ルイ16世とマリー・アントワネットの子どもたちについて
 
 ルイ16世がオーストリア皇女マリー・アントワネットと結婚したのは、1770年。だが、結婚後11年間、二人の間に子は出来なかったという。
 原因はルイ16世が包茎だったせいで、当時でも外科手術によって治るものだったにもかかわらず、手術を恐れたルイはこれを避けていた。気恥ずかしさからか、狩猟や錠前づくりなどにかまけて妻を放任した。
 
 暗愚のように伝えられるルイ16世だが、当時の精密機械である錠前に精緻していたばかりか、天文学などの学問にも秀でていたという。ただ、政治的な決断能力に欠けていたのが悲劇であった。
  
 夫に相手にされないアントワネットは遊びまくり、衣装や賭博などで桁外れな浪費をしたり、お気に入りの廷臣ばかりを寵愛して、体制崩壊に至る火種をまいた。
 見かねたアントワネットの兄がわざわざオーストリアから訪問し、ルイに手術を受けるよう説得する。ここに至ってようやく正常な夫婦となった二人の間には、4人の子どもが生まれた。
  
 第1子は王妃の左側に立つマリー・テレーズ王女。残念ながら王子ではなかったが、やっと子どもが生まれたということで、落ちかけていた王妃の人気も少し復活したそうだ。
 第2子が、右側に立つ王太子ルイ・ジョゼフ。だが、1789年、まさに革命が勃発したその年に早世している。脊椎カリエスを併発した肺結核だったという。
 アントワネットが抱いているのが、第2王子ルイ・シャルル。夭折した兄に代わって王太子となるが、両親とともにタンプルの牢獄に幽閉される。父ルイ16世の処刑に伴いルイ17世となるが、間もなく母からも引き離され、1795年、劣悪な環境に置かれたまま病死した。
 このルイ17世、実はタンプル塔から救い出されて生き延びたという説が当時からあり、「わたしがルイ17世だ」と名乗り出てくる輩がたくさんいた。姉のマリー・テレーズ(肖像画左)は対応に苦慮したが、その誰にも会おうとはしなかったという。
 2000年になってDNA鑑定の結果が公表され、タンプル塔で死んだ少年はマリー・アントワネットの子に間違いないと結論づけられた。
 長年の論争に決着がついたのは喜ばしいことだが、ルイ17世にはどこかで生きていて欲しいと思っていた者にしてみれば、救いのない結果だった。やっぱり、「○○は生き延びていた」伝説は源義経も含めて、真実ではないことが多いのだろうか。
  
 また、ルイ・ジョゼフが指差している揺りかごの中は空っぽなのだが、これはこの年に亡くなった第4子の第2王女ソフィーを暗示していると言われている。
  
 そして、ただ一人、革命の嵐の中で生き延びたマリー・テレーズ王女。彼女はフランス人捕虜と引き替えにオーストリアに引き取られ、やがて従弟のアングレーム公と結婚した。
 1814年、ナポレオン没落後の王政復古により、夫ともにフランスに帰国。だが、革命によって両親、弟、叔母を失い辛酸を舐め尽くしたマリー・テレーズは、とっつきにくく冷たい女性になっていたという。超過激王党派であった彼女は、父ルイ16世の死刑に票を投じた人々を次々と国外追放していった。
 夫の父アルトワ伯(ルイ16世の弟)がシャルル10世として王位に就いたため、マリー・テレーズは王太
子妃となる。その行動はさらに強硬なものになっていったが、1830年の七月革命により地位を失い、再び海外亡命。
 1851年、オーストリアの地において72歳で死去した。
 マリー・テレーズについては、藤本ひとみ著「マリー・アントワネットの遺言」という本で興味深く描かれている。フィクションを交えながら、マリー・テレーズの人物像が巧みに描かれている。


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