5日目 ヴェルサイユ宮殿1日観光〜宮殿編
 さてさてお待ちかね、今日はヴェルサイユ宮殿とグラン・トリアノン、プチ・トリアノンを見学する1日コースである。
 どうしてお待ちかねかというと、わたしはコレが目的でフランスに来たからである。
 なにを隠そう、わたしは「ベルサイユのばら」の大ファンである。原作を読んだのは小学校低学年の頃。以来、多感な時期をこのマンガとともに成長し、フランスの歴史にはまり、ついでに宝塚にもはまってしまった。そして、いつかヴェルサイユ宮殿に行きたいと願い続けながら遥かな年月が過ぎ、ようやくこの日ヴェルサイユの地を踏むことができた。
 1979年、文化遺産としてユネスコ世界遺産に登録されたヴェルサイユ宮殿は、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名。ブルボン朝の王宮であったヴェルサイユ宮殿と、離宮の大トリアノン、小トリアノン、王妃の村里などで構成されている。
 ↑1目盛200mの縮小です。
 今回のツアーも、例によってJTBマイバス社を利用。今日もせっせとホテルから歩いてマイバス社近くから観光バスに乗った。
 昨日のモン・サン・ミッシェルとは違い、ヴェルサイユはパリから南西に20キロほどの距離。30分程度で到着し、いよいよヴェルサイユの地に入ると、建っている民家までどこかオシャレ。こんな所に住みたいなあなんて思いながら、心が沸き立っていく。
 バスは最終直線コースに入り、突きあたりに宮殿らしきものが見えてくる。ああ、もうわくわく、どきどき。
 当時の貴族たちも、馬車でこの通りを通りながら同じ気持ちになったのに違いない。在りし日の貴婦人たちに思いを馳せ、わたしの気分はもうすっかり伯爵夫人。(←おバカ;)
 正面門に到着。思ったより細くてあっさりとした門だったので、少し意外だった。もっと厳重かつ荘厳な門かなと思っていたのだが、それでも人がくぐるアーチは王家の紋章をかたどった華麗なものだった。 
 ここでヴェルサイユ宮殿について解説しておこう。もともと小さな村だったこの地に最初の城が建てられたのは1631年。ルイ13世が狩猟のための館を築き、その子ルイも幼少の頃からときどきヴェルサイユを訪れていた。 
 1643年、父の死に伴い、ルイは5歳で即位し、ルイ14世となる。最初は宰相マザランと母后アンヌ・ドートリッシュ(スペイン王の娘)が政治をみたが、やがて権力を手中にしていったルイはわがままで陰険な王になっていく。
 1661年8月、財務長官フーケが自分の城・ヴォー・ル・ヴィコントを完成させる。お披露目の大宴会が開かれルイもその招待を受けるが、城のあまりの豪華さ、洗練された美しさに気分を害する。
 ルイは「フーケがこんな城を建てられたのは、公金を横領して私腹を肥やしたからに違いない」と疑い、夕食の席で逮捕させようとする。が、母に止められ、かろうじて思いとどまった。2泊3日のお泊まりという予定だったが、その夜のうちに自分の城にたち帰ったルイは、すぐさまフーケ逮捕の命を飛ばす。
 当時は公金を自分の自由に使っても罪にはならなかったというから、フーケにしてみれば寝耳に水だろう。ルイの方も、公金横領を疑ったというより、嫉妬心から逮捕させたという方が真実に近いかもしれない。よく「女は嫉妬深い」と言われるが、男の嫉妬もけっこう恐いものだ。
 ともあれフーケは逮捕され、裁判にかけられる。最高裁の出した裁きは「国外追放」。だが、ルイはそれでは収まらず、強引に終身刑に変更させる。フランスの歴史上、罪を重く変更させた唯一の例だという。
 フーケは投獄され、19年の歳月を牢獄で過ごした末に獄死した。彼の城はデュマ作「鉄仮面」の舞台となり、三銃士の活躍の場として描かれた。またレオナルド・ディカプリオ主演の「仮面の男」やヒラリー・スワンク主演の「マリー・アントワネットの首飾り」は舞台こそヴェルサイユ宮殿だが、実際に撮影されたのはフーケのヴィコント城だそうだ。
 で、憎っくきフーケを失脚させたルイは、ヴィコント城を建設したスタッフ、すなわち建築はル・ヴォー、内装と絵画はル・ブラン、庭園はル・ノートルなどを集め、それをしのぐ宮殿の建設に着手した。(なんて陰険。なんて嫌なやつ。最悪の上司だ)
 もともとルーブル宮が嫌いだったためヴェルサイユの館を増築させ、膨大な費用と50年という歳月を注ぎ込み、ヴィコント城をはるかに凌ぐ壮大な宮殿を造営した。
 普通ならその間に王が死去しそうなものだが、ちゃんと生きて完成を見たというから凄い。在位72年は最も長く在位した王として、ギネスブックにも載っているそうだ。
 1682年、王宮はヴェルサイユ宮殿に移され、連日狩猟や華麗な宴が催されるようになった。ルーブル宮殿はカペー王朝が建て、ヴァロワ王朝の手を経た宮殿であるのに対し、ヴェルサイユ宮殿はブルボン王朝自らが建てた宮殿だ。ルイ14世は30年間この宮殿を離れず、起床の儀から就寝の儀まで生活習慣を儀式化し、77歳でこの世を去った。
 広場の中央に立っている騎馬像が、そのルイ14世。太陽王と称され、「朕は国家なり」という宣言をしたことでも知られている。
 とても精力的な王で、宮殿を造るかたわらせっせと戦争もし、プロテスタントの弾圧や領土の拡大を図った。戦費調達のための新税や放漫経営が国家財政を苦しめるようになり、のちのフランス革命の遠因を作った。また、20万人に及ぶ新教徒の亡命により、結果的にフランスの弱体化も招いている。
 1789年7月のフランス革命勃発より3ヶ月後の早朝、怒り狂った市民が宮殿の敷地内に殺到し宮殿内にもなだれ込んだ。王妃は自分の寝室から王の寝室に逃れ、かろうじて虐殺を免れる。
 王妃は居殿のバルコニーに現れ(ここのバルコニーではない)、広場に集まった群衆に対して一礼した。「王妃万歳」の声が起こるも、国王夫妻はパリに連れ戻され、二度とヴェルサイユに戻ることはできなかった。
 国王夫妻と2人の子どもたち、そして王妹エリザベートはチュイルリー宮殿で監視下に置かれ、やがて国外逃亡を図るが捕らえられ、タンプル塔に幽閉される。
 1793年1月に国王ルイ16世が処刑され、王妃はコンシェルジュリに投獄される。そして1793年10月16日、王妃もギロチンによって処刑される。37歳であった。
 この建物の前は「大理石の内庭」と呼ばれている。このまわりの建物には、ルイ13世が建てた狩猟の館の面影が残っているという。またこの建物の時計は、王が亡くなった時刻を示したまま止めるという風習があったそうだ。この宮殿で亡くなった王は、ルイ14世とその曾孫ルイ15世の二人だけ。まさに死去したその時刻、針は止められたそうだ。
 団体専用の入り口から、宮殿内部へと足を踏み入れる。白亜の大理石の階段を、ガイドさんに続いて登っていく。
 通称「使節の階段」と呼ばれ、造られたのは現代だが、設計・デザインは当時のもの。「王の居殿」の「王妃の階段」と対比をなしている。
 ところで、以後紹介していく各部屋であるが、高価な織物を保護するため太陽光を入れないようカーテンを閉めたり、極力照明を抑えた状態での公開となっている。そのため、非常に薄暗い。フラッシュ撮影は禁止なので、写りが今ひとつなのはそのためである。
 しかし、そのわりにフランス人観光客などは遠慮なくばしばしフラッシュをたいていて、わたしたちのガイドさんがフランス語で注意していた。ルーブルでも堂々とフラッシュをたく人が多かった。カメラをフラッシュ禁止にする方法がわからないのだろうか、その手のことに無関心なフランス人が目立ったのは不思議だった。
 ルイ14世が最後に建設した、王室の礼拝堂。入り口で観覧のみ許され、中に入ることはできない。
 1770年5月、この礼拝堂においてルイ16世と14歳のマリー・アントワネットとの結婚式が執り行われた。
 アントワネットはオーストリア女帝マリア・テレジアの9番目の子で、オーストリアとフランスの同盟関係を深めるための結婚であった。12歳からフランス王太子妃としての教育を受け始めるが、勉強嫌いの読書嫌い、そして移り気で享楽的な性格だったという。それでいて非常に愛らしく魅力的な少女だったそうで、「人を指に巻く少女」と称されたともいう。
 この礼拝堂は2層構造になっていて、階上席が国王や王族、宮廷要人の席であった。
 「ヘラクレスの間」。1664年にヴェネチア共和国からルイ14世に贈られたヴェロネーゼ作「パリサイ人シモン家の宴」を飾るため、第4礼拝堂があった場所に作られた広間。
 「ヘラクレスの神格化」という天井画のある部屋のため、ヘラクレスの名が付いている。
 きらびやかな暖炉の装飾が美しい。
 フランス革命の勃発で宮殿の主が去った後、絵画や調度品、家具などのほとんどが持ち去られてしまった。現在宮殿内に飾られているそれらの多くは、のちのナポレオン帝政時代や王政復古時代のものだったり、近年になって復元されたものだ。絵画などは後年買い戻し、元あった場所とは違う部屋に置かれている場合が多い。
 次の「豊穣の間」。麦の穂など、実りを象徴する飾りで装飾されているため、そう名付けられている。
 同じく「豊穣の間」。ルイ14世がお年を召されてからの肖像画。
 「ヴィーナスの間」。ローマ皇帝姿の、かなり美化された感のあるルイ14世像が飾られている。
 正殿の夜会で軽食を取る場所として使われたという。
 「ディアナの間」。ルイ14世がこの部屋にビリヤード台を置かせ、玉突きをしたという。
 絵はブランシャール作「エンデュミオーンの眠りを見守るディアナ」。
 これもかなり脚色されたルイ14世の胸像が置かれている。ル・ベルナン作。
 「マルスの間」。1682年まで衛兵の控え室だったことからこの名前がある。そのため軍事的な装飾が多い。壁の色が赤いのも、マルス(火星)の赤から来ているのだろうか。壁やカーテンの赤と、金の装飾との対比がとても美しい部屋だ。
 ルイ15世の肖像画。ガイドさんにお聞きしたところ、宮殿内に飾られてある肖像画のほとんどは本物だという。
 ルイ15世はブルボン朝第4代フランス王で、1710年生まれ。在位は1715年から1774年。ルイ14世の曾孫にあたる。対外政策をそのまま継承し、外国との戦争に参加し財政の逼迫を招いた。やがて政治への関心を失い、寵臣や愛人ポンパドゥール夫人に国政を委ねた。ポンパドゥール夫人の死後はデュバリー夫人を寵愛した。
 ルイ15世は、「ベルサイユのばら」では王太子妃アントワネットには優しい、気のいいおっさんという感じに描かれているが、若いときは肖像画の通り大変なハンサムだったらしい。1774年、天然痘に倒れ、死去。孫にあたる王太子が王位を継ぎ、ルイ16世となった。
 「メルクリウスの間」と呼ばれる王の寝室。当時の習慣として、王が死去すると、その亡骸は数日間、ベッドに置かれたままとなったという。しかし、ルイ15世は天然痘で亡くなったため、早々に埋葬されたという。このベッドは王政復古時代のものだそうだ。
 1706年、時計職人のアントワーヌ・モランがルイ14世に献上したからくり仕掛けの振り子時計。
 1時間ごとにルイ14世の像と、ファーマ(噂の女神)が現れる仕組みになっている。
 玉座のある「アポロンの間」。接見にも使われた。
 ルイ14世の肖像画はフランス革命が始まるまでここに飾られていた。この絵の反対側に当時の統治者の肖像画が飾られ、現在ではルイ16世の肖像画が飾られている。
左は、リゴー作「ルイ14世の肖像画」、下はカレ作「ルイ16世の肖像画」。

 もっとも絢爛豪華な「戦争の間」。オランダ戦争でのルイ14世の勝利と終戦時(1678年)の「ナイメーヘンの和約」をテーマとしている。
 ル・ブランがデザインした暖炉はアントワーヌ・コワズヴォックスの浅浮き彫りで飾られている。
 大きなメダイヨンにはローマ皇帝の服装をしたルイ14世が描かれている。1672年にライン川を渡っているときの姿だそうだ。
 巻き毛のロン毛&騎馬姿が、なんだか「ベルサイユのばら」のオスカルを彷彿とさせる。池田理代子は、これを見てオスカルのキャラクターを思いついたらしい・・・という憶測はマニアの間ではあまりにも有名だ。
 さて、次はいよいよ「鏡の間」に入っていく。ここは現在修復工事中で、2006年の6月に完成予定だという。「鏡の間」の左右にはこうして防音用の壁で覆われ、中では工事が行われているらしい。
 工事中であることを知った上で今回の旅行を決めたのでショックはないが、残念は残念である。ぜひとも工事が終了した頃に再訪して、完全な「鏡の間」を歩いてみたいものである。
 とはいえ、工事箇所は半分だけで、ちゃんと残り半分はこうして美しい「鏡の間」を見ることができる。
 正式な名前は「鏡の回廊」と言い、宮殿造営当初からあったわけではない。完成したのは1686年。かつては王の正殿に通じており、毎朝、礼拝堂に赴く国王を一目見ようと、貴族たちが集まった。また、王家の結婚式の際に催される正装舞踏会や仮面舞踏会などが開かれた。シャンデリアは全部で24本あり、取り外し可能。かつては祝祭の夕べだけに吊り下げられたそうだ。
 天井画はルイ14世の戦争と治世の歴史をテーマに描かれている。
 大燭台はルイ16世の王太子時代の成婚のときに新調されたが、現在あるものは「アポロンの間」にあるものをモデルに復元されたものである。
 ここから眺める庭園はまた見事。先にも書いたとおり、財務長官フーケがル・ノートルに造らせた庭園と、実によく似通っている。その特徴は、開放感と広がりである。手前の人工物から平野をゆっくり進み、最後は地平線に辿り着く壮大な眺めは計算され尽くした軸線を描いている。
 次の「平和の間」は、「戦争の間」や「鏡の回廊」のテーマになっている戦争の後に訪れる平和とフランスの正当性を表現している。
 暖炉の上には1729年に描かれた「ヨーロッパに平和をもたらすルイ15世」が飾られている。
 王妃の居殿の一部として使われ、ルイ15世の王妃マリー・レクザンスカが音楽の演奏会を催したりした。
下左、ルモワンヌ作「ヨーロッパに平和をもたらすルイ15世」と下右、王家の紋章入り暖炉。
 次に、「王妃の寝室」。実はこれが一番見たかったのだが、暗すぎまっせ〜(^^;。
 わたしのデジカメは暗い場所でも結構明るく撮れるのだが、ここはさすがに暗すぎ。カタログではあんなに明るく、細部まで鮮やかに映っているのに・・・(涙)。
 カーテンやベッドの緞帳?の刺繍などは後に復元したもので、金糸を縫い込んでいるため非常に高価なのだそうだ。そのため、光線による劣化を防ぐため、カーテンを閉め切って薄暗くしているのである。
 クリーム色を基調とした布地に淡いピンクや白、ブルーの小花やクジャクの羽などが描かれ、とても繊細で美しい色調なのだが、これではどーにも・・・。しょうがないので、フォトショップで明るく調整してあります。
 ・・・さて、気を取り直して解説を。
 王妃はこの部屋で、見物客に見守られながら出産した。赤ん坊のすり替えなどが行われないようにという、当時の習慣によるものである。
 中世ヨーロッパでは国家間の政略結婚の場合、ちゃんと婚姻が成立したことを確認するため、花婿と花嫁のお床入りを見学する習慣があったという。結婚と出産は国家間の重大事だったので、恥ずかしいとか嫌らしいなどという感覚はなかったかもしれない。
 マリー・アントワネットの出産時も例外ではなかった。多くの人々が寝室に入って騒がしくなり、王妃の侍従カンパン夫人は王妃が死ぬのではないかと心配したほどだったという。
 ガイドさんの説明によると、実際の出産は中央のベッドの上でではなく、そばに置かれた低いベッドで行われたという。
 装飾がかなり少女趣味なのは、アントワネットお輿入れの際、当時15歳の花嫁の趣味に合わせて全面模様替えしたからだそうだ。
 こんな部屋で毎日寝ていたら、いい加減飽きてこないかな。ちょっと壁紙がうるさいかも。

マントルピースの上に置かれたマリー・アントワネットの胸像。
 続いて「貴人の間」。ここではフランス王妃による公式な接見や、新たに宮廷に迎えられた貴婦人たちの紹介が行われた。
 調度品はマリー・アントワネットのために1785年に作られたものだという。アントワネットの他、ルイ15世の王女など、貴婦人の肖像画が飾られている。
 これは次の「大会食の間」に飾られている、ヴィジェ・ルブラン夫人による1787年の作品。あまりにも有名なマリー・アントワネットと3人の子どもたちの絵である。
 向かって右側にいるのは王太子ルイ・ジョゼフ、アントワネットが抱いているのは第2王子ルイ・シャルル、左側の王女はマリー・テレーズだ。
 ルイ・ジョゼフが指差している空っぽの揺りかごは、前年生まれ、この年に亡くなったソフィー王女を暗示していると言われている。
 この絵は、次第にフランス国民に不人気となっていったアントワネットが家庭的な女性であることを宣伝する意図で描かれたものだそうだ。
 ちなみに「大会食の間」という名前は、皆の前で王が食事をとる儀式に由来している。当時は服装さえちゃんとしていれば誰でも宮殿に入ることができ、王の食事風景を見物できたそうだ。そのため、ヴェルサイユ宮殿前では貸衣装屋が商売していたという。
 この部屋では1764年1月、ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカが幼少のモーツァルトと食事を共にしている。
 ◇マリー・アントワネットの子どもたちについての詳細はこちら

 次は「王妃の衛兵の間」。1789年10月の朝、宮殿に侵入してきた群衆から王妃を逃がすため、多くの衛兵がこの部屋で戦い、命を失ったという。
 その次が有名な「ナポレオン1世の戴冠」の絵が飾られている「戴冠の間」だ。この絵はルーブル美術館のものとほぼ同一のもので、同じダヴィッドによる作品である。
 ナポレオンが教皇の手によらず自分で王冠を取り上げて被ってしまったことに非難が起きたため、ダヴィッドは皇妃ジョゼフィーヌに被せようとしているシーンとして描いたという。
 この部屋の現在の様相はルイ・フィリップ時代のもの。ルイ・フィリップはルイ16世の従兄弟・オルレアン公の息子である。ナポレオンが失脚し、7月革命でブルボン朝も倒れた1830年、オルレアン朝の国王となった。これは「7月王政」と呼ばれ、在位は1830年から1848年である。 
 この部屋に「ナポレオン1世の戴冠」を置いたのはルイ・フィリップで、このことからここが「戴冠の間」と呼ばれるようになった。結局、国民に2月革命を起こされたため、ルイ・フィリップはイギリスに亡命。オルレアン朝もただ一人の王で終わった。
 さて、宮殿内の見学はここで終わり。実はまだ王、王太子、王妃、王女などの寝室を含む居殿やオペラ劇場などもあったのだが、団体客はこれらの見学はせず(できない?)、このまま土産物屋の部屋(左の画像)を通り抜け、庭園の見学へと移った。
 非常に残念だったが、ツアーなので仕方がない。次に来られる機会があったら、ぜひこれらの居殿(アパルトマンと呼ばれる)も見学したいものである。
 全体としては、部屋が思ったより狭いかな? という感想。「イタリアのヴェルサイユ宮殿」と称されるガゼルタ宮殿の方が、もうちょっと広々していた感じがする。
 特に「王妃の寝室」などは押し合いへし合いの大混雑。わたしたち庶民の寝室などより遥かに大きいには違いないのだが、見学客の方が多いのも確か。
 わたしたちのガイドさんが他のガイドさんに「お宅の客をもっと奥に進ませて!」(と言ってるように感じた)と抗議したり、よく見えなくてちょっとストレスを感じる場面も。撮った写真は人の頭ばっかりだし。それもこれも8月のバカンスシーズンだからしょうがないのだが、宮殿全体は巨大なのに、細かく仕切られた各部屋そのものはこぢんまりとしているようだ。 
 2階の土産物コーナーでガイドブックとカレンダーを購入し、階段を降りて下へ。するとそこにも小さめの売店があった。
 これは息子が欲しがったレプリカの銃。50ユーロもするので、諦めるように説得した。
 こういうのが欲しいとは、やっぱり男の子だな〜。あとから買ってあげればよかったかなと、諦めさせたことを後悔している毎日だ。
 これはオーディオガイド受信機。個人見学のときにレンタルするオーディオガイドは携帯電話型だが、これは首から提げイヤホンでガイドさんの声を受信する。マイバス社から貸与されたもので、離れていてもガイドさんの説明を聞き漏らさないので非常にありがたい。また、宮殿の中で複数のガイドが声を張り上げるといった状況がないため、静かなのが嬉しい。
 このレシーバーはヴェルサイユ宮殿内だけでなく、グラン・トリアノン、プチ・トリアノンでも大活躍。



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