| ■■■興福寺■■■ |
東大寺参拝を終えたわたしたちは、いったん駐車場に戻った。あまりに寒いのでわたしはスパッツの重ね履きをし、車に乗って再び外出した。
目的地は興福寺だ。奈良公園の隣りで、奈良県庁の真ん前に位置する。歩いていけない距離ではなかったが、この後も行くところがあったので車で向かうことにしたのである。
なぜ東大寺には歩いていったかというと、駐車場代が高いからだ。
東大寺の県営大仏前駐車場は、一回停めただけで一日分1,000円取られる。1時間くらいの見学しかしないのに、そりゃあんまり高すぎるってもんである。
興福寺の駐車場でもしっかり500円取られたが、国宝館のすぐ横に位置し、伽藍へもあまり歩かない近距離だったのでよかった。 |
興福寺の起源は、藤原鎌足の妻・鏡王女が夫の病気平癒を願って現在の京都市山科区に創建した山階寺にさかのぼる。
後に飛鳥の地を経て、710年の平城京遷都に際して息子の不比等がこの地に移転した。
そのため藤原氏の氏寺として強大な力を誇り、今の10倍以上の寺域に壮麗な伽藍を構えていたという。
しかし、東大寺と同じく治承4年(1180年)の平重衡による南都焼討などで何度か焼失。 |
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また、明治時代の廃仏運動により寺領は没収され、規模を狭めた。今でも寺域を囲む塀がなく開放的なのは、廃仏毀釈により塀が取り払われ樹木が植えられて、奈良公園の一部にされたからだという。
なるほど、それで興福寺に入る際、駐車場代金を徴収されても参拝料は取られなかったのか。この寺には周りを囲う塀がなく、自由に行き来できるのである。 |
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聖武天皇の発願により726年に建立された東金堂。現在の建物は室町時代の再建だという。
堂内には本尊薬師如来座像などが安置されている。
かつては五重塔と回廊で結ばれており、夫婦和合の聖域とされていたという。 |
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五重塔は光明皇后の発願で、天平2年(730年)に建立された。
現在は室町時代に天平様式で復元された塔が立つが、国宝である。
総高50.8メートルと、江戸時代以前の古塔としては、東寺に次ぐ2番目の高さ。
塔のてっぺんの飾りは「水煙」といい、火災除けの意味があるとか。 |
夫と二人、五重塔前でかわるがわる記念撮影。
二人で「ここ、来たっけ?覚えてる?」なんて話したが、京都や斑鳩・法隆寺の五重塔などとごっちゃになっていて、二人とも覚えていない。
修学旅行のアルバムに五重塔が写っているのは間違いないのだが。あれはどこだったのだろう。アルバムは実家に置いてあるので、今度見てみよう。
ところで、わたしがはいているスパッツは寒さよけに重ね着したパジャマのズボンだ。まるで女子高生がミニスカートの下にはくジャージのようでダサイが、寒さにはかなわない。
いやー、それにしてもこの日の奈良は風が強く、ときおり小雪が舞い落ちるほどの激烈な寒さであった。 |
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南円堂。弘仁4年(813年)、藤原冬嗣が父・内麻呂の追善のために建立したもの。重要文化財。
内麻呂、冬嗣父子は、こののち藤原氏の主流となる北家繁栄の礎を築いた人物だ。
990年に一条帝の摂政となった藤原道長も北家であり、この頃になると北家が要職を独占するようになっていた。
道長は天皇の外戚として権力をふるい、名高い「この世をばわが世とぞ思ふ・・・」という歌を残している。
さて、最後に国宝館に入った。興福寺そのものは見学自由だが、ここは500円の入場料がかかる。
館内は写真撮影禁止。・・・と気づく前にノーフラッシュで撮影してしまった。済みません。 |
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カメラ撮影ができないので、パンフレットからスキャンした阿修羅像を載せてみた。
興福寺のシンボルとも言える像で、阿修羅像としても代表的なものだ。誰でも一度は見たことがあるだろうと思う。
観客の人気をもっとも集めており、展示ケースの前は常に人だかりだ。中には「いい男ねえ・・・」とつぶやく女性も。むふっ。
ちょっと愁いを帯びた少年のような面立ちが人気の秘密だろう。ちょっと夏目雅子似でもある。
阿修羅は古代インドの魔神アスラが仏教に取り入れられたもので、仏教においては八部衆に属する仏教の守護神であった。
この像は、天に戦いを挑む悪神という側面と、仏教の守護神という二つの側面が表現されている。
阿修羅は帝釈天に刃向かったために天部を追われ、六道の一つである阿修羅道(修羅道)の主とされた神なのだ。これには、こんな逸話が残っている。
阿修羅には娘がいたが、帝釈天が勝手にさらっていって凌辱した。阿修羅は怒り、帝釈天に闘いを挑んだ。
阿修羅はいいところまで追い詰めたのだが、この闘いによって帝釈天は慈悲深く正義の人、阿修羅は赦す心を持たぬ戦闘的な神ということになって追放された。
神々の頂点である帝釈天が好色というあたり、ギリシア神話のゼウスとよく似ている。ゼウスもほうぼうの女性を誘惑し、手を出しては子どもを生ませている。
また、王者に闘いを挑んで下界に追放される話も、ギリシア神話によく似たものがある。
ギリシア神話と古代インドの神話には共通のルーツがあるのかもしれない。 |
ともあれ阿修羅の表情には哀愁が漂い、女性の母性をかきたてるのも無理はない。彼は天部を追放された悲しみを背負い、一方では怒りをたぎらせた神なのである。
先ほど「夏目雅子似」と書いたが、日本人の原点のような顔立ちであることも人気のある要因かも知れない。
どうでもいいが、眉毛の形がうちの夫の怒ったときの眉毛にそっくりだ。
同じ展示ケースの中には「乾闥婆像」というのがあって、こちらは顔カタチがうちの夫にそっくり。わざわざ夫をその前に引っ張っていって、「ねえねえ、あなたにそっくり!」と、大笑いした。
ちなみに、京都・東寺にいる帝釈天は日本一ハンサムな帝釈天と言われているが、これも夫に似ている(いや、ほっぺが)。
おまけに三十三間堂の難陀龍王は怒ったときの夫にそっくりだ。
幸か不幸か、夫は現代的なジャニーズ顔ではなく、古代大和顔であるらしい。彼も飛鳥時代から奈良時代に生まれていればモテモテだったに違いない。 |
| ■■■薬師寺■■■ |
興福寺を出たあとは、そのまま奈良国営博物館に行く予定であった。が、博物館は奈良県庁の向こうにあって少し歩くことになると知り、なんだか行く気が失せてしまった。
なにせこの日はとても寒かった。しかも、歩くのは疲れるし、時間もかかる・・・ということで、そのまま駐車場を出て薬師寺に向かうことになった。
薬師寺は東大寺、興福寺などのある奈良公園から約7キロの所に位置する西ノ京に建つ。
西ノ京は天平時代の遺構を残す薬師寺の他、聖武天皇が唐から招いた鑑真が創建した唐招提寺、行基の建てた喜光寺、菅原神社などのあるエリアだ。前方後円墳の古墳、垂仁天皇陵といった見所も多い。
鑑真は唐の揚州で生まれ、14歳で出家した天台宗の僧である。日本で戒律を授ける僧の必要性が高まったことにより招へいされ、754年、66歳で来日した。
聖武天皇の歓迎を受けた鑑真は始め東大寺に住み、688年には故親王の旧宅跡を与えられ、そこに唐招提寺を創建した。
763年、75歳で死去した。
2008年4月か5月に中国の胡錦涛国家主席が来日予定だが、この唐招提寺を訪れる予定だという。
わたしたちは薬師寺に到着し、たいへん広い駐車場に車を入れた。 |
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車から少し歩き、「孫太郎稲荷神社」の前を通る。入り口には、キツネが左右に拝されている。
孫太郎という名前がついた稲荷神社なんて珍しいと思ったが、由緒は不明。
この神社の正面に薬師寺への入り口、中門がある。
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武帝が皇后・鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ。のちの持統天皇)の病気平癒を祈って建立したのが始まりである。 |
最初は飛鳥の藤原京(現在の橿原市城殿町)に建てられ、白鳳時代に七堂伽藍が完成した。
710年に都が平城京に移ったため、718年、現在の地に移転してきた。
その後、天禄4年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の兵火で堂塔を焼失し、創建時の建物は東塔を残すのみとなった。昭和時代に再建され、1998年には古都奈良の文化財の一部として、ユネスコ世界遺産に登録されている。 |
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中門の内部に置かれている、色も鮮やかな仁王像。
この中門は1528年の兵火で焼失したままだったが、昭和59年に復元された。
やけにカラフルだと思ったら、仁王像に至っては平成3年に復興されたものだとか。
武装した像として中国に残る資料、法隆寺の橘夫人厨子の扉絵などを参考にしたという。 |
東塔。飛鳥からの移築ではなく、平城京に遷都後の天平2年(730年)に新築されたとする説が有力である。いずれにしても天平時代に建てられた当時の建物がそのまま残っているわけで、国宝に指定されている。
高さは34.5メートル。よく見ると三重の塔であることがわかる。それぞれの屋根の下に裳階(もこし)が設けられ、一見すると六重塔のようになっている。
最上部にある水煙には24人の飛天像の透かし彫りが施されているという。 |
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東塔の正面に建つのが、西塔。昭和56年に再建され、450年ぶりに両塔が揃った。
こちらの方が朱色を多用して色鮮やかなのは、創建当時を再現したものだからだろう。つまり東塔も元は同じ朱塗りの美しい塔だったに違いない。 |
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東西の塔に挟まれて建つのが、享禄元年1528年の兵火で焼失、昭和51年に再建された金堂。
堂内には本尊の薬師如来坐像(国宝)、日光菩薩、月光菩薩が安置されている。
さらに仏陀(釈迦)の足跡を刻んだという「仏足石」が置かれてあった。側面には天平勝宝5年(753年)の作と書かれているそうだ。
白壁に押されているのが、釈迦の足紋。 |
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金堂の背後まわって西塔を見たところ。
東塔が改築により失った各階の緑色の格子窓が、この西塔では再現されている。 |
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金堂の先にあるのが大講堂。平成15年に完成した、白鳳様式の建物。正面41メートル、奥行き20メートル、高さ17メートルの華麗な堂である。
堂内には本尊の弥勒三尊像、四天王像などが安置されている。 |
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大講堂内の弥勒如来像。 |
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大講堂に繋がる回廊は今年完成したばかりのもの。奈良時代の格式の高い大寺に用いられた様式だそうだ。
薬師寺には他に、吉備内親王が母・元明天皇の冥福を祈って養老年間(717−724年)に創建した東院堂がある。
観音池の手前にある和洋建築だが、わたしはここまで足を伸ばさず帰ってきてしまった。
吉備内親王は別ページで詳しく紹介しているが、聖武天皇の伯母にあたる皇女で長屋王の妻だ。 |
長屋王は聖武の妃・安宿媛の皇后冊立に異を唱えた藤原氏の対抗勢力で、二人は藤原四兄弟によって非業の死を遂げた。
作家・永井路子氏はその著書「悪霊列伝」の中で、怨霊に怯える聖武、光明夫妻が、吉備内親王ゆかりのこの寺に魂鎮めのための塔を建てた。それが東塔である、と仮説を書かれている。
ところで、東大寺の南東には、光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して建てた新薬師寺がある。その名の通り薬師如来を本尊とする寺で、「新」とは「霊験あらたかな」という意味。「新しい薬師寺」ということではない。
薬師如来は祈願すれば病を癒すご利益があるとされ、左手には薬壺を持つ。
西ノ京にすでに薬師寺があるにもかかわらず「新たな」薬師寺を建てさせたのは、やはり薬師寺と吉備内親王の縁が深いのをはばかってのことだろうか。747年、もしくは2年前の745年のこととされている。 |
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薬師寺の敷地に接した形で近鉄橿原線が走っており、境内を歩いていると唐突に踏切があったりする。
ところで、ここ薬師寺では大晦日の夜10時半から除夜の鐘が始まるという。
わたしは再度やってきてここで除夜の鐘が突かれるところを見学するか、もっとメジャーな東大寺を選択するかで悩んだが、とりあえず次の目的地に移動することにした。 |
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駐車場の手前にある公衆トイレ。善人以外、使用禁止です。
ところで、西暦2010年(平成22年)は「平城遷都1300年記念」にあたるそうで、2008年3月から東京国立博物館にて「国宝 薬師寺展」が開催される。
上野で公開されるのは、金堂の日光・月光菩薩、東院堂の聖観音菩薩立像、吉祥天像(絵)など国宝9点を含む、白鳳・天平文化の粋を集めた品々だ。 |