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 平成20年キャンプ
  平成19年12月30日(日)〜平成20年1月3日(木)Vol.217
 
奈良・大和路をゆく年越しキャラバン〜飛鳥編Part2
         
 ところで、飛鳥mapを見ていて不思議に思ったことがある。
 北からキトラ古墳、文武天皇陵、高松塚古墳、天武・持統天皇陵、欽明天皇陵、さらに本当の欽明天皇陵と言われる丸山古墳、孝元天皇陵と、縦に並んでいるのだ。けっして緯度経度が1分の違いもなく一直線に並んでいるというわけではなくて、北斗七星のようにジグザグしながら北から南へと延びている。
 この縦のラインには、なにか意味があるのだろうか。それとも、単に奈良盆地の地形に添って作ったら、こうなっただけなのだろうか。
 これについて、後述する「飛鳥王国パスポート」(明日香村観光開発公社発行)では、「飛鳥にもあった王家の谷!?」と紹介している。
亀 石
 猿の次は亀だ。
 天武・持統天皇陵から直線で400メートル、交通量の多い道路から畑や住宅が並ぶ地帯を少し登ったところに、その「亀石」なる巨石はある。
 わたしは道路沿いの精米所に車を停めて夫に待っててもらい、レディを連れて歩いていくことにした。
 住宅の間を抜けて農道へ。このあたりにあるはずだが、見あたらない。
 目の前には農産物の直売所があり、黒いラブラドールを連れたお爺さんがベンチで一服中であった。ワンコ大好きレディが興奮し、黒ラブちゃんに飛びついてご挨拶。二匹とも尻尾を激しく振って友好的に臭いを嗅ぎあった。
 わたしは「あのう、亀石はどこですか?」と、お爺さんに訊いた。
 「そこだよ」と、お爺さんはこともなげに直売所の生垣の方を指差し、教えてくれた。
 へっ? と、驚いて生垣を見ると、その向こうがなんと亀石であった。直売所の屋根や生垣が邪魔をして、亀石を隠していたのだった。
 お爺さんは一服し終えると、黒ラブを連れて立ち去った。レディはもっと遊びたかったのに〜という表情でそれを見送る。
 亀石は、生け垣で囲まれた小さなスペースに、ぽつねんと置かれていた。長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートル。巨大な花崗岩だ。
 確かに亀っぽいのだが、どことなくカエルにも似ている。
 説明書きによると、なんの目的で作られたかは明らかではないが、寺の境界線を示す標石ではないかという説があるとのことである。
 伝説によれば、昔、大和が湖だった頃、湖の対岸の当麻とのあいだで喧嘩が起こった。長い喧嘩の末、当麻に湖の水を取られ、湖に住んでいたたくさんの亀が死んでしまった。
 哀れに思った村人が、亀の形を石に刻んで供養したという。
 いま亀は南西を向いているが、西を向いて当麻を睨みつけたときには、大和盆地が泥沼と化すと言われている。
 →亀石のおケツを激写してみました。
 亀の姿を掘って供養しようとしたというわりにはほとんど亀らしくないので、伝説は後づけだろうと思う。
 石像かなにかを作ろうとして、そのまま放置されたものではないだろうか。
 しかし、歴史と関係ないとあっさり終わるな〜(^^;
石 舞 台
 飛鳥”石”シリーズ第?段、いよいよ超有名遺跡、石舞台を訪れた。
 飛鳥というと石舞台の写真が使われるほど、飛鳥の象徴となっている巨石墳墓である。
 これまでの遺構では他に見物人もいなかったのに比べて、さすがにここは人が多い。大きな公園に面しており(というか、後から隣りに飛鳥歴史公園が作られた)、駐車場も広かった。
 お金がかかっているだけに、ここの見学料はさすがに有料だった。
 ここまですべて無料で見てきたので、「え〜っ、ただの石なのにお金取るの?」という感じである。
 受付で見学料250円を支払って中に入ったところで、テーブルの上に置かれた「飛鳥王国パスポート」なるものが目に入った。
 表紙には鳳凰をあしらった「飛鳥」の文字が。おお、さすがに飛鳥だ。鳳凰といえば、やっぱり手塚治虫の「火の鳥」だろう。パスポートとはなんの関係もないけど。
 石舞台の他、高松塚壁画館、県立万葉文化館、橘寺、犬養万葉記念館、飛鳥寺、岡寺、橘寺の入場割引券がついいて、お値段100円というのはお値打ちだ。
 わたしは受付の人に確認してからパスポートを購入し、50円をバックしてもらった。つまり、割引券を使えば団体割引が適用され、200円で入場できることになる(ただし1回きり)。あと1箇所訪れれば元が取れる計算だ。
 パスポートという名前だけあって最初のページには旅券番号が記されており、名前、本籍、入国目的を記入する欄などが設けてある。
 観光スポットの説明あり、プレゼント応募用ハガキ、スタンプ欄ありと、小さいながら飛鳥を旅するには必携だ。
 石舞台は、日本最大級の石室を持つ方形墳だ。
 蘇我馬子が近くに住んでいたのと、墓が巨大であったという記録から、馬子の墓ではないかと言われている。
 墳丘は一辺55メートルの大きなもので、玄室は長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル。坑道は長さ約11メートル、幅2.5メートルだ。約30個の石が積まれ、その総重量は2,300トンほどにも達するらしい。
 舞台のような形状をしていることから石舞台と名づけられたが、作られた当時はもちろん盛り土がされ、上円下方墳などの形状を成していた。
 昭和時代の初期に発掘調査が行われたが、すでに盗掘されたあとで、ほとんどなにも残っていなかった。
 被葬者に推定される蘇我馬子(551年〜626年)は、欽明天皇の時代に蘇我稲目の子として生まれた。姉は欽明天皇妃の蘇我堅塩媛。
 蘇我氏は天皇の外戚として権力をふるい、馬子は天皇の暗殺まで命じるほどの専横を行ったとされる。孫の入鹿は自分の推す皇子を天皇にするため、邪魔な山背大兄皇子を死に追いやり上宮王家を滅亡させた。あげく、乙巳の変によって成敗されている。
 どこからどう見ても蘇我氏は極悪人、一方、厩戸皇子(聖徳太子)はその徳が強調され、偉業を褒め讃えられる立場だ。しかし、厩戸の母は蘇我稲目の孫なので、彼はどっぷり蘇我系の皇子なのである。
 物部氏を滅ぼした戦いに参戦して、蘇我氏の一人として攻めたてている。推古天皇即位の後は、大叔父である馬子と協調して天皇を補佐したとされている。
 しかし、「日本書紀」は厩戸の悪いことは一切書かない。
 「聖徳太子不在説」の中には、「これだけ素晴らしいお方(もしくはその子孫)を殺した蘇我氏というのは悪いヤツなんだ」ということを強調するため、ことさら聖人化して作りあげ、蘇我氏を悪者に仕立てたという「聖徳太子捏造説」も存在する。
 極悪人対聖人という、まるで水戸黄門か昔の合体ロボットアニメみたいな勧善懲悪の図式は、きわめて不自然ではないだろうか。
 
 不思議なのは、多くの行数を割いて厩戸の事蹟を書き、その偉業を賞賛している「日本書紀」が、彼の死については至極あっさりとしか触れていない点だ。
 厩戸皇子は622年、斑鳩宮で亡くなった。母親の穴穂部間人皇女が2月6日に亡くなり(前年12月説もあり)、21日に妃の膳大郎女が、そしてその翌日、厩戸が亡くなっているというのも奇妙である。
 この立て続けの死は一体なにを意味するのか。伝染病が猛威をふるったのか、あるいは家庭内食中毒でもあったのだろうか。しかし、「日本書紀」はそのことに言及していない。
 天然痘の流行でもあったのなら、朝廷の重要人物が亡くなったのだから、正史にそのことを書くのが普通だろうと思う。
 厩戸は暗殺された、いや膳大郎女と心中したのだ。と、自然死ではないとしている説は多い(その大部分は作家による説だが)。
 藤ノ木古墳の項目でも書いたが、厩戸は難波の磯長に自らの陵を造営していた。死後、この「叡福寺北古墳」に膳大郎女とともに葬られたとされている(わたしは違うと思っている)。
 
 ところで、馬子というのは妙な名前である。小野妹子もインパクト大で、歴史の授業の時、クラスが笑いに包まれた覚えがある。とうぜん馬子も高校生の笑いの対象になったろうと思うが、高校の日本史でそこまで詳しくやったかは記憶にない。
 実は同級生に顔立ちがちょっと馬に似た女の子がいて、「馬子」とあだ名されていた。小柄でおとなしい温厚な子で、そばかす一杯の顔は確かに「ちょっぴりロバ似?」(もっと悪いじゃん)
 改めて考えると可愛そうだったが、からかうとかイジメといった陰湿なものではなくて、普通に「ねえねえ、馬子〜。トイレ行こうよー」なんて、ファーストネーム同様に呼んでいたのである。
 歌手のaikoに似た愛嬌のある顔立ちで、どちらかというと皆に可愛がられるタイプの子だった。
 でも、本人は傷ついていたかもね。ごめん、馬子。
 で、蘇我馬子について調べているうちに、もうずっと忘れていた彼女の記憶が突如甦ってきたのである。
 蘇我馬子の名前も、案外これと似ているかも。ウマ年生まれであることから因んでいるんじゃないかと推測されているが、本当はウマ似だったんじゃないだろうか。
 馬子以外にも、蘇我氏にはユニークな名前が多い。入鹿(イルカ)、赤兄(アカエ=アカエイ)、赤猪、蟲名(ムジナ)など。
 これは蘇我氏が渡来系であるた、古代朝鮮人の名前の付けかたに習ったと説明する人もあるが、百済王朝滅亡とともに来日した百済の人々には、こうした名前は付いていない。同様に高句麗、新羅の王族にも見あたらない。
 それに入鹿の父、蝦夷(えみし)の名は東北に住んでいた人々を指す蔑称と同じ字だ。「蝦夷」と書いて「えぞ」「えみし」と読み、初めは「毛人」と書いていた。
 奈良時代になると、蝦夷を征服するため征夷大将軍率いる朝廷の軍隊が差しむけられるようになった。「夷」というのは中華思想における異民族の蔑称で、大陸から渡ってきた言葉だ。
 征服されるべき異民族の蔑称をわざわざ我が子に付ける親が、果たしているだろうか。
 昔、「ブッシュマン」とか「チビ黒サンボ」など、これは蔑称だからやめようと言われた名前がいくつか存在した。そういう言葉を、響きがおもしろいからとか、強そうだからとかいう理由で子どもに名づけるようなものである。
 蘇我蝦夷も、馬子も、おそらく好き好んでそういう名前になったのではあるまい。わたしのクラスメートの馬子ちゃんも、好きでそう呼ばれたわけではないのと同じように。
 その名前に色々な理由を付けて説明しようとするより、後世による懲罰的な改名なのではないかと解釈した方が自然なのではないだろうか。
 
 時代は下るが、よい例がある。
 称徳天皇(孝謙天皇)は、呪詛を行った不破内親王を「厨真人厨女」(くりやのまひとくりやめ)という名に改名させ、都から追放した。「厨」は台所のことなので、「台所の下女め!」みたいな意味になるという。(永井路子氏「悪霊列伝」より)
 蘇我氏の中でも、中大兄皇子に協力的であった蘇我石川麻呂は普通の名前だ。しかし、その弟で、のちに壬申の乱で流罪になった蘇我赤兄は弟なのに赤兄なんて、ちょっと変。他の兄弟と比べても、赤兄の名だけ異質な印象がある。
 つまり、誅殺されたり、反・天武の立場で罪人となった者に動物の名が付いていることを考えると、称徳天皇のように「あいつは○△って名前でたくさんだよ」と罵り、貶めるようなあだ名をつけた。それが「日本書紀」や他の史書編纂のおり、そのまま載せられたと考えることができるのだ。
 古来から日本人は個人の名を神聖なものとし、名前には魂が宿ると考えた。呪術に使われるのを避けるため特に女性は人に名前を教えなかったし、身分の高い人ほど男女問わず名前を直接呼ぶことはしなかった。
 「源氏物語」でも身分の低い者は「惟光」と本名をズバリ書いているが、天皇、中宮以下、身分の高い人々は主人公の源氏の君すら本名を明かしていない。光君というのは輝くばかりに美しいから付けられたあだ名で、本名ではないのだ。 
 実際の天皇の妃でも、本名が伝わっている女性は数少ない。朝廷の公式な記録に残るから後世に名前がわかるのだが、それも生まれたときに付けられたものとは違う。
 親も我が子を名前で呼ばない。幼いときは「一の姫」とか「五の君」とか呼んで、入内するときに「定子」だの「彰子」だのと格式張った名前を付けるのだ。
 
 ところで馬子はだいたい75歳くらいで没したことになっており、当時としては大変な長寿だ。暗殺されたという記述も見あたらず、年齢から考えても老衰による自然死だろう(記録に嘘がなければ、の話だが)。
 しかし、馬子は皇位継承にからんで穴穂部皇子を殺させているし、皇位に就けた崇峻天皇が自分に逆らいだすと、これも暗殺させた。おまけに実行犯の東漢駒をも理由をつけて殺害している。
 なんという極悪人。まるで「必殺仕事人」に出てくる血も涙もない悪党みたいだ。最後に中村主水がバッサリ切り捨ててくれるお陰で、視聴者は溜飲を下げることができた。
 入鹿はお祖父ちゃんの悪行までをも全部背負わされて最後に中大兄皇子らにバッサリ切り捨てられ、「あんなに悪いことばっかするからだ。ザマーミロ」としか思われない。
 しかし、蘇我氏に罪をかぶせ、その陰で口をぬぐっている黒幕には誰も気がつかないのだ。
 
 さて、玄室に入ってみることにする。
 内部に立ち入ることのできる古墳は、わたしの知る限りではここだけである。
 それだけに、なかなかスリリングで貴重な体験だ。
 坑道に降り、奥へ進む。外から見た印象より、はるかに広い玄室を有しているという気がする。
 人一人葬るのにこれだけあれば、かなり余裕のスペースだ。少なくとも「鬼の雪隠」(前ページ参照)とは比べものにならない規模である。
 さぞかし大きな石棺が置かれ、豪華な副葬品などが所狭しと並べられたことだろうと想像できる。
 しかし、悲しいかな盗掘にあって遺品ゼロ。
 どんなに権力を欲しいままにし、財宝に囲まれた金持ちになろうと、あの世にまでは持っていけないという、よいお手本である。
 子孫は悪人の汚名を着せられ、蘇我宗家は滅びている。あんまり栄えすぎるのも考えものだ。
飛鳥浄御原宮・飛鳥板蓋宮跡
 7世紀中頃に皇極天皇が営んだ板蓋宮(いたぶきのみや)跡。実は「酒船石」を探していて、たまたま通りがかった遺跡である。
 板蓋宮は642年、皇極天皇が夫の逝去により即位した際、蘇我蝦夷に命じて建設させた新宮殿といわれている。
 飛鳥時代は推古天皇から元明天皇の即位までを指すが、その114年ほどの間に即位した帝たちは自らの宮殿を築き、そこに移って首都とするのが通例であった。
 つまり、天皇の代替わりのたびに首都と皇居も遷るわけである。えらい無駄遣いだという気がするが、彼らには「もったいない」という概念がないのだろうか。
 作家の井沢元彦氏は著書「逆説の日本史」の中で、その理由について記している。代替わりごとに遷都をするのは、「穢れ(ケガレ)」を避けるという日本人特有の思想のせいだという。
 彼らにとって死は穢れであった。先代が死んだ宮を捨て去り新しい宮を作るのは、車を買い換えるのと同じくらい必然のことだったに違いない。また、そうしなければという強迫観念に迫られていたのだろうと思う。
 皇位をめぐる血みどろの政争が絶え間なかった時代だ。まあ、「穢れ」なんて難しい言葉を持ち出さなくても、凄惨な暗殺事件が起こった場所から逃げだしたくなるのは無理からぬことだろう。
 ――忌まわしい事件のことなど一刻も早く忘れたい。
 ――気分を一新して新しい治世を始めるのよ。
 新しい都や宮の建設には、そんな願いもこめられていたかもしれない。
 余談だが、平安時代になると大きな戦乱があまりないので(だから平安時代というのだが)、この「穢れ」思想が馬鹿らしいほど蔓延する。
 例えば出産は「穢れ」なので、女性は皇居で産まず里に帰って出産した。男性は、妻が出産しても産室には入らない。赤ん坊も生まれてすぐには触らなかったという。もちろん、穢れがついたら困るからだ。
 さらには皇居で死ぬなんてトンデモナイ話で、とうぜん御法度だ。
 「源氏物語」では、イジメを受けて病気になった桐壺更衣が重体にもかかわらず皇居を退出させられ、里で弱りきって死ぬというエピソードがある。
飛鳥時代の歴代天皇と住居
593年〜 小墾田宮 推古天皇
629年〜 飛鳥岡本宮→田中宮→百済宮 舒明天皇
642年〜 小墾田宮 皇極天皇
645年〜 難長柄豊碕宮 孝徳天皇
655年〜 板蓋宮 斉明天皇(皇極重祚)
668年〜 近江大津宮 天智天皇
673年〜 飛鳥浄御原宮 天武天皇、持統天皇
694年〜 藤原宮 持統天皇、文武天皇、元明天皇(ここから奈良時代)
 上の表にある通り、10人の天皇が即位をした114年のあいだにこれだけ宮殿が遷っている。
 舒明天皇は特に多くて、11年のあいだに3つも点々とした。
 この天皇、名を田村皇子というのだが、彼の両親はなんとビックリ、実の兄妹だ。父は押坂彦人大兄皇子、母はその異母妹・糠手姫皇女。この頃は母親の違う兄妹、姉弟なら結婚もOKだったのである。
 一夫多妻(逆に一妻多夫もあり)の通い婚制度のため、きょうだいたちはそれぞれ母親の元で育てられた。母親が違えば他人も同然というわけだが、父親の遺伝子も受け継がれるという知識はなかったのだろうか。
 ともかく、田村皇子は天皇の子どもではないから皇位から多少遠い位置にあったが、それはライバル・山背大兄皇子(聖徳太子の子)も同じ条件だった。
 628年4月、推古天皇が薨去。田村皇子は蘇我蝦夷に推され、翌年1月に即位した。
 我が子・竹田皇子を亡くし、皇太子の厩戸皇子にも先立たれた推古帝は、後継を定めずに亡くなっている。いや、もしかしたら山背大兄皇子を指名したのに、誰かが遺言を握りつぶしたのではないか。そんな疑いも残る。
 推古帝が亡くなってから舒明天皇の即位まで9ヶ月も間が空いているのは、殯(もがり)の期間だったからだと思われる。「殯」は死者を本葬せずに棺を置いて行う儀式のことで、身分の高い貴人ほど期間が長かった。天武天皇は2年3ヶ月も殯が続けられた。
 その間に墓所を建造するという猶予期間ともなった。高貴であればあるほど陵墓も大規模だったので、工事期間も長引く。必然的に殯期間も長くなるというわけだ。
 しつこく聖徳太子の話を蒸し返すことになるが、彼の殯期間は一ヶ月足らずだったと言われている。摂政で皇太子だったのにあまりにも短すぎはしないか。なんだか慌てて葬ったような印象が残る。
 ともあれ、舒明天皇は3ヶ月も有馬温泉に逗留したり、伊予温泉(道後温泉)に行幸したり、唐や朝鮮半島からの使者を迎えたりと、特に混乱もなくつつがなく過ごしたようだ。
 なのに、なぜ2回も宮殿を変えたのか。一度は火事で焼失したので理解できるが、2度目は? フランスのフランソワ1世のような建築マニアだったのだろうか。それとも、とても後ろ暗いことに関わっていたため、ちょっとの変事だけでもビクついて、あたふたと宮殿を遷っていたとしたら・・・?
 なんて、すっかり妄想フル回転モードだが、もちろんそう考える根拠はなにもない。ただ単に、「日本書紀」の裏の裏を勘ぐりすぎて、こうなってしまうのである。
 
 さて、49歳くらいで亡くなった舒明天皇のあとを受けて、いよいよ皇極天皇が即位する。
 ここでようやく、この項目の冒頭、女帝が642年に板蓋宮建造の命を出すくだりに話が辿り着くのだ。はあ、ここまで長かった(ゼイゼイ)。
 
 この板蓋宮跡は昭和34年から、橿原市考古学研究所により発掘調査が行われた。
 その結果、掘立柱列に囲まれた東西約156メートル、南北約197メートルの長方形の区画と、その南半分では中軸線上に位置する五間×二間の門と、七間×四間の建物、北半分ではここに復元したような高床式の大きな建物や大井戸など多くの遺構が検出された。
 また内郭の東南に面して九間×五間の「飛鳥エビノコ大殿」と仮称されている大規模な建物を中心とする一区画があり、さらにそれらを囲むように外郭柱列や石講が南北に続いている。
 建物はすべて堀立柱で、周囲に石敷があり、木簡や土器などの出土遺物から、板蓋宮より新しい7世紀末頃の宮殿遺跡と推測される。
 しかし、下層にも遺構があり、いずれの宮であるかは、なお今後の調査を待たねばならない・・・と、奈良県教育委員会の看板は文を結んでいる。
 実を言うと、天武・持統両帝が住んだ飛鳥浄御原宮は、板蓋宮跡に建てられたものらしいのだ。つまり、この遺構は板蓋宮より新しい浄御原宮の跡だが、いずれも同じ場所にあった。
 遺跡に掲げられた看板の説明は、最新の調査結果より少し遅れているということになるだろう。
 645年6月12日、ここ板蓋宮は血なまぐさいクーデターの舞台となった。
 この日、朝鮮半島の3国(新羅、百済、高句麗)から進貢の使者がやってきて、皇極帝に拝謁した。その儀式のさなか、中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を暗殺したのである。
 皇極帝の目の前で行われたこの凶行は「乙巳の変」と呼ばれ、その後、「大化の改新」なる政治改革が行われる契機となった。
 皇極帝はただちに退位し、弟に譲位した。
 こうして立ったのが孝徳天皇である。
 このとき孝徳と中大兄皇子が互いに譲り合った話は、前に書いた。遠慮しあってる場合じゃないだろう、と、普通の感覚なら思うだろう。
 この普通の感覚というのが、歴史を解釈するのに一番必要な物差しではないかと、わたしは思う。歴史書に納得しがたい不自然なことが書かれていたとしたら、それは何かを隠そうとしてできてしまった「ほころび」ではないだろうか。
 一説には、この孝徳天皇こそ「乙巳の変」の首謀者で、中大兄と鎌足は実行犯に過ぎないという。それが正しいとすれば、このとき中大兄が皇太子でありながら即位できなかった事情が読み解ける。
 歴史的には影の薄い孝徳であるが、実際は中大兄とその盟友を動かすだけの実力を持っていたことになる。
 ちなみに、このとき斬られた入鹿の首がある所まで飛んだと言われているが、それは後で紹介する。実際、あんな遠くにまで飛んだとしたら、発射台を使って打ち上げたとしか思えない距離なのだが・・・。さて、何キロあるでしょう。(って、クイズかい)
酒 船 石
 なんとも不思議な巨石である。
 亀石も不思議だが、まあ何かを掘ろうとして放置されたものだろう、ぐらいの想像で終わってしまう。しかし、この酒船石には、さらなる想像をかきたてる不思議な溝が彫りこまれているのが特徴的だ。
 花崗岩の一枚岩で、長さ約5.5メートル、幅約2.3メートル、厚さ約1メートル。昭和2年に史跡指定された。
 現在は鬱蒼とした竹やぶの中にひっそりと置かれているが、当時は見晴らしの良い小高い丘だったと思われる。
 酒を搾るのに使われたんじゃないかという憶測からこういう名前が付いたが、こんな重い石をわざわざ運んできて酒を造るのにふさわしい場所かどうかという疑問が残る。
 ここが石を置く場所として選ばれたからには、この丘の上でなければならない理由があるはずだ。水を張って太陽などの天体を写しこみ、地平に沈む角度を測ったという「天体観測器説」の方が場所にふさわしいような気がする。
 酒造りの他、薬を作るのに使われたという説もあるが、近くに付随する施設が発見されなければいずれもただの推測でしかない。
 ここより40メートル高い場所に土管や石樋が見つかっていることから、庭園の施設だという説もある。
 左の画像には、工具を打ちこんで石を切断した跡がくっきりと伺える。石垣にでも使おうと、石の一片を断ち割って持ち去ったのだろうか。
 やはり水を流しこんだと見るのが自然だが、溝と溝が繋がっていない箇所もあり、本当に液体を流すために作られたものか疑問も残る。
 酒船石からちょっと下ったところに石垣の遺構が発見され、展示されている。
 「日本書紀」の斉明天皇2年の条にある、「宮の東の山に石を累ねて垣とす」と記されている石垣のことではないかと思われる。
 ここは実は私有地なのだが、誰でも自由に行って見学することができる。
 駐車場はない。わたしは車は道路際に停めて夫に待っててもらい、レディと一緒に酒船石への階段を登っていった。
 ←画像の右側に移っている小径が、酒船石への登り道。
 途中から完全に竹やぶの中となり、人けはまったくない。時期のせいか、階段の下にある遺跡にも見学者はゼロ。女一人では少し心細くなるような雰囲気だ。うちのレディみたいにヘラヘラしたワンコでも犬には違いないので、連れてきてよかったと思う。
 で、坂道を登りきり、少し傾斜が緩くなったあたりに唐突に置かれてあるのが酒船石というわけだ。
 公開するにあたって竹やぶを切り払ったという印象はあるが、本当に寂しい雰囲気だ。
 ここを訪れる女性の皆さん、近くには民家一つありませんので十分用心し、できればボディガードとご一緒にどうぞ。
亀 型 石 造 物
 それよりさらに下の広場には亀型石造物の遺構がある。酒船石のある里山から下ったすぐ目の前で、これらはとても近い。
 そのため、両者を一括りに「酒船石遺跡」と総称することもある。しかし、お互いに関連はないとする学者も多く、亀型石造物を酒船石遺跡の一つとすることは適当ではないようだ。
 以下は表示されていた説明書きより抜粋したもの。
 平成12年の発掘調査で亀型石槽を中心とした導水施設や石敷き、石垣、石段が発見された。
 湧水施設から流れ出た水は木樋を通って舟形石槽(小判型石造物)の水槽に溜まり、小穴から流れ出た水が亀の鼻に入り、背中の水槽に溜まる構造になっている。
 これらの遺構は谷底の深い場所にあり、周囲を石垣や石敷きで閉ざされた空間であることや、水の流れを楽しむ構造でないことから、天皇祭祀に関わる場所であったと推測されている。
 いちおうこの遺構の見学は有料で、文化財保存協力金という名目で料金が徴収される。が、このときは年始休暇のため係員不在であった。詰め所はあったが門はなく、中に入れた。
 ここが祭祀の場所というより入浴施設のように思えてしまうのは、わたしが無類の温泉好きのせいだろうか。
 一昨年はローマのカラカラ浴場遺跡でスパのルーツのような遺構を見学してきたが、日本ではそういう大規模な入浴施設の遺構は見つかっていないようだ。
 日本では伊予温泉(道後温泉)、有間温泉(有馬温泉)、牟婁の湯(南紀白浜温泉)が日本三大古泉として知られている。飛鳥時代の天皇、皇族たちもそれらの温泉地を訪れているが、限られた人々が小さな湯小屋でひっそりと湯浴みするのが普通だったのかもしれない。
 
      

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