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飛鳥”石”シリーズ第?段、いよいよ超有名遺跡、石舞台を訪れた。
飛鳥というと石舞台の写真が使われるほど、飛鳥の象徴となっている巨石墳墓である。
これまでの遺構では他に見物人もいなかったのに比べて、さすがにここは人が多い。大きな公園に面しており(というか、後から隣りに飛鳥歴史公園が作られた)、駐車場も広かった。
お金がかかっているだけに、ここの見学料はさすがに有料だった。 |
ここまですべて無料で見てきたので、「え〜っ、ただの石なのにお金取るの?」という感じである。
受付で見学料 250円を支払って中に入ったところで、テーブルの上に置かれた「飛鳥王国パスポート」なるものが目に入った。
表紙には鳳凰をあしらった「飛鳥」の文字が。おお、さすがに飛鳥だ。鳳凰といえば、やっぱり手塚治虫の「火の鳥」だろう。パスポートとはなんの関係もないけど。
石舞台の他、高松塚壁画館、県立万葉文化館、橘寺、犬養万葉記念館、飛鳥寺、岡寺、橘寺の入場割引券がついいて、お値段100円というのはお値打ちだ。
わたしは受付の人に確認してからパスポートを購入し、50円をバックしてもらった。つまり、割引券を使えば団体割引が適用され、200円で入場できることになる(ただし1回きり)。あと1箇所訪れれば元が取れる計算だ。
パスポートという名前だけあって最初のページには旅券番号が記されており、名前、本籍、入国目的を記入する欄などが設けてある。
観光スポットの説明あり、プレゼント応募用ハガキ、スタンプ欄ありと、小さいながら飛鳥を旅するには必携だ。 |
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石舞台は、日本最大級の石室を持つ方形墳だ。
蘇我馬子が近くに住んでいたのと、墓が巨大であったという記録から、馬子の墓ではないかと言われている。
墳丘は一辺55メートルの大きなもので、玄室は長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル。坑道は長さ約11メートル、幅2.5メートルだ。約30個の石が積まれ、その総重量は2,300トンほどにも達するらしい。 |
舞台のような形状をしていることから石舞台と名づけられたが、作られた当時はもちろん盛り土がされ、上円下方墳などの形状を成していた。
昭和時代の初期に発掘調査が行われたが、すでに盗掘されたあとで、ほとんどなにも残っていなかった。
被葬者に推定される蘇我馬子(551年〜626年)は、欽明天皇の時代に蘇我稲目の子として生まれた。姉は欽明天皇妃の蘇我堅塩媛。 |
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蘇我氏は天皇の外戚として権力をふるい、馬子は天皇の暗殺まで命じるほどの専横を行ったとされる。孫の入鹿は自分の推す皇子を天皇にするため、邪魔な山背大兄皇子を死に追いやり上宮王家を滅亡させた。あげく、乙巳の変によって成敗されている。
どこからどう見ても蘇我氏は極悪人、一方、厩戸皇子(聖徳太子)はその徳が強調され、偉業を褒め讃えられる立場だ。しかし、厩戸の母は蘇我稲目の孫なので、彼はどっぷり蘇我系の皇子なのである。 |
物部氏を滅ぼした戦いに参戦して、蘇我氏の一人として攻めたてている。推古天皇即位の後は、大叔父である馬子と協調して天皇を補佐したとされている。
しかし、「日本書紀」は厩戸の悪いことは一切書かない。
「聖徳太子不在説」の中には、「これだけ素晴らしいお方(もしくはその子孫)を殺した蘇我氏というのは悪いヤツなんだ」ということを強調するため、ことさら聖人化して作りあげ、蘇我氏を悪者に仕立てたという「聖徳太子捏造説」も存在する。
極悪人対聖人という、まるで水戸黄門か昔の合体ロボットアニメみたいな勧善懲悪の図式は、きわめて不自然ではないだろうか。
不思議なのは、多くの行数を割いて厩戸の事蹟を書き、その偉業を賞賛している「日本書紀」が、彼の死については至極あっさりとしか触れていない点だ。
厩戸皇子は622年、斑鳩宮で亡くなった。母親の穴穂部間人皇女が2月6日に亡くなり(前年12月説もあり)、21日に妃の膳大郎女が、そしてその翌日、厩戸が亡くなっているというのも奇妙である。
この立て続けの死は一体なにを意味するのか。伝染病が猛威をふるったのか、あるいは家庭内食中毒でもあったのだろうか。しかし、「日本書紀」はそのことに言及していない。
天然痘の流行でもあったのなら、朝廷の重要人物が亡くなったのだから、正史にそのことを書くのが普通だろうと思う。
厩戸は暗殺された、いや膳大郎女と心中したのだ。と、自然死ではないとしている説は多い(その大部分は作家による説だが)。
藤ノ木古墳の項目でも書いたが、厩戸は難波の磯長に自らの陵を造営していた。死後、この「叡福寺北古墳」に膳大郎女とともに葬られたとされている(わたしは違うと思っている)。
ところで、馬子というのは妙な名前である。小野妹子もインパクト大で、歴史の授業の時、クラスが笑いに包まれた覚えがある。とうぜん馬子も高校生の笑いの対象になったろうと思うが、高校の日本史でそこまで詳しくやったかは記憶にない。
実は同級生に顔立ちがちょっと馬に似た女の子がいて、「馬子」とあだ名されていた。小柄でおとなしい温厚な子で、そばかす一杯の顔は確かに「ちょっぴりロバ似?」(もっと悪いじゃん)
改めて考えると可愛そうだったが、からかうとかイジメといった陰湿なものではなくて、普通に「ねえねえ、馬子〜。トイレ行こうよー」なんて、ファーストネーム同様に呼んでいたのである。
歌手のaikoに似た愛嬌のある顔立ちで、どちらかというと皆に可愛がられるタイプの子だった。
でも、本人は傷ついていたかもね。ごめん、馬子。
で、蘇我馬子について調べているうちに、もうずっと忘れていた彼女の記憶が突如甦ってきたのである。
蘇我馬子の名前も、案外これと似ているかも。ウマ年生まれであることから因んでいるんじゃないかと推測されているが、本当はウマ似だったんじゃないだろうか。
馬子以外にも、蘇我氏にはユニークな名前が多い。入鹿(イルカ)、赤兄(アカエ=アカエイ)、赤猪、蟲名(ムジナ)など。
これは蘇我氏が渡来系であるた、古代朝鮮人の名前の付けかたに習ったと説明する人もあるが、百済王朝滅亡とともに来日した百済の人々には、こうした名前は付いていない。同様に高句麗、新羅の王族にも見あたらない。
それに入鹿の父、蝦夷(えみし)の名は東北に住んでいた人々を指す蔑称と同じ字だ。「蝦夷」と書いて「えぞ」「えみし」と読み、初めは「毛人」と書いていた。
奈良時代になると、蝦夷を征服するため征夷大将軍率いる朝廷の軍隊が差しむけられるようになった。「夷」というのは中華思想における異民族の蔑称で、大陸から渡ってきた言葉だ。
征服されるべき異民族の蔑称をわざわざ我が子に付ける親が、果たしているだろうか。
昔、「ブッシュマン」とか「チビ黒サンボ」など、これは蔑称だからやめようと言われた名前がいくつか存在した。そういう言葉を、響きがおもしろいからとか、強そうだからとかいう理由で子どもに名づけるようなものである。
蘇我蝦夷も、馬子も、おそらく好き好んでそういう名前になったのではあるまい。わたしのクラスメートの馬子ちゃんも、好きでそう呼ばれたわけではないのと同じように。
その名前に色々な理由を付けて説明しようとするより、後世による懲罰的な改名なのではないかと解釈した方が自然なのではないだろうか。
時代は下るが、よい例がある。
称徳天皇(孝謙天皇)は、呪詛を行った不破内親王を「厨真人厨女」(くりやのまひとくりやめ)という名に改名させ、都から追放した。「厨」は台所のことなので、「台所の下女め!」みたいな意味になるという。(永井路子氏「悪霊列伝」より)
蘇我氏の中でも、中大兄皇子に協力的であった蘇我石川麻呂は普通の名前だ。しかし、その弟で、のちに壬申の乱で流罪になった蘇我赤兄は弟なのに赤兄なんて、ちょっと変。他の兄弟と比べても、赤兄の名だけ異質な印象がある。
つまり、誅殺されたり、反・天武の立場で罪人となった者に動物の名が付いていることを考えると、称徳天皇のように「あいつは○△って名前でたくさんだよ」と罵り、貶めるようなあだ名をつけた。それが「日本書紀」や他の史書編纂のおり、そのまま載せられたと考えることができるのだ。 |
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古来から日本人は個人の名を神聖なものとし、名前には魂が宿ると考えた。呪術に使われるのを避けるため特に女性は人に名前を教えなかったし、身分の高い人ほど男女問わず名前を直接呼ぶことはしなかった。
「源氏物語」でも身分の低い者は「惟光」と本名をズバリ書いているが、天皇、中宮以下、身分の高い人々は主人公の源氏の君すら本名を明かしていない。光君というのは輝くばかりに美しいから付けられたあだ名で、本名ではないのだ。 |
実際の天皇の妃でも、本名が伝わっている女性は数少ない。朝廷の公式な記録に残るから後世に名前がわかるのだが、それも生まれたときに付けられたものとは違う。
親も我が子を名前で呼ばない。幼いときは「一の姫」とか「五の君」とか呼んで、入内するときに「定子」だの「彰子」だのと格式張った名前を付けるのだ。
ところで馬子はだいたい75歳くらいで没したことになっており、当時としては大変な長寿だ。暗殺されたという記述も見あたらず、年齢から考えても老衰による自然死だろう(記録に嘘がなければ、の話だが)。
しかし、馬子は皇位継承にからんで穴穂部皇子を殺させているし、皇位に就けた崇峻天皇が自分に逆らいだすと、これも暗殺させた。おまけに実行犯の東漢駒をも理由をつけて殺害している。
なんという極悪人。まるで「必殺仕事人」に出てくる血も涙もない悪党みたいだ。最後に中村主水がバッサリ切り捨ててくれるお陰で、視聴者は溜飲を下げることができた。
入鹿はお祖父ちゃんの悪行までをも全部背負わされて最後に中大兄皇子らにバッサリ切り捨てられ、「あんなに悪いことばっかするからだ。ザマーミロ」としか思われない。 |
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しかし、蘇我氏に罪をかぶせ、その陰で口をぬぐっている黒幕には誰も気がつかないのだ。
さて、玄室に入ってみることにする。
内部に立ち入ることのできる古墳は、わたしの知る限りではここだけである。
それだけに、なかなかスリリングで貴重な体験だ。 |
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坑道に降り、奥へ進む。外から見た印象より、はるかに広い玄室を有しているという気がする。
人一人葬るのにこれだけあれば、かなり余裕のスペースだ。少なくとも「鬼の雪隠」(前ページ参照)とは比べものにならない規模である。
さぞかし大きな石棺が置かれ、豪華な副葬品などが所狭しと並べられたことだろうと想像できる。
しかし、悲しいかな盗掘にあって遺品ゼロ。
どんなに権力を欲しいままにし、財宝に囲まれた金持ちになろうと、あの世にまでは持っていけないという、よいお手本である。
子孫は悪人の汚名を着せられ、蘇我宗家は滅びている。あんまり栄えすぎるのも考えものだ。 |
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