杉江家のどこでも別荘 キャンプ日記
                〜31フィートのキャンピングトレーラーと温泉情報

 

平成22年5月5日(水)〜8日(土) Vol.290
 
琵琶湖キャラバン〜戦国時代編その1
 世の中がGWで浮きたっている頃、わたしは自宅で地道なパソコン入力ワークにいそしみ、時々ふらっとホームセンターなどに行って気分を紛らわせていた。テレビで「高速道路の渋滞は30キロ」とか「海老名サービスエリアは満車」だとかのニュースを観るたび、「人が集中する時にご苦労なことで」と、ひがみ半分、冷ややかに構えていた。
 が、そんなわたしにも旅立つ時がやってきた。朝6時に起きて準備に取りかかり、8時にキャンピングカーに荷物を乗せていざ出発! が、あれこれ買い物やガソリン補給などあり、東名高速に乗れたのは結局10時位だった。
 目的地は琵琶湖方面。最初の目的地は関ヶ原の合戦跡、続いて彦根城と安土城跡を見学し、今度は奈良へと向かう予定だった。
 名古屋方面へのUターンラッシュが心配だったが、ほとんど渋滞らしい渋滞もなくスムーズに関ヶ原ICへと到着した。
関ヶ原ウォーランド
 まず最初にやってきたのは、「関ヶ原ウォーランド」。おそらく民間の史料館で、関ヶ原の合戦を再現した人形や史料の展示などがあるという。
 戦国時代好きとしては一度行ってみてもよいのかもしれないが、入館料が700円と高めであるほか、「かなりB級」「生首の人形がある」といった評判を見て、かなり行く気をなくしていた。
 が、土地勘のない者の最初の目的地としては最適だったので、とりあえずカーナビにセットしておき、そのまま到着してしまったのである。
 一見お城のような門構えは意外と立派な印象を受ける。しかし、入口から中を伺うと、何やら不思議な音楽が流れ、奥の方からもけだるいムードが漂ってくる。
 これから入場しようとしている家族連れを見ても、期待に胸膨らませているようなウキウキ感は伝わってこない。「ホントにここ入るんか〜?」みたいな戸惑いに近い雰囲気すら垣間見えるのである。
 いくらGW最終日とはいえ、今日は一応「こどもの日」というれっきとした祭日だ。なのにこの活気のなさ。
 それとも、朝一番はけっこう賑わっていたのだろうか。
 「関ヶ原町観光サイト」や行ったことがある人のサイトを見ると、東西両軍の本陣を再現した人形やら合戦中の兵士の人形やらが草地に置かれ、それらしくディスプレイされているようだ。
 わたしは歴史上の人物が身につけた実物や、その場所に行ってみて感慨にふけるタイプなので、そういうのにはあまり関心がない。入るか入らないかは直前になって決めようと思っていたが、やはり700円はもったいないと思わせる雰囲気だったので、やめることにした。
 ところで説明するまでもないと思うが、「ウォーランド」の「ウォー」とは「戦争」を意味する「WAR」のことである。
 ついでに「関ヶ原の合戦」について説明しておくと、1600年に徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍が、「天下の覇権」を決するべく関ヶ原で激突した戦闘のこと。
 天下人であった太閤・豊臣秀吉はこれより2年前に死去し、石田三成が豊臣家の実質的な指導者となっていた。徳川家康は秀吉から後継・秀頼の後見を託されていたが、豊臣家には従順を示す一方、水面下で裏切り工作を進めた。
 家康は豊臣家恩顧の大名と石田三成との対立を巧みに利用して豊臣家の分断を図り、福島正則を初めとする西軍大名たちの取りこみに成功。”悪人”三成を討ち豊臣家を守るための闘いというポーズをとり続け、三成の挙兵を誘発した。
 当初西軍は有利に闘いを進めていたが、家康の裏工作が功を奏して三成は敗北。捕らえられて斬首刑に処せられ、41歳の生涯を閉じた。
 唯一の救いは、彼の長男・重家が17歳と当時は完全な成人だったにも関わらず、助命されていることだ。寺に入って剃髪したことと、嘆願の橋渡しを奥平信昌に頼んだことが功を奏したのだろう。
 重家は京・寿聖院の住職となり、かなりの長命を保ったと伝えられる。
 これにより徳川家の覇権は決定的となったが、もちろん家康の真の目的は三成打倒で終わったわけではない。「関ヶ原」は天下獲りに至るまでの序章でしかなく、いずれ豊臣家を倒し、天下をその手に握ることこそが家康の秘めたる野望だったのである。

 ここ「関ヶ原ウォーランド」の隣りに宝蔵寺というお寺があり、「関ヶ原合戦戦没者慰霊碑」が建てられていた。関ヶ原は2000年に400年記念を迎えてイベントなどもあったらしいので、それを機に建てられたのかもしれない。
 合戦では東軍、西軍合わせて20万人が闘い、死者の数は8千人ほどと推測されている。確かに慰霊碑を建ててもおかしくない大合戦ではあった。
関ヶ原の合戦 陣跡
 カーナビの地図にも載っている「最終決戦地」にやってきた。最初からここを目当てに来ればよかったが、余裕のある人は「ウォーランド」に入って戦の具体的なイメージを目に焼きつけてから陣跡や決戦地を見学すると、よりイマジネーションが膨らむかもしれない。
 東西両軍が激突した決戦地は山に囲まれたのどかな風景の盆地である。田んぼの向こうにある低い山が、石田三成が本陣を構えた笹尾山だ。
 それまで大垣城に立て籠もっていた三成は1600年9月14日になって急遽出陣し、関ヶ原に布陣。本陣をこの笹尾山に敷いて15日の決戦となった。
 笹尾山の「石田三成本陣跡」。馬留めの柵が築かれ、旗が立ち、いかにも本陣らしい雰囲気に復元されていた。
 ここで三成が、時代劇でよく見るような白い布をバックに椅子に座って指揮を執っていたのだろう。
 昨年のNHK大河ドラマ「天地人」で、小栗旬演じる三成が平地を見降ろし軍の動きに一喜一憂していたシーンは、ここ笹尾山での一幕ものだ。
 410年前、実際ここに数千の兵や馬が陣を構えていたとは容易に想像しにくい。しかし、いま自分が立つこの地を三成も同様に踏みしめていたと思うと感慨深い。
 三成は家康に敵対したがゆえに、江戸時代以降「豊臣家を牛耳る奸臣」として描かれ、その傾向は最近まで続いた。しかし、歴史の記述というものは勝者を正義にすり替え、敵対した側を悪く書くものだ。そうやって勝者の正当性を主張したのである。
 わざわざ三成や、豊臣秀頼の母・淀殿を貶めるような文書を捏造する幕府の御用学者もいたという。現代でもその歴史観に引きずられて、二人は常に悪役として描かれてきた。
 しかし、最近は徳川寄りの歴史観にも変化の兆しがあり、三成を好意的に描くものが多くなった。2006年大河ドラマ「功名が辻」、2009年の「天地人」の三成は、私利私欲がなく公正で、純粋に豊臣家のために義を尽くす律儀者として描かれている。
 特に昨年の小栗旬の三成は非常にかっこよかったので、三成ファンが増えたことは間違いないだろう。なんたって、このわたしがそうなんだから。
 石田三成の人柄を示すものとして、この「大一大万大吉」という旗がある。
 当時、武将は神仏の加護を願った文言や、信条や理念を書いた「風林火山」といった旗など、思い思いの旗を馬印として掲げた。
 この意味は、「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば太平の世が訪れ、人々は幸せになれる(=大吉)」だとされている。
 これはフランスのデュマ作「三銃士」に登場する「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という掛け声に極めて近いフレーズである。
 西洋も東洋も「One for all, All for one」という考えを共有していたことは大変興味深い。
 ところで、対する東軍の大将・徳川家康の陣は桃配山に置かれた。これも関ヶ原もののドラマではよく聞く名前の山だ。総攻撃後は下の地図にある場所に移動している。
 水色の四角で囲ってあるのが東軍の陣、ピンクの枠が西軍の陣。そして、緑の枠で囲ってあるのが、突如西軍を裏切り西軍有利という戦況をひっくり返した小早川秀秋の陣である。
 ドラマだと位置関係が今一つわかりにくかったが、こうして地図を見てみると秀秋はもっとも後方に居座り、いかにも西軍、東軍両方に襲いかかれるポジションにあったことが良くわかる。
 秀秋は秀吉夫人・於ね(おね。ねねとも言われる)の甥であり、子のない秀吉の後継者候補でもあった。しかし、秀頼が生まれたため小早川家へ養子にやられて、くさっていた。そこにつけこんだのが老獪な家康である。
 甘い誘いに応じたものの、いざ合戦となると小心者の秀秋はなかなか踏ん切れない。
 松尾山から動こうとしない秀秋に対し、三成が「小早川はなぜ動かん!」とイラつき、一発逆転を狙う家康も業を煮やして「ええい、小早川に鉄砲を撃ちこめ!」と命じるシーンは大河ドラマでお馴染みである。
 こうして威嚇の発砲を受けて仰天した秀秋はついに山を下り、その麓にいた大谷吉継軍に襲いかかった。あらかじめ裏切りを予見していた吉継軍は果敢に戦い一度は押し戻したが、他隊の裏切りもあって潰走した。 
 余談になるが、上の地図左下に「壬申の乱」という文字がある。これは飛鳥時代の672年、大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子(天智天皇の子。即位して天皇になっていたという説が有力)との間に起こった戦いが、この地で交わされたことを示している。
 つまり、「天下分け目の関ヶ原の合戦」は2度あったのだ。
←三成の陣跡から少し下ったところにある「決戦地」の石碑。地図の青い四角で囲った場所だ。
大谷吉継の墓 
 大谷吉継と三成は共に豊臣秀吉に仕え、引き立てられた旧友同士だった。最初は三成の挙兵を止めようとした吉継だったが、説得できないと知ると死を覚悟して出陣した。
 ハンセン病を患っていたことは前述したが(梅毒説もあり)、その病のせいで目が見えなくなっていたため輿に乗っていたという。
 小早川の裏切りによって敗走した吉継はいよいよ自害を決意し、家臣に介錯をさせた。介錯というのは、首を打たせることだ。
 当時の武士は敵に首を獲られることを何より嫌った。それに加えて吉継はハンセン病により崩れた顔を白い布で覆い隠しており、死後も人目にさらすまいと、誰にも知られず首を埋めよと家臣に命じたと伝えられている。
 で、家臣がこっそり首を埋めたとされる場所に、後に東軍の藤堂家が墓を建てたのが、ここ。(結局バレちゃってます)
 駐車場はないので道路の端っこにキャンピングカーを停め、おばちゃんが農作業をしている畑の横を歩いて行く。標識によると、墓まで450メートル10分とある。
 これって距離があるのか、ないのか。
 雑木林のちょっと奥かと思いきや、この登り道を見てげんなり。
 この登りを10分!? こりゃ登山だわ。
 ぜいぜいいいながら登ること数分。「50メートル 1分」という標識が表れた。
 矢印の先に、墓の周りを囲む旗がチラホラ見えている。
 ようやく到着。きれいに切り開かれた広場の奥に、大谷吉継のお墓はあった。
 その前に立ち塞がるようにして一組の父子とガイドさんの姿が。地元のボランティアガイドだろう、おじさんは後から来たわたしたちには目もくれず熱弁を振るい続けた。
 別に盗み聞きするつもりはなかったが、おじさんの説明が嫌でも聞こえてきて、それによると「吉継の墓と言われるものは他にもある」とのことだった。
 混乱を極めた戦乱の世のことだから、「間違いなくここが埋めた場所」という確証はないのだろう。
←3人をよけつつ撮影したお墓の画像。この人たちのせいで全体像が撮れなかった。自分たちだけじゃないんだから、少しは配慮してよけてくれてもいいのに。
 ガイドさんの熱弁によると、いつしか墓石に白い布のような帯状のものが表れるようになったとか。
 ホントかいなと覗きこんでみると、確かに白っぽいスジが下の方にある。
 これが吉継の顔を覆っていた白い布だというのだが・・・うーん、微妙。ミイラみたいな包帯でぐるぐる巻きにしてたわけじゃないんだし。
 
池田温泉 本館
 長年に渡って念願だった関ヶ原古戦場跡の見学を終え、少し早いが温泉に行くことになった。
 琵琶湖側に進んでもいい温泉がないので、少しインターチェンジ側に戻り岐阜県に入ったところにある池田温泉へ。
 ここは本館と新館があるが、源泉により近い本館の評判がよいようなので、迷わず本館を選ぶ。
 このピンクの建物が新館。
 本館は、新館の前を通り過ぎ、さらに坂を登ったところにある。
 その先の道路は細いくねくねした峠道になっており、これより向こうは何もないような僻地だった。
 新館の駐車場も大変な混みようだったが、ここも大変な混雑だった。駐車場に入るのに10分ほど待ち、ようやく入れた。
 よく日焼けした警備のおじさん、うちのキャンピングカーを見ても平然と「奥へどうぞ」と告げてくる。しかし、指示された場所に回りこみかけて、絶対に駐車できないような狭い奥だと気づいて後戻り。
 「絶対入りません!」と言うと、じゃあここに、と、画像にも写っている金網ぎわの隅っこを示された。
 ゆるやかな坂を登って入口に向かう途中に、休憩所の離れが建つ。ここでの休憩は無料だが、温泉に戻るには手の甲にスタンプを押してもらう必要があるという。まるでディズニーランドみたい。
 本棟の玄関から中に入ると、玄関でいきなり渋滞に遭遇した。下駄箱から受付までは2メートルくらいの近距離で、ロビーはかなり狭い。
 そこに数組が行列を作ってごったがえていたのだ。券売機で券を買い、受付に手渡すことになっていた。
 脱衣所も内湯も広いとは言えない規模で、特に四角に区切られた内湯の浴槽は小ぢんまりとした銭湯程度の大きさだ。
 洗い場にも2〜3人の待ち列ができていた。しかし、あらかじめいくつかのHPで「いつ行っても激混み」「ほとんどイモ洗い状態」との評判を目にしてきたため、心構えは万全。まあイモ洗いというほどの混みじゃないなと思いながら、まずは内湯に浸かる。
 泉質はナトリウム炭酸水素塩泉で、無色透明。浸かって肌を撫でると、猛烈にヌルヌルする。 
 しばらくすると指もニュルニュルになってきて、いやホント、これほどの強烈ニュルニュルにはなかなかお目にかかれない、というくらいの最上級ニュルニュル湯である。
 これまで福島県鏡石町の「弘法不動の湯」をニュルニュル系の代表格として愛してきたが、このニュルニュルを味わってしまったら、不動の湯程度では「どこがニュルニュルなのさ!?」と目が吊り上がりそうなくらい、感触が格段に違う。
 ただし、「最上級」という称号はニュルニュル具合に対して与えられるもので、温泉の使い方に関しては「下の下」と言わざるを得ない。
 思わず「ここはプールか!」と言いたくなるほどの塩素臭が鼻を突くのだ。これだけいい湯なのに、もったいない・・・と、どうにもやるせなくなる。
 気を取りなおして露天風呂へ出てみる。混んでいて写真が撮れなかったので、公式HPからいただいた画像を載せておいた。
 浴室は男女日替わりでローテーションされる。画像はこの日、男湯だった方と思われる。わたしが入った女湯の露天エリアには滑り台があり、子どもたちが裸で元気よく遊びまわっていた。
 湯がちょろちょろと沸きだしている柱に手を当ててみると、とてもぬるい温度だった。
 基本的に循環だが、この湯口からは新湯(ただし塩素入りと思われる)が注がれているようだ。
 他にもサウナ用の水風呂が露天風呂にあったが、「源泉そのまま」を謳いながらこれも塩素入り。保健所の指導が厳しいのだろうか。
 せめて1つでもいいから源泉そのまま、なにも加えていない浴槽があったらと思うばかりである。
 
彦根城
 入浴を終えたわたしたちは、再び走って彦根城へと向かった。到着したのは9時半頃。
 このお城は面白いことに、堀の内側にも公共施設や高校などが建ち並び、生活道路も通っている。駐車場は3箇所あって、1箇所だけが開いていたので入ることにした。
 推測だが、トイレのある他の2箇所は若者がたむろして困るので閉鎖し、トイレのない「大手前駐車場」だけがクローズ時間を過ぎてもゲートを開けておいたのではないかと思われる。
 上の画像は「佐和口多聞櫓 (さわぐちたもんやぐら)」という、櫓を備えた塀。明和8年(1771年)に再建されたものだが、石田三成の居城・佐和山城からの移築である。
 ライトアップに白い壁が映え、非常に美しかった。JR彦根駅から歩いてきたら最初に出会う櫓で、重要文化財に指定されている。
 この櫓から堀を挟んで反対側には「埋木舎(うもれぎのや)」という、幕末の大老・井伊直弼が若い頃に不遇時代を過ごした家屋が建つ。
 犬の散歩でそのあたりをブラブラしていると、「井伊大老歌碑」を発見。
 歌は「あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」というもの。
 「井伊直弼と開国150年祭」サイトによると、意味は「琵琶湖の磯うつ波が、打ち砕けては引き、また打ち砕けては引くことを何回も繰り返しているように、大老就任以来難問が何回となく押し寄せてくる。しかし、わたしは国の平和と安心を願って、全身全霊を尽くして心を砕いてきたので悔いは残らない」というものだそうだ。
 ちなみに「埋木舎」前の通りは、2006年に公開された山田洋次監督、木村拓哉主演の映画「武士の一分」のロケが行われた場所だという。
 ↑「ぶしのいっぷん」とか読んじゃいけませんよ。これは「武士のいちぶん」と読みます。
 なるほど江戸時代のロケにふさわしい風情を備えた素晴らしい場所である。あいにく夜だったのでこの風景を見ることができなくて残念。(画像は国宝・彦根城築城400年祭公式サイトから拝借したもの)
 余談だが、高校3年生の息子がちょうど「井伊直弼と『安政の大獄』」の所を習っているので、昨夜も解説してあげたばかり(大河ドラマを観たことのない若い子には、幕末の将軍後継者争いとか尊皇攘夷とか、チンプンカンプンだよね)。
 その知識がホヤホヤのうちに一気に書いてしまおう。
 まず、彦根城について。築城が開始されたのは、「関ヶ原の合戦」より4年後の慶長9年(1604年)のことだ。徳川家康の命により、石田三成の居城であった佐和山城を一掃することと、より琵琶湖に近い位置に城を移し、未だ抵抗を続ける西国に対する防衛ラインを築く目的があったという。
 合戦後、佐和山城に入っていた徳川家家臣・井伊直政(1561年〜1602年。彦根藩初代藩主)が築城にあたり、彼の死後は嫡男・直継が引き継いで慶長11年(1606年)にほぼ完成した。2年で完成というのはかなりのスピード築城だが、これは他の城からの流用という裏技があったため。
 天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から、西ノ丸三重櫓は小谷城から、そして先ほど述べたように「佐和口多門櫓」は佐和山城からの移築と、流用につぐ流用により工期短縮を図ったのである。
 その後も御殿の建築など工事は20年ほど続き、1622年ごろ城下町が完成したとされている。
 藩主・直継は病弱だったため、彼に替わって「大坂冬の陣」に出陣したのが異母弟・直孝であった。多少のしくじりはあったものの家康に目をかけられた直孝は、翌年には井伊家の家督を継ぐよう命じられる。
 直継は井伊家の領地がある上野国安中藩3万石(現在の群馬県安中市)を与えられてそちらに移り、分家となった。そのため、彦根城を築城した人物であるにも関わらず彦根藩第2代藩主に数えられないというのは、少々気の毒な話である。
 しかし、2代目藩主となった弟より、病弱ゆえに廃された直継の方が長生きしたというのは、歴史の皮肉というものだろう。
 いずれにしても彦根藩井伊家はその後も加増を受け、35万石の大名として幕臣筆頭の家格となった。そして、直孝の家系から、あの井伊直弼(なおすけ)を輩出するのである。
 直継の家系からは決して生まれなかった(であろう)幕末の傑物・直弼は、第13代藩主・直中の14男として彦根城の「槻御殿」で生まれた。その時すでに父・直中は隠居の身となり、直弼の兄が14代藩主となっていた。
 兄弟の数も多く、母が江戸の町人の娘ということが影響したのかはどうかわからないが、養子口も見つからず、青年時代を300俵の安扶持で過ごした。その15年間を過ごしたのが、先ほど紹介した「埋木舎」である。
 直弼は「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」と詠み、我が身を花を咲かせることのない「埋もれ木」に例えて、住まいを「埋木舎」と名付けたという。
 しかし、彼はこの不遇時代を無為に過ごすことなく学問を身につけ、茶道、芸能、武道などの修練にも励んで一流の文化人になっていた。これについては、後に説明する。

 「大手前駐車場」での一夜が明けた。
 夜中も道行く人の話し声が響いたり、朝5時に車が入ってきたりして、安眠できたとは言えなかった。前述したが脇の道は普通の生活道路で、この先にはマンションもある。深夜になっても人通りが絶えないのだ。
 しかも、目の前に高校や裁判所などがあるせいか、5時前からたびたび車が入ってくる。落ち着いてぐっすり眠れる環境ではないものの、観光地の真ん前に泊まれるのだから楽といえば楽である。
 8時になると管理人のおばちゃんが現れ、頭が少し飛び出しているわたしたちの車にさっそく抗議をしてきた。あっちのバス専用駐車場に行け、と言うのだ。
 わたしが「あちらは『観光バス専用』って書いてありましたよ。1500円もするし!」と反撃。
 結局、一番奥に停めていたのを、一番邪魔にならない管理棟隣のスペースに移動することになった。
 わたしが最初からバス料金を支払う意志がないことを悟ってか、おばちゃんは普通車料金の400円を請求してくれた。よかったと思う間もなく、今度は窓から顔を出しているレディを見てこんなことを言ってくる。
 「ワンちゃんはお城の中に入れませんよ!」
 夫が「いや、置いていきますから」と言うと、「車には置いていかないで」だって。
 続けて「お城の敷地には入れるから、代わりばんこで見学して」と言う。
 実は、こういう会話はこの後、安土城跡と平城京跡の駐車場でもあった。
 この辺の人達は、キャンピングカーを知らないのか? わたしたちはちょっと唖然となってしまった。
 乗用車なら犬が熱射病で死んでしまう恐れがあるので「放置は禁止」、これはわかる。しかし、キャンピングカーは乗用車とは違う。窓を開けて風を通せば車内の温度はそんなに上がらないし(まあ外気温に近くはなるが)、50度以上になるというようなことにはならない。 
 説明して理解してもらえたが、頭ごなしに決めつけられるとカチンとくる。もっとも、おばちゃんは窓を開けられたら、犬がキャンキャン吠えてうるさいのではないかと危惧していたようだ。
 うちのレディは吠えたりしないもんね〜。
 意外と、このおばちゃんにも親切なところがあって(失礼)、表門の方へ歩を進めようとしたわたしたちに「こっちから行くといいよ!」と、逆方向の「大手門」を勧めてくれた。
 そこから入って、あそこ見てココ見て、ぐるっと回って表門から帰ってると無駄なく一周できるというのだ。なるほどと仰せに従い、大手門から城の敷地へと足を踏み入れる。
 先ほど、駐車場や裁判所や高校が堀の内側にあると書いたが、その堀は外堀らしい。東京でも皇居(旧・江戸城)の外堀の内側にビルが建ち並んでいるのと同様である。
 ←地味な橋を渡り、内堀を越えて城内へ。
 「地蔵堂」で手を浄める。
 この先に小さな料金所があるので、入場券を購入。
 料金所からクッと折れ曲がると、ものすごく長い坂になっていた。画像だとなだらかに写っていて大して大変そうには見えないのだけど、初っぱなからかなりの難所である。
 確かに急勾配というほどの坂でもなかったが、わたしたちより先に登っていった初老の男性の後ろ姿がとっても小さく、先が果てしなく長く感じて思わず溜息が漏れた。 
↓ようやく坂が終わり、くねった道を曲がると重要文化財「天秤櫓」と「廊下橋」が見えてきた。
 この「廊下橋」は、非常時には落として敵が渡れないようにするもの。今は架け橋になっているが、往時は屋根と両側に壁のついた橋であった。中の人の動きが外から見えないようにしてあったのだという。
 つまり敵が攻めこんできてもここで食い止めるための仕掛けがあったわけで、いかにも戦国時代直後、徳川政権がまだ盤石でなかった当時の備えを表しているように思う。
 さらに階段を登っていくと、「廊下橋」を中央として左右対称に建つ「天秤櫓」が見えた。
 まるで天秤のような形をしているところから、こう呼ばれているそうだ。
 この櫓は豊臣秀吉が築城した長浜城からの移築だそうで、日本の城郭でこの形式のものは、ここ彦根城だけだという。
 長浜城は元和元年(1615年)に廃城になり、現在の天守は1983年に再築されたもの。平成17年に訪れた時、戦火にあったわけでもないのにどうして秀吉の出世城が現存しないのか不思議に思ったものだ。
 その時はそれ以上追求することなく終わったが、今ならはっきり理解できる。
 徳川家にとって豊臣は前の政権だ。まして家康は、かなり卑劣な方法で豊臣家を滅亡に追いこんでいる。豊臣の栄華を伝える城など一日も早く消し去り、人々の記憶からも抹消しておきたかったのである。
 彦根城が完成したので、同じ琵琶湖に面して建ち、わずか10数キロという距離にある長浜城はもはや必要のない存在となった。
 同じ理由から佐和山城も廃城となり、長浜城同様に櫓が持ち去られたわけだが、偉大な主君(秀吉)と忠義を尽くした家臣(三成)の櫓がこうして同じ城の中にあるというのも、興味深い事実である。
 続いて、これも重要文化財である「太鼓門櫓」をくぐり抜け、ようやく国宝に指定されている天守へと至った。
 3階3重の構成で、屋根は「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いりおもやはふ)」「唐破風(からはふ)」を多様に配している。2階と3階には、 禅寺に見られる窓「花頭窓(かとうまど)」を用いるなど外観に重点を置いた美しい姿を見せている。(「井伊直弼と開国150年祭」サイトより抜粋)
 思ったより小さいという印象を受けるが、元々天守というものは籠城の際に立て籠もる「最後の砦」である。普段の住居ではないから、そんなにバカでかいものは必要ないのだ。 
 天守前広場から琵琶湖を臨む。
 湖自体があまりに広いためわかりにくいが、少しグレーに霞んでいる箇所が琵琶湖だ。
 ちなみに上記サイトによると、イギリスの詩人バートン・マーチンが直弼のことを書いた詩が伝わっているそうだ。 
 彦根城にのぼると
 小人には琵琶湖がみえる
 大人には日本がみえる
 偉人には世界がみえる
 なるほど。わたしには琵琶湖が見えたが、世界は見えなかったぞ。日本なら見えたけど。やっぱり、わたしは大人だったのだ。電車もお風呂も大人料金だし〜。
 ・・・じゃなくて、ここで言う「大人」とはアダルトという意味ではなくて、「器が大きな人、立派な人」ということだ。「小人」とは同様に子どものことではなくて、「小さい人」、つまり「凡人か、それ以下」という位の意味だと言える。そして、偉人というのは文字通り「偉大な人」だが、ここではおそらく井伊直弼のことを示していると解釈できる。
 入口で靴を脱いで少し進んだ廊下では、「武士の一分」のロケが行われたときの写真が紹介されていた。
 これによると、ロケは「埋木舎」の大門前で行われ、三村新之丞(木村拓哉)が中間の徳平(笹野高史)を従えて登城するシーンや、妻の加世(檀れい)が、新之丞の上司・島田(坂東三津五郎)と言葉を交わすシーンなどが撮影されたという。
 この映画は地上波で放送されたときに観たが、彦根城でロケされたことは知らなかった。ぜひもう一度、ちゃんと観たいものだ。
 廊下を抜けて天守内に入ると、大きな井伊直弼像が展示されていた。
 直弼が31歳まで300俵の捨扶持で、文字通り「埋木舎」で埋もれていたのは前述したとおり。ところが、第14代藩主の跡継ぎと定められていた兄が死亡したことから、彼の運命がいきなり開けた。
 捨扶持というのは言葉は悪いが、一方では「跡取りのスペア」でもある。当時はいつ誰が病気で急逝するかわからない時代だったから、スペアは多い方が助かる。
 もちろん多すぎても禄を無駄に消費するだけだし、一生スペアのまま終わる可能性もあるが、なにしろ跡継ぎがないまま藩主が死んだりすると、その藩はお取り潰しになってしまうのだ。いないよりは、多いくらいの方が断然いい。
 藩主の子を全部養子にやらずに残しておいたのは、こういうことなのである。直弼は、いつお呼びがかかるかもわからないスペアだったのだ。
 文武に励む以外はすることがない気楽な生活だが、藩主か300俵かという、ある意味スリリングな一生ではある。
 直弼は幸運にも(?)兄が死んだため、そのまた兄の養子になる形で、32歳にしてようやく藩主世子という晴れがましい表舞台に立つこととなった。
 突然、藩主で兄の直亮から江戸へ来るように言われた直弼は、大勢のお供を従えて旅立ち、江戸城に登城する。そして、12代将軍・徳川家慶(あの篤姫のお舅さんですね)に対面したのである。
 以降は大名の見習いとして江戸で暮らし、36歳の時に直亮が亡くなったため彦根藩の殿様となった。
 直弼は、前藩主が残した莫大なお金を家来や彦根藩に住む人たちに分け与えたり、彦根の村人の生活を見てまわり、何年もかけてすべての地域に行って生活の苦しい人や病人に救いの手を差しのべたというから、とてもよい殿様だったのだろう。
 壁のところどころにある「銃ざま」と「矢ざま」。下に現れた敵兵を狙い打ちするための穴で、外からわからないように普段は塞がれ、表側からも漆喰が塗られているという芸の細かいもの。
 目もくらみそうな急勾配。これ、本棚じゃありませんよ。階段です。ここまで急だとほどんとハシゴのようで、登るのも大変だが降りるのはもっと大変。
 お掃除していた人の話によると、角度は45度もあるとか。大混雑したGWのときはそりゃあ大変だったそうだ。
 もちろん攻めにくいようにわざと急にしたのだろうが、敵がここまで登ってきてしまったら負けなのではないだろうか。火をつけられたら終わりだからだ。
 それにしても、降りるときは超コワイ!
 体と足を斜めにして手すりに掴まりながら降りるが、お年寄りには無理かもしれない。後で家族に手を引かれたお婆さんがお城に入っていくのを見たけど、ちゃんと登れただろうか。ちょっと心配である。
 天井の重厚な梁も、江戸時代そのままに伝わっている。
 同じ徳川の城である犬山城や岡崎城とは違って、天守の外側を歩ける通路がないのも、ここの特徴だ。そのため景色は窓から一部だけが眺められるだけになっている。
 鉄板を貼りつけた門扉(もんび)。
 当時の大砲の直撃を受けても耐えられる構造と強度であったという。
 ところで、この彦根城がユネスコの世界遺産登録の暫定リストに載ってからすでに18年になる。なかなか世界遺産に登録されない理由として、先に姫路城が登録されているため同じような城は認められにくいというのがあるそうだ。
 確かに大天守、小天守が壮大優美に連なる姫路城を見た後では、シンプルな彦根城は物足りなく映るだろう。
 また年々、世界遺産の基準が厳しくなってきていることも原因だという。彦根城はこのままリストに埋もれたまま終わってしまうのだろうか? 
 世界遺産になるだけが観光地のあり方ではないという意見もあるだろう。しかし、姫路城ではヨーロッパ系、アジア系問わず大勢の外国人観光客を見た。同じアジアでもインド系とか中東系とか、本当に世界中から見に来ているという印象だった。
 彦根城ではほとんど日本人ばかりだ。東アジア系の人は見分けが付かないとして、白人の観光客は庭園で見かけた一人だけ。
 そこが世界遺産か、そうでないかの違いである。そこに落とされるお金の差も歴然。観光協会の人としては、神に祈りたいくらいの心境に違いない。
 「埋木舎」で不遇な15年間を過ごした後に藩主、そして大老として脚光を浴びた井伊直弼にあやかって、彦根城もいつしか世界遺産として陽の目を見る日がくるよう祈るばかりである。
 
← 雑木林の中に遺された石垣か土台の跡。こんな手つかずの遺跡があったりして、どこか荒削りなのも彦根城の魅力だ。
 今度は黒門から再び内堀を渡る。
 堀には白鳥のつがいが棲んでいて、向こうの方から1羽の白鳥がスイスイと渡ってきた。見ると、橋のたもとに巣がある。こそにはたぶんメスだろう、もう1羽が丸まって休んでいた。
 帰ってきたのはオスだろうか。「ただいま、ハニー」とか言ってるのかな。
 しかし、メスの方は「おかえりダーリン」と出迎える様子もなく、じっと丸まったままだ。
 ドライな夫婦である。
 内堀沿いに歩いて、黒門方面を撮った画像。
 中央下寄りに白鳥の姿が見える。
 さらに歩いて行くと、「井伊直弼生誕地」という表示があった。直弼が生まれ、父や兄弟たちと17歳までの幼少期を過ごした「槻御殿」である。
 木材がすべてケヤキであったことから名づけられたもので、4代藩主・直興が下屋敷として1677年に着工した。
 現在は庭園と屋敷を含めて「玄宮楽々園」として国の名勝に指定され、屋敷は「楽々園」、庭園を「玄宮園」と分けて呼んでいる。残念ながらこの日は改修工事中で、建物を見学することができなかった。
 それでは「玄宮園」に入ってみましょう。ここは彦根城と共通のチケット入ることができるので、天守やひこにゃんだけで帰らず、ぜひ見学していって下さいね。
 「玄宮園」は、直興が「槻御殿」と同じ年に、唐の玄宗皇帝の離宮庭園を参考にし、近江八景を模して造らせた庭園だ。
 のちに直弼の父・直中が隠居所として再整備し、今日に近い形になったとされている。
 池越しに建物を眺めた風景はまるで1枚の絵のように美しく、日本人の美的センスがいかに優れていたかを教えてくれる。写真の技術が未熟で、この美しさを伝えられないのが残念なほど。
 わたしはこの庭園を訪れ、歩いてみて、フランスのベルサイユ宮殿にある「王妃の村里(ル・アモー)」に似ていると思った。
 和洋の違いこそあれ、池と、そのほとりに佇む家屋や草木のすべてが1枚の絵画のように完璧な調和を遂げていた。
 もちろん「王妃のアモー」の方が色彩的にも鮮やかで、「侘」の粋のような「玄宮園」はいかにも地味である。
 やはりこの美しさは実際に訪れてみないとわからないかもしれない。
 ←左上に見える彦根城の天守を借景としている点にご注目。
 庭園から見あげた彦根城。この角度から見た天守って、何かに似てると思いませんか?
 答えは3分後!(笑)
 藩主が客人をもてなすための客殿の一角、「鳳翔台」。築山に建てられた茶室で、現在は一般客もここで茶を飲むことができる(500円)。
 ちなみに、この鳳翔台を含む庭園ではたびたび「大奥」のロケが行われたそうだ。松下由樹主演のドラマ「大奥〜第一章」の他、仲間由紀恵主演の2006年公開映画「大奥」でも撮影が行われている。
 
彦根城博物館
 
 「玄宮園」を後にすると、表門から改めて城中に入り直し、入ってすぐの所にある博物館にやってきた。
 ここは城とは別料金で、500円がかかる。また博物館には珍しく、靴を脱いで上がるようになっている。
 ここの目玉は隣接して建つ表御殿(復元)、能舞台(現物)、「井伊の赤備え」で有名な深紅の武具、そして江戸時代の風俗をリアルに伝える「彦根屏風」であろう。
 では、まず最初の展示物である「彦根屏風」からご紹介していこう。
 始めに人物の拡大写真を大きく掲げて展示していることから、博物館でもかなり力を入れていると見える。
 「彦根屏風」は江戸初期に制作された風俗図で、代々井伊家に伝えられてきた。遊里に遊ぶ15人の人物を描き、背景は金箔で埋めつくされるという豪奢なもの。その瀟洒な人物描写も秀逸で、非常に評価の高い屏風絵である。
 当時の京都の文化人サロンのような役割を果たしていた六条柳町の遊里ではないか、という説があるそうだ。
 遊里とは遊郭のことで、ここに描かれる女性たちはつまり遊女である。しかし、わたしたちが遊郭というとつい想像してしまうエロティックでドロドロした世界に生きる、悲しみに満ちてすさんだ女というイメージは微塵も感じさせず、高い教養を身につけた女たちがパトロン相手に文化の高さを誇るシーンが巧みに描き出されている。
 次に展示されていたのは、「井伊の赤備え」と呼ばれる甲冑で、13代藩主・家中(1766年〜1831年)所用と伝わる「主漆塗朽葉糸(中略)二枚胴具足」。
 井伊家では藩主から家臣まで朱漆塗りの甲冑で身を固め、馬具、旗指物にいたる軍備のすべてを赤で統一していたという。
 その由来は「武田の赤備え」と呼ばれた山形隊、飯富隊などの精鋭部隊である。天正10年(1582年)の武田家滅亡後、彼らの部隊に属する武田家の遺臣たちが、井伊直政に預けられた。
 その「赤備え」部隊に倣って具足や指物、鞍鐙(くらあぶみ)にいたるまで赤備えにせよと家康が命じたという。
 井伊軍は徳川軍の中で先手を務める一軍と位置づけられており、「井伊の赤備え」は「小牧・長久手の戦い」(天正12年、1584年)で先鋒を務めて奮戦し、井伊の赤鬼と呼ばれて恐れられたという。
 兜の飾りである「天衝(てんつき)」を、藩主は脇立とし、家臣は前立とする決まりであった。
 この武具の持ち主である家中は井伊直弼のお父さん。彦根城関連のサイトや博物館の説明で家中を11代藩主と書いているのを見かけるが、正しくは13代藩主である。
 なぜ食い違うかというと、いったん藩主を退いたものの後継者が死去するなどして再任した人物が2人いるためだ。それを考慮せず初代直政から数えると11番目ということで、家中を11代藩主とするのである。
 こちらは彦根藩士の中村家に伝わる、前立のついた兜と赤い鎧。前立だから家臣の武具であるが、兜は赤く塗られておらず鉄地のままだ。
 井伊家の旗印。もちろん、これも赤。
 文字は金箔である。
 とても可愛らしい茶具の数々。これらはすべて、井伊直政が自ら創った「蓋置」だそうだ。
 蓋置は茶釜の蓋を乗せる道具で、緒方乾也に焼き物の指導を受けて制作したという。
 井伊直政は幕府大老として開国の決断を行った政治家であるが、茶人としても江戸後期を代表する大名であった。「埋木舎」時代の研鑽の結晶として31歳のとき「入門記」を著し、近世につながる茶の湯の思想を築いた。
 博物館の中央に建つ能舞台。江戸時代の表御殿の中で、現存する唯一の建物である。
 明治時代に他の場所に移されたが、博物館建設にあわせて本来の場所に戻された。
 ここでは能・狂言を始めとする伝統芸能の上演やコンサートなどの催しを行っており、ガラスのこちら側は観客席となっている。

 通路を奥へと進んでいくと、非常口のような鉄の扉があった。張り紙には「順路 ご自由にお入り下さい。ここから先は木造棟です」と書いてある。
 いったい何があるのかと扉を開けると・・・
 雰囲気はガラリと変わり、表御殿の建物になっていた。古絵図、起こし絵図、発掘調査の成果などを元に復元したもので、藩の政務をつかさどる表向きは外観が鉄筋コンクリート、藩主が日常生活を営んだ奥向きと茶室は木造にて復元されている。
 近代的な博物館とドア一枚隔てた形でこんな和風建築があるとは、実にユニークな展示方法である。 
 雰囲気や見せ方は高山市の「陣屋」の母屋によく似ている。あちらは当時のものがそのまま残っているが、こちらは移築でも何でもなく、本当の再現。さすがに年代による重みが格段に違うが、それなりに風情があって心地よく清々しい気分になった。
 
← 藩主が日常生活を送った「御座之御間」。
 藩主の茶室。
 茶室の外観。
 手を洗う所もあるので、最初トイレかと思ってしまった。
 奥向きに招待した特別な客や親戚などを接待する「お客座敷」。
 藩主がゆっくりくつろぐための「御亭」。「おちん」と読み、当時は珍しい2階建てだったという。
 奥向きに面して庭園が造営されていて、発掘調査により発見され、古絵図に描かれた庭園などを元に復元されたという。
 江戸時代の後期に築かれたものらしい。
 夫はこの居間から庭を眺めていて、思わず座禅をしたくなるほど気に入ってしまったと後に語った。ずっと居続けたくなるほど心洗われる思いだったようだ。
 確かに、他に見物客もおらず静寂に包まれた御殿にいると、世俗の垢が洗われるような思いだ。思わず渋茶でも飲んで和歌のひとつも詠みたくなる。
 しかし、わたしはひこにゃん登場の時間があったため早々とここを立ち去り、再び天守への坂を登っていった。
 夫は一人瞑想にふけっていたのかどうかは不明だが、しばらく残っていた。

 で、ひこにゃんである。
 2007年の「彦根城築城400年」イベントのため生みだされたマスコットキャラクターで、「ゆるキャラ」の”はしり”としても有名なひこにゃん。
 公式サイトのプロフィールによると、彦根藩2代藩主・直孝をお寺の門前で手招きして雷雨から救ったと伝えられる「招き猫」と、「井伊の赤備え」を合体させて生まれたキャラクターだという。
 ひこにゃんという名前は、公募されて寄せられた1167点の中から決定されたそうだ。
 大変な人気を博したためイベント終了後も存続し、今に至っている。
 そのため他の地域でも追従せんと多くの「ゆるキャラ」が誕生し、あの物議を醸した「せんとくん」へと繋がっていくのである。
 わたしはこのひこにゃん会いたさに、一度は降りた天守の高台へと再び駆け登っていった。
 ひこにゃんは一日中、そこらをブラブラしているわけではない。ちゃんとスケジュールというものがあって、この日は10時半から11時まで天守前広場に登場することになっていた。
 これを逃すと次は2時間半後まで待たなくてはならず、わたしたちもさすがにそこまでは滞在していられない。
 汗だくになりながら到着すると撮影会の真っ最中で、ひこにゃんと記念撮影するための行列ができていた。わたしは後ろから3番目くらいになったが、ともあれセーフ。
 順番がきて隣りに座ると、手をぎゅっと握ってくれた可愛いひこにゃん。
 時間が来ると、スタッフが「ひこにゃんはお昼ゴハンの時間ですので、これで失礼します」と断って、ダンスをするなどのパフォーマンスを披露しつつ退場していった。
 「可愛い〜♪」と言って携帯を向けるのは圧倒的に若い女性やママ層が多かったが、わたしも負けじと写メール撮りまくり。最初は話のタネに、というかHPのネタに・・・という感じだったのが、最後の方は若い子たちに混じって最後まで追っかけてしまった。
 ひこにゃんがあと少しで楽屋のような建物に消えるという時、ようやく息を切らせた夫が現れた。
 おお〜これがひこにゃんか! と、夫も少し嬉しそう。
 彦根名物だから、一度は観ておかないとね。
 ひとつ欲を言えば、彦根城をバックにしたひこにゃんを撮影したかったな。
 
近江牛
 彦根に来たら、ひこにゃん。滋賀県に来たら、やっぱり近江牛だろう。
 近江牛は滋賀県で飼育された黒毛和牛のことで、たいへん高級なブランド牛の代表格だ。
どこかにお肉屋さんはないかと探しながら琵琶湖方面に向けて走っていたら、「いろは精肉店」というお店を発見。
 夫には車で待っててもらい、1人でお店に入ってみる。
 ガラスケースの中には近江牛や和牛などが塊で並び、スライスしてもらって買う販売形式であった。
 いや、そのお値段の高いこと、高いこと。近江牛焼肉サーロイン最高級のお肉だと、100グラムで2,400円である。
 100グラムって、ほとんど一口じゃん? 
 どうしようか迷ったが、一口でいいから食べてみたいという想いが強くて、薄くスライスしてもらって100グラムだけ買っていくことにした。
 さて、この高級牛のお味はいかに!?
 
 
 
 今回入った温泉
 
  池田温泉本館
 


  
 
杉江家のどこでも別荘 キャンプ日記

Copyright(C) 2002〜 Clara 画像、記述内容など
すべての転用を禁じます