていたので、お昼ご飯を買い求めようと中に入った。 |
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わたしは古代米おにぎりとお茶の他、ふと目に入った「蘇」という食べ物を購入した。
蘇とは牛乳をゆっくりと特殊な方法で煮詰めたチーズとヨーグルトの中間のような食べ物。7世紀末の文武天皇の時代に蘇が作られたという記録が残っているという。
この頃、人々はすでに牛や馬の肉を食べていたので、貴族の間ではもう少し前から蘇が広まっていたと思われる。
中央アジアで誕生した蘇は、はるかシルクロードを通って飛鳥の都に伝わってきた。当時の飛鳥には多くの異国人が住んでいたので、彼らがその製法を伝え、超高級料理として皇族や貴族たちに食された。美容と不老長寿の効果も期待されていたという。
前々からこれを食べてみたいと思ったわたしはさっそく車の中で「蘇」を開け、一切れ口に入れてみた。
チーズのような風味だが、チーズのようにトロリとはしていなくて、ややザラついたテイスト。
焼きチーズケーキのような色合いと形で、なんとも不思議な淡い味が舌の上に広がる。牛乳に含まれる脂肪分が凝縮した濃厚な後味が印象的だ。
すっごく美味しいというわけではないが、なんだかとってもあとを引く。
小さくスライスして、ちびちびと食した。パンに乗せて食べるのには合わない感じ。コーヒーと一緒に・・・いや、これもなんだか違う。あえて言えば、牛乳か抹茶あたりと一緒に食べると相性がいいかもしれない。 |