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再び車に乗り、200メートルほど北へ移動。
小さな手書きの看板に導かれ、先ほど『キトラ』の項でも書いた高松塚古墳を探す。
飛鳥は狭い範囲に遺跡が分散しているため、レンタサイクルによる観光が盛んだ。おそらくこれも自転車を誘導するための看板なのだろう。
看板が指し示すのは、ハマーではとうてい入って行けそうにない細い田んぼ道だった。正規の表玄関に通じているとは思えないので、わたしはここで車を降り、一人で古墳を目指した。 |
左手にこんもりとした緑の丘があり、正面にも盛りあがった古墳みたいな小山が見える(青いビニールシートの向こう)。
さて、高松塚古墳はどっちだ?
よくわからないまま、わたしは小径を歩いていった。
最初は正面の小山が古墳だと思っていた。だって、どこからどうみても古墳としか思えない、均整のとれた小山なんだもの。
しかし、近づいていっても標識がない。すごく有名な古墳のはずなのにおかしい。
なんだか妙だと感じて、左側の丘に方向修正。すると、丘の麓に高松塚古墳の方向を示す標識が現れた。
どうやら古墳だと思った小山は、ただのボタ山だったらしい。
いや、違う違う。あの綺麗に盛りあがった小山は、絶対に古墳に違いない。掘ってみれば、もしかしたら古墳かも?
・・・なんて、人の田んぼだからって勝手なことを考えてみる。
さて、緑の丘が高松塚古墳だと判明したものの、やはり正面玄関ではなかったようで、どう見てもただの藪。どこから入ったらよいのか皆目わからない状況であった。
しょうがないので植えこみをよじ登っていくと、遊歩道らしき舗装道に出た。犬を散歩させていたおじさんが、ぎょっとしたような視線を向けてくる。 |
広い丘陵地全体が飛鳥歴史公園として整備されており、とても綺麗だ。遊歩道を歩いていくと、頭上に灰色のシートで覆われた建物が見えてきた。どうやら、あれが古墳の石室解体作業現場らしい。
ここも元々はこんもりした竹やぶだったものが工事現場みたいな状態になっていた。
いくら玄室を保存するためとはいえ、もうちょっと自然な風景を保ったまま作業できなかったのだろうか。これではあんまり情緒がなさすぎるってもんだ。
かといって、天皇陵のようにほとんど調査せず封印したままというのも、考古学上どうかと思う。現天皇家のご先祖であることを考えれば、ずかずかと立ち入ってハゲ山にするわけにはいかないという事情もわからないでもないが。
一方、天皇陵として後世に記録されなかったキトラ古墳や藤ノ木古墳、そしてこの高松塚古墳は、宮内庁の管轄でなかったばかりに伐採され、マンションの工事現場のようなありさま。
飛鳥時代当時の面影に思いを馳せることなど、なかなか難しい光景である。 |
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高松塚古墳の被葬者については、諸説ある。その多くがキトラ同様、天武天皇の忍壁皇子や高市皇子の名前を挙げている。
調査の結果、歯や顎の骨の様子から被葬者は40代の熟年からから60代の初老の男性と推測されたため、40代で亡くなった上の二人がそれに該当する。 |
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高松塚古墳は村の人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、古い切石にあたって発見されたという。
うーむ、さもありなん。
だって、同じ丘の中に、もっと正確に言うと飛鳥歴史公園内に個人の畑があって、畑仕事中の農家のおじさんが作業用バイクで公園内を移動している光景が普通に見られるんだもの。
古墳が発見されなければ、このあたりはすべておじさんの畑になっていたかもしれない。 |
文化庁のホームページには、「7世紀末から8世紀初めに築造された古墳であり、石室内部(内法:奥行2.6メートル、幅1.0メートル、高さ1.1メートル)に星辰(星宿)図、日月像及び四神図、人物群像(女子群像、男子群像)が描かれ た壁画古墳」と書かれている。
1972年には「飛鳥美人」と名づけられた色鮮やかな壁画が見つかり、新聞の一面を飾る大ニュースとなった。古墳の壁画に人物の絵があったのは、日本において初めてのことだったのだ。
当時わたしは子どもだったが、「飛鳥美人」を新聞で見たときの記憶は今でも鮮明に残っている。
しかし、1,300年近く地中にあった古墳が開口した結果、人の出入などによって壁画にカビが生えることとなってしまった。
壁画の劣化を避けるため、キトラ同様壁画の切り取り作業が行われることとなったが、地元の人々の中にはこれに反対する意見もあるようだ。
例え古墳が元の姿を留めないほどに変貌してしまっても、考古学的解明を優先させ、貴重なものは博物館で保存していくことを選ぶのか。
それとも墓の被葬者を敬い、それ以上暴くのを控えるべきか。
難しい問題ではある。
エジプトのツタンカーメン王のミイラが調査される様子をテレビで観るたび、ふと胸が痛む。ツタンカーメンも、まさかミイラになった自分がレントゲンやCTスキャンで撮られたりするなんて、想像していなかっただろう。
キトラや高松塚の被葬者だって、自分の眠る玄室の壁が削り取られて運び出されるところをあの世から見ていたとしたら、きっと目を剥くに違いない。 |
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ところで、古墳内は立ち入り禁止で見学はできないが、壁画館というところでレプリカを見ることができる。
しかし、本日は休業だった。
ちゅどーん。
年始だからある程度は予想していたものの、そりゃあないよって感じである。 |
平成20年5月17日追記:
キトラ古墳の追記に引き続き、ここでも被葬者は誰かという問題について書いておきたい。
上では、キトラ古墳の被葬者として高市皇子がかなり有力になったと書いた。となると、この高松塚の候補者の一人、高市はリストから削除されることになる。
では、天武天皇の他の皇子たちはどうだろうか。
鵜野讚良皇女(持統天皇)とのあいだの一粒種で皇太子であったとされる草壁は、奈良県高市郡高取町佐田にある束明神古墳に埋葬されたという説が今のところ有力なので、やはり候補から外れる。
それより以前に亡くなっている皇子たちが被葬者である可能性は、副葬品の年代を考慮するとまったく否定されるという。
こうして候補者を消去法で絞っていくと、残るは忍壁皇子ただ一人となる。
忍壁の生年月日は不明だが、死去したのは705年。持統天皇崩御の3年後である。
壬申の乱の際、父・天武天皇に従っていることから、享年は40代中頃から後半と推定される。
だが、ここで疑問が持ち上がってくる。
束明神古墳は、その内部に壁画の一つもないという。対角長は36メートルの八角形墳で、まずまずの大きさ。しかし、壁画ひとつ描かれず、漆喰すら塗られていないそうだ。
「日本書紀」「古事記」の記述では、草壁皇子は天武のあとを継ぐはずの皇太子である。それが、規模は大きいが質素な、しかも天武・持統天皇陵から離れた場所に葬られた。
対して、キトラや高松塚古墳は「聖なるライン」と呼ばれる縦線上にあり、壮麗な壁画が施されている。副葬品も身分の高さを窺わせるものだ。
もっとも束明神古墳の方は盗掘に遭って副葬品が残っておらず、比較のしようがないのだが。
いずれにしても、草壁よりも格の低いはずの皇子たちが天武・持統天皇陵近くの、壁画のある古墳に葬られているというのは、どうにも釣り合いが取れない。
高市、忍壁両皇子はいずれも母親の身分があまり高くない。しかも、父親である天武はすでに他界している。とすれば、いったい誰が草壁を凌ぐような墓所を造営したのだろうか。
一方、草壁は讚良皇女(持統天皇)のただ一人の愛児。讚良皇女は一人息子の死の翌年、ついに帝位に上る決意を固め、天皇となる。
つまり、壮麗な墓所を造る資金は十分あったはずだ。となれば、夫の埋葬地であり、いずれ自分も入るつもりである墳墓の近くに造るのが、親の心情というものではないだろうか。
そして、天井画には皇帝を意味する星宿図を描く。天皇になるはずであった草壁のために。
こう考えていくと、草壁は本当に皇太子だったのか。そんな疑問が頭をもたげてくる。
さらに、キトラ古墳の被葬者は高市皇子で、高松塚古墳の被葬者は忍壁皇子で、本当に間違いないのだろうか。どう考えてもわからない。
この不可解さの陰には、歴史の大いなる闇が隠されていそうな気がしてならない。 |