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 平成19年キャンプ
 平成19年12月30日(日)〜平成20年1月3日(木)Vol.217
奈良・大和路をゆく年越しキャラバン Part1
 キャンピングトレーラーを購入して以来、毎年家族で年越しキャラバンを行ってきたが、今年は初めて夫婦2人だけとなった。
 なにしろ目的が歴史探究の旅である。奈良、斑鳩、飛鳥の古寺や古墳などを見てまわる予定で、子ども向きの企画は何もない。
 夏休みキャラバンも東北の秘湯を極める旅で、やっぱり子どもはついてこなかった。
 だんだんこうして親離れ、子離れしていくものなのだろう。
も く じ
奈良編Part1 奈良公園、東大寺
奈良編Part2 興福寺、薬師寺
奈良編Part3 垂仁天皇陵、平城宮跡、神功皇后陵
奈良編Part4 佐紀古墳群(成務天皇陵、日葉酢媛命陵、孝謙天皇陵)
東大寺・除夜の鐘と初詣
奈良編Part5 春日大社
斑鳩編 法隆寺、藤ノ木古墳
飛鳥編Part1 キトラ古墳、文武天皇陵、高松塚古墳、鬼の俎・鬼の雪隠
欽明天皇陵(吉備姫王墓、猿石)、天武・持統天皇陵
飛鳥編Part2 亀石、石舞台、飛鳥浄御原宮・飛鳥板蓋宮跡、酒船石、
亀型石造物
飛鳥編Part3 飛鳥寺、蘇我入鹿首塚、石神遺跡、水落遺跡、甘樫丘
飛鳥編Part4 マラ石、橘寺・二面石、神武天皇陵
三重県四日市市の夜
 さて、年末ということで仕事が山積し、出発できたのは30日の朝。東名自動車道をひた走り、夜には三重県に到着していた。
 今回はかなり事前計画に時間を割いてきたので、予定通り温泉に入ってから寝ることができそうだ。
 四日市ICで降りてガソリンを補給。
 温泉に向かう途中、道の駅の場所を確認してから片岡温泉へ。
 ここは三重県では比較的有名な湯の山温泉のちょっと手前にある日帰り温泉だ。
 残念ながら夜11時に閉館となるため、ここの駐車場でP泊することはできない。さらに手前の踏切がすごく狭くて、我が家のトレーラーでは入っていけなかった。
 踏切の前に「旅の駅建設予定地」と書かれた空き地があったため、そこにトレーラーを停める。 そこから踏切を渡って、片岡温泉はすぐ目の前だ。
 ここはアルカリ単純泉ながら緑がかった薄い茶色のお湯で、ヌルヌル感もある掛け流し。
 混んでいたが洗い場に並ぶほどでもなく、ほどほどの賑わいも心地よい。
 わたしは夫と40分で出ると約束していたが、予想以上にお湯がよかったので、上がるまでには1時間以上を要した。
 ロビーで待っていた夫も「いい温泉だったね」と満足そうだった。
 このところ循環の温泉が続いてフラストレーションが溜まっていたので、ゆっくりと良質の温泉を堪能でき、ここまでは幸せ気分最高潮の夜であった。
 
 わたしたちはトレーラーを引っ張ってR477号線を少し引き返し、道の駅菰野(こもの)に入った。
 この辺りは観光地でもなく、湯の山温泉以外はとりたてて名所も見あたらない。そんな一角に周囲をマンションや民家に囲まれた道の駅があるのは、ちょっと不思議な感じがした。
 案の定、菰野はこぢんまりとした道の駅で、一軒だけの飲食店はすでに閉まっていた。乗用車が数台停まっているだけでトラックの姿はなく、人の姿も見あたらない。
 お陰で落ち着いて休めそうだ。
 わたしたちはヘッド車でレストランに向かった。
 インターチェンジ方面にまた少し戻って、R477号線、通称「湯の山街道」沿いにあるイタリアンカフェに入った。
 おしゃれな店構えとシェフの絵が描かれた看板に惹かれての選択だった。
 しかし、中に入って席につくと、なんだか期待を裏切られたような気分になった。
 内装の雰囲気や写真入りのメニューがなんとなくファミレス風・・・いや、それ以下だ。あんまり美味しそうに見えない適当な写真入り。
 とりあえずパスタとピザ、そして夫はブュッフェ形式のサイドディッシュを注文した。
 頼んだブュッフェが一人前だったので、ウェイターは不審な表情をして「お取り分けできませんけれど」とわたしに言った。
 一人前のブュッフェを注文して2人で取りわけるつもりだと思われたらしい。
 えーい、そんな卑しいことせんわい!
 そして予想通り、出てきたパスタもピザも外観から抱いた期待を大きく裏切るものであった。
 パスタはそんなにマズイというほどではない。まあこんなものだろう。
 だが、ピザはがマルゲリータを頼んだはずなのに、バジルもモッツァレラチーズも使われず、普通のチーズで焼いたのと変わらないものだった。
 まだサイゼリアのマルゲリータの方が、ずっと本格的でおいしいよ。
 お店の人によっぽど「これはマルゲリータじゃない」と言ってやりたかったが、寸止めの所でやめておいた。
 そもそも店名に落とし穴があったことに、最初から気づくべきだった。
 本当にちゃんと修行してきたコックだったら、あんな名前は付けないだろう。外観に騙されるべからず。いい教訓になった。

    本日入った温泉    

片岡温泉
 
三重県四日市市から伊賀の里
 翌大晦日の朝は快晴であった。
 レディを散歩させたあと、ボール投げをして遊ばせる。
 誰も出入りしないので、この空間ぜんぶ独り占め〜! と思いきや、トイレに立ち寄ったり家庭のゴミを捨てに来る人などで完全独占とはいかなかった。
 しかし、夜間に地元の若者が集まったりすることもなく大変静かだったので、とてもよかったと思う。
 さて、トレーラーは奈良へと向けて出発、やがて伊賀市に入った。
 伊賀といえば忍者、忍者といえば伊賀者。時代劇好きのわたしにとって伊賀という地名は妙にそそられるものであった。
 忍者の代表格として知られる服部氏や百地氏は伊賀流の実在した忍者だ。
 もっとも服部半蔵の場合は初代のみ忍者として活躍したが、二代目以降の服部半蔵は伊賀同心の支配役で武将であったという。
 また、山1つ隔てたところにある滋賀県の甲賀にも忍者の集団があり、時代劇では「伊賀vs甲賀」の対決構図が頻繁に見られる。
 子どもの頃大好きだった「仮面の忍者 赤影」の敵は甲賀忍者だったし、「水戸黄門」でも伊賀者はご老公方、甲賀者はご老公暗殺を企む悪役、というイメージが定着している。
 しかし、忍者はあくまでも諜報活動を主に担うスパイであって、戦闘員ではない。伊賀と甲賀が敵対したのは徳川vs豊臣の代理戦争としてであって、昔から親のカタキのように長年争ってきたというわけではない。
 また黒装束に網シャツ、背に刀を背負うスタイルも、後世になって創作されたものだそうだ。
 本来の忍者は目立たない姿で市井に紛れこみ、情報を収集する。
 一方、この伊賀上野は、かの松尾芭蕉誕生の地でもある。
 そのせいで「松尾芭蕉は忍者だった!」という説まで登場しているのは興味深い。芭蕉が俳句三昧の風流旅を隠れ蓑にして、幕府の隠密として仙台藩の内部を調べていた、というのである。
 バイパスを走っていると、伊賀をあっという間に通り過ぎてしまった。
 この風景のどこかに芭蕉が生まれ育ち、伊賀忍者の修行した里があるのかと思うと、ついワクワクしてしまう。
 次からはゆっくり下道を走り、「伊賀流忍者博物館」にも立ち寄ってみたい。なんでも世界一の忍者博物館だそうだ。しかし、日本以外に忍者がいるとは思えないので、世界一というのも当然と言えば当然かもしれない。
 まあ、伊賀温泉が良ければ立ち寄っていたのだが、いかんせん循環だそうで・・・残念ながらスルーである。
 「伊賀流忍者のふるさと、俳聖松尾芭蕉の生誕地、三重県伊賀市の観光案内」と銘打った伊賀市観光協会サイトはこちら
大晦日:奈良の1日〜奈良公園
 三重県四日市市から奈良市の東大寺までは、約100キロの道のりであった。
 奈良市の手前の天理市に入ると、「おお、ここがあの有名な天理教の本拠地か」と、夫ともども感心しながら通過した。
 そして下道を走り続け、ようやく奈良市は東大寺の近くにまで到着した。
 目的地は高畑というところにある公営駐車場だったのだが、カーナビの地図には載っていない。
 そこで近くにあるはずの志賀直哉旧宅跡を目標地点にセットしておいたら、奥の細道ならぬ細い道の奥へと入りこんでしまった。
 しまった、駐車場の入り口はこの通りじゃなかったのだ。
 左側の木立の合間には鹿の姿も見える。道に迷っている最中にもかかわらず、わたしは「鹿だ鹿だ」と大騒ぎ。
 道の右側には普通の住宅が建ち並んでいた。なんでもこの界隈では民家の庭にも鹿が立ち入ってくるとか。
 その鹿の数が多いほどお金持ちだ、という冗談もあるらしい。しかし、草花を食べられてしまうので、ステイタスもへったくれもない。わたしたちはカワイイ〜で終わってしまうが、地元住民にしてみたら迷惑な限りだろう。
 わたしたちは奥の細道のどん詰まり、春日山への参道入り口付近でかろうじてUターンできた。
 引き返し、東大寺方面に右折して駐車場にドッグイン。ここは、昨年奈良見物に来たブラボーさんに教えてもらった大型車もOKの駐車場だ。
 管理人さんが最初、入り口近くのトイレ脇に停めてと言ってきたので、わたしたちはそれに従って停めた。しかし、管理人さんは今日中に出ると思っていたらしい。
 今夜ここに泊まりたいと言うと、「えっ? ・・・じゃあ奥へ」と変更。だだっ広い駐車場の最も奥を指定された。
 なんでも大晦日の深夜から新年にかけて非常に混むので、出やすいよう出口前に停めさせようとしたとか。1泊か2泊するとなると、また事情が違ってくる。
 料金だが、白線内に収まるキャンピングカーでは1,000円。しかし、うちは2台分なので2,500円となった。一泊2,500円のキャンプ場に泊まったと思えば安いものである。ホテルに泊まればもっと高くつく。
 トレーラーを設置して中を少し片づけると、わたしたちは大仏の鎮座まします東大寺へ徒歩で向かった。
 ブラボーさん情報によると、徒歩で約10分ほどだという。自転車があれば楽だが、あいにく1台分しか載せてきていない。
 てくてくと坂を上り、奈良公園の一角に入る。
 木立の影に鹿の姿が目立ち始めた。
 やがて、東大寺前の大きな交差点に出た。
 人力車が2台、寒空の下で客待ちをしていた。この寒さでは乗る客もなく、運転手さんも暇そうだ。
 東大寺への参道に一歩足を踏み入れた突端、鹿の数がどっと増えた。
 参道の入り口近くに、鹿せんべいを売る屋台が一つ。おばちゃんがせんべいを売っており、他に屋台は見あたらない。
 参道を歩く人々に混じって、鹿たちもウロウロと歩いていた。当然、せんべいがお目当てだ。
 わたしたちもせんべいを購入した。
 思っていたほどわらわら集まってきて収拾がつかなくなるということはなかった。
 鹿同士で協定ができているみたいに、人間一人に対して鹿一匹。行儀良くおねだりしてくる姿はとってもかわいらしい。
 わたしも餌をあげてみたが、どこかの猿みたいに傍若無人な振る舞いもなくて本当にいい子たちだ。
 しかし、鹿が観光客のタスキがけバッグのストラップに身体を突っこみ、バッグを身体に巻いたまま暴走してしまったニュースが数日前にあったばかり。鹿はバッグを持ったまま無事保護されたという。
 おとなしそうに見えても、相手は野生の動物だ。どんな偶発事態が起こるとも限らない。特に発情期から子育ての時期は気が立っていることが多いという。
 ◎「奈良公園のシカ、ハンドバッグ下げ5日間逃走」のニュースはこちら
 
 奈良公園の鹿は「財団法人 奈良の鹿愛護会」により保護され、角切り、交通事故で負った怪我の手当などが行われている。
 しかし、鹿は餌を与えられて飼われているわけではない。奈良公園一帯を生息地とする野生動物であり、天然記念物なのである。
 同会によると、9月〜11月下旬頃は鹿の発情期にあたり、特にオス鹿は縄張り争いのため闘争するので、オス鹿が近寄ってきたら遠くに離れるように、とのことだ。
 メス鹿をオスの縄張りから誘い出したりすると攻撃してくることもあるという。彼らの生態を理解した上で、必要以上の接触は避けなければならない。
 穏和な眼差しが印象的な鹿。非常におとなしく、触ってもひるまない。これで野生動物とは。
 ちなみに奈良公園は東西に4キロ、南北に2キロという非常に広大な敷地を誇っている。その中に藤原氏の氏神を祀る春日大社もあり、鹿はそこの神の使いであった。
 タケミカヅチという神が鹿島神社から白鹿に乗ってやってきたので、鹿は神聖なものとして手厚く保護されてきたのである。
東大寺(奈良市)
 そうこうしているうちに、わたしたちはどんどん国宝・南大門へと近づいていた。
 鹿に気を取られ、東大寺に来たというより動物園に来ているみたいな感じである。なんだか大仏見学に来たという実感が湧いてこない。
 夫もわたしも、奈良に来るのは中学校の修学旅行以来だ。あまりにも昔のことなので、懐かしいというより、ほとんど何も覚えていないというのが実情であった。
 さて、ここで東大寺について説明しておこう。
 東大寺の前身となった寺が建てられたのは8世紀の前半。奈良時代、聖武天皇の頃である。
 天平13年(741年)には聖武天皇により国分寺建立の詔が発せられ、寺名が金光明寺となった。
 さらに天平15年(743年)、大仏造立の詔が発せられ、大仏の造立が始まった。
 天然痘の大流行、干ばつによる飢饉、大地震、九州での反乱といった、うち続く社会不安を鎮め、国を安定させようとの意図であった。
 表向きは聖武天皇の発案ということになっているが、これには光明皇后の意志が強く働いていたという。
 光明皇后は「その美しさは光り輝くばかりだったので、光明子と呼ばれた」ほどの美人だったそうだが、これは後世の創作だという説もある。
 本名は安宿媛。父親は朝廷の権力者、藤原不比等(ふひと)だ。天智天皇とともに大化の改新(孝徳2年、西暦646年)を行った藤原氏の祖、中臣鎌足の息子である。
 ちなみに東大寺は、ユネスコ世界遺産に 「古都奈良の文化財」として1998年に登録されている。
 南大門をくぐる。5間3戸、高さ25mの重層入母屋造だ。
 応和2年(962年)に台風で倒壊後、鎌倉時代に復興された。 
 左右に木像の金剛力士像が安置されている。これも国宝である。
 金剛力士は「仁王」といい、仏法を守護する力士として門や仏像の台座の左右に立つ。上半身が裸で、手に金剛杵を持っている。
 門に向かって右の力士が口を開けた「阿形」、左が閉じた「吽形」。これが「阿吽(あうん)の呼吸」と言われる元となっている。
 近年、解体修理を実施したところ、像内から多数の納入品や墨書が発見されたという。
 重要文化財の中門。享保元年(1716年)の再建である。
 この門はくぐれないようになっていて、参拝者は左に回って参拝料を支払うようになっている。そして、コの字型になっている回廊を通って大仏殿正面に向き合うのだ。
 何時からかは不明だが、大晦日の夜は入場無料。中門をくぐって、そのまままっすぐ大仏殿に向かうことができる。
 入場口付近から見た大仏殿。正式名称は「東大寺金堂」といい、古建築物としては世界最大である。
 天平勝宝4年(752年)に大仏の鋳造が終了してから金堂の建設が始まり、天平宝字2年(758年)に完成した。
 治承4年(1180年)平安時代の末期、平重衡による南都焼討によって消失。ほどなく再建されたが、戦国時代にあたる永禄10年(1567年)、兵火により再び消失した。
 再建されたのは5代将軍・徳川綱吉時代の宝永6年。このとき完成した金堂と大仏が、今に現存するものである。
 正面の幅57.5メートル、奥行50.5メートル、棟までの高さは49.1メートル。創建当時よりは横幅が3分の2ほど縮小されているという。
 金堂前に立つ八角灯籠は国宝で、扉には四体の音声菩薩が浮き彫りになっている。
 金堂に続く階段を昇る。
 近くで見ると、本当に大きな建物だ。
 1階上部の大窓は普段閉ざされているが、大晦日の夜だけ開放されるという。
 これをガイドブックで読んだときにはこの大窓にどんな意味があるのか、わたしはまだ知らなかった。
  さて、金堂の入り口をくぐり、中に入る。いよいよ大仏様とウン十年ぶり?の再会だ。
 うーん、感激〜っ!
 大仏の高さは15メートル、両膝の幅は約12メートル。もちろん、かつては金箔で覆われていたのである。さぞかし荘厳でありがたいお姿だったに違いない。
 先に述べた通り2度の火災に遭っているため、当初の部分は台座と腹、指の一部などだけだそうだ。(国宝)
 しかし、天平時代に創られた一部が残っているだけでも十分に凄いことだと思う。
 ところで、関東の人間には馴染み深い鎌倉の大仏とこちらとでは、いったいどちらが大きいのだろうか?
 実は鎌倉の大仏様は高さ11メートルなので、奈良の勝ち! 神奈川育ちの人間としては、ちょっぴり残念である。
 さて、ここで話を聖武天皇と光明皇后に戻そう。
 大仏を建立しようとした理由としては、悪疫、内乱といった不幸を払い、社会不安を鎮め国を安定させるため、信心深い夫妻が発願したという解釈が一般的である。
 しかし、実際のところは自分たちの魂の平和を得、健康回復を祈るため、「国銅を尽くして像を溶かし、大山を削って堂を構え」と言われるような一大プロジェクトを指示したのだ。
 その頃の夫妻は、自らと一族に降りかかる厄災を怨霊の祟りと信じ、恐れおののいていた。
 一種のノイローゼ状態となった聖武帝は怨霊から逃れるべく、臣下の反対を押し切ってまで恭仁京、紫香楽京、難波京と、無用な遷都を繰り返した。
 では、なぜ聖武・光明はそこまで怨霊を怖れたのか。後ろめたいことがなければ、こうまで怯えることはないはずである。
 わたしには大仏が大きければ大きいほど、それが二人の罪の深さと鎮魂の願いを裏付ける証拠のような気がしてならない。(これについて説明すると長くなるので、詳しくはこちらをご覧ください。その時代の主要な系図とタイムテーブルを作りました。けっこう力作です。)
 752年、いよいよ大仏が完成し、インドの僧を招いた開眼供養が盛大に営まれた。
 それでは、これにより聖武帝の病が癒え、心の平安は得られたのであろうか。結論から言うと、ノーだろうとわたしは思う。心に平和が戻ったかどうかは不明だが、聖武帝の病は癒えることなく、開眼より4年後、鍍金の完成をみることなく亡くなっている。
 では、大仏の建立によって不安な政情は改まったのだろうか。
 やはり、これもノーだ。むしろ大規模な建設工事が国費を浪費させ、財政事情が悪化する原因となった。二年後には橘奈良麻呂の乱が起こっている。
 国家を安定させるどころか、かえって人臣を疲弊させる原因になったのである。
 大仏の左隣に座する「虚空蔵菩薩」。
 菩薩とは、悟りを得るため修行している人の姿とされ、出家前の釈迦だと言われる。温厚な表情を漂わせ、宝冠や装身具を身につけている。
 これまで無知なわたしは、菩薩を「仏のおばさん版」だと思っていたのだが、そうだったのか。
 奈良を楽しむためには、とにかく仏像の見方を知っておかなければならない。
 仏にもいろいろあって、「如来」(にょらい)は修行で宇宙の真理を悟り、人々を迷いの苦界から救済し悟りに導く者とされる。
 像蔵として表現される際には装身具を一切身につけず、右肩を出し、薄い衣をまとった姿のものが多い。
 
←意外と見たことのない大仏様の後ろ姿。背中の飾りの後ろにはたくさんのつっかえ棒が。
 先に進むと、廣目天像が置かれてあった。筆と経巻を持った、文武両道の神だ。
 「天」とつく仏は仏法の守護神であるため、現世利益を祈念する対象にもなっている。例えば、大黒天が豊穣の神というようにである。
 主に武将の姿をかたどるが、女性像もある。
 この廣目天は世界の四方を守る「四天王」の一人で、仏道の四隅に置かれる。広目天は西の守護神である。
 先ほど南大門で見た金剛力士像=仁王も神の一種で仏像だ。 
 大仏の後ろを回りこむようにして歩いていくと、なぜか穴の開いた柱があった。
 この穴の大きさは大仏様の鼻の穴の大きさと同じだそうだ。穴を通り抜けると幸せになるとか無病息災だとか、いろいろ言われている。
 これは大仏殿の中で「鬼門」にあたる北東に立つ柱で、「鬼門」から流れこんできた邪気を素通りさせるために開けてあるという。
 子どもだけでなく細身の大人も通り抜けられるので、皆さんもメタボチェックにぜひどうぞ。
 大仏様の後ろをぐるりとまわって一周し、外に出る。
 よく見ると、背中の飾りにはたくさんの仏様がくっついている。
 それでは最後に、大仏サマご自身の解説を。
 この大仏像の正式名称は「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」。大乗仏教における仏の一つで、実在の人物、ゴータマ・シッダッタを超えた宇宙仏とされる。宇宙の真理をすべての人に照らし、悟りに導く仏だ(意味わかんない)。
 以前、キアヌ・リーブス主演の「リトル・ブッダ」という映画を観たことがある。
 キアヌが演じたのは釈迦族の王子ゴータマ・シッダッタで、仏教の開祖となる人物だ。何ひとつ不自由のない裕福な身だったが、29歳のときに妻子を置いて出家。悟りを開くため修行の旅に出る。
 最初は食を極端に絶つ荒行を重ねたが、この方法では人の苦しみを救うことはできないと考え、次に菩提樹の下で49日間の観想に入った。
 ついに大悟した釈迦は弟子や人々に説法して教化し、仏教は大教団となっていく。
 釈迦が死亡、すなわち入滅した日は紀元前386年、もしくは紀元前486年の2月15日であると言われている。この日は「仏滅」というそうだ。
 釈迦の遺骨は帰依していた8大国の王たちに分配された。そのことで争いにもなったが、どうにか分配され、その一部は法隆寺五重塔の下に埋められたという。
 釈迦の遺骨のことを「舎利(しゃり)」と呼ぶが、お寿司のシャリはここからきている。
 大仏殿を出ると、一匹の鹿が待ちかまえていた。「せんべいちょうだい」と、さっそく近寄ってくる。
 わたしが印刷してきた資料をめくっていると、危うく食べられそうになってしまった。消化不良を起こすので、紙はあげないようにしましょうね。
 小学生がやっていたので、真似をしてお辞儀をしてみる。すると、鹿もお辞儀を返してくれた。
 かわいい! しかし、最近の鹿はマナーが悪くなって、お辞儀をするものが減ったという嘆きも聞く。
 どこの世界でも「近頃の若いもんは・・・」ってヤツでしょうか。
 鏡池の横を通り、再び南大門をくぐって東大寺を出た。
 風がびゅうびゅうと吹き荒れ、猛烈に寒い。
 わたしはスパッツにミディアム丈のブーツという格好だったので、足がとにかく寒い。
 ああ、どこかで暖まりたい。
 なんか暖かいぜんざいでも食べられるところはないかなあ。
 と思っていたら、境内の車止めを出た右側に「レストラン三山」というのがあったので、入ってみることにした。
 わたしは看板料理の栗御膳か大仏御膳を食べてみたかったが、夫がカロリー計算がどうとかこうとか説教を始めた。
 うるさいので、渋々「大和茶粥」を注文。えーん、つまんないよぉ。
 これが出てきた「大和茶粥」。食べてみると、本当にほうじ茶の味のするお粥だった。それに香の物や煮物などが添えられており、茶粥はおかわりができる。
 お茶の味がするお粥なんて初めて。香ばしくて、けっこう美味しい。
 漬け物が余ったので、もう一杯おかわりを・・・と思ったが、ここで夫が再び「炭水化物取りすぎ。どーたらこーたら」と説教しだしたので、諦める。えーい、うっとおしいっ。
 カロリーを気にしつつデザートに選んだのは三笠焼き。(けっきょく食べてるじゃん)
 奈良の三笠山から名前をいただいたもので、ふっくらと山型なのが特徴。平らなものは「どら焼き」と呼んで区別されているのだそうだ。
 
   

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