杉江家のどこでも別荘 キャンプ日記
                〜31フィートのキャンピングトレーラーと温泉情報

 
 
平成21年9月19日(土)〜20日(日) Vol.271
浜名湖ハゼ釣り&ブルーインパルス
が見られるかもしれないキャンプ
   浜名湖河口付近
 浜名湖の河口近くの河川敷でハゼ釣りを楽しむキャンプが開かれた。幹事は、ふ〜@浜名湖さん。
 前夜から静岡メンバーと関東メンバーが中心になって集まり、明け方近くまで飲み明かした。
 明くる土曜日。晴天に恵まれたはいいが、とても暑い。次の日曜日まで灼熱の2日間だった。 
 「あたちも暑いですぅ〜」
 ゼイゼイするレディたん。
 ハゼどん釣れました。
 後で天ぷらにしたものを頂きました。わりとあっさりして淡泊な味でした。

 午前9時10分、轟音とともにブルーインパルスが現れた。「浜松モザイカルチャー世界博2009」のオープニングセレモニーを飾るため、遠く松島基地より飛来したのである。
 会場の「フラワーパーク」へは約7キロほどの距離。やや物足りないけれど、迫力はじゅうぶん伝わってくる。
 下の画像はブルーインパルスの展示演目「さくら」。
 
←赤いマルの中がブルーインパルス。ちっちゃ〜。たぶん、あのあたりがフラワーパークの真上なのだろう。
 わたしたちの真上を飛ぶブルーインパルス。かっくい〜!
 今回の見学はとっても遠い場所からだったけど、もの凄くワクワクして楽しかった。次は近くで観るぞ!
 
   浜名湖河口付近
 午後、林さんの車でりゅうさんファミリー、ブルーサンダーさんとともに、うなぎパイでお馴染み「春華堂」見学にやってきた。
 まず受付で住所と名前を書くと、無料でうなぎパイのサンプルをもらって見学開始。
 通路の壁が一部ガラスになっていて工程ラインが見られるが、撮影は禁止。わたしとしては、ウナギをどうやって粉末状にしているのか、パイにウナギがどれくらいの割合で入っているのか気になるところだったが、それは企業秘密らしかった。
 見学の最後にVTRを観る部屋があったが、その点には触れられていなかった。
 記念撮影コーナーにて、仲良しりゅうさん家族。
 ウナギがあしらわれた手すり。
 見学コースの終わりはうなぎパイのショップだった。見学の最中、ずっとうなぎパイの甘く香ばしい香りを嗅ぎ続けていたわたしたちにとって、ここで買わずに素通りすることなど不可能だった。
 受付でもらったちょっとばかりのパイではとうてい足らず、思わず一箱二箱と大人買い。おまけに試食したブランデー入りのパイ「V.S.O.P」が気に入ってしまい、これも購入。
 しかし、さすがにブランデー入りだけあってこれが高い! 5本入866円、10本入1,732円、20本入3,465円。
 20本入りが欲しいところだったがお財布の中身が寂しいので、間をとって10本入りにした。
 予想していたよりあっさりと終わった見学だったが、けっこう楽しかった。
   
   浜松基地
 続けて広報館「エアーパーク」見学のため、航空自衛隊の浜松基地にやってきた。
 
 
 
 
正面玄関前に展示されている、F-86Fブルーインパルス。警備員のおじさんが「大阪万博の時に飛んだ機体だよ」と教えてくれた。
 ↑広報担当のスタッフが見学客に説明している
 
←戦闘機のコクピット
 最上階のシミュレーター。うまく操縦できなくて墜落させてしまいました。手応えがないので、本当の戦闘機の方がもっと上手に操縦できるんじゃないかと思いました。
 続いてブルさんがチャレンジ。わたしより上手です。
 この後、全員で整理券を取っておいた「全天周シアター」を見に行った。15分と短いフィルムだったが、ドームスクリーンいっぱいにブルーインパルスなどの雄姿が映し出されて迫力満点。かなり見ごたえがあり、もっと観たいと思わせるものだった。
 ブルーインパルスは、アクロバット飛行(展示飛行)を披露する専門のチームで、正式名称は宮城県松島基地の第4航空団に所属する「第11飛行隊」。
 上の方で紹介しているF-86Fという機体は初代ブルーインパルスで、現在はT-2超音速高等練習機を使用している。
 こちらは展示格納庫。閉館時間が来てしまったので、ゆっくり見学できなかった。こちらにはもっと本格的なシミュレーターがあり、いつも長蛇の列ができているそうだ。
 駐車場の前に展示されている「ナイキJ弾」と発射機。
 「ナイキJ弾」の全長は12.5メートル、射程距離は約130キロ。射出されたJ弾は約マッハ3で飛行する。
 ナイキといっても靴のメーカーとは無関係で、ギリシア神話に出てくる勝利の女神「ニケ」を英語読みしたもの。
 C-46輸送機。全長23.28メートル、乗員2名のアメリカ製。1978年引退。
 アメリカから供給されたH-21B救難ヘリコプター。1967年に引退するまで救難用として活躍した。
 全長16.04メートル、最大速度185km/h、乗客2名。
      
   浜名湖河口付近
 キャンプベースに戻ってきた。5時半をまわると夕日が赤く染まり始めた。
 釣りをする少年たち。
 もの凄くきれいな夕焼け。明日も晴れて暑くなりそうだ。
 昼間の真夏日とはうって変わり、夜は冷えた。
 みんなキャンピングカーから上着を取ってきて羽織るが、準備不足でめちゃめちゃ真冬っぽいコートしかない人もいたりして、ちょっと笑えた。
 かくゆうわたしも、前シーズンに来たベンチコートをそのまま持ってきたりして。
 夜、てんさんたちとボーッと夜空を眺めていたら、ふらふらと不思議な動きをする光を目撃。
 「あれ、UFOじゃない?」
 と、てんさん。
 「え〜うっそぉ!」と、全力否定のわたし。「いや、プラズマ現象でしょう」
 「いや、UFOだよ」
 光としては3等星ぐらいの弱い星で、流れ星のように光ったわけではなかった。それが、ゆらゆらと蛇行したかと思うと、大きく円を描いて消えた。
 その後も北の空の地平線近くで、ふらふらと降下する光を目撃した。
 UFOというのはそもそも未確認飛行物体のことだから、確かにUFOには違いない。宇宙人が乗っているかどうかは別問題だが。
 ともかくも不思議な体験。楽しい夜だった。

 日曜日はキャンプ会最終日。
 ふ〜@浜名湖さんが前日に予約して買ってきてくれたウナギを鰻丼にしてお昼ご飯にいただく。
 さすが本場浜名湖のウナギ。ふっくら柔らかくておいしい。これだけでも浜名湖に来てよかった〜。
 ふ〜さん、ふ〜さんママ、ありがとうございました。
   

今回入った温泉 舘山寺温泉 華咲きの湯

 
 
 
平成21年9月20日(日)〜21日(月) Vol.272
愛知の城めぐり〜岡崎城、犬山城
   岡崎城
 楽しく過ごした浜名湖河口でのキャンプ会場からお別れし、わたしたちは西へと目指した。
 まずは岡崎城と犬山城、そしてできることなら岐阜城・安土城まで行きたいものだと考えながら、渋滞にはまりながら岡崎市内に入った。
 祝日法とやらが改訂され、初めてのシルバーウィークど真ん中である今日、どこもかしこも渋滞に次ぐ渋滞。高速道路も一般道路もダラダラ繋がっている。
 地図では安土城までほんのちょっとに見えるのだが、こんなに渋滞があってはチトしんどい。
 4時25分、岡崎城に到着した。
 閉館時間は5時とのことなので、わたしだけ大急ぎで大手門から駆けこんだ。夫はキャンピングカーの修理があるため駐車場に残った。
 下の画像に映る大手門は平成5年に建てられたもので、高さ11m、幅16.4m。国道1号沿いにあるが、往事の大手門を再現している。
 子どもの時、「少年徳川家康」というアニメがあった。1542年(天文11年)年に岡崎城で産声をあげた竹千代、のちの徳川家康が乳飲み子の時に母と生き別れ、父とも死別し、他国の人質になるという苦難に満ちた少年時代を過ごし、やがて戦国大名として歩み出すまでを描いた作品である。
 松平家とは敵対関係にある陣営に再嫁させられても遠くから息子を想い続ける母・於大が、とても感動的に描かれていた。その声が「ルパン三世」の峰不二子の声優さんで、これがまた艶っぽい優しい声で大変魅力的だったのを鮮明に記憶している。
 そんな影響で岡崎城には前々から行ってみたかったのだが、明治時代に一度取り壊されているので現在の天守閣は昭和時代の再建。そのため、これまで二の足を踏んでいたのである。
 岡崎城は、三河国を統一した松平清康(家康の祖父)が1531年に築城したもの。元は西郷氏からブン捕った城が起源だが、建っていた位置は違うらしい。
 清康は後に家臣の謀反によって命を落とした。その斬殺事件のあった現場が、上の大手門である。
 清康の跡を継いだ嫡子・広忠は東の駿府(今川家)、西の尾張(織田家)という両大国に挟まれ、小国三河を立ちゆかせるのに苦労した。1541年、同じ今川家の傘下にある水野家から於大の方を正室に迎え、翌年の12月には嫡男・竹千代が生まれた。
 しかし1544年、於大の兄が織田方に付いたため、今川から嫌疑の目で見られることを恐れた広忠は於大を離縁した。
 まだ2歳の幼子との離別は、於大にとってさぞ辛いことだったろう。
 今は離婚というと妻が子を引き取ることが多いが、当時は残して出るのが一般的だった。男子は大事な跡取り、女子も縁組みで重要な役割を果たすため、いずれも連れて出ていくことは許されなかったのである。
 広忠は戸田氏から真喜姫を後妻に迎えるが、竹千代のいる本丸には住まわせず二の丸に置いたという。このため竹千代は真喜姫の手で育てられたわけではないらしい。
 竹千代、後の家康が女性に対して一貫して冷めているように思うのは、母の情愛を知らずに育ったせいではないかと、わたしは勝手に推測している。
 竹千代は6歳になると、今川へ人質に出されることになった。
 このとき今川と広忠を深く恨んでいた真喜姫の父・戸田康光の裏切りによって織田家に引き渡されてしまったため、竹千代は2年ほど尾張で過ごす。
 その間、広忠が家臣に斬られて死亡するという事件が起こった。病死説もあるが斬殺説が本当だとすれば、広忠は父親と同様、二代続けて家臣の謀反により死んだことになる。24歳の若さであった。
 1549年(天文18年)、竹千代は今川家に引き渡され、17歳になるまで駿府での人質生活を送ることになる。
とはいえ今川義元の最側近である僧の薫陶を受けて育ち、駿府にいた祖母(於大の実母・お富。源応尼、没後は華陽院)との同居を許され、14歳で元服し「元康」となってからは義元の姪を妻に娶っており、語られるほど悲惨な境遇だったわけではないようだ。
 義元は織田家に捕らわれていた竹千代を人質交換によって取り戻した上、一族として遇したのである。
 「京かぶれの貴族気どり」という人物評のせいか義元はあまり良くないイメージを持たれがちで、映画やドラマでも「バカ殿」的な描き方をされることが多いが、そんなに悪い人柄でもないし無能でもなかったと思っている。
 1560年、義元が「桶狭間」において敗死すると、元康は岡崎城に入って今川家から独立。織田信長と同盟を結び、義元からもらった「元」の字を捨てて「家康」と改めた。
 1570年に家康の本拠地が浜松城に移ると、岡崎城には嫡男・信康と生母・築山殿が入った。
 築山殿は先に書いたとおり義元の姪で、人質時代に結婚した、というか”させられた”妻である。一説には彼女と一緒に住みたくなかったので、岡崎城に置き去りにしたとも言われている。

 岡崎城の天守閣。正面に立ちはだかる2本の松の木が邪魔をして、せっかくの外観がよく見えない。この角度に限らず、どこから見ても木が邪魔をしているのが実にもったいない。
 こんなに伸び放題にせず、適当な長さで切ればいいのにと思う。
 4時半、わたしは天守閣の入口に辿り着いた。受付で料金を支払って城内に入る際に聞いてみると、30分ちょうどが受付の締め切りだという。
 ギリギリセーフ、危ないところだった。
 昭和34年に再建された天守閣はほぼ昔どおりの外観だというが、内部は鉄筋コンクリート製のがっちりとしたもの。ただ、天守閣創建当時の心柱と礎石が今も残されており、入口で見ることができる(右の画像)。
 単なる”再建もの”でない遺構らしさが、とても印象的だった。
 この遺構は豊臣家家臣の田中吉政が天守閣を築いた当時のもの。1590年(天正18年)、豊臣秀吉に臣従した家康が関東移封となったため、田中吉政が城主となって城郭と城下町を整備・拡張したのである。 
 天守閣はその後、地震で倒壊。徳川幕府時代となった1617年、本多康紀によって3層3階、地下1階の、櫓を持つ複合天守が再建された。
 岡崎城は「神君出生の城」であるため神聖視され、本多氏、水野氏、松平氏といった家格の高い譜代大名が代々城主を務めた。石高は五万国と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りにしたという。
 天守閣は各階が展示室になっており、右の画像は最上階の5階。
 天守閣最上階から見た展望。岡崎市街地のビルが見える。
 なお、現在公園となっている敷地の地下から近世以前の遺構が発見されており、今後は失われた建物の復元を視野に入れつつ、城郭とは関連のない施設は撤去し、城跡をできるだけ本来の姿に戻す計画であるという。
 明治時代に入って「城は不要である」とされ廃城になったいくつもの城が、このようにして本来の姿を取り戻せるよう祈る。

 二の丸跡にある能楽堂。近年建てられたもので、能をはじめとする古典芸能に利用されている。
 家康は本丸ではなく、この場所にあった二の丸で生まれたらしい。
 豊臣秀吉亡きあと、「関ヶ原の役」を経た1603年(慶長8年)、家康は朝廷より征夷大将軍の任を受け、幕府を開く。いよいよ江戸時代、徳川幕府時代の始まりである。
 さらに家康は大阪「冬の陣」「夏の陣」で豊臣家を滅亡に追いこみ、翌1616年4月、やれやれとばかりに75歳で薨去した。
 
←岡崎公園の一角に建つ家康像。戦国大名の中ではもっとも多くドラマに登場する人物ではないだろうか。
 他に別料金の「三河武士のやかた 家康館」という施設があったが、時間の関係で見学できなかった。
 最後に、わたしが好きな「於大の方」のその後について書いておこう。
 作家・安西篤子氏の「家康の母」(集英社文庫)によると、「病気療養」という名目で実家の刈谷城に返された於大は、2年後には阿久比城主・久松俊勝に再嫁させられた。夫婦仲は円満だったようで、俊勝との間に三男三女をもうけている。
 於大は竹千代に対し、手紙とともに着物や玩具や菓子などを絶えず送り、親子の間には緊密な文のやり取りがあったという。
 「桶狭間の戦い」で今川軍が壊走すると、先鋒を務めて大高城にいた元康は敵軍に囲まれ孤立。しかし、於大のはからいによって水野家が手引きし敵陣を脱出させたため、元康は13年ぶりに父祖の城に帰還することができたという。
 このとき今川方の城代が逃げ去って城が空になっていたので、元康は「捨て城ならば拾おう」と言ったとされている。
 元康改め家康は、俊勝と3人の息子たちに松平姓を与えて臣下とし、於大ともども岡崎城に迎えとった。
 そして織田信長と同盟を結ぶと、三河一国の統一を果たした。
 家康はやがて浜松城に移り、正室と嫡男、それから母・於大の方を岡崎城に残していった。
 異母弟にあたる於大の息子たちを、家康は自らの手駒として扱った。長男は各地を転戦し、次男は駿府、さらに甲斐の人質とされ、不運の末に35歳で病死した。
 1576年(天正3年)には於大の兄・水野信元が謀殺され、夫・俊勝の長子が自害、その子どもたちも殺害されるなど多くの身内を奪われた。
 俊勝もそんな家康のやり方に反発し、於大から離れて領地に隠遁。天下随一の大名の母として崇められながらも、於大は寂しい晩年を送った。
 1582年(天正10年)、俊勝亡き後は出家して伝通院と名乗る。
 1602年、家康は滞在する京の伏見城に於大を招いた。これまで三河と尾張を出ることのなかった於大が京に上ったのは初めてのことだろう。華やかな街を見物し、楽しいひとときを過ごしたのだろうか。
 だが、於大は伏見城で発病し、その年の8月に74歳の生涯を閉じた。家康が征夷大将軍に就任する姿は見られなかったが、天下統一を見届けての死だった。
 これを悼んだ家康は智恩院で葬儀を執りおこない、遺骸を江戸に送って今の伝通院の元になる寺を建てた。
 戦国の女の倣いとはいえ、於大の波乱に満ちた生涯は果たして幸せだったのか、不幸だったのか。
 安西氏は「家康の母」の中で、戦国の激動によって心を引き裂かれた於大が誰にも会おうとせず、我が子家康をも拒むようになっていった悲哀に満ちた姿を描きだしている。
 しかし、最後には家康の招きに応じて京を訪れたのだから、満ち足りた幸せな晩年だったと思いたい。
 ちなみに、元NHKアナウンサーの松平定知氏は、於大の末子・松平定勝の末裔である。
 家康は羽柴秀吉への人質にこの異夫弟を出そうとしたが、於大が猛反対したので取りやめになった。我が子をせめて一人くらいはそばに置きたいという、於大のたっての願いだった。
 かわりに家康の実子、秀康(のちの結城氏)が秀吉の元に送られた。於大の次男同様、秀康も人質としての運命に翻弄される生涯を送り、身の不運を嘆いたという。

 大手門のすぐ前にあるパーキングは比較的広く、普通車は30分100円とリーズナブル。
 しかし、入場の時に係のおじさんが「バス料金いただきます」と当然のように言ってきたので、「これは普通車で、車検証も普通車になってます。白線から少しはみ出すだけで二台分は取りません。なのに大型料金というのは、どうかと思うんですけど。普通車でお願いしたいんですよね」と告げると、なんとか了承してもらえた。
 公共駐車場の場合は無理にバス料金を取らなくてもおじさんの懐が痛むわけじゃなし、入口で長々とゴネられても迷惑だし、まあいいやと譲歩してもらえることが多い。
 もっとも今回は普通車のレーンが空いてなくて、結局バスレーンに案内されちゃった。でも、出庫するときは200円と普通車料金。えへへ、ちょっと厚かましかったかな。
 しかし、普通車料金と大型バス料金とではあまりにも値段が違うので、消費者としては安易な妥協は許されない。
 
   尾張温泉東海センター
 岡崎市を離れ、次に目指すは犬山城。が、その前に温泉に入るべく、同じ愛知県は海部郡蟹江町という所にある「尾張温泉東海センター」にやってきた。
 愛知県というのは、わたしたちにとってほとんど未踏の地だ。以前、琵琶湖に行く前に名古屋城を見学して味噌カツを食べたくらいで、ほとんど高速道路で素通りするのが常だった。
 温泉に入るのも今回が初めてである。
 駐車場と同じ敷地内に「尾張稲荷大社」という神社があったので、せっかく尾張に来たのに素通りするのも失礼だと考え、お詣りしてみた。
 鳥居をくぐってすぐ左手に、お清めの水・・・ではなく温泉がとうとうと流れていた。
 すくって匂いを嗅いでみると、ゆで卵のような硫黄臭がほんのり。思いがけずいい温泉ではないか。
 ”温泉バカ”のわたしとしてはここのお湯に浸かりたい! という願望が頭をもたげるが、神社で沐浴するわけにもいかない。
 ひしゃくで何杯か飲むだけにとどめ、諦めて東海センターへ。
 東海センターの入口に来た。駐車場は建物の真裏なので、けっこう歩く。そのためか車椅子マークの駐車スペースなのに、どうみても障害者のクルマとも思えないセ○シ○なんかが停まっている。
 ひょっとしてその筋の方のクルマではないかと思っていたら、案の定お風呂の中で…これ以上は書けません。(って、後で書いちゃうけど)
 玄関にはコテコテの舞踏芝居の劇団の宣伝が。入場者はこの舞台を無料で観ることができるため、昼間は入場料2,000円と高め。
 この値段を夫に告げたら、「えっ」と絶句して立ち止まってしまった。でも、ご安心あれ。午後3時からは600円になるのです。しかも、温泉は掛け流し。
 愛知県は温泉の少ない県で、わたしは他に掛け流しの日帰り施設を知らない。また、ここは記念すべき愛知県での初入湯である。
 入浴客が多くて浴室内の写真は撮れなかったのだが、雰囲気は「ゴールデンランド木曽岬温泉」に似ている。
 浴槽はひたすら広く、無駄に岩組み多し。そこここで湯が滝のように落下しており、湯は黄色がかった褐色だ。(→画像を観たい方は公式サイトをどうぞ
 洗い場はたくさんあるのだが、ほぼ埋まっている上に場所取りをしているオバサンもいて、最初はなかなか確保できなかった。おまけに椅子は固定された石で使いにくい。
 空いた洗い場もあるにはあったが、お肌に絵柄入りの女性2人と子どもたちが洗面グッズを置いたままにしており、そこを使う勇気はなかった。
 他の県でも洗い場の場所取りはよくあるが、東日本より西日本の方が圧倒的に多いと思う。
 そして、東海センターご愛用の方々には申し訳ないが、これまで入った温泉のどこよりもここはマナーが悪い。特に子どものお行儀が最悪。露天風呂で飛びこむ、タオルを浸けて岩にびしっと叩きつけて遊ぶ、濡れタオルをブンブン振りまわす、内風呂の植えこみの陰でオシッコしちゃう、等々。
 お湯が申し分なかっただけに、そこがちょっと残念で落ち着かない点だった。
 もっとも、東京の温泉銭湯(例えば大田区の「武蔵小山温泉 清水湯」)でも非情な洗い場取りは行われているので、他をどうこう言えないのが現状である。
 それから源泉についてだが、てっきり稲荷大社の温泉と同じものが使われていると思いきや、ちょっと違ったのが意外である。神社のお湯は無色透明で硫化水素臭がしたが、こちらはモール臭のする黄褐色の湯。明らかに泉質が違うのだ。
 東海センターの湯は非常によく暖まり、ポカポカ感がいつまでも持続。冬にまた入りたい泉質であった。
   
   犬山城
 午後8時半に温泉を後にすると犬山市にある犬山城に向かい、公営の駐車場に入った。
 夫が途中の食材屋さんで買った材料で名古屋名物・味噌カツを作ってくれ、車内で食べた。

 翌朝。朝9時にキャンピングカーを出て、城に向かう。
 夫はまだメンテナンスが残っていたので、わたし一人で見学に行くことになった。
 犬山城は木曽川のほとりの小高い山の上に建つ平山城で、別名「白帝城」。国宝に指定されている現存天守「国宝四城」のうちの一つである。
 元は1469年に造られた小さな砦だったが、1537年、織田信長の叔父・織田信康が改築して現在の城郭の位置が定まった。
 信康の兄が信長の父親の信秀で、信長はこの時まだ幼児。ちなみに同年は豊臣秀吉が生まれた年である。
 信康は兄信秀に従って戦い、美濃攻めにおいて戦死した。子の信清が城を継いで信長の妹を娶ったが、所領をめぐって信長と対立。信清は城を攻められると放棄し、甲斐に逃げこんで保護された。
 現在の天守閣が形成されたのは1601年(慶長6年)頃のことだが、信康の時代にもすでに2重2階の天守があったとされる。
 その上に3、4階を増築し、その後、現在の唐破風になったと考えられている。
 ここでは入口で靴を脱ぎ、袋に入れて持ち歩くようになっている。
 いきなり急勾配な階段が立ちはだかり、昇りも下りもちょっと渋滞気味だ。
 中仙道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝である犬山城は、戦国時代の攻防の要となった。これを獲得した信長は乳兄弟の池田恒興、次いで五男・信房を城主に封じた。
 1582年(天正10年)6月、信長が「本能寺の変」で死亡し、信房も二条御所において討死。
 その後は城主がめまぐるしく替わったが、1617年(元和3年)、徳川家家臣の成瀬正成が尾張藩の付家老となって犬山城を拝領してからは、明治時代に至るまで成瀬家9代が治めることになる。
 ”穴倉”と呼ばれる地下1階、2階。天守の出入り口があり、天守を支える石垣や太い梁を見ることができる。
 1階の中央部には第一の間、第二の間、上段の間、納戸の間の4室に分けられ、それらを「武者走」と呼ばれる板廊下が取り巻いている。
 下の画像2枚が、書院造の「上段の間」。籠城時に城主が居住する部屋で、ここの天井だけ「猿頬天井」が張られ格が高い造りになっている。
 奥の扉は「武者隠しの間」になっており、殿さまを護る武者が控えたという。
 ←1階部分の「付け櫓」。天守の入り口が敵兵に破られそうな時、側面から攻撃を加えて防備するためのもの。その下の画像2枚は「付け櫓」を外から見たもの。
 明治時代に廃城となり、天守以外のほとんどが取り壊された犬山城を、明治24年(1891年)、マグニチュード8.4の「濃尾大地震」が襲った。
 天守は半壊、「付け櫓」も倒壊してしまった。県は城の修理を条件として成瀬家に無償譲与し、成瀬家と犬山町民は義援金を募って修復を果たした。その後も伊勢湾台風などで被害を受けたため、解体修理が行われている。
 
←「付け櫓」を外から見たところ
 
 第12代城主にして最後の城主となった成瀬正俊氏が平成20年に亡くなると、犬山城は財団法人に移管された。つまり、つい最近まで犬山城は個人所有のものだったという、非常に珍しい城なのである。
 財団の理事長には正俊氏の長女が就任したので、結果的に成瀬家が実質上の城主であることに変わりはない。
 城の運営は経済的に大変なのだろうが、心情的には財団ではなく個人所有のまま、第13代城主、第14代城主・・・と繋げた方がロマンがあっていいのになぁと思った。
 「石落としの間」。窓から石を落として侵入者を防ぐための部屋で、そのため石垣から外に突出している。
 「石落としの間」の窓から外を見たところ。
 1537年(天文6年)の築城当時に使われた鬼瓦。慶長年間の修繕の際に取り換えられ、保存されていたもの。
 次に急な階段を登って2階へ。ここは「武具の間」と呼ばれ、「武者走り」の真ん中に武具棚が備えられている。

 3階の「唐破風の間」。南北に施されている唐破風は成瀬氏によって増築されたといわれている。
 唐破風は屋根に付けられる装飾のことで、今でもよく用いられ、個人の邸宅にも付けられることがある。
 
※下のお城の画像にマウスを重ねると、唐破風が点線で囲まれます

 最上階の4階、「望楼」に到着。
 壁の上部には歴代城主の肖像画が掲げられている。明治時代以降の4人の城主は写真だった。
 廻縁と呼ばれる回廊に出てみてビックリ。あまりにも手すりが低いのだ。岡崎城の回廊は金網で覆われていて落ちようがないのに対し、ここはうっかりすると下まで転落してしまうのでは…と、わずかに恐怖を覚えて足がすくんだ。
 見て見て、この手すりの低さ。おまけに下の屋根に転落防止のネットなどが付いていない。屋根も急勾配だから、万が一人が落ちてもしがみつくことができず、下までコロコロ転がって地面に落ちてしまいそうだ。
 手すりには「もたれないでください」という注意書き。うっかり躓いて寄りかかろうものなら壊れてもろとも転落する恐れがありそうな、古い木製の手すりである。
 これまで訪れた城のほとんどが手すりを高くしたり金属製にしたりネットで塞いだりして、絶対落ちないようになっていた。
 しかし、この犬山城は美観を重視してか、そういった転落防止策を設けていない。
 まるで「落ちるならどうぞ落ちて下さい」と言わんばかりのグランドキャニオンみたいで、なかなか凄い。
 もっとも、室内から回廊に出る入口のところにはガードマンが配置され、子どもが一人で外に出ようとすると「親と一緒に出てください」と注意していた。
 確かに小さな子どもが親の監視なしで走りまわったら危険な回廊だが、危険防止を重視するあまり景観や美観を損ねることはしないでもらいたいので、こうした処置はまことに嬉しい。
 とにかく回廊からの展望は素晴らしく、360度視界を遮るものがないので濃尾平野の見事な景観を堪能できる。
 ←木曽川の向こうは尾張国(岐阜県)で、ライン大橋と伊木山が見える。 

 スリリングな階段を降りて階下に戻る。
 場所によっては一人分しか通れない狭いものもあるので、渋滞がしばしば起こっていた。
 天守の傍らにある「大杉様」。築城のときからあった杉の老木で、樹齢は650年。天守閣と同じくらいの高さがあった。
 落雷の際は城の身代わりに、台風の際は風よけになって城を守ってきたが、1965年頃枯れてしまったという。
 順序が逆になってしまったが、城の門です。
 門の前の坂道と、券売所。

 坂道を下った所にある針綱神社。濃尾の総鎮守である。
    
   犬山市文化史料館と からくり展示館
 犬山城を出て垂直に伸びた道を歩いて行くと、文化史料館がある。犬山城の入場料と共通になっており、チケットがあれば見学できるので入ってみた。
 小規模な史料館だったが、館内の吹き抜けホールでは犬山祭の山車(だし)が展示されていた。
 これは城下の町衆が370年にわたり維持してきたもので、昼車山(ひるやま)1輌と、365個の提灯をつけた夜車山(よやま)1輌を展示している。
 この史料館に入ったところで受付の人が「10時半から、『からくり展示館』でからくりの実演が行われるので、ぜひ行ってみてください」と薦めるので、行ってみることにした。

 史料館の斜向かいにある「からくり展示館」。
 有名な「茶運び人形」の実演が行われていて、多くの人が集まっていた。
 「茶運び人形」は以前、CMに登場したことがあるのでご存じの方も多いだろう。
 人形が持つおぼんの上にお茶を乗せると、お客さんの前に進み出て止まる。お客がお茶を受けとり飲み終わって置くと、くるりと向きを変えて戻ってくるという”からくり人形”である。
 歯車、カム、糸だけで制御し、畳の大きさでお客までの距離を測って歯車の位置を調整し、動かすという。
 このような正確な動作を電池もモーターも使わず木のからくりだけで行わせてしまうのだから、日本人の優秀さと緻密さを示す最たるものと言ってもいいだろう。
 歴史の本で読んだのだが、1543年(天文12年)、鉄砲を持ったポルトガル商人が種子島に現れた際、日本人がこれを購入して刀鍛冶に研究させた結果、複製に成功して短期間で生産可能にしてしまったという。
 時は戦国時代。戦乱のただ中にある各国から大量発注があるとみて大儲けを狙っていたポルトガル商人は、大いにアテが外れたのである。
 このことからわかるように、日本人は技術力にたいへん秀でた国民なのだ。ただ模倣するだけでなく、独創性や芸術性の点でも優れ、このような”からくり人形”を造りだしてしまう。
 本当に凄いと思う。
 こちらはお祭りの山車で演じる”からくり”の実演。本番のお祭りでは練り歩く山車の中に5人が入り、紐を引いて操作する。
 これは平成2年に製作された「三番曳」という山車。能の「翁」という演目からとった”からくり”で、白い顔の男が一瞬で黒い顔の翁に替わるという”早変わり”が一番の見物である。
 扇をかざして舞う白面の男が・・・・
 ものの一瞬でヒゲを生やしたお爺さんに変身!
 
 ホントにあっという間なので、まばたきもできません。
 
 人形の胸がパカッと開いて、中から黒いお面が出てくるという仕掛けなんですね。

 こちらは「更級姫」という”からくり人形”。
 実演はなかったけど、やはりこれも姫の美しい顔が一瞬で鬼女に替わるという早変わりの妙が見所。
 言われるがままに来てみたものの実はあまり気乗りがしなかったのだが、意外と、いやかなり楽しめちゃった。最後にはたいへん素晴らしいものを見せていただいたという感想だった。
 犬山城にお越しの際は、ぜひこちらも覗いてみてくださいね。
 
国宝犬山城
犬山市文化史料館
からくり展示館

今回入った温泉 尾張温泉東海センター

 
   
          
杉江家のどこでも別荘 キャンプ日記

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