杉江家のどこでも別荘 キャンプ日記
                〜31フィートのキャンピングトレーラーと温泉情報

 

平成22年5月5日(水)〜8日(土) Vol.290
 
琵琶湖キャラバン〜平城京編
平城宮跡

第一次大極殿
 江戸時代の彦根城、安土桃山時代の安土城と見学してきて、次は時代をさらに遡り奈良時代へとタイムスリップだ。
 今年は「平城京遷都1300年」を迎える年だそうで、それに合わせて大極殿が完成した奈良では各種イベントなど花盛り。皇太子殿下もご先祖様の偉業を見学すべく訪問されたとニュースで報じられていた。
 今回のキャラバンの最後を締めくくるのは、その平城京の宮殿がかつて建っていた平城宮跡と再現された大極殿の見学である。
 では「平城京遷都1300年」ってどういう意味? と、ご存じでない方のために解説。
 古墳時代から元明天皇が即位する707年まで、天皇家は飛鳥を中心として朝廷(天皇の住まいと政治機関のこと)を置いていた。それが藤原不比等の主導で、藤原氏の影響力がより及びやすい奈良の地への遷都が決まった。 
 飛鳥は蘇我氏の本拠地であり、不比等の狙いは蘇我氏および天智天皇の流れを汲む女系から皇位を奪い取り、藤原系の天皇を誕生させることであった。藤原不比等について、さらに詳しく
 
 710年、遷都が行われ、内裏、大極殿、朱雀門などが建設された。つまり、これが今から1300年前のことである。784年に桓武天皇の命により長岡京遷都が行われるまでの74年間、平城京の北端に朝廷が置かれ政治の中心となった。
 このとき築かれたのが第一次大極殿と呼ばれる、即位の礼や国家的な儀式を行う正殿(上の画像)である。
 ところが740年から約5年、聖武天皇は何かに憑かれたように恭仁京、難波京、紫香楽宮へと遷都を繰り返した時期があった。 その理由について、さらに詳しく→「奈良は呪いの都」
 
 745年に再び奈良に都が戻ってきてから建設されたものは、第二次大極殿と呼ばれる。
左の配置を示した画像のうち、赤い点線枠が第一次大極殿、緑の点線枠が第二次大極殿。青い枠は内裏があった場所で、これは前期と後期で変わっていない。
 ちなみに当時は「平城京」と書いて、「ならのみやこ」と読んだらしい。
 「なら」とは「土地を平にならす」の「なら」、つまり「なだらかな土地」の意味だ。加えて「平和」という意味も込められていたのではないだろうか。
 また「平城」は「へいじょう」ではなく「へいぜい」と読むのが本来の読み方だというから、ややこしい。
 さて、わたしたちが平城京跡を訪れたこの日は、あいにくの雨であった。が、どうだろう、このたくさんの観光客。正直言って、ここまで人気があるとは思っていなかった。
 平成19年の年末に平城京跡を訪れた際は、ただの広い公園という印象で、ほとんど誰もいなかった。
 こちらのページを見ていただきたい。大極殿はまだ建設中で、マンションの建設現場みたいだったのである。あまりの違いに、思わず呆然。

朱雀門
 天皇家はヤマト王権の安定化とともに山がちな飛鳥を捨て、710年、平坦な奈良へと移った。
 元明―元正―聖武―孝謙―淳仁―称徳(孝謙の重祚)―光仁と、6人の天皇が平城の都を治めたが、781年に桓武天皇が即位すると、山城国(現在の京都)への遷都を行った。
 784年、長岡京を造営したが失敗したので、改めて平安京を築き都を移した。学校で「鳴くよウグイス平安京」と習った、794年のことである。
 以来、明治2年(1869年)に明治天皇が東京に移るまでの1075年間、京は日本の首都であり続けた。
 では、なぜ桓武天皇が京に遷都したかというと、実は聖武天皇と同じ理由からだった。
 怨霊である。
 ここは桓武天皇のページではないので、これについては別の機会に書くことにする。他にも色々な理由があって、系統が天武系から天智系に替わったこと、奈良には水路がなく不便だったということ、水回りが悪く不衛生だったことなども、遷都を促す原因となっているらしい。
 都が移ったのちも平城京は「南都」と呼ばれ、寺社は比較的残った。しかし、建物が移築された宮跡は荒れ果て、水田が作られるなどして次第に土の中へと埋もれていき、正確な場所がわからなくなった。
 江戸時代の末になり、歴史地理学者・北浦定政(1817年〜1871年)によって平城京の研究が行われた。明治22年には、建築家・関野貞が大極殿跡を発見、また奈良公園の植木職人であった棚田嘉十郎が平城宮跡を保存するための活動を行った。
 こうした研究や保存活動により平城京の姿が次第に明らかになり、昭和27年には国の特別史跡に指定され、平成10年には平城宮跡を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録された。
 平城宮の南にある正門、朱雀門。「朱雀」は鳳凰(ほうおう)つまりフェニックスのことだ。
 昭和39年(1964年)に門の跡地を発掘調査して模型を製作。平成9年(1997年)には、復元工事が行われ、五間三戸の二重門が完成した。
 門の前では外国使節の送迎を行ったり、歌垣なども行われた。正月には天皇がこの門まで出向いて新年のお祝いをすることもあったという。
 朱雀門の左右には高さ6メートルの築地がめぐり、130ヘクタールの広さの宮城を取り囲んでいた。門は衛士によって守られ、常時開いていたわけではなかったそうだ。
 →朱雀門をくぐると、大極殿が遙か彼方に見えてくる。これはだいぶ歩いてからの画像で、実際はもっと小さく見える。え〜こんなに歩くの? という印象だ。
 往時は幅の広い道が真っすぐ大極殿へと至り、左右にたくさんの建物が居並んでいたという。
 さぞや美しく壮麗な姿だったことだろう。
 しかし、現在は朱雀門と大極殿の間を近鉄奈良線が横断するという有様。文化遺産のど真ん中を鉄道が貫くなんて、本当に当時の役人や鉄道会社は何を考えていたのだろう。
 とはいえ、この鉄道は近鉄の前身・大阪電気軌道が大正3年(1914年)に開業したもので、遺跡保護という考えも浸透しておらず、まして史跡として保護もされていなかった時代のこと。
 近年は整備計画区域の鉄道、民家、工場の移設計画が持ち上がっており、今も発掘が進んでいるため、平城宮が当時の姿を甦らせる日も来るかもしれない。

平城宮跡を走る近鉄奈良線。傘の向こうに大極殿が見える
 大極殿がだいぶ近くなってきたところで、背後を振り返る。朱雀門があんなに遠い。もうこんなに歩いてきたのね。
 大極殿の正面にはイベント用の音響装置が設置され、さらにその前には花壇が置かれていた。
 奈良文化財研究所のサイトによると、南北320メートル、東西180メートルの範囲を築地回廊で囲み、南半分を広場とし、北半分では磚(せん、粘土を焼き固めた灰黒色の煉瓦)積みの擁壁を設けて高い壇を形成し、天皇の座がおかれる建物である大極殿を配していたという。
 大極殿は2001年より復元工事が開始され、今年ようやく完成をみた。現存する同時代の建物から様式を引用し、組み合わせるという手法にとどまらず、古代建築の構造から細部の形状の意味に至るまで総合的な検討が行われた。
 つまり「新しい古代建築を作る」というコンセプトのようだ。
 しかし、復原原案のままでは構造上安全ではないため、地震による揺れを最小限に軽減させるための免震装置が導入された。基壇内部を空洞にして、リニアスライダー、積層ゴム、粘性体ダンパーの組み合わせからなる免震装置が挿入され、地震に強い施行がなされているという。
 凝灰石で化粧された二重の基壇の上に、横幅44メートル、奥行き19.5メートルの建物が建つ。材質はケヤキとヒノキが使われ、宮大工による伝統工法で組み上げられている。
 回廊の長さは東西約180メートル、南北約320メートル。 
 地面から屋根までの高さは約27メートル、直径70センチの朱色の柱は44本、屋根瓦の数は約9万7千枚という。
 建物は二重構造になっており、上の屋根は入母屋造本瓦葺、初重の柱は身舎と庇の高さを同高に揃える「殿堂形式」になっている。
 柱間は正面がすべて解放され、側面と背面が壁と階段になっている。
 組物、軒は薬師寺東塔を、内部架構や小屋組は法隆寺金堂を参照しているそうだ。

大極殿へと登る階段

 ワクワクしながら、いよいよ内部へ。
 4月に初公開してからまだ間もないので、柱も天井もなにもかも、とにかく真新しくて綺麗だ。
 715年頃に完成したとされる大極殿に足を踏み入れた天皇、皇族、政治家たちも同様のワクワク感を味わったに違いない。
 奥に見えるのが天皇の玉座。
 公開前の1月、「大仏開眼」というスペシャルドラマのロケが大極殿にて行われ、聖武天皇(國村隼)と孝謙天皇(石原さとみ)がこの玉座に実際に座るシーンも放送された。
 セットではない本物の大極殿を使ったシーンはなかなかの迫力で、当時の衣装に身を包んだ石原さとみの髪型や化粧にもリアリティがあった(ドラマの構想や脚本は非常に甘くて、もどかしさはあったが)。
 スタッフブログ
 →スポニチ記事「石原さとみ興奮!NHKドラマで“大極殿正殿”開放
 天皇になった者にしか座ることの許されない玉座。この再現玉座にしても、ごく一握りの俳優さんしか座れない貴重な椅子でもあるわけだ。
 第一次大極殿では元明、元正、聖武と3人の天皇がこの玉座につき、即位や外国使節との面会など、国のもっとも重要な儀式が執りおこなわれた。
 前述したとおり聖武の時代は遷都が繰り返されたので、孝謙以降は第二次大極殿に玉座があった。だからドラマで石原さとみが座っていたのは、実際にはこの第一次大極殿ではなく第二次の方の玉座ということになる。
 内殿から朱雀門を見たところ。
 当時は大極殿と前庭は回廊で囲まれており、国家儀式の際は前庭に大勢の貴族が立ち並んだという。
 多少違いはあるにせよ、聖武天皇もここからの景色を同じように見ていたに違いない・・・と歴史ロマンにふけっていたら、プワ〜ンと警笛を鳴らして電車が横切っていった。
 まさかこんな光景になるとは、さすがの聖武さんも予想してなかっただろうなあ。
 視点を再び内部に戻して天井近くを振り仰いでみると、壁に描かれた4つの守り神、玄武、白虎、朱雀、青龍の姿を見ることができる。
 ちなみに「大極(太極・たいぎょく)」とは宇宙の根源のことで、古代中国の天文思想では北極星を意味する。
 つまり四神の絵は天文図なのだ。
 内殿に展示されている鴟尾(しび)。大極殿の屋根の両端に載せられているもので、大きさは2メートル。当時の格の高い建物には必ず載せられていたという。
 鴟尾はいわゆるシャチホコで知られる鯱(シャチ)の尾っぽの部分にあたる。屋根の部分を水面に見立て、シャチがシッポだけ出して泳いでいる姿なのである。
 建物が焼失しやすかった当時、火除けの意味をこめて屋根に飾られた。 
 玉座の後ろにある展示品や説明のパネルなどを見ながら、入口反対側にやってきた。
 大極殿のテラス?部分。欄干の上には炎か桃のような形をした金の枠の中に玉が入っている飾りが置かれていた。
 目の前だが、手が届ないので触れることはできない。階段の手すりなど手が直接触れる場所はアクリルで覆って入念に保護している。
 飾りのクローズアップ。玉の材質は不明だが、青、赤、黄色など色とりどりでとても綺麗。

 内部の見学を終え、外へ。正面から鴟尾を写す。
 鴟尾はこのように3ヶ所載せられている。両端は横向き、真ん中だけこちら向きである。

 「遺構展示館」にやってきた。
 ちなみに平城宮跡の敷地に入るのも無料なら、大極殿の見学もタダ。「平城京歴史館」のみ有料となるが、この「遺構展示館」と「平城宮跡資料館」も無料だ。太っ腹!
 天皇が日常の政務を執った内裏正殿の再現図。この北側には日常生活のための建物があった。
 位置は、この遺構館の西方だったという。
 「遺構館」という名前だけあって、剥きだしの柱跡が館内に展示されている。昭和39年(1964年)に発掘されたもので、何の建物跡かははっきり記されていない。おそらく役所の建物か。
 柱穴が重なり合っている箇所があることから、730年から770年にかけて建物が4〜5回建て替えられたことがわかるそうだ。
 このレポを書いている折も折、朝日新聞のサイトにこんなニュースが載った。「平城京の高級官僚、禁止なのに肉食 寄生虫の卵で裏づけ
 どういうことかというと、平城宮の便槽に残っていた便を分析したところ、牛や豚の肉を食べると感染する寄生虫の卵の遺物が見つかった。その便槽は宮内警備にあたった「衛府(えふ)」などがあった官庁街と推定される場所にあったもので、そのことから役人が牛や豚の肉を食べていたことが判明したというわけだ。
 殺生を禁じる仏教の影響から肉食禁止令が出ていたが、こっそり食べていたらしい。
 asahi.comによると「古来、日本人はイノシシやシカなどの肉を食べてきたが、日本書紀などによると、仏教の普及に伴って「牛・馬・犬・猿・鶏を食することを禁じる」(675年)、「飼っている鶏やイノシシを放せ」(721年)など、朝廷から肉食禁止令が出されていた。仏教に深く帰依した聖武天皇も肉食を禁じる詔を発した」とのこと。
 ちなみに、排便後にお尻をぬぐうのに使っていたのは紙ではなく、細長く割った板だったという。
 内裏の井戸の井戸枠。直系1.7メートルの杉の木をくり抜いて作られたもの。
 第二次大極殿基壇の南北断面、だそうだ。
 断面というのだから、そのまんまスライスしたものを持ってきたのだろう。なんだかスゴイものらしいが、今ひとつ価値がわからずコメントできません。
 この他にも礎石など色々な遺構が見られる「遺構館」、けっこう楽しめました。

 再び朱雀門のある方に戻ってきて、「平城京歴史館」へ。ここはシアターなどがあるため整理券を配っており、あらかじめ時間指定の券をもらっておいた。
 雨のせいで案内が遅れており、長蛇の列ができていた。
 あらかじめ整理券をもらっておくことと、大人500円の入館料が必要になる。
 建物前に展示されている「遣唐使船」。ここは実際に乗れるそうで、後で入ってみることにしましょう。
 館内に入ると、まず遣唐使について説明した「古代のアジアと日本の歴史」というアニメーションが上映され、遣唐使・吉備真備や阿倍仲麻呂らのエピソードも描かれていた。
 遣唐使は、皇帝への朝貢と、最先端技術、学問、芸術の会得や仏教の経典の収集を目的とした使節団のこと。
 630年、舒明天皇の時代に最初の遣唐使が派遣された。その前は隋という国に遣隋使を送り出していたが、隋が滅びて唐に替わったので遣唐使になった。
 目的地の長安は遠く、海路3ヶ月、陸路1ヶ月の長旅。しかも航海技術が未発達だったため、しばしば暴風などで難破した。3回に1回は渡航失敗に終わるという確率の悪さだったという。
 そのため4隻の船に分乗してリスク分散をはかるようになったが、1〜2隻は難破したり漂着したりし、漂着した南の島で殺害されることもあった。
 先日、NHKの「歴史秘話ヒストリア」という番組で「奈良の魔法使い〜日本を救った遣唐使・吉備真備(きびのまきび)」が放送されたが、冒頭で「宇宙戦艦ヤマト」の主題歌が流れて思わず大爆笑。
 つまり、イスカンダルに行くのと同じくらい(笑)、唐に渡るのは難しかった。旅立ったら最後、帰ってこられないかもしれない命がけの任務だった。
 しかも遣唐使船は人員を降ろすと、これから帰国する留学生(僧)を乗せて帰って行ってしまう。次に遣唐使船がやってくるのは10数年から20年後。
 もしかすると国内情勢が変わって二度と船が来ないことも考えられる。そうなると永遠に帰国できない。
 遣唐使たちはヤマトの乗組員なみの悲壮感をもって旅立っていったに違いないのだ。
 ここで初めて、動いてしゃべる「せんとくん」を見た。シアターはせんとくんの説明でストーリーが進む構成になっている。
 せんとくんは、「平城遷都1300年記念事業」の公式マスコットとして2008年に発表されたキャラクター。名前は一般公募から選ばれた。
 いわゆる「ゆるキャラ」と言ってもよいのだろうが、妙にリアリティがあるようなないような、ひこにゃんのような愛嬌がないようなあるような、なんとも微妙なキャラである。
 頭に鹿の角を生やした僧(公式には童子)の姿が物議をかもし、仏教界が「仏さまを侮辱している」と抗議したという。一般人からも「キモイ」という意見が多かったようだ。
 三頭身どころか2.5頭身の巨大な頭に二重顎、はだけた胸は膨らみ気味。ちょっとパタリロに似ている?
 しかし、長い耳と額の「白毫(びゃくごう)」は修行僧にはないもので、明らかに大仏像のデザインである。
 また手相がクッキリしていて、仏さまの手のひらを思わせる。
 そして何より違和感ありありなのは、頭の角。せんとくんは「ボルテスV」のボアザン星人だったのか。
 なぜ仏教界が「侮辱」と受け止めたかというと、これはわたしの解釈だが、仏教思想にある「六道」の中で、鹿は「畜生道」に属する動物だからではないだろうか。
 仏教の最終目的は、永遠の苦しみである六道をめぐる輪廻から解脱し、極楽浄土に生まれ替わること。僧はそれを導くための存在だ。だから、僧侶をかたどったキャラクターが角を生やしていることはありえないのである。
 わたしは宗教家じゃないので思想的な点は抜きにしたとしても、上半身裸というスタイルになんとなく違和感を感じる。あとは角を生やそうがポッチャリだろうが、まあ好みの問題だろうという印象だ。
 まあ、ひこにゃんのいでたちだって、動物(猫)の分際で武士にとって神聖な兜を被るなんて何事だ! おまけに下半身裸ではないか! という指摘もできるだろう。
 その辺が物議を醸したという話は聞かず、人気は上々である。せんとくんも、反発を受けたことで逆に知名度を上げた感がある。

 次に遣唐使船に乗ってみた。幸いなことに、雨によるスリップ事故を防ぐため閉鎖される前の最後の客となった。
 遣唐使船は原寸大の復元で、建物の前にただ置かれているだけでなく、こうして室内からそのまま入れるようになっている。
 朝鮮半島三国は中国を統一した隋に対して朝貢使節を派遣し、その支配下に入った。しかし、日本は対等の外交文書を送って册封体制に入らないことを示した。
 あの有名な、聖徳太子の「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる手紙である。
 その姿勢は隋が唐に替わっても続き、高度な文明を輸入し続けた。
 遣唐使は、大使・副使・判官らの幹部、医師・通訳・船員などで構成された。それに同行する形で留学生や留学僧が唐との間を行き来した。
 「歴史秘話ヒストリア」では、それに加えて絵師も同行し、同行取材記者さながらに遣唐使の旅や長安の様子を伝えたという。
 留学生(僧)たちは唐に滞在して優れた政治制度や仏教文化、最先端の各種技術、学問などを学んで日本に持ち帰り、奈良時代の国づくりの力となった。
 630年から838年まで、計19回の使節団が結成されたが、うち4回は船の破損やら何やらの事情で停止したり、難破して渡航失敗に終わっている。また成功しても、一緒に航海した船のどれかが難破して帰らないことも多かった。
 894年、菅原道真が大使に任じられたが、唐の政情不安を理由に停止を進言した。20回目の渡航が行われないまま唐が滅亡したため、遣遣唐使の歴史は200年で幕が下ろされることとなった。 
 たびたび難破したのは決して航海技術が未熟だったからではない、という説もある。皇帝に謁見する正月に間に合うよう出航したため、どうしても台風シーズンに当たってしまったせいだというのだ。「歴史秘話ヒストリア」でもその点に触れていたが、これって本当なのかしら。難破する危険を冒してまで、わざわざ台風シーズンに出航するなんて馬鹿げている。
 やはり難破が多かったのは、船底が平べったい構造の船だったことが最大の原因ではないだろうか。現在の船は船底が三角形になっていて横波にも強いが、当時の遣唐使船は大きな横波を受けて傾くと、遣唐使団も含めた乗員が一斉に移動して船の均衡を保ったという。
 一隻に100人が乗船していたというから、かなりのすし詰め状態。それだけの人々が船の傾きに合わせて右舷に走ったり、左舷に走ったりしていたのだ。
 NHKドラマ「大仏開眼」では、主人公が嵐で揺れる船室に籠もって青くなっていたが、ちょっと違ったかもしれない。
 それにしても、無線も救命胴衣も救命ボートもなかった当時、船が沈んだらまず間違いなく溺死しかなかっただろう。助かる見込みはほぼない。
 雨のなか遣唐使船を見学して、荒波に揉まれる遣唐使たちの気分をわずかにでも味わった後は、「歴史館」を出ようと出口を探した。
 が、入口からは出られないようになっていて、それらしき出口が見あたらない。すると流暢な日本語を話す白人の女性ガイドさんが話しかけてきて、VRシアターを観ないと退館できないと教えてくれた。この方、後で調べたらスイス出身のバルバラさんだそう。
 わたしたちは言われたとおり、VRシアターを観てから出ることにした。シアターでは「平城京 はじまりの都」という、ありし日の平城京の姿を最新のバーチャルリアリティーを駆使し再現したムービーが上演された。
 5面マルチスクリーンが眼の前に広がり、平城京を立体的に体感できて浮遊感すら味わえ、なかなか面白かった。

 ここで平城宮跡の全体図を紹介しておこう。わたしたちが最初に訪れた第一次大極殿は(F)の場所、続いて訪れた「遺構展示館」は(I)の場所だ。
 (F)と(I)はすぐ近くのように見えるが、通路が制限されていて最短ルートで行けないようになっている。間に内裏の再現建物があるためだろう。
 そのため大極殿前庭の南端まで歩いた後、内裏の建物に添って歩き、再び北に戻るようにして「展示館」に進む。
 そこから(B)の「歴史館」までが、また遠い遠い。上着や靴が雨で濡れた状態で延々歩いて、かなり疲れた。本当はそこから(E)の「平城宮跡史料館」にも行きたかったが、雨がやむどころか雷まで鳴りだし、寒くて気力も萎えたので帰ることにした。
 「歴史館」の整理券の関係でこういうルートになってしまったが、これから見学しようという方は以下のルートで見学することをお薦めする。
 
(B)で整理券→(E)→(F)→(I)→(J)→時間をみて余裕があれば(C)、時間ぴったりなら(B)→(C)
あるいは、これと反対回りで回ってもよし。なにしろ朱雀門から大極殿まで800メートルくらいあって、行ったり来たりしたら疲れるだけ。
 無駄のないルートで楽しんでください。
 
 
 
 今回入った温泉
 
  上方温泉 一休 京都本館
  


  
 
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