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光明皇后と吉備内親王
 光明皇后、本名・安宿媛は藤原不比等と、やはり朝廷の実力者であった橘三千代の間に生まれた娘である。
 16歳で同い年の首皇子(のちの聖武天皇)の後宮に入った。

 数年後、不比等が他界。
 9年後にはいよいよ首皇子が即位するが、安宿媛の産んだ男児は幼くして他界してしまった。
 にもかかわらず、三千代は強引に我が娘を皇后に押し上げた。
 これまで皇后は皇族の女性しかなれない別格の地位であったが、三千代と不比等の息子たちはゴリ押しして初の藤原氏出身の皇后を誕生させたのである。
 もともと、聖武天皇の即位自体が異例のことだった。
 彼の母親は不比等の娘・宮子。これまで藤原氏出身の母を持つ皇子が即位することはありえなかった。さらに、純粋な血統を持つ候補がいたにもかかわらず不比等が強行した即位であった。
 その後、三千代が他界すると、皇后自身も病の床につくようになり、さらに天然痘の大流行で4人の兄弟が相次いで世を去った。
 皇后同様、やはり病がちになっていた聖武天皇もショックを受け、やがてノイローゼ気味となる。
 永井路子氏の著作「悪霊列伝」(新潮文庫)によると、安宿媛立后の少し前、藤原四兄弟は政敵である長屋王に呪詛の濡れ衣を着せて屋敷を急襲し、妻や子どもたちともども自害させている。あくまでもうわべは自害であるが、実質は殺戮だったという。
 長屋王は天武天皇の孫で、妻の吉備皇女も同じく天武の孫にあたる。さらに吉備皇女は天智天皇の孫にもあたり、母親は元明女帝である。血筋から言うと、こちらの方が聖武側より断然上だ。
 藤原・聖武サイドにとって最大の脅威は、長屋王以上に吉備皇女とその子どもたちであった。「長屋王の変」と呼ばれるこの政変において、藤原四兄弟が本当に狙ったのは吉備皇女だったと、永井路子氏は著書の中で主張している。
 こうしてライバルを追い落とすことにより安宿媛は皇后として立ち、皇族にしか許されなかった地位を得る。
 しかし、その後、母・三千代の死、大地震、干ばつ・飢饉、そして天然痘の大流行による藤原四兄弟の相次ぐ死、光明の甥による九州での反乱と、不幸が次々と襲いかかり始めた。
 聖武・光明夫妻は食事もとれず、眠ることもできないノイローゼ症状に陥った。
 それより以前、密かに長屋王や吉備皇女の名誉回復を図ったり、寺社に塔を建てるなどの魂鎮めを行っていたが、効果はなかった。
 奈良の平城京を「呪われた都」と怖れ、聖武帝は逃げだす。そして、紫香楽、恭仁、難波と、次々に遷都を繰り返した。
 その混乱の中、安積親王(母は県犬養広刀自)が恭仁京で急死した。藤原仲麻呂(天然痘で死亡した藤原武智麻呂の子)に暗殺されたという説が有力である。
 翌年、聖武は平城京に戻ったが、病状は優れなかった。大仏の建立が始まったのは、その2年後である。
 永井氏は著作「歴史をさわがせた女たち」で書いている。
 「大仏は決して奈良時代の繁栄の象徴ではない。繁栄どころか、当時の奈良の都には不安が満ち満ちていた。
 その不幸を追い払うべく、皇后はすべてを大仏造りに賭けた。その意味で、これはただ民力を搾取して大宮殿を造るお道楽とも少しわけが違う」
 皇后にとって、遷都を繰り返す夫を奈良に呼び戻すという意図もあったかも知れない。
 しかし、大仏開眼の4年後、聖武帝は亡くなった。その2ヶ月後、橘奈良麻呂の乱が起こっている。
 財政的に無理を重ねた大事業は国費を浪費させ、人臣をも疲弊させたのである。
藤原一族と元明ファミリーの戦い
 前述したとおり、帝の皇后は皇女と決まっていたので、世継ぎも皇后所生の皇子から選ばれるのが普通であった。しかし、文武天皇は正妃が決まる前に藤原宮子を妊娠させ、皇后を迎えないまま早々に亡くなってしまった。
 こうして生まれた男子が後の聖武天皇であり、そこへ再び不比等の娘が嫁いで光明皇后となる。
 こののち藤原氏が陰謀の限りを尽くして敵対勢力を蹴落とし、天皇の進退をも左右するほどの力を持つようになるが、それもひとえに一族の娘が天皇の跡継ぎを生むようになったからだ。
 これはまさにターニングポイントとなる出来事だったのである。
 一方で、純粋な皇統を守っていくために奮闘する人々もいた。
 持統から孫の文武へとバトンタッチされた皇位は、ここでいったん母の阿閉皇女へと戻される。
 こうして即位したのが元明天皇である。
 皇位は親から子へと継がれていくのが当然と思われがちだが、この時代は意外にそうではない。皇位継承資格を有した皇子、皇女が他にいる以上、うかうかしていたら別の系統に皇位をさらわれてしまうからだ。
  持統天皇の場合も同様であった。
 夫・天武天皇の死後、皇太子の草壁皇子が28歳で急死したが、草壁の遺児はまだ7歳。当時はまだ幼帝が認められていなかったので、鵜野讚良皇后自ら皇位を踏んだ。
 自分の子や孫でない者に皇位を渡さないための繋ぎであるが、単なる繋ぎとは言い切れない逞しさが、この時代の女帝にはあった。
 持統帝は女性ながら胆が太くスケールの大きな政治家だ。幼い孫の身辺を護るべく藤原宮(現・橿原市)を建て、飛鳥浄御原令を公布した。
 元明天皇は持統の息子の嫁であり、同じ天智帝の娘である。異母妹だが、仲が良く気心が知れた同志でもあった。
 息子・文武のあとを受けた彼女は8年間、皇統の守護者たらんと奮闘。
 しかし、710年、心ならずも平城京への遷都が行われ、蘇我氏の本拠地である飛鳥から引き離されることとなる。ここで歴史学的には飛鳥時代が終わって、奈良時代となる。
 715年、元明帝は退位し、代わって娘の氷高皇女が皇位に就いた。氷高は故・文武の姉で、独身。すでに元服している文武の遺児を差しおいての即位だった。
 歴史の通説では、「女帝は幼い皇子が成長するまでの繋ぎ」とするのが一般的である。だが、もし通説の通りだとしたら、文武の遺児・首皇子はすでに14歳になっていたのだから、元明の退位とともに即位することは可能であった。
 藤原不比等も当然、それを望んだだろう。
 しかし、この時点で氷高皇女が元正天皇となることは、藤原一族への抵抗に他ならない。
 おまけに元明は在位中、娘の吉備皇女と長屋王との間に生まれた子どもたちを皇孫待遇にしていた。このあと元正天皇へと渡すバトンをあくまで藤原氏の娘が生んだ皇子には渡さず、吉備皇女か、その子どもたちに渡す心づもりだったのかもしれない。
 720年、不比等が、翌年には元明が他界した。
 さらに724年、藤原四兄弟が首皇子の即位を強行し、聖武天皇となった。
 これに対して元正帝がどのような抵抗を示したのか、資料がないのでわからない。しかし、ウィキペディアによると、退位の詔では新帝を「我子」と呼んで、退位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐したという。
 729年、「長屋王の変」と呼ばれる政変が起こり、長屋王、吉備皇女、膳夫王らが殺害された。
年 表
西暦 できごと 天皇
710年 都を平城京に遷都 元明
720年 不比等、死去 元正
724年 聖武帝即位 聖武
728年 聖武の基皇太子死去 聖武
729年 長屋王の変
安宿媛、皇后に立后
聖武
733年 光明皇后の母、橘三千代死去 聖武
734年 大地震
737年 天然痘の大流行。藤原四兄弟、死去 聖武
740年 藤原広嗣の乱
恭仁京へ遷都
聖武
741年 国分寺建立の詔が発せられる 聖武
742年 紫香楽京へ遷都 聖武
744年 難波京へ遷都
聖武の第二皇子・安積親王、死去
聖武
745年 都を平城京に遷都 聖武
747年 東大寺大仏の鋳造が始まる 聖武
749年 東大寺建立
孝謙天皇(阿倍内親王)即位
聖武
孝謙
752年 大仏開眼 孝謙
756年 聖武帝、崩御

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