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わたしたちは福島県の「あだたら高原野営場」を引き払い、約207キロ離れた岩手県一関市へと向かった。
東北自動車道を走りながら、宿泊地をどうするか石川さんと相談。無料の野営場などをあれこれ検討したが、まだ道が開通していないなどがあった。
そこで、GW前に「いっぱいです」と言われた「いちのせき厳美オートキャンプ場」に再び電話を入れてみた。もしかしたらキャンセルが出て、状況が変わっているのではと思ったからだ。
電話に出たのは女性で、後で知ったのだがオーナーの奥さん。愛想がよくて、ちょっと大ざっぱなところのある人である。
わたしがこちらの車の状況を話すと「大丈夫なんじゃないかしら・・・」という答えだったので、それではこれから伺いますと予約を入れて電話を切った。 |
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キャンプ場は一関インターチェンジからおおよそ14キロほど栗駒山方面に行ったところにある。
アプローチは田んぼの農道から里山に登っていく細い道だ。途中カーブしているところなど、我が家のトレーラーは本当にギリギリ。石川さんが先に登って通れることを確認し、対向車を止めておいてくれた。 |
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アプローチのところで嫌な予感がしていたのだが、案の定、キャンプ場の中も我が家のトレーラーには少々狭かった。
電話で「こちらは全長11メートルです」と言っても、知らない人は大丈夫じゃないかと思ってしまうようだ。しかし、管理人さんが指定した場所にはどうやっても入りそうにない。
管理人さんは「他に通る人もいないから道路に停めちゃっていいですよ」なんて、実に大らか。おまけに明日は向こうのが空くから移動すればいい、なんて簡単に言う。
その提言を入れて今夜は通路に一泊し、明日別のサイトに移動することになった。
野趣あふれる雰囲気はたいへん申し分ないキャンプ場で、野鳥の声がこだまし清々しい。車の音もせず、本当に静かだ。
その静寂をわたしたちが破ってしまい、周りのテントキャンパーさんたちには申し訳ないことをした。 |
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コテージ前の広い砂利スペースに石川さんのウィネベーゴを停め、ドームテントを設置。
うちのトレーラーを置かせてもらった道路を真っすぐ行くと、貯水池に至る。(下の画像)
のどかにカモが3羽泳いでいて、犬を散歩させる人の姿も見られた。 |
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| ■平泉 中尊寺・金色堂 |
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翌日、全員で平泉観光に出かけた。
平泉は2005年の大河ドラマ「義経」が放送されていたときから訪れたかった場所だ。源義経(1159年〜1189年)が生涯において2度訪れ、兄・頼朝の追討命令により命を落とした最後の地も平泉なのである。
◎京都・鞍馬寺見学
◎義経が雨宿りをした雨晴海岸「義経岩」
◎義経の年表はこちら |
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到着したのは9時だったが、駐車場にはすでに行列ができていた。
夫が車の駐車場に入れるためその列に並んでいる間、わたしは石川ファミリーとともに下車し、先に寺まで登ることにした。
まずは案内所に立ち寄って平泉全体のガイドマップなどをもらい、詳しい説明もしていただいた。 |
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中尊寺へと至る「月見坂」と呼ばれる坂道。けっこう急な上り坂が1キロ続く。
中尊寺は特別史跡に指定されており、天台宗東北大本山。
いくさによって父と妻子を失った藤原清衡(1056年〜1128年)が、仏教による平和な理想社会を建設しようと1105年建設に着手し、まず多宝寺を建立。さらに21年の歳月を費やして寺塔40、禅坊300と謳われた中尊寺の大伽藍が完成した。
残念ながら度重なる火災によって、現在に残る建設当初の建物は金色堂のみとなっている。
汗をかきながら坂道を登りつめた先には、「讃衡蔵(さんこうぞう)」があった。これは寺宝展示施設で、国宝や重要文化財を含む寺宝や藤原氏の貴重な文化財が展示されている。
まずチケットを購入し、中を見学する。 |
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中央が阿弥陀如来座像、左右が薬師如来座像。もとは中尊寺光勝院の本尊だったものと伝えられ、重要文化財に指定されている。
桂の木の寄せ木造りで、高さは267.9センチ。 |
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「千手観音菩薩立像」。中尊寺観音院の本尊。檜材一木造りの等身大象。 |
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「金色堂」
清衡が69歳の時、1124年の造営。高さ8メートル、幅約5.4メートル四方の阿弥陀堂である。
元々は屋外に建っていたが、風雨から守るため覆堂によって内部に収められた。現在の覆堂は1965年に建設された鉄筋コンクリート造りのもの。
下の画像は重要文化財の「旧覆堂」。1288年、鎌倉幕府によって造られたもので、以降の参拝客らは覆堂の中に入って金色堂を参拝した。松尾芭蕉もこの中に入って金色堂を参拝している。
新しい覆堂の建設により、現在の場所に移築された者である。 |

新しい覆堂 |

旧覆堂 |
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中に入ると、ガラス越しに金色堂を拝むようになっており、音声テープによる説明が流れる。
金色堂は三間四面の単層宝形づくりで、反りを打つ古瓦葺きの屋根が美しい。四壁の内外は金箔が張られており、そのまばゆさには息を呑むばかりだ。
この姿は1962年(昭和42年)から足かけ7年の大改修により、かつての姿を取り戻したものである。このような完璧な保存により、金色堂はあと千年、美しさが保たれるという。
本尊の中央須弥壇には国宝の阿弥陀如来座像が座す。左右の須弥壇にも阿弥陀三尊と6体の地蔵菩薩などが並び、合計32体の仏像が安置されている。極楽浄土を現世に現しているものだそうだ。
須弥壇、4本の巻柱、長押は螺鈿(夜光貝)細工、蒔絵の枠が施されている。
夜光貝、紫壇、アフリカ象の象牙なども材料は、当時の交易の広さを物語っている。 |
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須弥壇下には初代・清衡、2代・基衡、3代・秀衡の遺体と、4代・泰衡の首が収められている。
初代から3代までは通常の病死である。しかし、4代・泰衡は臣下の裏切りにより殺害され、首を取られるという尋常ならざる死を迎えている。
父・秀衡亡き後、義経を差し出せという源頼朝の要求に屈した泰衡。義経を攻めて自害に追い込んだものの、匿っていたことを咎められて鎌倉勢に攻め込まれてしまう。
そして、その逃亡のさなか、裏切った臣下によって討たれるのである。
世の中の人々は義経を「悲運の武将」と祭りあげるが、一番悲運で哀れなのは泰衡だったのではないだろうか。父親が義経を庇護したばかりに、一族は滅ぼされてしまう。
その秀衡にしたって、まさかこういう事態になるとは思っていなかったに違いない。義経が10代だった頃、京とつながりのあった秀衡は「源氏の御曹司が野に埋もれている」という話を伝え聞き、これを取りこんでおけば先々平泉のためになるだろうと計算し、庇護することを決めたのかもしれない。 |
松尾芭蕉(1644年〜1694年)の立像。
芭蕉は江戸時代前期の俳諧師で、姓を持つ農家の出であった。伊賀国上野の侍大将に仕え、のちに江戸へ移りプロの俳諧師となる。
1689年、45歳のとき、弟子の曾良を伴って「奥の細道」の旅に出た。これは幕府の隠密として仙台藩の内部を探るための旅だったと言われている。どうやらスパイは曾良の方らしく、芭蕉はカモフラージュだったようだ。
それはともかく、芭蕉は平泉を訪れると真っ先に義経終焉の地と伝わる「高館」をめざしたという。
高館のあった丘陵地に登った芭蕉はそこから北上川の流れを見下ろし、「夏草や 兵どもが 夢の跡」という句を詠んだ。
さらに中尊寺を訪れて金色堂を拝し、「五月雨の 降残してや 光堂」と詠んだ。 |
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中尊寺の本堂。建物は1909年(明治42)年に再建されたもの。中尊寺というと金色堂ばかり注目されがちだが、こちらが中尊寺全山の中心である。
比叡山延暦寺から分火された「不滅の法燈」が灯っているそうだ。 |
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「弁慶堂」。山門跡付近に建つ「愛宕堂」、別称「弁慶堂」は文政9年に再建されたもの。
お堂の中には本尊の勝軍地蔵、義経、弁慶立往生の等身大木像が安置されている。 |
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お堂の内部。靴を脱いで入り口から見ることができる。
左が、七つ道具を背に薙刀を持つ弁慶の木像が、その右に義経像が安置されている。弁慶は主君を守って戦い抜き、立ったまま往生した「立ち往生」姿を現しているという。 |
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中尊寺のたもと、松の木の下にある弁慶の墓とされる場所。実際の墓はこの石碑の裏手にある小さな五輪塔であるが、真偽は不明。
少し離れたところには義経の正室で、ともに自害して果てた郷御前と娘の墓と伝承される墓所もある。
タッキーが主演した大河ドラマ「義経」では、正室(これがまた萌って名前で笑っちゃうのだ)は鎌倉に帰されたことにされているが、史実では平泉まで付き従ったとされている。一方で、ともに自害した妻は平泉で娶った佐藤一族の娘で、郷御前とは別人という説もある。
いずれにしても、義経は奥さんを複数もらっていたことになる。京にもたくさん愛人がいたし、かなり好色だったようだ。NHKのタッキー義経(その前のヒガシ義経もだが)は美化されすぎにもほどがある。 |