杉江家のどこでも別荘 キャンプ日記
                〜31フィートのキャンピングトレーラーと温泉情報

 

平成22年5月5日(水)〜8日(土) Vol.290
 
琵琶湖キャラバン〜戦国時代編その2
安土城跡

安土城があった安土山。標高199メートル
 日本の城の中でもっとも絢爛豪華であったと言われる幻の城、安土城。世界で最初の木造高層建築といわれ、高さ約46メートルの壮大で絢爛豪華な姿は、屏風絵に描かれヨーロッパにまで紹介されたという。
 安土城は織田信長が1576年(天正4年)に着工し、3年の工事期間を経て完成した。現在の滋賀県近江八幡市安土町の小さな山に建てられたその城は、外壁に金箔10万枚を使用し、燦然ときらめく金の鯱を乗せた5重6階の天守をいただいた、当時最高の建築技術と文化・芸術の粋を結集したものだった。
 まさしく信長の『天下布武』を象徴する城である。天守閣を持ち、城下町を見下ろすスタイルの城は、信長が日本で最初に築き上げたと言われている。
 しかし、完成からわずか3年後の1582年(天正10年)、明智光秀の謀反により信長が本能寺において横死すると、安土城はあっけなく焼失してこの世から姿を消した。そして、その後再建されることはなかった。

安土城駐車場。有料で普通車500円
 原寸大の復元天守として、1992年のセビリア万博に出品されるその時までは。
 わたしたちはその復元・安土城天守と、天守がかつてそびえていた城跡を見学するべく安土山を訪れた。復元天守はここではなく少し離れた「信長の館」の方で展示されているので、後でご紹介する予定だ。
 この安土山にはかつての栄華を偲ばせる遺構はあまり残っていないが、石垣や天守跡、信長の霊廟、家臣屋敷跡などが発掘・整備されていて見学することができる。
 ただ、何もない跡地を見せられて「ここに絢爛豪華な城が建っていました」と言ってもイメージしにくいと思うので、「信長の館」で撮影した安土城の模型をあらかじめ掲載しておく。
 なお、ここ安土では「天守」のことを「天主」と表記するため、以下それに従って書き進めていくことにする。
 山門をくぐり、まずは入山料として500円を支払う。料金所の前にはたくさんの杖が置かれてあり、「ご自由にお使いください」と書かれてあった。
 山頂までの石段の数は405段。杖を突いて登った方が楽だろうと思い、わたしたちは杖を借りて登ることにした。
 それにしても長い石段である。初夏の日差しが降りそそぎ、登り始めるとすぐに汗が噴き出してくる。
 やがて左側に「豊臣秀吉邸跡」という石碑が現れた。
 天下統一目前であった信長の後を受けて天下人となった秀吉(当時は羽柴姓)が住んでいた屋敷跡である。
 信長は自ら天主に住み、家臣は山腹や城下に屋敷を構えさせたという。
 天主へと至る「大手道」沿いには他に、前田利家や森蘭丸の屋敷跡なども見ることができる。
 空き地だけを見ると想像がつきにくいが、復元図によると山の傾斜に添うように建てられた、かなり立派な武家屋敷だったことがわかる。
 登ってきた石段を振り返り、息を整えつつ汗を拭く。
 木々の向こうで水を張った水田が光っていた。  
 
 うっそうと生い茂る木に囲まれた石段をなおも登っていくと、非常に興味深い石が現れた。室町時代中期の「仏足石」である。
 「仏足石」はお釈迦様の足跡を表現したもので、古代インドでは仏像より先に崇拝の対象とされたという。
 これの何が興味深いかというと、宗教心から置かれていたものではないということ。築城に際して集められた単なる石材の一つとして、石垣に用いられていたのだ。
 安土城では他にも多数の墓石や石仏が石材として使用されており、いかにも無神論者だったとされる信長らしいやり方である。
 大手道の石段でも、こうして石仏が使われている様子を随所に見ることができる。(わかりにくいけど、石段を真上から写しています)
 説明のプレートには、「築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存しています。趣旨をご理解の上、見学してください」と書かれていた。
 足で踏みつける階段に石仏を使うというのは、信心深い人が見たら胸が痛む光景だろう。そのせいかコインがいくつか供えられていた。

 伸びきった木に囲まれて薄暗い本丸御殿跡。
 天主のあった「天主台」を目の前にした50メートル×34メートルの敷地で、「千畳敷」と呼ばれている。
 昭和16年と平成11年の発掘調査の結果、碁盤目状に配置された119個の礎石が発見され、火事の痕跡も認められるという。
 礎石の配列状況から、建物は中庭を挟んで3棟に分かれると考えられ、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似た構造であることが判明した。
 信長の家臣・太田牛一が秀吉の天下になってから著した「信長公記」にも、天主近くに「御幸の御間(みゆきのおんま)」、つまり「天皇が訪れて滞在される間」があったことを示す記述がある。
 信長が天皇を迎え入れる御殿を建てさせた理由に、「天皇の行幸を計画していたから」という一般的な説がある。
 わたしは、信長のような人物が素直に天皇を敬う気持ちを抱いていたとは思っていない。それどころか彼が天皇より上の存在に成り代わることを考えていたのでは、という気がするからだ。
 天皇は、日本でもっとも位の高い人である。これは昔も今も変わらない。なぜかというと、最初に日本を治めたアマテラスの子孫だからだ。それ以外の血筋の者は、どれだけ強くなり財産を築き上げようとも天皇にはなれない。また天皇を倒して日本国の王になろうとした人物もいない。
 朝廷の実力者が天皇を追い落とし、自分が支持する皇族を皇位に就けるという例なら無数にあるが、これは世界の歴史と比べるときわめて稀な話である。
 日本以外の国であれば、王を追い落とせるくらいの実力者なら自分で次の王になってしまうからだ。わざわざ別の人物を立てたりはしない。
 中国では、皇帝を武力で倒した者が新しい皇帝となるのが普通だった。
 だが、そういうことが日本にはまるでない。
 日本で初めて「武士による武士のための政権」を立てた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏、そして戦国の世を終わらせた徳川家康のいずれも天皇家を滅ぼせるだけの武力を持っていたが、彼らはそれをせず温存した。
 それどころか自ら「天皇の臣下」である征夷大将軍に任ぜられることを望み、将軍の地位を得ることで実質的な「日本国王」として権力を振るったのである。
 将軍の地位を与えることのできる「権威」は天皇だけのもの。天皇に武力はなく、「権威」はある。武士は武力はあるが、「権威」がない。だから天皇による「権威」の裏付けがあって初めて、権力者としての地位を得ることができた。
 日本は、そんな不思議な二重構造で成り立っている国なのだ。
 だから幕末も、徳川幕府が「朝敵」とされたためあっけなく「大政奉還」、つまり「政治を天皇にお返しする」という政権交代劇が実現した。
 江戸時代末期ですらこうなのだ。まして室町時代あたりなら「天皇家を滅ぼす」などという大それたことを考える人間など皆無だったろう。
 だが、既成概念に囚われない信長なら、天皇を倒す最初の人物となっていたかもしれない。彼が天下統一を成し遂げたあかつきには、それを実行に移す計画だったのではないだろうか。
 それを察知し危機をおぼえた朝廷側は、明智光秀に信長暗殺計画を持ちかけた。旧勢力を尊重する光秀は朝廷側に与し、本能寺を襲撃した・・・というのが、素人なりのわたしの推理である。
 さて、いよいよ天主に到着した。
 ここまで歩いてきて、彦根城に比べると防備があまりにも手薄いという印象を受けた。途中に「黒金門」など敵を防ぐための備えはあるにはあるが、大手道を意図的に曲がりくねらせたり、橋を落としたりといった仕掛けはなかったように思う。
 信長の目は今の戦乱時代を飛び越え、はるか先の平和な統治時代へと向けられていたのかもしれない。
 まさか家臣の謀反により、この安土城が攻められるとは想像だにしていなかったのである。
 だから1582年(天正10年)6月2日に「本能寺の変」が起こると、城を預かっていた蒲生賢秀は信長の妻子を伴って退去している。この城は籠もって戦うのには根本的に向いていなかったのだろう。
 空になった安土城に入ったのは、本能寺襲撃の先鋒を務めていた明智秀満であった。6月5日のことである。秀満は明智光秀の次女を娶って明智姓を名乗った人物で、2人は舅・婿の間柄だ。
 しかし、13日の「山崎の戦い」で光秀が羽柴秀吉軍に破れると、秀満は舅救出のため安土城を退去して南下。秀吉配下の堀秀政軍に阻まれ、やむなく坂本城に入って籠城することとなった。
 ちなみに山崎は現在の京都府乙訓郡大山崎町で、西国と京を結ぶ交通の要所だった。そして明智の本拠地・坂本城は安土城とは琵琶湖を挟んで反対側に位置する。
 秀満はここで光秀の妻子を殺害し、城に火を放って自害したと言われている。
 安土城の天主と本丸御殿が焼失したのは、6月15日のこと。明智秀満が安土城を退去する際に火を放ったとする説もあるが、この時間差が本当だとすると、秀満にはアリバイがあるということになる。
 秀満は坂本城で自害する前、文化財を敵軍に明け渡したと伝わる人物だ。そんな文化人としても優れた人だったと推測される秀満が、建築・芸術の最高峰である天主に火を放って逃げるような真似をするとは思えないのである。   
 では出火の原因はいったいなんだったのかというと、これまで色々な説が出されている。
 もっとも有力なのは、土民が盗みに入って失火したという説だが、信長の暗愚な次男・信雄が「城下に火を放ったから」という説も捨てがたい。
 しかし、光秀の子孫であると自称する明智憲三郎氏は、その著書「本能寺の変 427年目の真実」とブログで「放火犯は徳川家康である」と書いている。
 以前から「本能寺の変の黒幕は家康」だとする説はあった。やはり家康と秀吉が示し合わせて本能寺を襲撃させたのだと考えれば、例えば「なぜ秀吉は高松からあっという間に戻ってくることができたのか」などの謎が解明される。
 となると、わたしの「朝廷が暗殺の真犯人だ」説は急速に揺らぐこととなる。いやそれとも、朝廷が秀吉、家康を引っ張り込んでの壮大なる陰謀だったのかもしれない。
 ところで天主の説明文によると、現在礎石が見えているこの部分は地下階にあたり、地上階は周囲の石垣の上に築かれ2倍半近くの大きさがあったという。
 つまり、わたしたちが立っているこの広場は天主の地下1階フロアで、天主そのものはこれよりはるかに広かったというのだ。
 しかも6階建てだったというから、ここからさらに30〜40メートルもの高さの天主が聳え立っていたことになる。 
 天主台から見下ろした琵琶湖。現在こそ埋め立てによって湖水が遠く離れたところにあるが、当時は城郭のすぐ手前まで湖があったという。
 おまけにカメラの位置よりずっと高みから見下ろすとなると、文字通り天下を取ったような気になる眺めだっただろう。
 そこに信長の油断が生まれるスキがあったのかもしれない。
 信長になった気分でいる怪しげなおっさん。
 それにしても、わたしたち信長が見たのと同じ景色を見ているんだね。(琵琶湖の位置がちと違うが)
 チョ〜感激!!

 天主台から降りて、二の丸の跡にやってきた。
 天主と本丸御殿は焼けたが二の丸は無事だったようで、清洲会議の後には信長の嫡孫・三法師(のち秀信)が入城し、数年暮らしたのち坂本城に移った。
 この三法師は金太郎のような髪型の幼児姿で大河ドラマにたびたび登場するので、ご存じの方も多いだろう。秀吉の膝に抱かれているシーンなどは特に有名である。
 だが、三法師がその後どうなったかはドラマで描かれず、知らない人の方が多いと思う。幼名はよく知られているのに成人後のことがまったく注目されない彼のことがとても気になったので、ちょっと調べてみた。
 元服して秀信と名乗った三法師は豊臣政権下で岐阜城主となるが、「関ヶ原の合戦」で西軍に加勢して落城させてしまう。出家して高野山に入ることでかろうじて赦されたものの、祖父信長の行状(1581年・天正9年の高野僧数百人の処刑)が仇となり、高野山からも追放された。
 その後も妻を迎えて子孫を残しているが、歴史の表舞台に再び戻ることはなかった。
 このように信長直系の子孫はほとんど没落の憂き目をみたが、唯一、次男の信雄だけが暗愚と言われ続けながらも大名として家系を存続させることができた。
 信雄の子孫はさらに信長7男・信高の家系に養子に入っており、フィギュアスケートの織田信成へと続いているというのだが、この話には最近、捏造説が挙がってきている。
 なんでも家系図がテレビで披露されたが、信成君の祖父の上から4代が不明だというのである。祖父は現在もご存命であるにも関わらず、そこから4代が遡れないのに、一体どうして幕末の旗本家まで繋がっていると断言できるのだろうか。
 「誰々の末裔だ」という話は、ある意味言ったもん勝ちというか、他人が真否つけにくい事柄だ。しかし、本人も知らないだけで、誰もが有名な戦国武将の血を引いている可能性はある。あるいは天皇の子孫かもしれない。人間である以上は誰かの末裔には違いないわけだし、ヨーロッパのどこかにはひょっとしてイエス・キリストやアーサー王の末裔がいるかもしれないのだ。
 さて、話が途中になっていたが、ここが二の丸のあった場所。「信長公本廟」がひっそりとたたずんでいる。
 「廟」というのは霊を祀る場所で、墓は別の所にあるというニュアンスがある。実際、信長の墓は三男・信孝が建てたり秀吉が建てたりして、あちこちにあるが、ここが「本廟」だということなのだろう。
 信長の遺体は発見されなかったのだから、いずれにしても本当の墓は存在していないのだが。
 もっとも、京都の阿弥陀寺には実際に信長と嫡男・信忠の遺骨が葬られていると言われているが、真実かどうかはわからない。
 ここ安土城二の丸跡の本廟は1584年(天正11年)2月、信長の一周忌の法要を大徳寺で執りおこなった羽柴秀吉が、信長の太刀、烏帽子、垂直などを埋めて建立したものだという。 
 他の「信長公の墓」、例えば秀吉が建立した大徳寺のものなどに比べると非常に地味である。
 門の所から立ち入り禁止になっているので、墓石の前まで行くことはできない。

 順路に従って下っていくと、ハ見寺の境内に出た。
 ハ見寺は安土城の建設に伴って建てられたもので、信長の菩提寺である。
 代々織田家ゆかりの者が住職を務め、織田家没落後も安土城を管理してきた。安土城の入山料もハ見寺が取っており、現在も住職がおられる。
 かつては多くの伽藍が建ち並んでおり、天主の火災にも巻きこまれず残ったが、江戸時代の嘉永7年(1854年)の火災で本堂を始めとする多くの堂宇を焼失した。
 画像は重要文化財の三重塔。
 同じく三重塔。1454年に造られた塔で、信長が甲賀(現在の甲賀市石部町)の寺から移築したものとされている。
 さらに降りていくと、二王門が見えてきた。
 室町時代の1571年の建立で、重要文化財。
 改修中らしく工務店のシートがかかっていた。
 門の左右には金剛力士像が収められ、いずれも重要文化財に指定されている。
 なお、ハ見寺では失われた本堂を再建したいという希望を持っており、2008年秋に再建案のコンペを行って建築を学ぶ学生を主体に参加を呼びかけたという。
 コンペでデザインが決定した建物としてはパリのオペラ座が知られているが、日本のお寺がコンペでプランを募るというのはかなりユニークなのではないだろうか。
 
安土城天主 信長の館
 安土城跡の見学を終え、いよいよ「信長の館」へと向かった。
 安土山から約1キロほどの「文芸の郷」という所にあり、「安土城考古博物館」や「文芸セミナリヨ」といった建物の並びに建つ。安土城側から「信長の館」の建物は直接見えず、向こう側にひっそりと佇んでいる。
 これが「信長の館」。後から思うと、六角形なのは天主の形に合わせてるからかな?
 料金は大人500円、学生300円。安土城考古博物館との共通券で大人720円。
 吹き抜けになった建物の中に原寸大の天主が設置されており、それがまた大きすぎてカメラに入りきらない。
 しかし、こんな煌びやかで美しい建物が、今は鬱々として寂しい安土山の頂きに建っていたとは、正直言って容易に想像できない。
 山の頂で燦然と輝く天主を見た当時の人々の驚嘆はいかばかりだったろう。
 それにしてもホール自体はさほど広くないから、後ろに下がって全体像を収めることもできず、ひたすら見あげるアングルばかりの撮影になってしまった。
 ホールの壁にへばりつくようにして、ようやく撮影したのがこれ。ややピンぼけ気味。
 この復元天主が、焼失から410年後の1992年、スペインで開催された「セビリア万博」の日本館の出展品として製作されたものであることは前述したとおり。
 最上部5階と6階の部分が、内部の障壁画も含め当時の資料を元に忠実に原寸大で復元されたのである。
 万博終了後は安土町が譲り受けて解体移築し、5階部分に当時の瓦を再現した庇屋根、天人の飛ぶ様を描いた天井を、そして6階部分に金箔10万枚を使用した外壁、金箔の鯱を乗せた大屋根を取り付けて展示を開始した。
 ←↑天主の5階にあたる部分は正八角形をしており、宇宙を形どったもので「八角の段」と称される。柱や天井はすべて朱漆に塗られ、まるで竜宮城を連想させる中国風建築に仕上がっている。
 狩野永徳が中心となって描いたとされる「金碧障壁画」は、近年発見された「天主指図」と専門家の説に基づいて再現された。
 柱には昇り竜、下り竜の彫刻が施され、地獄から天国へと至る仏教観を示している。内陣には、釈迦が10人の弟子を前に教えを説く様子を描く「釈迦説法図」が、外陣に面した外壁には地獄の様子を描いた「阿鼻地獄図」が金碧極彩色の障壁画で描かれている。
 日本の宗教や思想を統一した「天道思想」を表現したもので、天下統一にかけた信長の強い願いを感じることができる。
 
「信長の館」サイトより転載した5階部分の配置図

 1階に展示されていた信長の肖像画。正確に言うと、当時の宣教師が描いた肖像画で、もっとも信長に似ていると天童織田家に伝えられ、明治時代に入って写真に収めたものだという。
 平面的な日本画の手法より写実的で、かなり実物に近いのではないかと想像できる。
 天童織田家では正月になるとこの写真を殿中に飾り、礼拝していたそうだ。
 信長というと必ず紹介され教科書にも載っているこの日本画と見比べてみると、確かに鼻の形はよく似ている。
 しかし、日本画の信長は顎が細く描かれ、それが少しひ弱な印象を与えているようだ。上の絵の方が面長でしっかりとした顎を持ち、いかにも武将らしい顔立ちである。
 天童織田家は信長の4男・信良の子孫、織田信浮(1751年〜1818年)が上野小幡藩(現在の群馬県甘楽郡甘楽町小幡)から、天童藩(現在の山形県天童市)へ転封になったことで始まった系統だ。
 転封になった理由は、いわゆる言論弾圧事件に連座してのことだった。そのため信長の流れということで特別待遇を受けていた家格は下げられ、江戸城内における様々な特権も剥奪されてしまい、信浮は嘆くばかりであったという。

 6階、最上階部分へは階段で昇ることができる。5階同様、中に立ち入ることはできないが、ブリッジを使って中の様子を間近に見ることができる。
 5階を正面から見たところ。
 この部分は正方形をしており、いわゆる普通の天守閣の形だ。しかし、八角形の層の上に正方形の層が乗っているという形状は大変独特で、非常にユニークなものと言えるだろう。
 もっと近寄ってみましょう。
 金箔で仕上げられた外観とは対照的に、内部は黒漆塗りで大変シックである。壁には天子創世の中国故事に基づき、道教・儒教の教義や中国創世記の帝王(3皇5帝)と老子、孔子、七賢人などが描かれている。
 さらに近寄って中をよく見てみましょう。
 信長は部屋の中央に座り、時には琵琶湖を眺めては天下取りのことを考えていたのだろうか。
 実際にここで寝起きしていたのかどうかは定かではない。押し入れもないし、布団はどこにしまっていたのか?など課題も尽きない。
 花を散らした扉は立体的な装飾が施され、大変雅やか。

 信長が徳川家康を接待した際のお膳が再現され、レプリカが展示されていた。
 天正10年というと、信長が本能寺に倒れたまさにその年。つまりドラマなどであまりに有名な、
@家康が訪ねてくるというので饗応役を命ぜられた明智光秀は
A苦心してお膳を用意したが、信長にさんざんケチをつけられ
B殴る蹴るされた挙げ句、お役目を奪われて秀吉の援軍に行けと命ぜられる
Cとうとうブチ切れ、謀反を決意する
 そして、本能寺を襲うというクライマックスに繋がっていく、そのお膳がコレなのである。
 現在のようにケータリング業者なんてものもなかった当時、しかも接待費用はすべて命ぜられた家臣持ち。色々用意したのはこのお膳だけではない。それなのにハエでも追うように、もういい、今すぐ援軍にたてなどと言われて、キレずにいられるだろうか!
 可哀想な光秀、謀反する気になるのも当然だよ・・・という気にさせられるこのエピソードは、実は後世に創作されたお話である疑いが強いのだとか。
 信長が出てくるドラマでは必ずといっていいほど登場する、お膳のことで怒る信長のシーンはこれまで嫌というほど見せられてきた。だが、もし真実でないのなら、いい加減、過去の描写をひたすら繰り返すだけの芸のなさは改めるべきではないだろうか。
 3年おきに判で押したようなシーンが繰り返されては、観る方も飽き飽きだ。もうそろそろ別の説を取り入れた「本能寺の変」を描いてもらいたいと思う。
 例えば、徳川家康がすべての黒幕だったとか、朝廷が絡んでいたとか。それとも、徳川家や天皇家には現在も子孫がいて身分もあるので、悪く描けないという事情があるのだろうか。
 明智家や織田家ならテレビ局に影響のある子孫がいないから、信長を憎まれ役に、光秀を逆賊として描いても差しつかえないといった考えかもしれない。
 もし、クレームが怖くて当たり障りのない内容で済ませているとしたら言論の自由も何もあったものじゃないし、冒険ができないテレビ局の及び腰も情けない。
 このままでは信長はいつまでもキレやすい短気な上司のまま。もっとリアルな真実の信長像を描いたドラマを観たいと思うのは、わたしだけではないはずだ。
 
 「みずほの湯」で入浴を済ませた後、今夜のP泊地である道の駅「びわ湖大橋米プラザ」へ向かう。
 有料のびわこ大橋を渡る。もしかしたら、琵琶湖を渡るのは人生初体験かも?
 「米プラザ」は「うなぎの寝床」のように細長い構造をしていて、奥の方が大型車レーンになっている。
 奥の方はびわ湖大橋に近いため、真下に入ると車の走行音がドゴン、ドゴンと大きく響いて、かなりうるさい。
 そこで一度は橋のすぐ近くに停めたものの、すぐに大型レーンへ移動。しかし、両脇をアイドリングしっぱなしの大型トラックに囲まれてしまい、この夜の安眠は望めそうにない。
 目の前は芝生、その向こうには琵琶湖が広がり、なかなか素敵なロケーション。釣り目的に訪れる客も多いようだ。
 一見したところ建物前よりこちらの方が良いスペースのように思えるが、前述したとおり橋の走行音とトラックのエンジン音があるため、静寂とは程遠い状態である。
 道の駅で車中泊するたびに思うのだが、設計者のプランには最初から「乗用車かトラック」しかなかったとみえる。
 あともう1つ、キャンピングカー用スペースを設け、乗用車やトラックスペースとは切り離してもらえるとありがたいと思うのだが、どうだろうか。
 さらに、それぞれの駐車エリアが防音壁がわりの垣根で仕切られていれば、なお良い。それぞれがストレスなく就寝できて、「まったくトラックって一晩じゅうアイドリングしてて、うるさいよな」とか、「キャンピングカーがいきなり発電機回しだして」なんて怒やストレスを溜めずに済むと思う。
 どの車種にしても、エンジンや発電機を回さずに車内で過ごすことはできないのだ。
 
←道の駅から桟橋へと続く。橋の上には釣り人の姿も。

 夜になって、いよいよ近江牛を焼く時間がやってまいりました。たかだか100グラムぽっちだけど、貴重な貴重な近江牛。
 もちろん焼くのは夫。上手に焼いてちょうだいね♪
 さっとレアで焼いて、2人で二切れずつ仲良く分け合って食べました。
 お味は・・・もちろん極上まいう〜♪
 もう表現できないおいしさです!
 もちろんこれだけでは足りなすぎるので、味噌カツを作って食べました。名古屋を通ってきたから味噌カツ・・・。安易だけど、美味しいんだなこれが。
 
 
 
 今回入った温泉
  
 びわこ大橋天然温泉 みずほの湯
  


  
 
杉江家のどこでも別荘 キャンプ日記

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