5日目 ヴェルサイユ宮殿の帰り道〜パリ・フリー観光
  免税店
 ヴェルサイユ宮殿からほど近いところでバスが停まり、免税店に案内された。店員はみな日本人で、実に愛想がよい。しかも、ここにもっと長くいたいというお客さんには、店が送迎車を出して送ってくれるという。
 わたしは特に買いたいものもなかったので、地下のトイレを借り、りんごのキャンディを試食したりしてバスの出発時間までブラブラしていた。
 このりんごのキャンディ、「王様の庭園のリンゴから作った」と書いてある。
 チョコでりんごをくるんだお菓子なら買ったけど、ただのキャンディなのでやめておいた。ちなみに、王妃マリー・アントワネットの肖像画入りだ。
 最後に、ここで両替をしてくれるということなので、1万円分をユーロに替えてもらった。
 お店の名前は忘れてしまった。というか、フランスのお店の看板は目立たないので、最初から目に入ってなかったのだ。免税品自体にも興味なかったし。
  自由の女神
 バスはパリ市内に入り、セーヌ川沿いを走った。
 人工堤防「白鳥の散歩道」に立つ「自由の女神」が見える。
 ニューヨーク・マンハッタンに立つ「自由の女神」像は、アメリカの独立を祝ってフランスが贈ったもの。その返礼にと、アメリカ側が小さなレプリカを贈ってきて、それがここに立っているわけなのである。
※アメリカ独立戦争・・・1775年4月に勃発。アメリカはジョージ・ワシントンを大陸軍総司令官に任命し、イギリス軍と戦った。フランスはアメリカと同盟し、これに参戦。1783年9月、パリ講和条約が調印され、アメリカの独立が正式に認められた。
 ちなみに、マリー・アントワネットの愛人とされるスウェーデン貴族・フェルセン伯爵もこの戦争に参加している。
  ジャンヌ・ダルクの黄金像
 マイバス社の近くでバスを降り、ガイドさんに挨拶して解散。
 息子と二人でパリ市街地を散策するため、てくてくとルーブル美術館の方に歩き出した。
 やがて、黄金のジャンヌ・ダルク像に出くわした。ここは「ピラミッド広場」という大層な名前が付いているものの、なんの変哲もない普通の交差点だ。
そんな所に唐突に、異様なまでに金ぴかのジャンヌ・ダルクが立っている。ちょっと不思議な感じがした。
 先日バスの中からチラリと見て非常に印象に残っていたのだが、ガイドブックではわずかしか触れていない。持っている2冊ともだ。
 なぜだか理由はわからない。その金ぴか度合いから推察するに、これは比較的新しいものなので、歴史的価値があまりないからなのではないだろうか。
 ここで、ジャンヌ・ダルクの生涯について解説しておこう。
 ジャンヌ・ダルクは1412年、ロレーヌ地方・ドンレミ村の農家に生まれた。
 13歳の時に初めて大天使ミカエルによる啓示を受ける。16歳で、イングランドに包囲されているオルレアンを解放してフランスを救うよう、命じられた。
 当時のフランスは、いわゆる「百年戦争(1337年〜1453年)」により真っ二つに割れていた。
 パリを含む北西部はイングランドと手を結ぶブルゴーニュ派が占領していた。
 対するアルマニャック派は南フランスの貴族が中心だった。フランス国王シャルル6世は1422年に死去し、跡継ぎでありアルマニャック派の旗頭であるシャルル王太子(シャルル7世)は、未だ正式な国王として即位できずにいた。
 大聖堂のあるランスが敵の手にあり、正式な戴冠式を挙げられずにいたこと、そして、母・イザベル王妃の不義の子だと疑われていたことが原因である。
 イギリス国王は幼いヘンリー6世(1421年〜1471年)であった。彼はフランス国王フィリップ4世(1268年〜1314年)の子孫であり、シャルル6世の孫でもある。そのため、イングランドはフランスの王位継承権を主張し、ブルゴーニュ派もこれを支持していた。
 17歳の時、ジャンヌはついに神の命に従ってシャルル王太子(シャルル7世)の元に馳せ参じた。王太子の信任を受けたジャンヌは3千人の兵を率いてオルレアンに向かい、兵士たちの先頭に立って鼓舞した。負け続きでへこたれていた兵らの士気は高まり、1429年5月、とうとうイングランド軍を撤退させた。
 さらにジャンヌは王に説いて、ランスを敵の手から奪い返した。1429年7月、シャルル7世はランスの大聖堂で戴冠式を挙げ、正式なフランス国王となる。
 だが、依然占領されたままのパリ奪還を進言するジャンヌと、和平工作で進もうとする王とその側近との間には、軋轢が生じていた。
 ジャンヌはパリ奪還を試みるが、これには失敗。1430年5月、味方の裏切りによりブルゴーニュ軍の捕虜となり、イングランド軍に引き渡される。
 イングランド軍は異端裁判でジャンヌを魔女として裁き、その勝利が悪魔によるものだと諸国に喧伝しようという作戦を立てた。
 かくて翌年2月、ジャンヌはフランス西部のルーアンで異端審問裁判に掛けられることとなる。
 カトリックの教義では、神の声を聴くことができるのは聖職者だけだった。神は教会を通じて人民に語りかけるもので、そこを差しおいて個人が聴いたのはけしからん、というわけである。
 ジャンヌが聞いたのは神ではなく、悪魔の声だ。だから異端、悪魔の仲間だと断罪され、1431年、教会からの破門とイングランド軍による即時死刑が言い渡された。
 ジャンヌはルーアンの広場で公開火刑に処され、4時間もかけて焼き尽くされた。そして、その骨灰はセーヌ川に投げ捨てられた。
 ジャンヌが故郷を出てから、わずか2年後の5月のことであった。
 1449年、シャルル7世はブルゴーニュ派と和睦してパリに入城し、さらに国土からイングランド軍を追い払った。
 シャルル7世がルーアンに入城した翌年、王はジャンヌの処刑裁判の調査を命じる。その結果、1456年にジャンヌの名誉回復裁判が行われ、過去の裁判の判決はいっさい無効と宣言された。ジャンヌの死後、25年も経ってからのことであった。
 ただし、ジャンヌ・ダルクが聖女扱いされ始めたのは、ずっと後世になってからのことだ。400年ものちのナポレオン・ボナパルトが、「イングランドを追い払ったフランスの国民的英雄」と彼女を祭り上げ、ナショナリズムを高めたのである。併せて皇帝という自らの地位に対す
る正当化でもあった。
 1909年、ジャンヌはローマ教皇ピウス10世によって列福された。次いで1920年、ベネディクトゥス15世によって列聖され、聖人となった。
 
※ジャンヌ・ダルクについては、永井路子著「歴史をさわがせた女たち〜外国編」(文集文庫)と、桐生操著「世界情死大全」(文藝春秋)を参考にしました。
 また、藤本ひとみ著「聖女ジャンヌと娼婦ジャンヌ」では、ジャンヌ・ダルクの神がかりとそれを信じて従った兵らの心理、そしてシャルル7世がなぜジャンヌを見捨てたかについての謎解きを、フィクションを巧みに織り交ぜたストーリー展開により解説しています。
  チュイルリー公園
 コンコルド広場とルーブル宮の間に長く広がる庭園である。
 ここは1563年、アンリ2世の王太后カトリーヌ・ド・メティスが、チュイルリー宮殿とイタリア式庭園を造らせたところ。その後、ヴェルサイユ宮殿の造園で知られるル・ノートルによって見事なフランス式庭園に整備された。
 1789年、ヴェルサイユ宮殿からパリに連れ戻されたルイ16世夫妻とその家族らが約2年間、居住した。
 宮殿は1871年のパリ・コミューン(※)で焼失し、庭園だけが残っている。
※パリコミューン・・・1789年の革命後、フランスの政府は第一共和制、第一帝政、王政復古、7月王政、第二共和制、第二帝政、第三共和制と、めまぐるしく変わっていた。
1871年、プロイセン軍によってパリが包囲され、政府は降伏した。だが、パリ包囲に抵抗し続け、降伏を認めなかったパリ市民が蜂起し、革命政府パリ・コミューンを樹立した。
それはわずか2ヶ月弱の短命な政権だったが、女性参政権の実現、児童夜間労働の禁止、政教分離などの革新的な政策が打ち出された、歴史上初の社会主義国家にして革命政権でもあった。
最終的にパリ・コミューンは、ヴェルサイユに置かれた臨時政府による攻撃と北ドイツ連邦軍の封鎖により、多くの死者を出しながら瓦解した。
 チュイルリー庭園の端にあるグランドのような場所で、銀色の玉を転がしてゲームをする紳士たち。
 いったい何というゲームだろう?
 わたしたちはヴァンドーム広場に向かおうとしていた。そのためチュイルリー側から反対側のアーケードに歩く位置を変え、ウィンドーショッピングを楽しみながら歩いた。
 置物やアクセサリー、食器類など、どれもカラフルで可愛いものばかり。
 見ているとあれもこれも欲しくなってしまったが、悲しいかな、お金がない。
 今回はあまり余裕のない貧乏旅行。大人料金を2人分出したのだから、やむを得ない。
 それにしても、欲しいものがたくさんあったアーケードだった。たぶん、観光客向けに高いんだろう。今度訪れるときのために、もっとお金を貯めておかなくっちゃあ。
  ヴァンドーム広場
 ルイ14世の巨大な騎馬像を据えるため、1685年頃から建築家マンサールの設計で工事が始まり、1720年に223m×213mの広場が完成した。
 革命後、騎馬像は破壊されるが、ナポレオンが広場中央に高さ44mの記念柱を建てた。
 柱はオステルリッツの戦いで勝利を収め、ロシア・オーストリア連合軍から奪った1250門の大砲を鋳造したもの。てっぺんには、ローマの方向を睨むナポレオンの像が立っている。
 広場の南側にはショパンが没した家がある。
  ノートル・ダム・アソンプション教会
 ヴァンドーム広場からコンコルド広場に向かう途中に見つけた教会。
 ノートルダムというのはフランス語で聖母マリアの意味。従って、かの有名なシテ島のノートルダム寺院以外にも、ノートルダムの名がついた教会が存在するわけである。
  コンコルド広場
 次にコンコルド広場へ。ここまでですでに2キロくらいは歩いており、さすがに足が疲れてきた。
 ここはルーブル美術館から凱旋門に続く直線上にあり、パリで最も見事な景観を誇る広場とされている。
 1775年、ルイ15世の騎馬像を置くために造られ、当初は「ルイ15世広場」と呼ばれていた。
 フランス革命勃発後、広場は「革命広場」と名を変え、一角にはギロチンが設置された。
 ルイ16世やマリー・アントワネットもここで処刑されている。彼ら王族や王党派の貴族のみならず、革命を起こした側のダントン、ロベスピエールといった人間なども大勢ギロチン送りとなった。ルイ16世の処刑に賛成票を投じた叔父・オルレアン公もその一人であった。
 1343名もが処刑されたと言われているが、その中には無実の罪の者も多く、またマリー・アントワネットに同情的だったという理由でギロチンに掛けられた人々もいた。
 1795年まで処刑が続いたのち、「和合」「融合」を意味するコンコルドという名になった。
 1830年、エジプト総督ムハンマド・アリが、復古王政のシャルル10世(ルイ16世、18世の弟。マリー・アントワネットの王女マリー・テレーズの義父)にオベリスクを贈ることを決定した。
 オベリスクはルクソール神殿にある一対のうちの1本で、残りの1本は今も神殿に立っている。
 高さは23m、造ったのは紀元前13世紀のラムセス2世(新王国第19王朝)である。
 そして1836年、ついにオベリスクがコンコルド広場の真ん中に建てられた。その時すでにシャルル10世は退位しており、ブルボン王朝は名実ともに滅びていた。次に王座に登ったのはルイ・フィリップで、彼の臨席のもとにオベリスクが建てられた。
 ルイ・フィリップはオルレアン公の息子で、銀行家をはじめとする実力者から擁されて国王となった。7月王政と呼ばれる。彼は内閣制度を導入して立憲王政をうちたて、経済の奨励を行なって一定の成功は収めた。だが、選挙権を一部の富裕階級にしか与えなかったことなどから国民の不満は募り、1848年2月革命によってイギリスに追放された。ここにオルレアン朝は彼一代で滅び、再び共和制が開かれることとなる。
 柱の各側面の一番上にはラムセス2世が最高神アメン・ラーに捧げものをする様子が描かれ、その下には縦3列のヒエログリフの碑文が刻まれている。そこには、ラムセス2世の肩書きと、彼がいかに勇猛かつ信仰深かったかが語られているということである。
 柱のてっぺんには、1998年に付けられた金のキャップが輝いている。ピラミディオン(ピラミッド型のキャップ)というのだそうだ。もともとオベリスクに被せられていたものが紀元前6世紀にアッシリア人の侵入者によって盗まれ、フランスのシラク大統領の時代になって再び被せられたのである。
 コンコルド広場の見物はオベリスクだけでない。ローマのトレビの泉を模したと言われる噴水も見事なものだった。右の画像の、女性が抱えている魚(?)に注目。なんと、赤いペンでサインがしてあるのだ。よく見ると、アラビア文字のように見えた。落書きはいかんよ、落書きは。
  エッフェル塔 (2日目の見学の様子はこちら
 この後、カールージュと呼ばれる二階建て赤バスに乗り、エッフェル塔へ。
 2日目の観光のページでも書いたが、1889年第4回パリ万博の際に建てられた鉄塔である。
 高さは324m。パリで一番高い建物というだけでなく、東京タワーができるまでは世界一の塔だった。
 その精密な鉄骨の組み合わせ具合はさすがにフランスである。とにかく遠くから見ても、下から見上げても美しい。
 今では「パリの貴婦人」と称されているエッフェル塔であるが、建設中は大変不評だったそうだ。パリの景観を壊す醜悪なものだとされたり、「頭の上に落ちてくるのではないか、恐いから建てるのをやめて欲しい」などという市民の声もあったとか。当時は300mもの塔を建てる技術が本当にあるとは思ってなくて、物議を醸したのである。それが、今ではパリのシンボルに・・・パリっ子も見慣れたのかもしれない。

 エレベータで展望台に登ることができるのだが、その行列が凄まじい長さで、やむなく断念した。パリでは高い所に一度も登ることがなかったので、これは後々まで悔やまれた。もしかしたら「カルト・ミュゼ・モニュマン」を持っていれば、列の先頭に行けたかな? 残念ながら、このカードの期限は切れていたので、本当に並ばずに登れるかどうかは未確認だ。
 塔の足元では自動小銃を手にした屈強な軍人が見回りをしており、フランス政府がテロに神経を尖らせている様子が伺い知れた。
 ちなみに第一次世界大戦中には、この塔にフランス軍の無線傍受機があったそうだ。それにより、ヨーロッパ各地で交信されるドイツ側の暗号通信文を秘かに傍受していたという。
 そして、通信文を解読することにより逮捕されたスパイが、ダンサーのマタ・ハリだったというのである。多くの軍人たちと付き合いがあったことで、不運にもスケープゴートにされたという説もある。ともあれ、マタ・ハリことマルゲレーテ・ゲルトルード・ツェレは、スパイ容疑で処刑された。1917年のことであった。
  マドレーヌ寺院
 52本のコリント式の円柱に支えられた、高さ20mの巨大なキリスト教寺院。
 用途が決まらないまま1764年着工、様々なプランを経て、1842年、最終的にキリスト教の寺院として完成した。
 ファサードを飾る切妻壁には、最後の審判を主題としたルメールの彫刻が施されている。
 なんかドス黒く汚れているようで、もっと磨けば白く綺麗になるのではないかしら・・・と思ってしまった。
 でっかい割には魅力を感じず、ただ前を素通りしただけで終わった。
 わたしたちが泊ったホテルからは徒歩数分の位置。
 ルイ16世が処刑されたあとのミサをここで執り行う予定だったが、民衆が暴徒化するなどしたため、そのままマドレーヌ墓地に放り込まれたという。これは後から知った話だ。
  おやつと夕食
 ホテルに戻る途中、ふらっとデパートの「ギャラリー・ラファイエット」に入ったら、見つけたお菓子のショップ。
 思わず衝動買いしてしまったお菓子の美味しかったこと。これはカスタード・クリームとラズベリーをパイ生地で挟んだもの(食べかけでごめんなさい)。
 下は、ラズベリーとカスタードのタルト。
 どちらも美味しくて、ペロリと平らげてしまった。
 売り子のお姉さんがとっても綺麗で親切で、わたしのワケわかんないフランス語と英語のちゃんぽんをよく聞いてくれた。
 フランスの女性って優しいから好きだ。
 夕食は、ホテル近くのパブのようなレストランのような「サン・ラザール」という店へ。この明るさで、驚きの夜9時45分である。
 実は昨夜、ガイドブックに載っているエスカルゴが食べたいというので、オペラ通り近くの「スーリ・ヴェルト」という店に行ったのだった。しかし、注文を取りに来るのも料理が運ばれてくるのもあまりに遅く、またホテルから遠くて、ほとほと疲れてしまった。
 だが、息子は「またあの店でエスカルゴ食べたい」と駄々をこねる。
 えー、もうあの店はいいよ、どこかホテル近くで探そう、と言い聞かせ、サン・ラザール駅の近くをぶらついてみた。
 「こんな店にエスカルゴなんてないよなあ・・・」と思いつつ入り口のメニューを見たら、あった。「ESCARGOS」の文字が。やったやった、ここにしよう! とあっさり決定。
 中に入ると、従業員はちゃんとスーツに蝶ネクタイ姿。わたしは支配人らしき年配の男性に「ヌ・ソム・デュ(二人です)」とフランス語で告げた。
 せっかく頑張ってフランス語で言ったのに、いともあっさり「No smoking?」と英語で返されてしまった。結局わたしも「Yes,No smoking,Please」と即答していた。
 もっともフランス語でなにか言われてもどうせわからないんだけどね。(こらこら〜)
 案内されたのは、電車の車両をそのまま持ってきたような席。10年くらい昔の練馬にも、添付に車両を持ちこんで改造したようなスパゲティ屋さんがあったけど、あんな感じ。それより高級感はあるが、圧迫感もあって、狭苦しい印象だ。
 外は普通のレストランの造り。わたしに言わせれば、喫煙者を電車に押しこめればいいのに、なんで? という感じである。
 これが、そのエスカルゴ、16ユーロ。昨夜食べたものより身が大きいという印象。味は一緒だった。
 息子はオレンジジュースを、わたしは白ワインのグラスを注文した。 
 エスカルゴにはパンが付いてきたが、バターが出てこない。だいたい、ホテルの朝食以外ではバターは出ないことが多い。どうやら頼まないと出さないようなのだ。
 息子は、よほどバターを付けて食べたかったのだろう。もらおうか、という短い相談ののち、発憤して「ムッシュー」とウェイターさんを呼び止め、「指さし会話帳〜フランス語」を見ながらたどたどしく「ブール、シルブ・プレ」(バターください)と頼んだ。
 愛想のよいハンサムなウェイターさん、「ウィ」とうなずき、すぐにバターを持ってきてくれた。
 おお、これは奇跡の出来事だ。いや、通じたことではない。通じるのは当たり前だ。「指さし会話帳」にはカタカナで「バター」と書かれたその下に、ちゃんとフランス語で「Beurre」と書いてあるから。
 それを見れば、どんなフランス人だってバターを持ってきてくれるに違いない。
 だが、わたしは、恥ずかしがり屋の息子が自らフランス語で頼み事をしたということに、いたく感激していた。これは本当に奇跡的なことだった。
 息子はおそらく、母親がへったっぴいながらもフランス語を使ってコミュニケーションをとろうとしているのを見て、触発されたのに違いない。
 そもそも「ムシュウ」なんて言って人を呼び止めること自体、恥ずかしがってやりそうにない息子だ。彼がフランス人と話をしたのはこれが後にも先にも初めての出来事だったが、わたしにとってはジャンヌ・ダルクの活躍以上に、息子が(珍しく)頑張った奇跡の出来事だった。
 ちなみに、昨夜食べたエスカルゴの画像はこちら。エスカルゴが小さくて、汁に埋もれちゃってる。
 デザートに注文した「クレーム・ブリュレ」。フランス料理では定番の焼いて焦げ目を入れたカスタードプリンだ。わたしはこれが大好きなので、フレンチを食べに行くとき、よく頼んだものだ。
 が、出てきたこれは、凍っていた。まるでプリンアイスである。間違って、解凍せずに持ってきてしまったのかな? と思い、溶けるのを待って食べた。
 あとでレシートを見ると、「Glace Creme Brulee」とあった。「Glace」は「氷」だ。つまり、初めから凍ったクレーム・ブリュレだったのである。きっとメニューにもそう書いてあったに違いない。うう、これは気づかなかった。できれば、その場でカリッと焼いたクレーム・ブリュレが食べたかった。
 ホテルの正面にある、「KYOTO 京都」というお店。話のネタに、入ってみればよかったかな。 看板には、「ヤキトリ、スシ、サシミ」と書いてある。どんな味なんだろう。気にはなったが、もう時間も遅いので入らなかった。
 それにしても、「ヤキトリ、スシ、サシミ」のどこらあたりが京都なんだろう。


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