温泉ガイド本の地図を見ていたら、朽木からほど近いところに「くらま温泉」という文字を発見した。
「鞍馬寺」の文字も、地図の上ではそこから数ミリの所にある。うーん、行ってみたい。お寺にも温泉にも、両方だ。
鞍馬寺といえば、源義経が幼いとき母から引き離され預けられた寺である。現在放送中の大河ドラマ「義経」にも当然出ていた。
また、わたしが小学校に入って最初の愛読書は、実は「牛若丸」だった。その本は、今でも実家に大切に取ってある。鞍馬寺での修行生活がメインのお話だから、当時のわたしに「鞍馬寺」の名前が深く刻みつけられたものだ。
ここはぜひとも行ってみなくちゃならない。でも、一人で行くのは嫌だ。夫が一緒に行ってくれればいいのだけど・・・と思い悩んでいると、でむ@大阪さんの強力な一言が後押ししてくれた。
「ここ(朽木)から大原まで30分で行けるで」
わたしが言う言葉より人様の言葉に弱い夫は、これであっさり京都見物に行く気になってくれた。
でむさん、絶大なるバックアップ、ありがとう!
朽木を発ったのは、午前11時頃だったろうか。観光しに行くにはちょっと遅い時刻だったが、まあ近いからいいだろう。帰りは渋滞するかもよ、と言われて、早めに帰りますと答えて出発した。
京都といえば清水寺しか知らない夫は、すっかりそこに行くつもりになっていたようだ。だが、祇園祭の最中で京都は激混みだから無理だよと釘を刺し、強引に鞍馬山へと導いた。
前回、京都見物をしたのは現在8歳の娘がお腹に宿る直前のこと。清水寺で子宝祈願のお守りを買ったら、翌月か翌々月あたりに授かったのだった。そしてその前の京都となると、現在12歳の長男がお腹にいたときのことだ。大原にはそのとき行き、平清盛の娘・中宮徳子が晩年を過ごした寂光院などを見学した。
だから、大原は今回は素通り。目的は鞍馬寺ただ一つである。
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鞍馬寺
今回初めて行った鞍馬であるが、周辺地域がこんなに狭いとは思わなかった。
広い公共駐車場はなし。キーを付けっぱなしで預けるタイプの、民間時間貸し駐車場はいくつもある。普通の乗用車なら1台くらい入れるスペースはありそうだが、我が家のでっかいハマーはどこも断られてしまった。
それでも、とある民間Pのおじさんは申し訳なさそうに断ったあと、隣の駐車場に入れないか見に行ってくれたり、親切な方もおられた。
そんなとき、偶然コインパーキングの道路際が空いて(奥側は空いてても入れなかった)、たまたま停めることができた。鞍馬寺まではすぐの駐車場だったので、とてもラッキーだった。結果的に民間Pに入れるより、安く上がったのだから。
目の前にはお団子屋さんがあった。そうだ、帰りにそこでお団子を買っていこう。 |
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ここが鞍馬寺の入り口。大河ドラマの影響か、あるいはもともと人気だったのかわからないが、けっこうな人出である。意外と若い人が多いのは、やっぱりタッキー人気からだろうか。
さて、ここで知らない人のために解説しておこう。
鞍馬寺の開基は、鑑真の高弟・鑑禎(がんてい)と言われる。宝亀元年(770年)に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりとされている。
9世紀末には真言宗、12世紀には天台宗に改宗し、1949年には天台宗から独立して鞍馬弘教総本山となっている。平安時代には上皇、関白などが参詣し、平安京北方鎮護の寺として深く信仰された。
一方、この寺に入った義経は幼名を牛若丸、源氏の棟梁である源義朝の九男として平治元年(1159年)に生まれた。
出生後間もなく勃発した平治の乱で、父・義朝が平清盛と戦って敗死。牛若丸は母・常磐、二人の同母兄とともに平家に捕らえられるが、助命され7歳まで成長したところで鞍馬寺に預けられる。
7歳といえば現代なら小学1年生だが、当時は数え年で年齢を数えたから(生まれたときは1歳、お正月を迎えると1歳加齢される。だから、生まれてすぐ2歳になる子どももいたわけだ)、牛若丸はまだ5歳か6歳だった可能性もある。
そんな小さな子を母親から引き離して、こんな鬱蒼とした暗い寺に入れるなんて・・・と、参道を歩きながら戦乱の世の厳しさを思った。
一般的には常磐御前が清盛に実母と子どもらの命乞いをし、常磐の美しさに惹かれた清盛もこれを受け入れたとされている。大河ドラマでもこの説を採り、常磐が子どもたちの命を守るため清盛の愛人になる様子が描かれていた。だが、源義朝の嫡男・頼朝ですら命を助けられ、伊豆に流罪となっているのである。だったら、なにも常磐が身を投げ出して命乞いをしなくても、庶子の牛若たちが殺されることはなかったのではないか。このあたり、だいぶ伝説やらなにやら入り交じっているのではないか、というのがわたしの説である。
左の画像にある結構きつい登りの山道を少し上がったところに、「放生池」がある。
亀や魚をこの池に放んで徳を積み、滝に打たれて修行が行われたという。石垣は江戸時代のままの姿を留めているそうだ。
また余談だが、参道の手前に保育園があるのには驚いてしまった。お寺が保育園や幼稚園を経営するのはよくあることだが、まさか鞍馬寺までやってるとは・・・。名前はもちろん、「鞍馬保育園」であった。小さなグラウンドもあるが、背の高い木に囲まれていて冬は寒そうだと思った。 |
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鬼一法眼社
鬼一法眼は陰陽師で、文武の達人とされる。
源義経がその娘と通じて伝家の兵書「六韜三略」を盗み学んだというので有名らしい。
大河ドラマでは義経が鬼一法眼の娘をたらしこむ場面などあるはずもなく、鞍馬山の中にたまたま?いた三輪明宏演じる鬼一法眼に教えを請い、武術を授けられるというシーンが描かれていた。
このお社には武術上達のご利益があるそうだ。 |
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鬼一法眼社の横にある「魔王の滝」。崖の上の社には魔王尊石像が収められている。この鞍馬山は魔王尊が降りたった山なのである。
滝に打たれて修行したいという人がいるが、落石の危険があるから近寄らないでという注意書きが立っている。
なんだかミもフタもないというか、夢がないというか。ここで白い着物姿の修験僧なんかが修行していたら、実に絵になるんだけどなぁ。 |
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由岐神社
由岐神社に到着した。重要文化財に指定されている。
もともと御所に祭られていた由岐大明神が、940年(天慶3年)、朱雀天皇の詔により御所の北方にあたるこの鞍馬に遷宮されたもの。
大地震や平将門の乱など世情不安が続いたため、天下泰平と万民幸福が祈念された。
「京都三奇祭」のひとつ、「鞍馬の火祭」はこの神社の祭りである。
九十九折(つづらおり)と呼ばれる参道が、ここから始まっている。この参道は、清少納言がその著書「枕草子」の「近うて遠きもの」の中で「くらまの九十九折といふ道」と書いている。
清少納言は993年頃から1000年頃までの間、一条天皇の中宮定子の女房として宮仕えをした女性。宮廷暮らしの合間に見聞きした事柄を鋭い視点で描いた「枕草子」は、高校時代の愛読書であった。(変な高校生だったカモ)
その清少納言も歩いた参道ということで、歴史のロマンをひしひしと感じながら歩いた。 |
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義経公供養塔
当時10院9坊あった鞍馬寺の坊舎の一つだった東光坊跡。牛若丸は遮那王と呼ばれ、ここで7歳から10年間、仏法修行に励んだ。
伝説では、夜な夜な東光坊を抜け出した牛若丸は、父の敵を討つべく奥の院で兵法修行に励んでいたとされる。明治時代に起こった「廃仏毀釈」によって東光坊は打ち壊され、跡には義経の供養塔が建っている。
しかし、本当にこんな狭い場所に東光坊が建っていたのだろうか。
住職の東光坊阿闍梨蓮忍は鞍馬寺の別当で、位の高い僧侶だったという。その坊舎がこんな狭い場所に建つ小さな建物だとは思えない。ドラマでも、牛若の高弟たちがたくさん住んでいたではないか。それとも、周囲の木が成長して茂り、狭くなったのかしら。
ともあれ、義経が幼少時に寝起きした東光坊の跡地を見られただけでも、来た甲斐があった。
ここからさらに九十九折は続き、鞍馬寺本殿金堂までは約900mの道のりがある。さすがにてっぺんまで登ることは断念し、ここから引き返した。 |
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しかし、ここまで書きながらも、「わたしはそれほど義経ファンじゃないんだけどなぁ」などと思っていた。
確かに「牛若丸」は愛読書だったが、「平家物語」も好きだった。でもって、現在大河ドラマ「義経」を観ていても、どうしても「平家」の方に肩入れしたくなってくる。平家が滅亡する壇ノ浦の戦いで、一族の女性たちまでもが入水して果てたという結末が、そうさせるのかもしれない。
しょせん義経は政治オンチの一発屋さ。次に京都へ来たら、「平家になる旅」を企画しよう。そう静かに心に決めたのだった。 |
鞍馬寺
■京都市左京区鞍馬本町1074 Tel:075-741-2003
■9:00〜16:30
■料金200円 |
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下に降りてきて、駐車場の正面にあるお店でみたらし団子を買って帰った。
京都のみたらし団子は東京で売られているそれとは違い、しょう油タレが薄味でさらっとしている。
京都に来たら欠かさず買って食べる、旅の必需品だ。 |
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車に乗り込み、さっそく一口。焦げ目が香ばしくて、美味し〜い♪
このあと「くらま温泉」に入ってから、朽木に戻った。 |