杉江家のどこでも別荘 キャンプ日記
                〜31フィートのキャンピングトレーラーと温泉情報

 
 
平成25年4月27日〜29日 Vol.309
 

GWキャラバン 京都の旅

2013年4月27日 さがの温泉天山の湯
 仕事の関係で京都に行くことになり、ついでに観光もしてしまおうと、かねてから京都に行きたいと言っていた娘を伴い京都キャラバンに出発した。
 当初の計画では、いつも立ち寄る長島温泉で一泊してから京都入り・・・と考えていたが、頑張って走れば京都嵯峨野の温泉に間に合うとわかり、弾丸のごとく一気に京都へ。
 「さがの温泉天山の湯」は京都市右京区の嵯峨野にある日帰り温泉施設で、珍しく午前1時まで営業している。
 受付終了は午前零時だが、11時少し前に到着できたのでわりと余裕をもって入館できた。
 住宅街の一角にあるような立地条件のためか、一階が駐車場、フロントは2階という立体的な作りだ。
 お湯は、盆地の京都には珍しくナトリウム・カルシウム塩化物泉。濁りのある緑色っぽい金の湯系で、舐めると苦渋い味がする。
 謳い文句は「自然天然温泉」だが、すべての浴槽で濾過循環しており、湯を使い回しすぎてとても臭い。塩素臭と、循環の温泉にありがちな蒸れた匂いだ。源泉使用となっている「美濃焼き壷湯」でも塩素臭が強い。
 それでも源泉のパワーがかろうじて保たれた「芯から暖まる湯」で、とても京都とは思えないパワフルなお湯。朝一番の新鮮なうちに入れば古くさい循環臭もあまり感じず、また違う印象になるかもしれない。
 混んでいたので浴室の画像はなし。代わりに「ぽかなび」の紹介ページをどうぞ。見ていたら、また行きたくなってしまいました。
 駐車場は屋根なし平地の場所もあるので、車高の高いキャンピングカーも安心。少し離れた所にも第2駐車場があり(スーパーマーケットを挟んだ手前側)、大型キャンピングカーはそちらを利用するといいでしょう。
 
 ●さがの温泉天山の湯公式サイト
 住所 京都府京都市右京区嵯峨野宮ノ元町55-4
 TEL 075-882-4126
 営業時間 10:00〜25:00(最終受付24:00)
 定休日 第3月曜休
 
2013年4月28日 京都駅前駐車場〜清水寺
 さて、翌朝は京都駅前にある駐車場で目が覚めた。
 昨夜のうちに移動して一日2,500円(土日はさらに割増し)というタイムパーキングにチェックインしたのだ。
 京都駅の近鉄側、八条通に面した好立地で、タクシー乗り場もすぐ近く。それだけに朝はがらがらだったった駐車場内が、お昼に戻ってくるとほぼ満車になっていた。
 わたしたちはここからタクシーに乗って清水寺へ。

 清水寺の下の坂に到着。わたしは「懐かしい”京都の原点”」に帰ってきたという心持ちだった。
 中学校の修学旅行で訪れた京都でもっとも想い出に残っているのが、この坂道だった。なぜならグループ単位の行動で見学を終え、坂道を下ってもうすぐバス到着というところで友達が「カメラを忘れた」と言いだし、みんなでこの坂道を走って引き返したという記憶が鮮明だからだ。結局カメラは見つかったが、集合時間に少し遅れて先生に叱られたように記憶している。
 他の記憶はほとんどないのに、こういうことだけは鮮明に覚えている。人間の記憶とは実に不思議。
 ←京都は消火栓すら素敵。東京も見倣ってほしいな。 
 中学校時代のそんな想い出などを娘に話しているうちに、清水寺に到着した。
 清水寺の開創は778年(宝亀9年)の奈良時代末。天智天皇の孫にあたる光仁天皇の時代だ。延鎮上人が観音様による夢のお告げに従って「木津川の北流の清泉」を求め音羽山麓の滝に辿り着き、そこで草庵を開いていた行叡居士とめぐりあった。草庵を引き継いだ延鎮の教えに坂上田村麻呂が感銘し、仏殿と十一面千手観世音菩薩を寄進したという。

15世紀末に再建され平成15年(2003年)に解体修理された仁王門。
 ↑寛永8年(1631年)再建の西門。その向こうの三重塔は平安時代初期847年創建、寛永9年(1632年)再建。三重塔としては日本最大級の高さ約31メートル。
 
←ご存じ、「清水の舞台」。錦雲渓と呼ばれる急な崖に約12メートルの巨大な柱を並べ、釘を一本も使わずに組み上げたという驚嘆すべき木造建築である。
 本堂から張り出した「舞台」は4階建てのビルの高さに相当し、面積は約190平方メートル、410枚以上のヒノキ板を敷き詰めた「桧舞台」になっている。

 写真じゃうまく伝わらないけど、本当に垂直な崖にせり出すように造られた「清水の舞台」。
 
 よく「清水の舞台から飛び降りるつもりで」などと言われるけれど、羽根が生えた人でもない限り飛び降りる馬鹿もいないだろうというくらいの峻険さ。下を覗きこむと足がすくむ。
 
 何がスゴイって、斜面からせり出した舞台が太い柱で支えられているという点。今の本堂が建てられたのは約400年前の江戸時代、徳川家光の寄進によるものだが、それから崩れていないというのはスゴイ。
 下から見た清水の舞台。木々の緑の合間に、舞台を支える柱が見える。
 ちなみに約17年前、この本堂で子宝祈願のお参りをしてお守りを購入し、東京に帰って間もなく授かったのが来月で16歳になるこの娘。
 というわけで、今回はお礼参りも兼ねているのである。って、遅すぎ!? やらないよりいいよね〜。
 観音様の御霊験で授かった(かもしれない)娘と一緒にお礼参り。

 清水寺の起源ともなった音羽の瀧(おとわのたき)には観光客が長蛇の列を作る。
 宝亀9年(778年)、延鎮という僧が観音様のお告げにより発見したもので、滝の上には元々ここで修行していた開基・行叡居士を祭る小さなお堂がある。
 列の傍らでは水を飲むためのコップまで売っているという、寺の商魂たくましい一面も。
 もちろんコップを買わなくても滅菌処理されたひしゃくで飲める。わたしたちも健康長寿を願って飲んできました。

 音羽の滝から少し下ったところに茶店があったので、わらび餅とお茶で一休みすることに。
 お店のお姉さんに撮っていただきました。
 旅じたくの水戸黄門ご一行が座っていたらとっても絵になりそうな、これぞ茶店という雰囲気が素敵。

 清水見学を終え、清水坂をくだっていくと舞妓さん発見。
 
 坂の途中にある清水寺宝性院の塔頭・大日堂で展示されていた大日如来坐像。
 東日本大震災の津波で流された岩手県陸前高田市の松を使い、鎮魂と復興を祈願して制作された仏像だそう。
 京都伝統工芸大学校の教授・学生たちが津波で流された名勝「高田松原」の松の流木を取り寄せて制作を開始し、2011年に来日したブータンのワンチュク国王夫妻や被災地の人々など1万人を超える人たちがのみを入れ、2012年春完成。清水寺の本堂で開眼法要が行われた後、この大日堂に移されたとのこと。
 暑くて汗をかいたので飲み物を購入。
 それがこれ、「抹茶愛す」。要するにアイス抹茶なのだが、うまいネーミングに思わず「山田君、座布団3枚あげなさい」と言いたくなった。
 
 味の方も本格的な抹茶で、本当に美味しかった。一ダースは買って帰りたかったな。
2013年4月28日 銀閣寺
 次にやってきたのは銀閣寺。この名は江戸時代に金閣寺と対比して付けられた呼び名で、正式名称は東山慈照寺という。
 しかし、最初から寺だったわけではなく、室町幕府8代将軍・足利義政が大嫌いな政治と妻子から逃避するための隠居所として建てた、東山殿という山荘だった。義政は偉大な祖父・足利義満の金閣寺を模し、絵師、庭師など当代随一の芸術家たちを招集して造営にかかった。完成まで待ちきれなかったのか、翌年には完成していないにもかかわらず早々に移り住んだ。 
 足利義政は第6代将軍足利義教の3男。父が暗殺され、兄も早く亡くなったため、13、4歳で将軍職に就いた。
 就任当初は、衰退した将軍の権限強化を図ろうと、それなりに意欲的だった時期もあったが、実母と正妻の実家・日野家や有力守護大名の勢力が強く、結局主導権を握れないまま酒宴に明け暮れるようになった。
 重臣同士の対立や大名家の相続争いにより、幕府は内輪揉めで真っ二つに分かれていた。冷夏による大飢饉も起こり、そこへもって将軍家自身の跡目問題まで加わって、とうとう「応仁の乱」という10年にも及ぶ長い大乱に突入する。
 義政はますます現実逃避し、邸宅の造営や作庭、茶・猿楽などの道楽ごとにのめり込んでいった。
 義政の妻は「悪妻」として名高い日野富子だ。「今夜はヒストリー」という歴史バラエティ番組でも、金儲けと高利貸しに熱心だった「悪女」として紹介されていたが、こうした評価は、後世の儒教的な「清貧は尊いが、金儲けは卑しいこと」という偏った見方ではないだろうか。
 財産といえば土地がまず第一番。土地こそすべてだった当時、二番手に過ぎなかった「カネ」に目をつけた富子の先見性はそうとう優れている。
 最近、インターネットで株や為替の取引をする主婦がマスコミに取り上げられるが、富子は財テクにいそしんだ女性の先駆けである。女が金儲けに熱心で何が悪い。信長や秀吉が蓄財しても悪く言われないのに、富子ひとり評判が悪いのは女性だからだろう。
 どうして彼女が「守銭奴」になったかというと、我が子を将軍の地位に就けたいのに、肝心の夫があまりにも頼りにならない存在だったからだ。
 富子は将軍の正室という地位を悪用して京の入り口に関所を設け、そこで取りたてたカネを東軍西軍に分裂した大名の両方に高利で貸し付けた。しかも、それで儲けたカネで米の投機まで行っている。
 これらは自分が贅沢三昧したいからではなく、あくまでも息子・義尚(よしひさ)を将軍職に就けるために彼女が選んだ戦いの手法だ。
 
←砂を円錐型に盛り上げた「向月台」。義政さんがこの上に座って月を眺めるために造らせたのかな・・・と思ったが、江戸時代に造られたもののよう。改修を手がけた庭師はよかれと思ってやったのだろうが、とってつけたような印象で違和感がありあり。 
 男だったら、また武家の女だったら武器をとって戦えばよいが、富子は公家出身である。かわいい一人息子を将軍にするために必要なのはカネよ! 夫は頼りにならないんだから、カネを貸して一人でも多くの味方を増やすのよ! と、大奮闘したのである。武力で敵を殲滅するより、かなり平和的ではないだろうか。  1473年、念願であった息子・義尚(よしひさ)の9代将軍就任が実現した。しかし、夫の義政は御所を出て行ってしまう。そして隠居所として建てたのが、この東山殿という山荘だ。
 わたしが敬愛する作家の永井路子氏は「銀閣は、いわば義政・富子の壮大な夫婦げんかの産物」と評している。
 つまり富子のなりふり構わずがなかったら、わたしたちは銀閣というこの素晴らしい世界遺産(「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録)を見ることはなかったのである。
 なになに、「金閣寺に比べたら銀閣なんてただの木造。ぜんぜん地味でつまらないよ」ですって?
 確かに名前こそ「銀閣」なのに銀箔が貼られているわけでもなく、木造のいたって地味な建築物ではある。しかし、銀閣の侘び寂びっぷりにいったん魅了されてしまうと、何度でも行きたくなるから不思議。
 金閣とはまた違った独特の侘び寂び観は、修学旅行でしか行く機会のない世代には理解できないかもしれない。
 3階建ての金閣に比べると、銀閣はこぢんまりとした2階建て。濃い茶色の木造建築で、「銀」とはほど遠い地味なカラーリングである。が、この渋い色合いが、いかに周囲の緑を引き立てるか、これはこの場に実際に立ってみないとわからないかもしれない。
 庭は池をメインに成形された部分もあるが、なんといっても見どころは、木と木漏れ日と苔が見事に調和した幽玄な空間だ。
 義政が憧れ、手本としたのは『苔寺』の名で知られる西芳寺の苔庭だった。設計したのは、西芳寺を禅寺として再興した名僧・夢窓疎石。疎石は今でいうところのガーデニングプランナーの名手で、西芳寺の他、数多くの庭園を手がけた。
 疎石は脇役でしかなかった苔をメインに据えた、いかにも禅的な庭を西芳寺に作り上げた。これは当時かなり画期的なもので、遠い中国でも有名になるほどだったという。
 義政は名前に「政」の字を持つにもかかわらず、政治的にはまったく無能な人物だった。大飢饉のさなかでも税金を徴収して御所を造営し、応仁の大乱中でも酒宴をやめなかった。当時の庶民にとっては最悪といっていい為政者である。
 が、文化的な審美眼は優れており、造園や能や水墨画を愛し、それらの名人を寵愛し保護した。特筆すべきは、将軍家の邸宅「花の御所」の泉殿などを造園した善阿弥である。彼は「河原者」と呼ばれる被差別階級の出身だったが、義政は善阿弥を座敷に上げ、造園について直接語り合ったといわれている。
 支配階級の人間が「河原者」と直接口をきくことなど、当時は決してあり得ないことだった。しかし、義政の良いものを造りたいという情熱は、名人とさしで向き合わせるほど強かったのだろう。
 ←国宝・東求堂。阿弥陀如来像が安置された義政の持仏堂で、池に面した書斎兼居間は「同仁斎」と呼ばれる。
 いわゆる和室のルーツとなった部屋で、畳や障子、ふすま、床の間といった書院造りの原型が様式化され表現された。今でこそ当たり前和室が畳敷きなのはになっているが、当時は大変贅沢な内装であった。
 「同仁斎」の付書院と違棚は現存最古の座敷飾りの遺構だという。
 

 
 「お茶の井跡」。自然湧出の泉で、義政が茶の湯などで愛用したとか。
 この庭園の石組みは竹亭漱蘚亭跡で、お手本になったのはまたもや西芳寺。昭和6年に発掘されたのものなので、ほぼ原型通りらしい。向月台に代表されるように、銀閣寺の庭園は江戸時代の改修で大きく形を変えられてしまったが、この「お茶の井跡庭園」は後世の手が加わっていない貴重な箇所だ。
 現在でも豊かな湧き水があり、お茶会等の飲料水として用いられているという。
 ちなみに別居中の妻・富子は、この東山山荘造営の資金を一切出さなかったという。 
 もしも蓄えこんだ資金の一部を吐きだしてくれたら、後世のわたしたちは銀箔で彩られた、文字通りの「銀閣」を見ることができただろうか。

 
 1490年、義政は山荘の完成をみないまま病死した。
 本当は銀を貼りたかったが財政難で実現しなかったとも、死によって工事が中断したため貼れずに終わったとも言われているが、真相はどうなのだろう。
 苔庭の美しさを最大級に引き立てる純木造の姿こそ「正解」を物語っているような気もするが、祖父・義満の金閣寺に憧れていたのだから、やはり銀箔を貼るつもりだったとも思える。
 真実を知るのは、義政と彼の庭師のみだ。
2013年4月28日 金閣寺
 次にやってきたのは金閣寺。こちらの正式名称は鹿苑寺といい、銀閣寺と同じ臨済宗相国寺に属する。
 これを建てた足利義満は室町幕府初代・足利尊氏の孫で、10歳にして3代将軍となった。
 足利尊氏はもともと鎌倉幕府の御家人であった。倒幕を企てる後醍醐天皇討伐のために幕府から派遣されたが、二度目の出陣の際、天皇の誘いを受けて倒幕側に合流した。
 幕府滅亡後は後醍醐天皇が親政を始めるが、平安時代に後戻りさせようとする独断的な政治が武士の反発を招くと、尊氏は天皇を追放し、1338年、自ら幕府政権を打ち立てた。
 尊氏は情に厚い人だったが、それが災いし非情になれないところや優柔不断な点が政治家としては致命的であった。功績のあった武将たちに気前よく領地を与え過ぎたため守護大名の勢力が強くなり、後に将軍の権力低下と幕府内の分裂を招くこととなった。
 また、実弟・直義に対して早めに非情の措置をとることができず、結果、直義の勢力が増大して戦乱が長く続いた。また後醍醐天皇に対しても同様で、吉野に逃げこまれるというミスを犯している。
 後醍醐天皇が独自の朝廷『南朝』を開き、尊氏は京に残った皇族の中から『北朝』を立てたたため、南朝と北朝それぞれに味方する大名・豪族同士の長い争いが続くことになる。「応仁の乱」の種は初代尊氏の時代にすでに蒔かれていたとも言える。
 要するに、室町時代は大名同士の争い、将軍家内部の争い、南北朝をめぐる争いと3つの抗争によってぐちゃぐちゃとなり、やがて7代・義政の時代に「応仁の乱」へと突入、そのまま戦国時代に至ったのである。
 なので、尊氏没後に将軍職を継いだ嫡男・義詮は、各地で相次ぐ権力抗争の抑えこみにあけくれ、38歳で没した。
 室町幕府は、いわば有力守護大名の連合政権に近い側面があり、将軍は武士の利益を守る組合の理事程度の権力基盤しか持ち合わせていなかったという。
 3代将軍の座に就いた義満が青年になってまず手がけた事は、直属の軍隊を組織して自らの軍事的立場を固めることだった。義満は大名間抗争の押さえ込みに成功し、南北に分裂していた朝廷を一つにまとめるという功績も果たした。
 同じように困難な情勢下で年若くして将軍になった孫の義政は、なんら将軍としての責任を果たそうとせず、酒と趣味に溺れた。将軍としての器も政治的手腕も、月とすっぽんの祖父と孫だ。
 さて、いよいよ「金閣」の前にやってきた。
 銀閣と違うのは、まず入り口からえらい遠くにあるという点。池の大きさからして銀閣とは比べものにならない壮大な景観だ。
 それにしても遠いので、もうちょっと寄ってみましょうか。
 ずいっと寄ってみました。まるで絵はがきのような美しさ。でも、手前の松がちょっと邪魔。まあこれも計算のうちなんでしょうけど。
 今度は違う角度で、そしてさらにアップで。
 どこから見てもこれほど完璧な美を誇る建築物は世界中どこを探してもないんじゃないだろうか。 
 この地には、もとは鎌倉時代の公卿・西園寺公経の別荘があった。それを足利義満が強引に譲り受け、山荘北山殿を造ったのが金閣寺の始まりだ。
 金箔貼りの三層構造。一層目は寝殿造で、二層目は武家造、三層目は中国風の禅宗仏殿造という奇妙なデザインとなっている。
 つまり1階は平安時代風、2階は鎌倉時代の武家風、3階は中国風ということだ。これは、天皇・公家よりも武家が上に立ち、さらにその上に中国風の人物、すなわち足利義満が君臨していることを表現していると言われている。
 なぜ義満が中国風かというと、「明」の皇帝により正式な日本国王として冊封され、朝貢貿易を行っていたから。明皇帝の臣下になったので、中国風は義満を表すのだ。
 金閣の背後には天鏡閣という重層階の建物があり、空中廊下で結ばれていたという。天鏡閣はいわばレセプションホールのようなところで、招かれた人々はそこから空中廊下を通って金閣に招かれた。絢爛壮麗な金閣に近づくにつれ、人々の口からは驚嘆の声があがったに違いない。
 義満にとってこの金閣を中心とした北山第は、いわば日本国王としての官邸兼宮殿のようなものだった。金閣とその周辺の建物は、世の人々に朝廷をも凌駕した義満の権力と富を知らしめる象徴として築かれたのである。
 ちなみに、この頃の義満は太政大臣を辞任して出家していた。天皇の臣下ではない自由な立場となり、明に通交を申し込んで国王に冊封された。逆に言うと、大臣とか征夷大将軍などでは陪臣扱いになるので認めてもらえない。
 言葉こそ「朝貢」つまり「貢ぐ」という形だが、実質は貿易なので莫大な利益が義満にもたらされた。だから出家までしたのだが、嫡男・義持に征夷大将軍の座を譲っても実権は手放さず、この北山第を御所として政務をとり続けた。
 池のほとりにポツンと建つ金閣を見ていると、ここが権力の中枢だったことは想像しにくい。実は、跡継ぎの義持が父の没後、金閣以外の建物を取り壊してしまったためだ。唯一残った金閣も、1950年(昭和25年)、放火にあって焼失してしまう。現在見ている姿は、5年後に再建されたものだ。
 
洛中散策
 銀閣・金閣を見学し終わると、わたしたちはいったんタクシーで京都駅前のパーキングに戻った。車中で昼ご飯を済ませると、今度は娘と二人だけで徒歩による散策に出かけた。
 タクシーは早くて便利だが、「あっ、なにここ? ゆっくり見た〜い!」というスポットがあっても一瞬で通り過ぎてしまうので、京都を満喫するには不完全燃焼を起こす。
 そこで、歩ける範囲だけは歩いてみようということになったのだ。目指すは、三十三間堂。
 五条大橋に到着した。ここまで2キロ、所要時間は約30分だ。
 五条大橋といえば、弁慶と牛若丸が出会った場所として有名だが、平安時代の五条大橋は違うところに架かっていたので、厳密に言うとこの橋が本当の舞台だったわけではない。また二人が出会ったのは橋の上ではないという説もある。
 写真左側に建つ大きな木造は、昭和初期に築造された「料理旅館 鶴清」。木造3階建て総檜造りという、鴨川の岸辺にいかにも京都らしい景観をもたらしている。
 鴨川を渡ると右に折れ、三十三間堂を目指して歩いていると、「耳塚(鼻塚)」という恐ろしげなところに出た。
 説明文によると、豊臣秀吉が朝鮮を攻めた「文禄・慶長の役」(1592年〜1598年)の際、朝鮮軍民の男女から削ぎ落とした耳と鼻を塩漬けにして持ち帰り、首級の代わりとして検分したという。検分後は丁重に埋葬し、供養したそうだ。
 おそらく一兵卒ともなると首を取って腰にぶら下げていては戦いにならないから、耳や鼻を削いで持ち帰ったのだろう。2万人分の耳と鼻がここに埋められているという。
 それにしても、塚の前に普通の民家が建ち並んでいるところも京都らしい風景だ。
 耳塚から少し歩くと、豊国神社の正面に出た。
 豊国神社は、1598年に亡くなった豊臣秀吉を「豊国大明神」として祀る神社だ。
 1615年に豊臣家が滅亡すると廃絶させられ、荒れ果てるままになっていたが、明治元年、明治天皇が再興を布告し、明治13年(1880年)社殿が完成した。
 再興の理由として、秀吉は天下を統一しながら幕府を作らなかった尊皇の功臣だからなんだそうだ。
 しかし、秀吉は源氏じゃなかったから幕府を開けなかったのではないか。鎌倉幕府以降、征夷大将軍になれるのは源氏の血筋のみという不文律が日本には存在したため、明らかに源氏の出身ではない秀吉は新たに豊臣姓を創出して関白になったのだ。
 
 京都市東山区にある三十三間堂にやってきた。
 後白河上皇の離宮の一角に平清盛が私財を投じて建てた仏堂で、長寛2年(1165年)の完成。
 本尊・丈六坐像の左右に50体ずつ千手観音立像がずらりと並ぶ。「三十三間四面」という構造に由来して三十三間堂と呼ばれるようになった。
伊勢神宮
 帰りがけに式年遷宮で話題の伊勢神宮に立ち寄り、お参りをしてきました。

 
 今回入った温泉
  
  さがの温泉天山の湯
  オートレストラン長島 天然温泉
 
 
 
   
 

杉江家のどこでも別荘 キャンプ日記

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