5日目 ヴェルサイユ宮殿1日観光〜プチ・トリアノン編
  プチ・トリアノン宮
プチ・トリアノンは、ルイ15世が愛妾ポンパドゥール夫人のため、1762年から1768年にかけて建てた離宮である。
 が、ここの主になるはずのポンパドゥール夫人は完成をみないまま、1764年に死去した。その5年後、公式愛妾となったデュ・バリー夫人に贈られ、夫人臨席のもと落成式が行われた。
 1774年、ルイ16世が即位すると、王妃となったマリー・アントワネットがこのプチ・トリアノンの土地を譲り受ける。アントワネットはここをたいそう気に入り、庭園をイギリス風に改造した。
 そして、ポリニャック伯爵夫妻といった、お気に入りの廷臣・側近たちしか出入りを許さず、夫である王も招待されなければ訪れることはできなかった。この館に王の寝室はなく、彼は一晩もここで過ごすことはなかったという。
 アントワネットはこのプチ・トリアノンに接した狩猟場に「王妃の村里」と呼ばれる農村風の庭園を創りあげた。農家風の建物を建て、家畜を飼い、野菜を植え、農婦ごっこや芝居に興じた。
 そのため、招かれない貴族たちは不満を募らせていった。王妃はヴェルサイユの貴族たちからの支持を失い、孤立を深めた。パリでは王妃を誹謗中傷するビラがばらまかれ、生活苦にあえぐ民衆たちは王妃を憎んだ。
 革命勃発後、あれほど寵愛を受けたポリニャック夫妻は王妃を見捨てて国外に逃亡。プチ・トリアノンで特定の人々だけ寵愛したツケは、王妃の運命に大きくのしかかった。
 主を失ったプチ・トリアノンは帝政期(1804〜1815年)にナポレオン1世の妹、ポーリーヌ・ボルゲーズと后妃マリー・ルイーズのために改装され、再び家具調度が整えられた。
 のち、7月王政下には、オルレアン公爵とルイ・フィリップの第1王子が使用した。
 1867年、ナポレオン3世の皇后ウージェニーが、プチ・トリアノンをマリー・アントワネットを偲ぶ美術館とし、アントワネットが使用した家具や食器類が展示されている。
 フランス式庭園に面したファサードは背の高いコリント様式の4本の円柱を擁しており、小さいながらも宮殿らしい風格がある。 
 プチ・トリアノン宮の中に入る。建物にある入り口ではなく、裏にあるものを使用した。
 入るとすぐ、華麗な階段がある。手すりは、錠前職人ブロショワによるものだそうだ。マリー・アントワネットのイニシャルをかたどった見事な細工が飾られている。

 階段を登り切ると、壁にギリシャ神話に出てくるメデューサの彫刻が刻まれている。
 髪がすべてヘビという魔女で、見た者はあまりの恐ろしさから石になってしまうという。
 「わたしの許可なく出入りは許さない」というマリー・アントワネットの意思表示なのだろうか。
 2階に昇ると、最初に「控えの間」を見学。
 この部屋に飾られているマリー・アントワネットの肖像画は、もっともお気に入りだった女流画家ヴィジェ・ブランによる作品で、1783年に描かれた。薔薇の花を持つこの絵は、アントワネットの肖像画としておそらくもっとも有名なものであろう。
(←クリックすると、アップになります)
 オーストリア皇帝でアントワネットの兄・ジョゼフ2世の代理石像。
 この間に設置するために1777年、ボワゾに制作させたものである。同様に制作されたルイ16世の代理石像も置かれている。

 青磁製の暖炉上にはアントワネットのセーブル焼きの胸像が置かれている。
 
 1784年以降はビリヤード室として使用された。中に立ち入っての見学はできない。
 椅子や長椅子、箪笥などは実際にアントワネットが使用したものだそうだ。
 テーブルの上には、彫り込み木細工の足が付いたダチョウの卵が置かれていた。1780年頃のものだという。
 
 大理石の暖炉上にある時計は、革命が勃発する前年の1788年に作られたもの。
 ルイ15世の肖像画とともに飾られているのが、ポンパドゥール夫人を描いた「美しい庭師」。1760年のヴァン・ローによる作品である。
 アントワネットの内殿。
 1776年にメルクランによって取りつけられた移動鏡がある。(右端の鏡)
 下からせり上がってきて窓を隠すことのできるもので、窓が開いているときは庭がよく見渡せる。いわゆる目隠しだったらしく、恋人との逢い引きの際に中が見えないよう使われたらしい。(おいおい)
 1774年まではデュ・バリー夫人が使用していた。ルイ15世が崩御すると、夫人はヴェルサイユを追放され、革命勃発後は国外に亡命した。フランス革命のさなか、家財を守るために帰国してパリに潜伏していたところを逮捕され、1793年12月、ギロチンに掛けられ刑死した。
 一方、マリー・アントワネットは1777年から1789年までこの寝室を使用した。
王太子妃時代のアントワネットはデュ・バリー夫人を憎んで激しく対立し、「ベルサイユのばら」では夫人を憎々しい悪女として描いていた。
だが、実際のデュ・バリー夫人は庶民の出らしく親しみやすい明るく気だてのいい女性で、貴族たちにも好かれていたという。実際、亡命先のイギリスで、亡命貴族たちの援助をしていたそうだ。
 アントワネットがそのデュ・バリー夫人とまさに同じ年の1793年10月、同じギロチンで処刑されたのは歴史の皮肉というものだろうか。
 寝室の撮影に忙しくて説明をちゃんと聞いてなくて、はっきりとはわからないのだが、これはどうもアントワネットが使用していたトイレらしい。
 で、これは息子による未確認情報だが、「所さんのトホホ人物伝」というテレ朝の番組で「最初に水洗トイレを発明したのはマリー・アントワネットだ」という話を紹介していたのだそうだ。
 息子の言うことだから思い切り信憑性はないし、そもそもこの建物の一室に水洗設備があったとは非常に疑わしい。
 だが、当時めったにお風呂に入らなかったフランスにおいて、部屋にバスタブを持ち込み、毎朝入浴したのは他ならぬアントワネットであった。
 当時のフランス人はお風呂に入らないから髪はシラミだらけ、体はノミだらけで悪臭がひどかった。おまけにヴェルサイユ宮殿にトイレは少なく、貴族たちはオマル持参で宮殿に伺候した。中身は庭などにぶちまけられたため、宮殿全体が悪臭に包まれていた。
 そういった諸々の悪臭をごまかすためにフランス香水が発達したのは有名な話だが、当時は強い動物性の香り(ジャコウとか)が主流だった。だが、毎朝お風呂に浸かるアントワネットはフローラルなどの爽やかな植物性の香水を愛用し、それが入浴習慣とともに貴婦人たちの間に広がっていったという。
 館を出て、今度は「王妃の村里(アモー)」に向かうこととなる。
 突きあたりに見える青い柵の部分は、王妃がプチ・トリアノンの館から劇場へと歩いていった通路だという。
 雨の日でも濡れないよう、木の枝で覆われている。
  王妃の村里 Le Hameau(ル・アモー)
 「王妃の村里」に向かって歩く。
 自然公園風の木立の向こうに、チラリと村里の一角が垣間見えている。
 なんだか手つかずの自然のままの風景のようだが、ルソーの啓蒙思想に感化され自然回帰信奉者となっていたアントワネットがあえてそうさせたものと思われる。
 1777年、ミックにより建造された「愛の殿堂」。古代風の小さな東屋である。
 アントワネットがスウェーデン貴族のハンス・アクセル・フォン・フェルセンと逢引きをした場所だとされている。
 手前に咲くのは、正真正銘「ベルサイユのばら」。
 「愛の殿堂」をクローズアップ。
 工事中だそうで、周りに土盛りされていたのが悲しい。
 イタリアやギリシャでもそうだったが、どこへ行っても工事中というのが多くてガッカリである。手際が悪いのか、作業員が働かないのか知らないけど、工期が長いのではないだろうか。
 うちの夫なんて、工期に間に合わせるために徹夜の夜間工事をすることもあるというのに、やっぱりヨーロッパ人はそこまでして働かないのかしら。観光収入が多いんだから、ちっとは観光客のことも考えんかい。>フランス人。
 とはいえ、大坂城を見学に行ったら工事中だったことがあったっけ。あまり外国のことばかり言えんなぁ。
 それにしても、本当にここで逢引きしたのだろうか。周りから丸見えなんだけど。
 ちなみに「愛の殿堂」という名称は、ここが逢引きの場所だからではなく、ギリシャ神話をモチーフとした彫像が中に収められていることから来ている。
 まるで普通の森林公園のような一角を歩いていくと、やがてパッと視界が開けた。
 目の前に「王妃の村里」がさりげなく広がっていて、あまりにのどかな風景に驚かされた。
 さながら印象派の風景画を切り取って、そこに貼りつけたかのようである。
 18世紀当時、田舎風な家屋はヨーロッパの貴族の間で流行したピトレスク(画趣に富んだ自然や事物などへの関心)趣味の庭園に欠かせない要素だったらしい。これもルソーの自然回帰思想の影響なのだろうか。
 この里村は、革命の足音がヒタヒタと近づきつつあるのにも気づかず、アントワネットが農婦の真似ごとをして(※)遊び呆けていた場所ということで引き合いに出されるし、200万リーブル(約20億円)もの膨大な費用が注ぎ込まれたということで悪評も高い。
 だが、これを作らせた美的センスだけは買いたい。とにかく美しいのである。これまで写真でのみ見てきた「王妃の村里」だが、実際ここまで美しいとは思ってもみなかった。
※農婦の真似ごとをしたというのは、後世作られた脚色だという意見もある。実際、アントワネットは土に触れることもしなかったという。
 例えすべてが人工的に建造された紛い物の風景だとしても、テーマパークなどなかった時代にこういう光景を創りだした思想やセンスなどは、高く評価していいのではないだろうか。
 ヴェルサイユ宮殿の庭園などは確かに美しいが、作りこみすぎて感動を覚えない。オベリスク模様の花壇、立派な噴水と彫像、どれも素晴らしいが、「はあ〜スゴイね」で終わってしまう。
 だが、この村里の風景には気持ちが癒やされるし、非常に心に残る。
 再びヴェルサイユ観光に訪れることがあったら、この村里にもまた足を運びたいと思う。
 モネの絵を思い起こさせる睡蓮のそばで、たくさんのカモがエサをついばむ。
 儀式と決まり事ばかりでがんじがらめのヴェルサイユ宮殿を逃れて、ここを訪れたアントワネットがこういう光景を見てホッと心を癒されたのではないかしら・・・などと想像してみる。
 子育てをするにも、ヴェルサイユ宮殿などよりこちらの方が適しているに決まっている。
 実際、アントワネットは子どもたちと池(この池かどうかは不明)で釣りを楽しんだという。
 ちなみに「ベルサイユのばら」には、トリアノンの池にカモが飛んできたというセリフがある。
 この村里には1783年から1785年にかけて、建築家ミックにより12軒の家が建てられた。
 アントワネットは、親友・ランバル公妃やシャンティイのコンデ家に習い、外観はノルマンディ風で内部が非常に洗練された家々を希望したという。
 現存するのは、「王妃の家」「水車小屋」「鳩舎」などの10軒のみ。
 これが「王妃の家」。テラスに花が置かれて、とても綺麗に飾られていた。
 外観をわざとボロく創っているが、内部は最先端の技術と最新の装飾で洗練された空間だという。団体ツアーだったためか中の見学はしなくて、とても残念。
 同じく「王妃の家」の左端部分。どうやら渡り廊下らしい。
 下の2枚は水車小屋。

 「マルボローの塔」と呼ばれ、「酪農場」から小回廊で結ばれた塔。
 現在すでに消失している外階段を使ってこの塔に登り、そこから隣接する釣り糸を垂らして釣りを楽しむことができたという。 
 この一角に来ると、野菜がやたらウジャウジャ植えられていて、いかにも農園という雰囲気だった。
 だけど、もの凄くでっかく育ちすぎていて、あんまり美味しくなさそうだ。
 スプリングクラーで水がまかれていて、通るとき水を被ってしまった。
 この風景も美しくて、とても気に入っている。ピクニックシートを敷いて、のーんびりおにぎりでも食べたら・・・いやいや、物思いにふけるのも命の洗濯になるかもしれない。
 これで晴れていたらもっと緑が映えて美しかっただろう。どんよりどよどよした空模様で、綺麗に写らなかったのが残念だ。

 この村里には酪農園まであり、牛やヤギ、ニワトリなどが飼育されていた。
 妙にグレた目つきの黒ヤギさん。
 この一帯だけ見ていると、なにやら「子ども自然公園」みたいだ。
 ふと木の陰に、チョロチョロと動く小動物発見。なーんと、野生のリスだった。ニホンリスとも台湾リスとも違って、赤毛っぽい赤褐色をしていた。
 さて、「王妃の村里」の見学が終了し、一行は宮殿の敷地を出た。ここからそう遠くない駐車場までバスが迎えに来ており、あまり歩かずに乗れてよかった。
 とにかく非常に歩くので、歩きやすい靴で来るのはもちろん、プチ・トランや馬車などを利用して疲労しないような工夫も必要である。
 とにかくヴェルサイユの敷地はむちゃくちゃ広大。庭園だけで約100万uもある。そのすべてを徒歩だけで廻るとなるとかなり疲れるし、時間もかかる。疲れのせいでこの村里まで来れないと損なので、ぜひ頑張ってここまで見学されることをお勧めする。
 絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿を見学した後にこのプチ・トリアノンと村里を訪れると、その落差にガッカリしてしまう人もいるかもしれない。
 知らない人は「なあんだ、こんなもんか」と思うだろう。あるいは「つまらない所」と思って帰る人もいるかもしれない。
 だが、マリー・アントワネットの境遇を思えば、小さなトリアノン離宮や村里を愛した心境もわからないでもない。その波乱に満ちた生涯と重ね合わせて見学すると、胸に迫るものがある。
 とかく軽佻浮薄で思慮のないマリー・アントワネット像ばかりが吹聴されており、確かに彼女は賢かったとは言い難い。むしろ、愚かである。
 アントワネットは、村里を含めたプチ・トリアノン建造に200万リーブル(約20億円)も費やしている。農民が飢餓や搾取に苦しんでいるときに、わざわざ百姓生活の真似ごとをして遊んでいたのである。あまりに世の中のことを知らなさすぎるし、民衆の心を逆なでにする遊び方は愚かとしか言いようがない。
 その愚かさが取り巻き貴族たちに利用されて政治を私し、反対勢力(おもに王の叔父オルレアン公や王弟だとされる)にあらぬ誹謗中傷をばらまかれ、民衆の憎しみを買う原因となった。
 もともと人間的な優しさは持ち合わせており、親切な女性だったというマリー・アントワネット。
 また、ヴェルサイユ宮殿のあまりに規則だらけの生活に嫌気が差したということから、自由奔放な気性の持ち主だったのだろう。
 例えば、側にいた侍女に何か用を頼むと、侍女は「わたしは○○係です。その用件は△△係にお申し付けください」と言われる。専属の係がたくさんいて、入れ替わり立ち替わり出入りする。
 ヴェルサイユ宮殿にはこうして数千人もの召使いがいたというから、王室の無駄遣いはアントワネット一人の責任ではない部分もあっただろう。
 だが、規則に従うのも王妃の務めと考えるのなら、やはりアントワネットは王妃にふさわしいだけの忍耐力や思考力を持ち合わせていなかったと言える。
 周囲の人間が正しい王妃のあり方を教育する努力を果たさなかった責任は重い。
  そして、好色だったルイ14世、15世に似ず、妻一人を守り、その妻の言いなりだったルイ16世。
 もし彼が強い指導力と影響力を持つ王であり夫だったら、きっとアントワネットもここまで贅沢な遊びに耽ることもなく、もっと民衆のことを考えてあげることができたのではないか。
 だって、ルイ16世は民衆好きで質素な人だったというし、アントワネットも根は善良な女性だというのだから。
 歴史に「もし」は御法度だというが、いろんな「もし」を考えずにはいられない。
 例えば、「もし」ルイ16世に愛妾がいたら、アントワネットはここまで憎まれなかったかもしれない。王の愛妾というものは、国民にとっては無用の長物。政治に口出しするわ贅沢三昧をするわで、いわば「悪役」と言ってよかった。
 ルイ14世治世の時代から、フランスのファーストレディはいつもポンパドゥール夫人、デュ・バリー夫人などの公式愛妾だった。
 もちろん王妃が存在した時期も当然あったのだが、地味すぎて注目を浴びなかったり、王より早く死んでしまったり。そのため愛妾たちは常に憎まれ役の筆頭だった。
 その「風よけ」代わりの愛妾がいなかったばかりに、アントワネットへの風当たりはひどく強いものになってしまったのである。
 愛人を持たず妻一筋、というのは見上げた夫だが、ルイ16世が質素な「いい人」だったばっかりに、アントワネット一人が悪目立ちしてしまった印象がある。
 マリー・アントワネットの周辺には、こんな色々な「もし」がたくさん散らばっている。もちろん、彼女自身がもっと賢明だったら、こんな悲劇に突き落とされることはなかったはずなのだ。
 だからこそ、アントワネットの足跡を辿る旅がしたくなったのかもしれない。
 このヴェルサイユを見学した後は、パリ・シテ島の牢獄コンシェルジュリを見学してみるとよい。きっと、そのあまりの落差にマリー・アントワネットを哀れに思わずにいられないはずだ。


- 3度目のパリ観光へ - フランス旅行記Topに戻る - 海外旅行記Topに戻る -




[平成11年Top] [平成12年Top] [平成13年Top] [平成14年Top] [平成15年Top] [平成16年Top] [平成17年Top]
[平成18年Top][県別キャンプ地一覧][県別温泉一覧] [トレーラーってなに?] [子どもと一日遊べる場所][掲示板][HOME]

Copyright(C) 2002〜 Clara 画像、記述内容などすべての転用を禁じます。