次なる目的地は姫路城だ。
地図で見ていたら東条湖から姫路城はすぐ近くに思えたが、神戸からは68キロあった。こんなに遠いとは思わなかった。高速道路をひた走っても1時間かかったのである。
実は酒飲みさんや でむさんに「神戸でお墓参りしてから姫路城に行ってくる」と話したら、お二人ともちょっと複雑な表情になっていた。
今になって、その意味が理解できる。神戸と姫路では東条湖を挟んで真逆の方角。おまけにけっこう距離もある。地理をよく知らない人間が思いつきで立てたような観光計画に、二人とも戸惑ったに違いない。
関東で言うと、「東京タワー登ってから小江戸川越見学して、次に箱根ね」みたいな奔放な計画に近いだろうか(ローカルすぎてわかんない方、ごめんなさい)。 |
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姫路城に到着したのは、そろそろ4時に近いというような時間帯であった。ご覧の通り太陽が西に傾きかけていたが、まだ日没にはほど遠い時間帯である。
わたしたちは車を駐車場に入れ、城の入り口に向かって歩いた。その時になってようやくわたしの中に「もしや閉館時間なのでは・・・」という重大事項が浮かび上がってきた。 |
だが、5時くらいまでやってるに違いない。と、わたしにしては珍しく楽観的に構えていた。
あの働かない人の国イタリアだってポンペイの遺跡は6時過ぎまで開いてたんだもん。という、いささか根拠のない考えに支えられての楽観的観測は、しかし儚くも崩れ去った。
城の閉館時間はなんと4時半、受付は4時で終了だった。わたしたちが到着したのは、まさに4時5分であった。
がーん、がーん、がーん。もひとつ、が〜ん。
夫が受付の人に頼んでみたが、すでに中の方で閉めてしまっていると言うことで、入れてもらえなかった。
ひどい、ひどい。こんなのってあんまりじゃない?
わざわざ東京から来ているというのに。明日は帰るというのに。
ああ、もうちょっと早く東条湖を出ていれば。夫が「トイレ!」と言ってコンビニに駆けこまなければ。墓地で迷わなければ。リストランテであんなにまったりとしなければ。そして、あの赤信号で止まらずギリギリで走り抜けてさえいれば、わたしたちは間に合ったかも知れないのに。
ショックで肩を落とすわたしに、夫は「明日、また来てあげるよ」と優しい言葉をかけてくれた。
「でも、明日は帰る日だよ・・・」
と、わたしはうわべはしおらしく答えたが、内心では、
「当たり前じゃ、ぼけ。あんたのせいで間に合わなかったんだからね!」
と夫に全責任を覆いかぶせていたのだった。
続く。。。。 |
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さて、翌日。
本来ならトレーラーを牽いて帰途に着く準備をしていなければならなかったが、わたしたちは再度姫路城を訪れていた。
この時になって初めて知ったのだが、昨日わたしたちが車を停めた美術館側は城の裏側だった。正面は土産物屋が建ち並ぶ南側の賑やかな一角。 |
たいへん広い駐車場があり、キャンピングカーやロングサイズのトレーラーもOK。係員さんに確認したところ、場内で一泊しても構わないとの答えだった。
いいね、いいね。次はトレーラー(キャンピングカーになってるかも?)で直接ここに来ようか。
橋を渡って堀を越えると、三の丸広場や姫路公園などのある広大な広場に出た。 |
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三の丸広場には「世界遺産 姫路城」と刻まれた石碑が置かれていた。
この石碑の前では多くの外国人旅行客がかわるがわる記念撮影をしていた。
ユネスコ世界遺産に登録されたのは、1993年のこと。姫路城は安土桃山時代に築かれた天守を有する数少ない城であり、まぎれもなく日本一美しい城だと思う。 |
しかし、「日本一の名城」と呼ばれるのは外観の美しさからだけではなく、櫓や門、塀などが比較的よく現存していることにもよる。
熊本城、名古屋城は戦争のために一度焼失している。その後再建されたとはいえ当時の元の建築とは違っていることを考えると、姫路城は2つとない名城なのだ。 |
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南北朝時代、この姫山という山にはすでに赤松氏が築いた小規模な城が建っていた。
1580年、城代を務めていた黒田孝高が羽柴秀吉に城を献上し、近代的な城郭に改めるべく大改修が施された。姫路は播磨国の中心となり、山陽道も姫路の城下町を通るよう動かしたという。
その後、天下人となった秀吉は大阪城を築いてそちらに移った。 |
そのため姫路城には最初弟の秀長が、次いで親族の木下家定が入った。
さらに1601年、つまり関ヶ原の合戦の翌年であるが、戦功により池田輝政が姫路城に転封した。播磨、備前、淡路3国の大領主となった輝政は財力を注ぎこみ、足かけ9年の歳月を費やして現在の姿に改修した。
輝政は尾張国の生まれで、最初は織田信長に仕えた。のち秀吉に仕えて親族待遇となるも、太閤亡き後は徳川家康の娘婿となっている。時流を読むことに長けており、戦国の荒波の中を巧みに泳ぎ切った武将の一人と言える。
1603年、家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開かれた。
1615年、大坂夏の陣で大阪城が落城。豊臣秀頼と母・淀の方は自害し、秀吉が一代で築き上げた豊臣家は滅亡した。
秀頼正室の千姫は落城前に城を出されており、父・秀忠の元に戻った。そして翌年、本多忠刻と再婚する。
1617年、播磨藩3代藩主・池田光政のとき、池田家は突如鳥取藩に国替えとなった。 |
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代わりに姫路城に入ったのは、千姫と結婚した本多忠刻の父、忠政である。
国替えの表向きの理由は、光政がまだ幼かったので要所を任せるには不安だったから、ということになっている。姫路城では、忠刻と千姫が住むための西の丸が整備された。
ちなみに、忠刻の母は松平信康の次女・熊姫だ。 |
信康は家康が三河のペーペー時代に生まれた長男で、正室は織田信長の娘、徳姫。つまり忠刻は織田信長と徳川家康の両者いずれにも曾孫にあたる、結構すごい血筋のプリンスなのである。
結婚のなれそめは、千姫が美男の忠政を見初めてのことだったと言われている。 |
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また、白い漆喰壁の美しさから、この城は「白鷺城」と呼ばれることもある。
白鷺が羽根を広げた様を連想させられること、古来よりゴイサギが棲息していたこと、城が建つ姫山を別名鷺山と呼んでいたことなどから、漢学者がそう名づけた。
だから、「しらさぎじょう」ではなく、音読みで「はくろじょう」と読むのが正しい読み方なのだそうだ。 |
しかし優美で美しいのは確かだが、「思っていたよりはちょっと小さいな〜」というのが最初の印象だった。
横にどわーっと長いヨーロッパのお城に比べると、かなりちんまりとしている。
それでいて、マッチ箱を重ねたようなコンパクトさはかえって新鮮で鮮烈だ。日本人の美意識の高さが非常に伺える建築物だといえるだろう。
ところで、時代劇をよく観る人ならまず間違いなく、この姫路城を幾度も眼にしているはずだ。なぜなら、天守閣を持たない江戸城の代わりとして姫路城の映像がしばしば使われるからである。「大奥」や「暴れん坊将軍」などで場面転換の折りにちょいちょい映るので、覚えていない人はぜひご覧ください。 |
さて、前振りが長くなってしまったが、料金を支払っていよいよ城に入場する。
外観の雄大さとは対照的に、内部は細い通路が螺旋状に張り巡らされて迷路のような造りになっている。
これはもちろん、敵が侵入したとき迷わせるため。土壁に開いた穴は「狭間」といい、銃や弓矢を撃つための銃眼だ。
山の上に建つとはいえ、姫路城はいわば平城。そのため、堅固な石垣や狭い通路、各所に設けられた狭間などで護りを固めていたのである。 |
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いよいよ城の内部に潜入だ。
入り口で靴を脱いでビニール袋に入れ、スリッパに履き替える。靴は自分で持ち歩くことになるが、急勾配の階段をスリッパで上り下りするのはすっごく大変。
登りはともかく、下りがコワイ。階段は急だし、幅も狭い。これも敵が侵入してきたとき、上から攻撃するのには有利だっただろうと思う。 |
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階段を幾段も昇り継ぎ、天守閣に登る。汗をびっしょりかいてしまったが、気分は最高だ。眼下には先ほど歩いてきた三の丸広場が見える。
途中の階層では鎧や刀、掛け軸などの展示品が展示されており、見ごたえ十分だった。
現代的工法で再建築された長浜城や名古屋城などとは根本からして違う天守閣の構造には感嘆しきりだ。
これをクレーンも重機もない時代にマンパワーのみで作りあげたのだから、当時の大工たちの知識と技量には恐れ入る。
しかし、この天守閣はなにもかもが当時のままというわけではない。昭和31年に始まった「昭和の大修理」と呼ばれる大改修では建物すべてがいったん解体され、腐った木材などは取り替え、瓦も新しく焼き直し、基礎は鉄筋コンクリートで固めて再構築されているのだ。
歴代藩主の家紋が刻まれた瓦は取り除かれてしまって、もう姫路の城下町を見下ろすことはないのである。 |
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天守閣を降り、次に「腹切丸」や「お菊井戸」などを見てまわる。他に姥が石、油壁、転用石などの見所もあったが、時間がなくてパス。
「姥が石」は羽柴秀吉が築城したとき、貧しい老婆が寄付したという石臼だ。この噂が町じゅうに広まって多くの石が集まり、城の石垣が完成したという。
実際に城の北側で、石垣の一角にはめこまれた石臼(の半分)を見ることができる。 |
| しかし「老婆が石臼を持ってきた」という話は、石材不足に悩む秀吉が思いついた創り話ではないかと、わたしなどは考えている。頭の切れる秀吉は噂話を触れまわさせ、石をありったけ集めたのではないだろうか。 |
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こちらが「腹切丸」。構造が切腹の場、検視役の席、首洗いの井戸になぞらえて見えるため、そう呼ばれるようになったという。
城内に処刑場を置くことは考えられないので、実際にここで切腹があったわけではないらしい。
ここは帯郭櫓といって、搦手を守る大切な場所であったという。 |
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そして、これが「お菊井戸」と呼ばれる古井戸。怪談「播州皿屋敷」のヒロイン、お菊が殺されて沈められた井戸だとの言い伝えだそうだ。
お菊は武家屋敷に仕える腰元であった。奉公先の家宝で10枚セットのお皿のうち、一枚をうっかり割ってしまった。
そのため主人に斬り殺され、井戸に投げ捨てられる。 |
それからというもの、古井戸の中から夜ごと、
「一ま〜い、二ま〜い・・・」
「九枚・・・一枚足りない・・・」
と、恨めしそうにお皿を数える声が響き渡ったという。
この怪談は十代、二十代の若者はともかく、30歳以上の年代の人なら誰でも知っていると思う。わたしも子どものころ上記のストーリーを母から聞いて、これを江戸の怪談だとばかり思って育った。
しかし、この怪談の名前は「播州皿屋敷」だ。
えっ、お菊さんって、江戸の人じゃなかったの? と、江戸っ子娘のわたしは「お菊井戸」を観て非常に驚いてしまった。
だが、心配は無用。ちゃんと「番町皿屋敷」という、江戸バージョンのお話も存在するのだ。歌舞伎でも上演されてきた人気ネタなので、番町の方が一般には馴染み深い。
播州と番町、両者のあらすじは微妙に違っている。
まずは播州版の方からご紹介しよう。原形は、姫路市の十二所神社に伝わる「播州皿屋敷実録」だという。
時は永正年間というから、江戸時代ではなく室町時代、足利将軍第11代の頃のこと。
姫路城主・小寺則職の家老職にあった青山鉄山が、主家横領の陰謀を企てた。それを、青山家に住みこんでいた腰元、お菊が察知する。彼女は忠臣・衣笠元信の愛妾であったため、いちはやく主君毒殺計画を元信に報せた。
(これには別説があり、陰謀を察知した信元がお菊を青山家に潜入させ、情報を探らせたというものだ)
とにかく元信はお菊から得た情報によって主君の危機を救い、これを逃して匿うが、姫路城は鉄山の手中に落ちてしまう。
鉄山は内部に情報を漏らす者がいると思い、町坪弾四郎に命じて探索させる。やがて弾四郎はお菊がスパイであることを突きとめる。そして、かねてから思いを寄せていたお菊に言い寄るが、お菊はこれを拒絶した。
そのため、弾四郎はお菊が管理を任されていた家宝の皿を一枚隠してしまった。
箱の中に皿をしまうお菊。しかし、一枚足りない。震える手で何度も数え直すが、やはり足りない。
弾四郎は城内の車門内にある自分の屋敷にお菊を連れて行き、糾弾し責め立てた。それでも言いなりになろうとしないお菊を庭に引き出し、松の木に縛りつけて拷問する。
お菊はとうとう責め殺され、死骸は井戸の中に投げ捨てられてしまった。
それ以来、夜ごと夜ごと井戸からは「一枚・・・二枚・・・」という物悲しくも恨めしげな声が響き渡るようになったという。
やがて、元信ら一味は決起して鉄山以下を滅ぼし、小寺則職は無事城に戻ることができた。
のちにお菊の悲劇を知らされた則職は、十二所神社の末社にお菊を祀ったという。 |
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これが、その井戸だ。現在は水が枯渇した状態になっている。
英語で紹介した説明文も掲げてあって、アメリカ人とおぼしき白人男性が熱心に読んでいた。
さて、お次は「番町皿屋敷」のご紹介。
こちらは、いかにも単純明快なことの好きな江戸っ子が作者らしく、複雑なお家騒動は出てこない。 |
舞台は江戸、番町。番町は番町でも学ラン着た番長ではない。現在の千代田区一番町から六番町を総称して番町と呼ぶのだ。
かつては江戸城(現在の皇居)に面した武家屋敷街であったが、今では閑静なオフィス街である。日本テレビが汐留に本社ビルを移転させるまでは二番町にあった。
旗本の青山播磨の屋敷に仕える腰元・お菊は、実は播磨の密かな恋人であった。
播磨に結婚話が持ち上がったため、お菊は播磨の気持ちを試そうと、わざと皿を一枚割る。
播磨はそのことを不問に付すが、後になって実はお菊が自分を試すためにわざとしたことだと知り、逆上する。
そんなにオレが信じられないのか! と、播磨は愛する女を手に掛ける。そして、その遺骸を古井戸に投げ捨てるというくだり以降は、播州版と同じである。
これはどうやら播州と番町の響きがそっくりなことから、後世の作家が江戸っ子好みに創りかえたもののように感じる。青山播磨という名前が姫路城のある播磨国とリンクしているあたりは、ちょっぴりお茶目だ。
だが、播磨はお菊を愛していたはずなのに、なぜその遺体を粗末に扱ったのだろうか。これには少々納得できかねる。
播磨は元々乱暴者だったというキャラ設定だが、それでも二人は互いに愛しあっていた。
男の愛情を信じ切れなかった女の悲劇と、疑われることに耐えられなかった男の悲劇が、この物語の最大の見せ場だ。それなのにお菊を井戸に投げ捨てたのでは、播磨はただの異常者で終わってしまう。
こういう悲劇的なストーリーに、死体遺棄は似合わない。やはり男は、女の亡骸に取りすがって泣くのがふさわしいのだ。
また、お菊自身がわざと皿を割ったのなら、幽霊になったあと恨めしげに数え直すのは不自然だという気がする。
とまあ、こんなことを考えていると、江戸バージョン皿屋敷にはなんだかアラが目立つ。
播磨の国に伝わる怪談話に男女の恋愛を絡めたところはいかにも江戸っぽいが、無理矢理古井戸とお皿を数えるところに持っていこうとするため、矛盾が生じているのである。
その点、播州バージョンの方は筋に矛盾がなくて、よくできているという印象だ。
しかし、この江戸バージョンにも、お菊がうっかり皿を割ってしまった。あるいは、お菊を妬んだ同僚が皿を一枚隠した、という別バージョンが存在する。
お菊が「一枚足りない・・・」と毎晩数え直すのなら、同僚が隠したせいでお菊が斬られたというストーリーが最も自然な筋運びなのではないだろうか。 |
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ところで、わりとありがちな話なのだが、播州と番町、どっちが皿屋敷の元祖か? という本家争いが勃発しているという(誰が争っているんだか)。
どっちでもいいじゃん、どうせ根が伝説なんだからさ。と書くのは、ガイドブックの著者、橋本先生だ。
いやいや、わたしはどっちがご本家かとっても気になるんですけど。まあ、心証としては播州に軍配が上がるけどね。 |
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城見学を終えて、駐車場の方まで戻ってきた。が、その前に土産物屋に立ち寄り、好物のサバ寿司と姫路せんべいを購入。
せんべいは大味だったが、サバ寿司はおいしかった。
ところで最後になったが、ここで千姫がその後どうなったかという後日談を記しておきたい。
彼女はこの城で末永く幸せに暮らせたのだろうか。
実を言うと幸せだった期間は10年と、とても短いものだった。忠刻は31歳の若さで藩主の地位を継ぐことなく亡くなっている。
夫婦の間には一男一女が誕生したが、長男は4歳で早世した。千姫は残された勝姫とともに江戸城に戻り、そこで出家。
やがて竹橋の屋敷をもらい、そこで娘と二人で暮らした。 |
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娘が鳥取藩の池田光政に嫁ぐと寂しい一人暮らしとなったが、弟である三代将軍家光の庇護を受けた。
家光はこの姉を大変慕っていたそうだ。お互い母親の縁に薄かったことも影響したのかもしれない。一人暮らしになった姉を気づかって、後に自分の側室や子と一緒に住まわせるといった配慮もみせている。
忠刻に死別されてから40年後の70歳で、千姫は亡くなった。
秀頼との結婚生活は12年、忠刻とは10年。余生のあまりの長さに比べると、実に短い結婚生活であった。
その長い長い老後生活の中で、彼女はなにを想って暮らしたのだろうか。
千姫の生涯を思うとき、わたしは彼女が幸せだったかどうかを知りたくなってしまう。
けっして不幸などではなかった。短いながらも幸せな結婚生活を送り、一生懸命生きた。わたしは幸せだったと思っていたと、そう願いたい。 |
姫 路 城
◇兵庫県姫路市本町68地姫路城内
◇079-285-1146
◇入場料/大人600円、5歳〜中学生200円
(好古園、博物館、美術館との共通券あり)
◇営業時間
9月〜4月26日:9時〜17時(入城16時まで)
4月27日〜8月:9時〜18時(入城17時まで)
◇駐車場あり
◇公式HP |
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