杉江家のどこでも別荘 キャンプ日記
                〜31フィートのキャンピングトレーラーと温泉情報

 
 
平成24年2月10日〜12日 Vol.308
 

甲府・温泉めぐり

2012年2月10日 湯殿館〜じとっこ組合
 この週末はCTAでスキーキャンプ企画があったが中止になったので、山梨県は甲府の温泉めぐりに出かけることになった。
 夜10時ちょっと前、「湯殿館」に到着。山梨の温泉はあちこち巡ったが、ここは初めて。小ぶりの施設らしいので駐車場が心配だったが、正面玄関前と建物の裏、そして道路挟んで反対側と随所にあった。
 高級旅館のような、なかなか雰囲気のよい玄関。
 しかし料金もなかなか高額で、900円というのにはちょっと驚いてしまった。
 フロントのすぐ近くに浴室への入口があり、ほんとうにこぢんまりとした施設だ。これで900円というのは高すぎるような気がするのだが・・・。
 浴室は湯気が立ちこめ、視界が悪い。こちらが源泉浴槽で湯口にはコップが置いてある。
 湯の色は薄い茶色で甲府に多いモール泉。しかし、湯の色から連想するほどの腐葉土臭はあまりなかった。
 足を入れた瞬間はヌルつきのようなものを感じたが、肌を撫でてみるとわずかにツルツルする程度である。
 コップで湯を飲んでみると、こちらも想像していたほど癖のないさっぱりとした風味だった。
 こちらはジャグジー。お湯が攪拌されているため、モール臭独特の土の匂いがした。
 ここの水流はかなり猛烈で、浴槽の中に腰を下ろしたらどこかに掴まっていないと、お尻だけがツツツーと流されてしまう。他に人がいたら水中激突必至だ。
 露天風呂。石の壁と竹の塀で囲まれて景観はまったくない。それでもお湯が良ければ気持ちよく過ごせるのだが、匂いも触館も内湯の「源泉」と書かれた浴槽には及ばなかった。
 再度「源泉浴槽」に戻り、改めて湯質の良さを確認する。やはり源泉と書かれているだけあって、ここのお湯がもっとも鮮度が良く、ツルっとする感触も一番だ。
 閉館時間が迫ってきたので他の入浴客も上がってしまい、わたし一人になった。
 このままずっと湯に浸かっていたかったが、ギリギリまで粘って10時45分に上がった。
 泉質自体は上質だしお湯の使い方も良いのだけど、この規模で900円はやっぱり高いかなと思った。

 湯殿館を出た後は昭和町にある「じとっこ組合」という宮崎地鶏の居酒屋レストランへ移動。料理を注文しながらお姉さんに駐車場で車中泊していいか尋ねたところ、快くOKをもらうことができた。
 いつも同じことばかり書いて恐縮だが、湯上がり後のビールは本当に格別。料理も美味しかった(単価が高いけど)。
 野菜につけていただく味噌にはナッツ類などが色々入っているようで、これだけでもお酒が進む一品だ。
 お会計のときには店員さんがちょこっとだけ味噌が入った小さなタッパーを渡して、「次回来店くださる時にお持ちくだされば、一杯にします」と言う。粋というか、なかなかやるなと思わせるサービスだった。
2012年2月11日 武田神社 
 「じとっこ組合」の駐車場で一泊させていただいた翌朝、わたしたちは武田神社に向かった。再開発が進む甲府駅前を抜け、真っ直ぐな武田通りへ。この突き当たりが武田神社だ。
 武田神社は戦国きっての人気武将、武田信玄を祀る神社だが、元は武田信虎(信玄の父)が築いた躑躅ヶ崎館のあった場所である。つまり、ここは武田家の本拠地ともいうべき城下町なのだ。
 城下町というものは普通、敵が侵入しづらいようにわざと道を細くしたり、曲がり角だらけに造られることが多いのに、このストレートな道路はちょっと異質な印象を受ける。
 さすがは「人は石垣、人は城」と言ったとされる信玄の城下町らしい造りではある。
 ↓正面入口の「神橋」から臨む鳥居と参道。
 武田信玄については今さら説明するまでもなく皆さんご存じだと思うが、一応さらっと紹介しておく。
 信玄という名は入道後(「入道」の説明はこちらの「八幡原史跡公園(川中島古戦場)」ページでどうぞ)の名前で、元服名は武田晴信。大永元年(1521年)、武田神社の背後にある石水寺要害城で誕生し、元亀4年(1573年5月13日)に上洛の途上であった信州駒場で53歳の生涯を終えた。21歳で国主になって以来30年あまり、国の拡張を図って幾多の戦いを重ねる一方、 領国の経営にも心血を注いだ名君であった。
 天正10年(1582年)、武田勝頼の死によって武田氏が滅亡すると、躑躅ヶ崎館は破却された。
 明治13年、明治天皇が地方巡幸の際に信玄ゆかりの社寺保存のため保存金を下賜したり、大正4年には大正天皇が信玄に従三位を追贈するなどした結果、大正8年には社殿が竣工した。
 こういった信玄を軍神化して祀る運動の背景には、明治維新後の勤皇的、あるいは軍国主義的な機運を高めたいという意図があったように思われる。
 境内にはちゃっかり天照大神を祀る祠もあったりして、自分の屋敷跡が帝国主義や軍国主義路線の膨張に利用されたと知ったら、信玄さんもあの世でちょっぴり複雑な心境になるんじゃなかろうか。
 
←拝殿。明治以降に建てられたものなので、さほど見るべきものはない建物。さっと見学し、参拝して周囲を散策してみる。
 信玄が使用したと伝わる古井戸。躑躅ヶ崎館の中心に掘られたものだという。
 覗きこんだところ、思ったより深くなかった。
 ここの水を信玄さんが飲んだかと思うと、感慨もひとしお。
 武田水琴窟という名のついた水場。
 水琴窟(すいきんくつ)とは、水鉢から溢れた水が空洞を落ちて鳴らす音を楽しむ庭園装飾である。
 竹筒は水音が聞こえやすいように取り付けられたもので、騒音などなかった数百年前当時は、竹筒なしでも爽やかな「琴」の音を楽しめたに違いない。
 竹筒に耳をあてると、ピンピン、という鉄琴をかき鳴らすような可愛らしい音が聞こえた。

 いったん武田神社境内から出て、武田氏館跡の見学へ。
 信玄の父・武田信虎が居宅を石和からこの地に移したのは1519年(永正16年)。
 信虎は室町幕府の将軍とよしみを通じ、京のまちを城下町づくりの手本とし、将軍邸である「花の御所」を館建築の手本にしたという。また家臣団を周囲に住まわせ、この地を足がかりにして甲斐統一を進めていった。
 背後の山には要害山城が築かれ、信玄はそこで生まれたとされている。
 躑躅ヶ崎館の周囲は約200m×約190mで、外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造であったらしい。
 ↑の階段は大手東側に築かれた曲輪の虎口で、この上に門があったと考えられている。
 1575年(天正3年)、武田勝頼が「長篠の戦い」で織田―徳川軍に破れると、新たに築いた新府城へと居を移した。武田氏滅亡後は織田家家臣や徳川家康などが主城としたが、甲府城が築かれると廃棄された。
←発掘され復元された堀。
【武田神社DATA】

■山梨県甲府市古府中町2611
 TEL:055-252-2609
■駐車場使用時間 9:00〜16:00 ←ここは神社正面に向かって右側のPで、奥に行けばほぼフリースペースなので大型キャンピングカーでも大丈夫。

 しかし、画像右側に民家が写っているのがおわかりでしょうか。駐車場と普通に地続きなので、外で飲食をしたり発電機を回するなどの行為は控えるべきでしょう。
 ちなみに神社に向かって左側の方にも駐車場が2カ所あります。
2012年2月11日 甲府城跡 舞鶴公園
 武田家滅亡後の甲斐国は織田信長の領国になったものの、本能寺の変後は徳川家康の支配下となった。家康は家臣の平岩親吉に命じて一条小山に築城を開始したが、完成前に関東転封。豊臣秀吉の家臣が相次いで領主になり、甲府城が完成したのは慶長5年(1600年)、浅野長政・幸長父子の時代であった。
 「関ヶ原の戦い」後は家康9男・義直、秀忠2男・忠長などの徳川一門が城主となった。しかし、彼らは江戸で暮らしたため入城することはなく、城代制がしかれていた。
 それでも甲府城は将軍家にもっとも近い親藩としてのシンボルであった。
 宝永元年(1704年)、そのシンボルを徳川一門でもない人物が思いがけず頂くこととなる。5代将軍・綱吉の側用人・柳沢吉保である。
 甲府宰相と呼ばれた徳川綱重の子、綱豊(後の6代将軍家宣)が将軍世嗣となって江戸城に入ったため、吉保が甲府城主となったのだ。それも城代などというケチな身分ではなく、お城と甲斐国三郡(巨摩・山梨・八代)をまるまる頂戴したんだからスゴイ!
 5代将軍綱吉はかなり偏重傾向の気質だったそうだが、吉保を甲斐国の領主に据えたのには、綱吉ならではの「こだわり」があったのだと思う。実は、柳沢家は甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔を称していた。甲府城のある一条小山は、もともと甲斐一条氏の居館があった場所なのである。
 歴史好きな綱吉が、吉保のルーツから「甲斐国を治めるのは吉保しかいない!」と考えるようになったとしても不思議なことではない。
 さて、吉保が一介の小姓だった頃から寵愛し15万石の大名にまで取り立ててくれた綱吉さんも、ついに宝永6年(1709年)亡くなる。
 後ろ盾を失った吉保はさすがに観念して隠居、嫡男・吉里が父の跡を受けて甲府城主に。
 意外なのは、甲府城が迎えた城主は吉里が最初ということだ。今までの城主は甲府入りをしなかったので、吉里が来てくれて城も嬉しかったに違いない。
 吉里は長らく行われていなかった検地を行って用水の整備を行って農業の振興化をすすめ、城下町も大きく発展したとか。いいお殿様じゃないですか、吉里さん。しかし、残念ながら8代将軍・吉宗の時代に大和国郡山藩に移封され、以降の甲府藩は幕府領となった。
 甲府勤番と代官が支配するという寂しい時代が続き、「殿様がいない城なんてつまらない。。。」と、お城が思ったとか、思わなかったとか。それが原因がどうかは定かではないが、甲府城は大火にあうなどして次第に壮麗な姿を失っていったという。
 明治時代には廃城処分となり、建物の破却や内堀の埋め立てが進められ、ワイン醸造所が建てられたり公園として解放されるなどした。さらにはJR線や甲府駅の開業により城の敷地が分断されてしまったが、戦後は発掘調査や史跡の整備がすすめられた。
  ↑画像右側、線路越しに見える屋根が2007年(平成19年)に復元された「山手渡櫓門」
 平成2年からは門の改修、石垣・堀の復元がすすめられ、稲荷櫓・山手渡櫓門という二つの櫓が復元された。現在は「鉄門(くろがねもん)」の復元工事中。
 ←これは本丸の隣にある本丸櫓跡。明治時代初年には建物が残っていたことが古い写真からわかっているとか。
 明治政府が現在の世界遺産ブームを予見できていたら(ムリだと思うけど)、堀を埋めたり建物を壊したりしなかったと思うんだけどなぁ。もったいないことをしたもんだ。
 天守台に登ると、甲府の絶景が待っていた。
 観光客は少なく、他には中国語を話す男性2人組がいるばかり。静かな天守台には車のエンジン音と電車の音だけが響いていた。
 先ほども書いたが、ここ一条小山には甲斐一条氏(甲斐武田氏の一族)である一条忠頼の居館があった。忠頼は治承4年(1180年)、の「富士川の戦い」で平家軍と戦った後、木曽義仲追討戦にも参加した武将だったが、元暦元年(1184年)、源頼朝に招かれて鎌倉に赴き、酒を振るまわれたところを頼朝の命を受けた天野遠景によって暗殺された。

天守台からの眺め。県庁の電波塔越しに見える、雪をかぶった南アルプスがとても美しい。
 頼朝が暗殺を行った理由は、おそらく甲斐源氏・武田氏一族の勢力が邪魔だったからだろう。この頃の頼朝は平家一族を西国に追いやり、後白河法皇から三河・駿河・武蔵の三国を与えられたものの、まだ絶対的地位を確立していなかった。
 というより、朝廷から知行国を与えられて満足する頼朝ではなかった。官位や領地を与える支配権を朝廷からもぎ取るのが究極の目的だった頼朝にとって、同じ「源氏」を名乗る別グループは障害以外の何者でもなかったからだ。
 そうやって誅殺された代表が、あまりにも有名な源義経である。後白河法皇から任官された義経は、鎌倉の許可を得ることなく官位を受けてしまい、頼朝の怒りを買った。一条忠頼もおそらく同じような後白河の罠にはまったのではないか、と推測できる。
 彼の死後、残された妻が夫の菩提を弔うため一条小山の居館を尼寺として開き、その後、時宗系の一蓮寺となった。甲斐武田氏宗家は織田・徳川連合軍に滅ぼされ、家康が一蓮寺を立ち退かせて甲府城を築城した。そして、家康の曾孫・綱吉が、柳沢吉保を城主にした。吉保はこの天守に登ることはなかったけれど、吉里が城主として先祖の地・甲斐に戻ってきた・・・という、歴史が織りなす不思議なループをこの城に見た思いがした。
2012年2月11日 湯めみの丘
 舞鶴公園を出発し、次に目指したのは「源泉100%かけ流しの湯 湯めみの丘」という日帰り温泉施設。名前に「源泉100%かけ流し」とつけるなんて、よほど自信があるんだろう。
 お湯は無色透明で、ほんのり硫黄の臭いがする。素晴らしい眺望の露天風呂の湯口では泡つきも楽しめる。
 ただ、残念なことに露天風呂は人、人、人の混雑ぶりで、入ったはいいが座るところがないほどのイモ洗い状態。湯口付近は競争率が高く、常に誰かがへばりついていた。
 湯口の近くでなければ泡がつかないので、わたしは湯口を占領している人がいなくなるのを待った。湯温はぬるめなので、いくらでも浸かっていられるのが良い。
 混雑しているから仕方がないが、マナーの良くない人が多くいた。特に幼い子ども連れのおばあちゃんは最悪。やんちゃな男の子が湯に飛び込むのはよく見られる光景だが、まあ背を向けてしまえば見えない。むしろ口先だけで叱って止めさせられないおばあちゃんの方がうるさくて大迷惑だった。
 いたずらを止めさせたければ、さっさとひっ捕まえて連れて行けば良いのに、「やめなさい」とか「もう出よう」と言うだけで、なかなか出て行かないから、相当イライラさせられた。
 多くの人は温泉に癒やしを求めてくる。特に一人で来ている人は静かに湯を楽しみたいのだ。水遊びはプールか家のお風呂でやらせてほしいと思う。
 混雑していたためお湯の写真は撮れず。紹介サイトの方をご覧ください。
 駐車場の周囲は畑で、あまり小高いという雰囲気ではない。坂を登った先に施設の建物があり、その途中に源泉を汲める蛇口があったので、キャンピングカーに置いてあった4リットルのボトルに湯を入れさせていただいた。
 ぽわーんと硫化水素臭のする、とても良い湯だった。
2012年2月11日 
 甲府温泉巡りの最後を飾るのは、今回3度目となる「源泉湯 燈屋」。ここのお湯がとても好きだし、ここのお食事処で食事をしながらワインを飲むのも楽しみの一つだった。
 熱いお湯に浸かった後の生ビールは最高です。
 B-1グランプリで優勝したという甲府とりもつ煮を注文。ガムシロップを注ぎ込んだのかと思うくらいに甘いので作り直してもらったが、次に来たのも同じくらいの甘さ。ウェイトレスさんは恐縮しつつも、これが普通の味だという。なんでも山梨は山に囲まれた土地のせいか、味付けが濃くて甘いのだとか。
 わたしは甘党だし、焼きそばなどはかなり濃い味にして食べるが、肉や魚などは食材本来の味を生かした薄味で食べたいし、しょっぱすぎるのは完全NG。まして甘いのとなると・・・。でも、これがこの土地の文化だと説明されれば、名産をいただくのが旅の楽しみなので、納得しつつ完食した。
 これ以外はおおむね満足の夕食だった。
 退館時に、受付の人に酔いが覚めるまで駐車場で休憩させてもらう許可をいただくと、キャンピングカーで一泊した。
 
 今回入った温泉
  
  湯殿館
  湯めみの丘
  燈屋
  みたまの湯
  
 
 
 
   
 

杉江家のどこでも別荘 キャンプ日記

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