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 平成20年キャンプ
 平成19年12月30日(日)〜平成20年1月3日(木)Vol.217
奈良・大和路をゆく年越しキャラバン 飛鳥編Part5
春 日 大 社
 翌、2008年1月1日の朝。
 わたしたちは本日2度目の初詣をするため(1度目は東大寺だ)、歩いて春日大社に向かうことになった。
 わたしたちのトレーラーは駐車場のいちばん奥。場内は初詣客の車でぎっしりだ。
 春日大社は駐車場の出入り口とは反対方向にあった。トレーラーの背後にある土手を登れば近道なのだが、そうすると隣の民間駐車場内に這い出ることになって、いかにも怪しい。
 できればショートカットしたかったが、かっこ悪いこともできないので、まともに歩いていくことにした。
 閑静な住宅街を抜けていく。お城を模したような立派な邸宅があったりして、羨ましいような住居環境だ。
 難を言えば、こうして観光客が通っていくのがうるさいという点だろうか。 
 しばらくすると、白壁の塀に囲まれた「志賀直哉旧居」があった。その手前の角を左に曲がると、春日大社へ抜ける小径に出る。
 これは志賀直哉が自ら設計した家だそうで、昭和4年から10年間、家族と共に住んだ。
 書斎は落ち着いて執筆できるようにと、日差しの変化の少ない北側に面して造られたという。「暗夜行路」はここで生まれ、武者小路実篤や小林秀雄ら、友人の集うサロンでもあった。
 夫は「おれ、志賀直哉のファンだったんだ。写真撮ってくれる?」と言うと、志賀直哉宅の門前でポーズをとった。
 「へえ、そうなの? 志賀直哉の代表作ってなあに?」

 ◆見学料/350円
  ◆op時間/9:30〜17:30
  ◆木曜定休
 平安時代以降の日本文学をほとんど読まないわたしは、志賀直哉という名は知ってても、その作品を知らない。
 「えーっとね・・・」
 夫はそのまま黙ってしまった。おいおい。代表作を言えないなんて、ホントにファンなの?
 「ふ・・・ファンだったんだよ」
 夫は口ごもりつつ、あくまでも好きでよく読んだと主張する。
 はいはい、とりあえずそういうことにしておきましょう。
 ちなみにウィキペディアにおける概要は「明治16年(1883年)2月20日〜昭和46年(1971年)10月21日)は、日本の小説家。宮城県石巻市生まれ。白樺派を代表する小説家のひとり。代表作は『暗夜行路』、『和解』、『小僧の神様』、『城の崎にて』」だということである。
 「志賀直哉旧居」を右手に見て左に折れると、「下の禰宜道」(しものねぎみち)、通称「ささやきの小径」と呼ばれる抜け道に出る。
 「志賀直哉旧居」のある高畑町は元々、春日大社の社家町だった所だ。この小径は、かつて春日大社の禰宜(ねぎ。神職の職名のひとつ)が社家町から通った道だということである。
 ふと木立の陰から、じっとこちらを見ている鹿に出会った。急いでカメラを向けたため、うっかりしてフラッシュを焚いて撮ってしまった。
 あとで画像を観てびっくり。鹿の双眸が緑色に光っていたのだ。
 古来より鹿は神の使いだとされていたそうだから、「もののけ姫」かと思うような目の光にも思わず納得。
 
 →画像にマウスを重ねてみてください。

画像左上が東寺、左下が「志賀直哉旧居」になっている。

 二の鳥居。永暦元年(1160年)の創建で、
現在の鳥居は平成7年に建て替えられたもの。
 春日大社に到着した。
 正面口からではなく、横手の通用口みたいな所から参道に出た感じである。
 春日大社は、710年の平城京遷都時に藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神を春日の地に移して祀り、春日神としたのが始まりである。
 768年には藤原永手が国家と一族の繁栄を願って、守護神2神、祖神2神の計4神を祀る4箇所の神殿を創建した。
 藤原氏の氏寺・興福地と繋がりを深め、朝廷から庶民まで信仰が拡大していった。
 特に平安貴族の春日詣では盛んで、伊勢神宮、石清水八幡宮と並ぶ神格を持つ大社へと発展した。
 また「春日祭」は賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされている。
 背後には春日山が控え、さらにその奥は「春日山原始林」と呼ばれる特別天然記念物の原生林だ。
 古都奈良の文化財の一部として世界遺産にも指定されており、また山中は古来より御神域として立ち入り禁止である。

重要文化財の南門
 中央の高い建物が、重要文化財の中門。ここから左右にのびている建物が本殿の回廊で、四柱の大神様は回廊の更に奥に祀られている。
 本殿は、檜皮葺きの「春日造」と呼ばれる様式。4神の神殿が並ぶ。
 拝殿はないので、一般の参拝客はここでお賽銭を投げる。本社へは特別参拝料(500円)を支払い、参拝することができる。
 社の右の方では、大社の職員(広報係か?)がマスコミの取材を受けていた。
 画像下にある白い布がお賽銭を投じるための臨時の場所となっている。
 さながら原始の森に抱かれたような社でありながら、なんとなく風情を感じることができなかったのは惜しい。
 参道に居並ぶ古い石灯籠などの雰囲気はよいのだが、竜宮城みたいな建物の色鮮やかさや、ごったがえした雑踏などが原因かも知れない。
 最後に、宝物殿を見学。宮廷や藤原氏から奉納された多数の古神宝類を収蔵しており、平安時代から鎌倉、南北朝時代の武具や舞楽面、楽器などが展示されている。
 
 ◆見学料 420円
  ◆op時間 9:00〜17:00
 宝物殿の見学を終えると、わたしたちは再び駐車場に戻った。
 そして、撤退の準備を終えると奈良の地を後にして、斑鳩、飛鳥へと向かった。
 飛鳥は、592年の推古天皇の即位から710年に平城京に都を移すまでの約117年間、都があった地。この時代を飛鳥時代と呼ぶが、古墳時代後期が重なっており、最後の前期後円墳が造られた時期でもある。
 先ほどまで語ってきた奈良時代には、東大寺を始めとする寺社がいくつも建てられ大仏が建立されるなど、仏教が隆盛をきわめた。
 しかし、時代を遡ること170年あまり、飛鳥時代初期の宗教は神道であった。仏教は欽明天皇の頃に隋から渡ってきたばかりの、ほやほやの新興宗教でしかなかったのである。
 やがて蘇我氏が崇仏派、物部氏が廃仏派に分かれて、血みどろの権力闘争を繰り広げる。仏教を広めて世の安定をはかろうとしていた聖徳太子は、母方の一族である蘇我氏とタッグを組んで物部氏を排除した。
 が、結果的に蘇我氏の権力が増大し、その後の大化の改新による入鹿暗殺へと繋がっていくのである。
奈良・大和路をゆく年越しキャラバン 斑鳩編
法 隆 寺
 法隆寺は別名「斑鳩寺」と呼ばれ、奈良市から南へ約10キロほどの斑鳩の地にある。
 斑鳩と書いて「いかるが」と読む。鳥のイカルに由来するという説が有力である。
 推古天皇9年(601年)、聖徳太子がこの地に斑鳩宮を建て、さらに6年後、法隆寺を建てた。
 太子の死後100年経って建てられた東院は斑鳩宮跡地にあり、その地下からは蘇我入鹿に焼き討ちされた斑鳩宮跡が発掘されている。
 西院は世界最古の木造建築群と言われており、1993年には日本で初めてユネスコ世界文化遺産に登録されている。一つの寺院として所有する国宝の数も日本一だそうである。
 さて、「日本書紀」によると、聖徳太子は574年、31代・用明天皇の第2皇子として生まれた。
 
聖徳太子の姿を描いた肖像画では最古のもの。
本名は「厩戸」。「古事記」では「上宮の厩戸豊聡耳命」と呼んでいる(うえつみやの・うまやど・とよさとみみ)。
 聖徳太子というのは後世につけられた尊称(追号)である。そのため、「厩戸皇子(聖徳太子)」と紹介する教科書もあるという。
 日本最初の女帝、第33代・推古天皇(在位593年〜628年)は用明天皇の同母妹である。
 用明帝の死後、推古の異母弟にあたる崇峻天皇が帝位に就いたが蘇我馬子によって暗殺され、推古が擁立された。
 20歳で皇太子に指名され、同時に摂政として政治を執ったという聖徳太子の実在については、最近とみに否定する説が強くなってきた。
 それらの主張の元は、(1)聖徳太子について書かれている「日本書紀」の編纂は100年も後だから信用できない (2)中国の歴史書に記されていない (3)摂政という役職は当時はまだなかった、というものである。
 後世創られた歴史書だからアテにならないという説には賛同しかねるし、そもそも太子を根底から否定してしまっては、法隆寺見学の意義がなくなってしまう。
なにしろ法隆寺は父・用明の遺志を継いだ太子が建て、太子信仰に支えられて今日まで受け継がれてきた寺である。
 「日本書紀」の記述を信用しなくては、法隆寺はおろか飛鳥観光すら興味が半減してしまう。
 そこで、今後のレポはわたしなりの解釈に従って進めていくことにする。
 
聖霊院にある聖徳太子坐像(国宝)

(1)厩戸皇子は推古帝の甥で摂政であった。(としなければ、今後の法隆寺見物に思いきり差しつかえる。しかし、政治の中枢にいた人物ではなかった、という説にも心が揺らぐ)
(2)人並み外れた聴力や記憶力といった超人伝説は後世創作されたものがほとんどだが、頭が良く有能な政治家であった。
(3)冠位十二階の制定、遣隋使の派遣といった事蹟以外は、虚構も含まれる。
(4)斑鳩宮と法隆寺を建てた。
(5)推古天皇が75歳と長生きしたばっかりに、先に死んだ太子は天皇になれず、その子も蘇我氏に滅ぼされてしまった。聖徳太子という素晴らしい名前を追号されたのは、その徳と功績にもかかわらず家名が断絶してしまった怨念を鎮めるためである。
  
 太子と周辺の系譜、簡単な年表を別ページに用意したので、参照しながら次からの法隆寺の見学レポをお読みください。
 まず、見学は西院伽藍から。法隆寺総門である「南大門」(国宝)から中に入り、西院伽藍の正門「中門」へ。
 入母屋造の二重門で、柱の中央がわずかに膨らんでいる技巧がローマ、ルネサンス建築と共通であること、四間二戸であること(日本の寺院の門は正面の柱間が奇数になるのが普通)、奥行きが三間と深いなどの特徴がある。
 奈良時代に造られた金剛力士像は、現存最古の仁王像。
 梅原猛氏の著書「隠された十字架」(1972年)によると、「中門」の中央に柱が立ちはだかっている構造が、「子孫を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じるため」であるとしているのが興味深い。
 この門、現在は通り抜けできない。観光客は廻廊を通って、金堂を斜めに見る位置から西院内に入る。金堂の背後には五重塔がそびえている。
 ※デジカメがバッテリー切れのため、以降の画像は有料ガイドブックからスキャンしたものを掲載します。
 金堂は二重基檀上に建つ重層入母屋造の重厚な仏堂で、現存最古の飛鳥建築。西院伽藍最初、つまり1,400年前の建物とされている。
 不思議なのは、この西伽藍群は聖徳太子が建てた古い法隆寺が焼失したあと建てられた建物でありながら、金堂のみが際立って古い様式だという。
 上層の支柱に施された龍の彫刻は、元禄時代の修理時に付け加えられたものだそうだ(勝手な装飾を付け足しちゃいけませ〜ん)。
 内部には聖徳太子の冥福を祈って造られたという金銅釈迦三尊像が祀られている。薬師如来坐像の光背の銘文には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が改めて像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。
 これが江戸時代に付け加えられた龍の彫刻。確かにちょっと江戸風かも・・・。
 
 (09.01.01撮影)
 金堂内陣(ガイドブックより転載)。
 天人と鳳凰が飛び交う豪華な天蓋が天井から吊り下げられ、空間を三つに分けている。
 中央が金銅釈迦三尊像、右は金銅薬師如来坐像、左は金銅阿弥陀如来坐像である。
 薬師如来像は用明天皇のために造られたと書いたが、釈迦三尊像は聖徳太子の冥福を祈り、阿弥陀如来像は母・穴穂部間人皇后のために造られたと伝わっているそうだ。
 ただし「日本書紀」には、天智天皇9年(670年)の火災で金堂を含む西伽藍のすべてが焼失したと書かれており、激しい火災があったことを思わせる痕跡が別の場所から発見されている。
 現存する西伽藍は670年以降、場所を変えて再建された。
 金堂自体の再建も7世紀末、持統天皇の頃と言われるが、となると上述の光背銘は再建後に伝承を受けて書き加えられたことになってしまう。薬師如来像は火災後製作されたもので、鋳造技術や様式も聖徳太子当時より新しいという。
 また、金堂内部の外陣大壁4面、小壁8面、その上部の壁18面、内陣小壁20面のすべての壁に「四方四仏浄土」をテーマとした絵が描かれている。
 しかし、昭和24年(1949年)、外陣の壁画「阿弥陀浄土図」などが改修工事中の出火により焼損した。
 内陣の壁画は幸いなことに取り外されており、難を逃れた。
 この火災がきっかけとなって文化財保護法が制定され、法隆寺では独自の消防団が組織されて消火作業にあたる態勢となっている。
 2008年2月10日、韓国・ソウルの南天門が焼失した際には、日本のニュース番組で「一方、日本の文化遺産はどうなっているでしょう」と、この法隆寺の消防団を紹介していた。
 ※壁画の画像は外部サイト「法隆寺金堂壁画ギャラリー」をどうぞ。
 
09年9月21日にNHKで放送された「法隆寺〜秘められた聖徳太子の夢」によると、金堂の天井板から発見された年輪を計測したところ、この木が伐採されたのは668年と判明した。
最初の法隆寺が焼失したのは670年だから、火災の2年前に伐採された木が使用されていることになる。当時は伐採した木をストックしておくことはせず、天井も建築の最後の方につけられるものなので、この金堂は火災後に再建されたものではなく火災前から独立したお堂として建てられていたものと推測される。
釈迦三尊像に火災の痕跡が見られないのは、火災前に元の法隆寺から移されたためだと考えられる。
また内陣左側の阿弥陀如来像は鎌倉時代に造られたもので、台座は飛鳥時代のもの。調査の結果、金堂の建立当初は本来阿弥陀像ではなく、現在は東院の夢殿に安置されている「救世観音」が台座に置かれていたと考えることができる。
 ←携帯電話のカメラで撮影した五重塔
 高さは約34メートル。670年の焼失後、持統天皇時代の7世紀末に金堂に続いて再建されたと考えられる。
 五重塔は、釈迦の遺骨である舎利を安置する塔婆としての意味を持っている。塔の中心を心柱が貫き、その下に埋められた心礎の中には舎利が丁重に納められている。
 2001年、西院伽藍に用いられた木材を年輪年代法という新しい測定方法で調査したところ、おおむね668年(天智7年)から685年(天武14年)頃に伐採されたものであることが判明した。
 しかし、五重塔の心柱だけは594年(推古2年)に伐採されたものと推定され、この年代の隔たりが大きな謎を呼んだ。
 なぜ、最初の創建以前に伐採された木が、約100年も後に使用されたのだろうか。
 こちらはガイドブックより転載した五重塔
 上へいくに従って規則正しく小さくなっていく軸部と、それを覆う軒の深い屋根は安定した美しい姿を生みだしている。
 塔の初重内部には、四本の柱を囲むような形で仏教世界を表現した須弥壇が築かれている。
 北面の「涅槃像土」は、涅槃に入ろうとする釈迦が横たわり、医師が脈をとり、取り囲む菩薩や弟子たちが慟哭する光景を塑土で現したものである。
 「大講堂」は学問の研鑽と様々な法要を行う道場で、本瓦葺入母屋造の建物である。
 延長3年(925年)、落雷で焼失した後、正暦元年(990年)に同じ大きさで再建された。西院伽藍の真北に建ち、中門からの廻廊が両脇につながっている。
 奈良時代には食堂として用いられたいたものが、平安時代初期に仏壇を置いて講堂としたと考えられている。
 内部に薬師三尊像、四天王立像が納められている。
 廻廊の外に出て、次に聖霊院を見学する。中には国宝の聖徳太子坐像が安置されており、靴を脱いで上がって見学することができる。
 ※画像は上の方にあります。
 聖霊院前の鏡池のほとりに建つ正岡子規の句碑。
 かの有名な、
 「(法隆寺の茶店に憩ひて)
      柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
 という、明治28年(1895年)秋に詠んだ句が刻まれている。
 ←国宝の廻廊越しに五重塔を見る。左は中門。
 聖霊院で聖徳太子像を拝んだあとは、「大宝蔵院」で数々の寺宝を見学。
 百済観音、玉虫厨子、様々な絵画、立像など、豊富な貯蔵をあますところなく展示している。
 鎌倉時代以降の展示品ばかりだった春日大社の宝物殿が裸足で逃げだすほど、古い時代の国宝や重要文化財が目白押しだった。
 特に、八頭身の立ち姿が美しい「百済観音」(国宝)は飛鳥時代に制作されたという。塗装が剥げ落ちているあたりに風格を感じさせる。
 「伝・橘夫人念持仏と厨子」も見所のひとつ。
 橘夫人(たちばなぶにん)は、「光明皇后と吉備内親王」のページでも詳しく書いている光明皇后の母、橘三千代のことだ。彼女が持っていた念持仏や厨子ということで、一番時間をかけてじっくりと拝見した。
 自分の娘を人臣初の皇后に就けるため朝廷を暗躍した橘三千代も、最後は菩薩の救いを求めたのであろう。
 
 この「大宝蔵院」では大変熱心な見学客が多くて、失礼ながら、歴史に興味がありそうには見えないような若いカップルも解説を一つ一つ読みながら、へえ〜と感心しながら見入っていた。
 
 さて、「大宝蔵院」を出たあとは、無料休憩所で一休み。そこの売店でガイドブックを買い求め、西院をいったん出る。
 東院へは徒歩5分ほどである。
 奈良時代に造られた東大門から外に出ると、驚いたことにそこは公道になっていた。
 狭い道路を、車がびゅんびゅん通り過ぎていく。飛鳥時代にあった心が、あっという間に現代へと引き戻されてしまった。
 西院と東院の境にある道路をまたぐと、再び飛鳥の時代へ。なんとも風情のある土塀と石畳の参道が東院「夢殿」へといざなう。
 東院伽藍は、上宮王家の滅亡後、100年近い歳月が過ぎてから斑鳩宮の跡地を訪れた行信が、その荒廃した姿を嘆いて建立を発願したものである。
 この「夢殿」は天平11年(739年)に建立された、八角の円堂(国宝)。東院の本堂で、太子の御影である救世観音が安置された。
 「聖徳太子伝暦」という書物には、聖徳太子が住んだ斑鳩宮にも「夢殿」と呼ばれる建物があったという。
 太子はその建物の中で思索にふけり、東方から来た金人(仏)のお告げを聞いたという言い伝えから、後世になって「夢殿」という名で呼ばれるようになった。
 もとは東院の中門であった場所に、1231年の鎌倉時代に再建された「礼堂(らいどう)」。ここから伸びる廻廊が、夢殿を中心として取り囲んでいる。
 その北東には、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女の発願により建てられた尼寺「中宮寺」がある。入り口まで行ったが、時間により見学終了となっていた。
 ここには「世界三大微笑像」の一つに数えられる木造弥勒菩薩像(飛鳥時代後期の作)が安置されているそうだ。
 それでは、ここで問題です。「世界三大微笑像」のあと2つはなんでしょう?
 答えは、なんとスフィンクスとモナリザだそうだ。なんだか無理矢理っぽいと思うのは、わたしだけ?
 これが「モナリザの微笑み」に匹敵する弥勒菩薩像の微笑。
 慈愛に満ちた表情が印象的だが、これをアルカイック・スマイル(古典的微笑)と呼ぶのだそうだ。
 中宮寺はもともと、現在の位置から東へ数百メートルの所に建っていた。斑鳩宮を間に挟み、法隆寺とちょうど対照的な位置にあったのである。
 こうして全体を見てみると、仏教を研究し広め伝える”学問研究所”であった法隆寺から聖徳太子が住まう斑鳩宮を経て、母親の御所でもあった中宮寺まで、約1キロにも及ぶ壮大なスケールの空間が広がっていた。
 また、ほど近い場所に藤ノ木古墳がある点も非常に興味深い。この円墳は580年代から600年頃に造られたとされ、男性二人が合葬されている。
 この頃の皇族や豪族は、例えば母親の一族が勢力を持つ土地など、縁の深い場所に住居や墓を建てたと思われる。これは当時の結婚制度が通い婚であったことに起因する。縁もゆかりもない場所に、土地が開いていたからといって建てるものではないのだ。
 そう考えると、この藤ノ木古墳の被葬者も、聖徳太子と縁の深い人物ではないかと考えられる。古墳の造営が580年代から600年頃と推定され、太子が斑鳩宮を建立し始める少し前にあたる。
 法隆寺長老の高田良信氏はその著書の中で、蘇我氏対物部氏の闘争により悲惨な最期を遂げた穴穂部皇子(欽明天皇皇子で、厩戸の母の同母弟)と、同じく蘇我馬子によって暗殺された同母弟、崇峻天皇の二人が古墳の被葬者であると述べている。
 太子は母方の叔父である二人を密かに藤ノ木古墳に改葬し、その鎮魂のため法隆寺を建設したのではないかというのである。 
  翌年の法隆寺レポはこちら
藤 ノ 木 古 墳
 これがその藤ノ木古墳。
 車で行ったのだが、ただの工事現場にしか見えず、あやうく通り過ぎるところであった。
 トラックや重機が放置されているが、憩いの公園に改修中らしい。
 まずは古墳に近寄って撮影。次に、フェンスの編み目にカメラを入れて撮影してみた。
 以前は草木が生えた自然な姿であったものを、こんな禿げ山にしてしまうなんて。ちょっと唖然としてしまった。
 藤ノ木古墳は直径約48メートル、高さ約9メートルの円墳で、未盗掘であった。
 昭和時代に3度の発掘調査が行われ、鎧や鉄鏃(てつぞく)などの武器、金銅装の馬具、土師器(はじき)・須恵器(すえき)などの土器類、金属製の玉類、ガラス玉などの装身具、冠・履(くつ)・大帯・大刀・剣などの多くの副葬品が出土した。
 斑鳩町のwebサイトによると、被葬者は北側に17〜25歳の男性、南側は年齢を特定できないものの、がっしりとした体格の男性である可能性が高いということである。
 改装工事が行われる以前の画像はこちら。また金銅製馬具などのレプリカは、「いかるがホール」で常設展示しているとのことだ。
 わたしは、この古墳の被葬者について論じるほどの知識を持ち合わせていないので、それが前述の崇峻天皇と穴穂部皇子かどうかは否定も肯定もできない。
 だが、ここが聖徳太子自身の陵墓である可能性はまったくゼロなのだろうか。というのも、難波の磯長(現在の大阪府太子町)にある聖徳太子陵が本物かどうか、いささか疑わしいからだ。
 太子は生前に墓所を定め、造営を開始したという。宮内庁は明治時代、叡福寺内にある「叡福寺北古墳」を太子の陵として比定している。
 磯長は蘇我氏縁の地だそうなので、蘇我系である太子がそこに埋葬を望んだことは、さほど不自然ではない。しかし、心血を注いだ法隆寺や斑鳩宮のある斑鳩ではなく、出生地とされる橘寺のある飛鳥でもなく、なぜ遠く離れた磯長なのか。
 人は生まれ育った土地か、生涯の大半を暮らした本拠地に眠りたいと望むのが、普通の感情ではないだろうか。この藤ノ木古墳ではないとしても、もうちょっと程よい距離の所に造営した方が、目も届きやすいというものだ。
 叡福寺にある陵墓は、太子信仰が盛んになった後世に聖地とされたのではないかという説もあり、信憑性は定かではない。
 2002年11年に墳墓の一部が研究者に公開されたが、石棺の中まで調査の手が入ったわけではない。ぜひとも精密な調査を行い、真相を明らかにしてもらいたいものだ。
 

    本日入った温泉    

かもきみの郷
 
 
   

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