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 平成19年8月10日(金)〜16日(木)Vol.212
 
 ■夏休みキャラバン〜ディープな東北秘湯めぐり Part5
 
■4日目:本州最北端・大間崎
 
 翌朝、6時起床。
 すぐさまヘッド車だけで最北端の碑がある大間崎に向かう。
 沖合500メートルほどのところに、灯台のある弁天島が見える。
 さらにその向こうには北海道の陸地もうっすらとその姿を見せていた。

「まぐろ一本釣りの町 おおま」と書いてある。
 「はい、アナタはまぎれもなく本州最北端のワンコです」
 最北端と聞いて喜びの表情を隠しきれないレディであった。
 朝6時台というのに、最北端碑の前にある土産物店はすでに営業を開始していた。
 わたしたちは留守番している子どもたちへのお土産やカニ味噌などを買い求め、再びトレーラーに戻った。
 本州最北端にあるキャンプ場。あとで地図で確認したら、「大間崎テントサイト」という名前がついていた。
 駐車場はぎっしりで、例え昨日この場所を見つけたとしても、我が家のトレーラーは入れそうにない。
 昨夜漁港の駐車場で見かけた2台のキャンピングカー、ZILとALENはその後、姿が見えなくなっていたが、こちらに移っていたようだ。

 わたしたちは大間を離れ、下北半島を下って八甲田山へと向けて南下を始めた。
 いよいよキャラバンも後半、関東地方に向かって南下しつつ秘湯をめぐるというルートに入っていた。
 ←行きも立ち寄った「道の駅よこはま」の隣のファミリーマートで買った菜の花ソフト。横浜町は菜の花が名産だということで食べてみたが、菜の花の味は少しもしなかった。(当たり前か)
■4泊目:酸ヶ湯温泉キャンプ場
 今夜の宿泊地は八甲田山か酸ヶ湯温泉のあたりと定めて、100キロ以上の道のりを走る。
 八甲田山地にさしかかると、さすがに道が険しくなった。記録的な暑さも加わって、さすがのハマーのエンジンも不調となった。
 394号線の険しい坂道を登り切った直後、エンジンが吹かなくなって、最終的に止まってしまったのである。
 わたしはゾッとなり、蒼ざめた。
 こんな山奥でエンストしてしまったら、JAFが来るまでに何時間かかるだろう・・・。
 昨年、万座に行くルートで脱輪してしまい、JAFの救助を待った数時間の心細かったときのことが思い出された。(と言いつつ、実はテレビで「でぶや」を観ていたのであった)
 夫は「5分待ってエンジンをかけてみよう」と言った。
 その数分が長かったこと。
 待ちきれなかったのか、夫は3分ほどでエンジンのキーを回した。
 エンジンは無事かかり、何事もなかったかのように走り始めた。
 はあ、よかった。心臓がばくばくしちゃったよ。
 それにしても、いったい何があったのだろう。外の暑さにトレーラーの重さが加わって、エンジンに相当な負担が加わったのだろうか。
 ハマーでなかったらエンジンルームから白煙が出ていたかもしれない。
 このあとも標高1040メートルの笠松峠を越えたが、なにごともなく無事に酸ヶ湯温泉に到着した。
 この103号線沿いには他に谷地温泉、猿倉温泉などの八甲田温泉郷が点在し、湯めぐりも楽しみのひとつである。
 まだここと決めていたわけではなかったが、わたしたちはキャンプ場ガイドブックに載っていた酸ヶ湯キャンプ場にトレーラーを入れた。ここは、ヒバ千人風呂で有名な酸ヶ湯温泉旅館の真ん前にある。
 ちなみに酸ヶ湯と書いて「すかゆ」と読む。酸度が高くて酸っぱいお湯だから、そう名付けれらたのだろうと思う。
 キャンプ場の管理棟前の駐車場にトレーラーを停めて、どうするー? ここじゃ発電機まわせないねえ、と相談していると、管理人さんが現れた。
 「奥の方にオートキャンプサイトがあるので、そっちへどうぞ。誰もいないから駐車スペースを全部使っちゃっていいですよ」
 それじゃあ、ここに決定。
 管理棟で料金2,500円を支払うと、管理人さんが自転車でオートキャンプサイトへ誘導してくれた。
 ゆるやかな坂道を下っていくと、誰も使用していないオートキャンプサイトに。
 なかなかいいじゃないの、ここ。
 MapFanでは(休)というマークがついているが、リニューアル工事が完了して今シーズンからオープンしている。また、キャンプ場へと降りていく手前には道の駅のようなパーキングもあって、そちらは無料で駐車できる。
 オートキャンプサイトにあるテントを張るスペース。先にも書いたとおり、わたしたち以外にここを利用するキャンパーはいなかった。
 さて、トレーラーを設置して、いざ温泉めぐりに出発だ。
 酸ヶ湯温泉の近くにある「地獄沼」。
 第四紀八甲田火山の名残りで、爆裂火口の跡に温泉が湧出してできた沼だそうだ。別名「底なし沼」。
 現在でも木の生えていない場所からガスが立ちのぼっており、硫黄臭が漂う。沼の中では90度前後の熱湯が噴出しているという。
 秋には木々が紅葉し、たいへん大変美しい眺めだそうである。
 近くには他に「睡蓮沼」もある。
■八甲田山系、雪中行軍遭難記念像
 子どもの頃、映画かテレビドラマかわからないが、八甲田山中を雪中行軍していた陸軍の歩兵が遭難するシーンを観たことがある。
 豪雪と吹雪のため遭難した大隊の中には、発狂してしまって服を脱ぎ出す兵士まで現れた。その光景が子ども心に深く刻みつけられた。
 たまにスキーなどで吹雪に遭遇すると、決まってそのシーンが脳裏に浮かぶ。
 そして、今年の夏、念願の酸ヶ湯温泉を訪れることになった。周辺の地図を見ていたら、ふと「雪中行軍遭難記念像」という文字が名に入った。
 これはもしかして、あの八甲田の遭難事件の記念碑では?
 そう思い、わたしはこの事件について下調べをしてみた。
 以下に遭難事件の経緯をまとめる。
 
 明治35年(日露戦争勃発より2年前)、210名中199名が死亡し、山岳史上もっとも多くの遭難者を出した「八甲田雪中行軍遭難事件」は起こった。
 陸軍はロシアとの戦争に備え、寒冷地における戦闘の予行練習として、またロシア艦隊が津軽海峡に入り、八戸平原に上陸したのを三本木平野で迎え撃つという想定のもと、雪中行軍を行うことになった。
 青森の歩兵第5連隊第2大隊は1月23日、神成大尉を指揮官として幸畑陸軍基地を出立した。
 初日から天候が悪化して猛吹雪となり、進路を誤ったため、第2大隊は5日間にわたって八甲田山中を彷徨することになる。携帯していた食料や水が凍りつき、食事ができない状態になったという。
 1日目から落伍者が出始め、2日目から凍死する者が続出した。
 3日目には部隊がバラバラとなり、4日目には生存者が60〜70名と、人数は3分の1までに減っていた。
 極限状態の中で精神に錯乱をきたす者が出始め、指揮官・神成大尉もその一人であったという。
 5日目、隊は2手に別れて行動することになった。神成大尉は倉石大尉のグループと別行動をとったが、落伍者、凍死者が続出、とうとう後藤伍長と二人だけになってしまった。
 やがて神成大尉は倒れて歩けなくなり、この惨状を連隊に報告させるべく、後藤伍長を一人出発させた。
 午前10時、救援隊が、胸まで雪に埋もれ、立ったまま仮死状態となっている後藤伍長を発見した。軍医の手当により、伍長は11分後に蘇生。ここで初めて、遭難の惨状が連隊に知れることとなった。
 救援隊は続いて神成大尉を発見するが、全身が凍りついた状態であったという。
 その後、大がかりな救援隊が投入され、生存者17名の救出、遺体の回収が行われた。しかし、救助後に6名が死亡し、最終的に生き残ったのは11名のみ。
 その11名も、うち8名が凍傷のため手足を切断するなどの重傷であった。
 倉石大尉も生存者の一人で、東京で買い求めたゴム長靴を履いていたお陰で凍傷をまぬがれたという。
 「雪中行軍遭難記念像」へは、ハマーで出かけた。距離にして約12キロ。地図でも近くに感じたが、途中くねくねの峠道などもあって、けっこう時間がかかる。
 記念像は、その名も「銅像茶屋」というドライブインの上にあった。記念像の見学は無料だが、200メートルの坂を登っていく必要がある。
 猛烈な暑さの中、わたしは階段状になった坂を登っていった。
 登り初めてすぐの緑地には、「雪中行軍遭難の地」という看板がある。
 「ああ、この辺で遭難したんだなあ」
 わたしは脳裏に焼き付いていた、兵士が服を脱いで裸になってしまうシーンを思い起こしていた。
 しかし、感慨にふけりたくても、この暑さである。ダラダラと流れる汗をハンカチで拭き取りながら、ふうふういいながら登っていく姿に、あまりロマンはない。
 登り切った先には、後藤伍長をモデルとした銅像が後ろ向きに建っていた。坂を登ってきた人間からは後ろ向きだが、伍長は青森市内を睥睨する方角に向けて立っている。
 明治39年、連隊に遭難事故の詳細を伝えたという手柄により、後藤伍長をモデルとした銅像がこの場所に建てられたのである(実際に伍長が発見された場所は、この銅像よりも数キロ青森寄りの場所だそうだ)。
 制作者は大熊氏広。
 救助隊に発見されやすいよう、標識となるため立ったまま仮死状態となっていたというのが、手柄としてポイント高かったらしい。
 しかし、伍長には悪いが、雪が深くてたまたま立った状態で意識を失っただけじゃないかと、つい意地悪く考えてしまった。
 おまけに、神成大尉の命を受けて歩き出したものの、いくらも進まないうちにそういう状態になったというのだから、別に手柄でもなんでもないような気が・・・しませんか?
 まあ陸軍としては同じような事故を繰り返さないためにも、教訓として銅像を建てる必要があったのかも知れない。後藤伍長は遭難事故の象徴的な存在であったのだろう。
 茶屋の駐車場には「銅像建立の目的は、『遭難の事実を明らかにし、かつ後の行軍する者の目印とする』」と書かれた説明書きが立っていた。
 ちなみに後藤房之助伍長は明治12年(1879年)生まれで、遭難事件当時は23歳。凍傷により四肢切断となったが、結婚して子どもをもうけ、村会議員になった。
 大正13年(1924年)、45歳で他界。
 銅像の後ろ側、台座部分には死んだ者199名の氏名と、生還した者11名の氏名が刻まれていた。犠牲者のあまりの多さに慄然となって言葉もない。
 事故の原因としては、隊の装備の甘さ、指揮官の認識不足などが挙げられる。
 もちろん、記録的な寒波の影響が第一番であるが、それでも兵卒の生存者全員が山間部の出身で、冬山における防寒対策を心得ていたという。
 後藤伍長も山で炭焼きの仕事に従事していたことがあったそうだ。
 青森市阿部野幸畑という場所には、陸軍基地跡と遭難資料館がある。 
 新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」(昭和46年刊)は、この遭難事件をベースにフィクションを交えた内容で描かれた。1977年には「八甲田山」というタイトルで、高倉健、北大路欣也、三国連太郎という豪華キャストにより映画化されている。
 厳寒の八甲田山地で二年にわたって冬季ロケを行い、実際に吹雪になるのを待って撮影したという。
 ちなみに現在でも陸上自衛隊によって、八甲田山系での雪中行軍が行われているそうである。
 上記地図に、第2大隊の行軍に関連した地を記しておいた。酸ヶ湯温泉が今回キャンプして入浴した地、谷地温泉、猿倉温泉も日帰り入浴した地である。
 国道40号線は、幸畑陸軍基地を出発した第2大隊が小峠、大峠を経て遭難したルートにあたる。隊は田代平、十和田町を経由して八戸に抜ける予定であったが、基地から後藤伍長発見の地までは距離にして10キロにも満たない。
 雪中行軍遭難記念像を後にして、酸ヶ湯方面に戻る。
 国道40号線の両側には田代平の広大な平原や湿原などが広がっている。このあたりにはキャンプ場も多く、P泊スポットにも事欠かない。
 すぐ近くにある田代元湯では生存者の一部が発見されている。この田代平あたりは、本来第2大隊が行軍するはずのルートであった。

今回入った温泉
 谷地温泉 猿倉温泉
 酸ヶ湯温泉
  

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