5日目 ヴェルサイユ宮殿1日観光〜グラン・トリアノン編 |
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グラン・トリアノンは、日本では「大トリアノン宮殿」として知られる王家の離宮である。ベルサイユ宮殿の「大運河」の横向きの腕の側にある。当時ここを利用する王一家は、大運河を船で通って訪問したという。
1668年、ルイ14世はトリアノンの村を購入し、ヴェルサイユの領地に併合した。そして村の建物を壊し、最初の建物を建てたのが1670年。さらに1687年、より広い建物に建て替えられ、マンサールが設計してイタリア風の優美な建築が完成した。
ルイ14世は王太子、その長子・ブルゴーニュ公、その妻でブルゴーニュ公妃マリー・アデライド(ルイ15世の母)、公式愛妾マントノン夫人を伴い、家族との静養のために何度もここに滞在した。
ラ・ヴァリエールやモンテスパン侯爵夫人など数多くの愛妾を抱えたルイ14世だったが、晩年は年上の未亡人であるマントノンと精神的にも強く結びついていた。
モンテスパン侯爵夫人が黒ミサで赤ん坊を生け贄にしたとされる事件が起こり、嫌気が差した王は、信仰深く教養のあるマントノン夫人を精神的な支えとしたのである。
1683年に王妃が亡くなった後、ルイ14世はマントノンと秘密裏に結婚し、このトリアノンで余暇を過ごした。
ちなみにこのマントノン夫人、たいへんなお菓子好きで、最初にオーブンを発明した人なんだそうだ。彼女の名前を冠したお菓子も現存している。 |
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グラン・トリアノンは、その装飾から「大理石のトリアノン」と呼ばれた。ピンク色の大理石がとてもキュートで、平屋建て(?)というのも親しみやすい。
大きさ、華麗さという点ではもちろんヴェルサイユ宮殿に及ばないものの、人間が普通の家庭生活を営むのには、これ位がちょうどいい。老いた王が儀式でがんじがらめの宮殿から逃れ、家族とともにのんびり過ごすのにうってつけの場所だったのかもしれない。
離宮を受け継いだ曾孫のルイ15世は最初、王妃マリー・レクザンスカの父スタニスラス王に離宮を委ねたが、1750年以降、再度離宮に関心を寄せるようになった。
フランス革命の動乱の中で家具・調度品などが取り払われたが、ナポレオン1世は離宮を修復整備し、皇后マリー・ルイーズとともにたびたびここに滞在した。
その後もオルレアン朝ルイ・フィリップや、第二帝政のナポレオン3世に至るまで、この離宮を愛した。現在の宮殿はナポレオン1世とルイ・フィリップの命により改装されたもので、1965年にはド・ゴール将軍により全面修復が行われた。
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グラン・トリアノン左翼棟 |
左翼棟の入り口から1.「控えの間」に入る。
数字は、ページの一番下にあるマップの番号に一致しています。参照しながらご覧下さい。 |
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それに続く1.「版画の回廊」。ヴェルサイユ宮殿に比べると廊下も部屋も狭いため、どこもごったがえしていた。
ガイドさんのすぐ後ろにいないとタイムリーな説明が聞けないし、でも誰もいない部屋の写真を撮ろうとすると、ビリになってしまうし。けっこう苦労しました。 |
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2.「皇后マリー・ルイーズの寝室」。小さくて質素だ。中には入れなかったので、もっと先には立派な寝室があるのかも。 |
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鏡を使った装飾の素晴らしさから、3.「鏡の間」と呼ばれている。白を基調としたノーブルな印象の部屋だ。
ルイ14世の王子たちの大広間として使用された後、ルイ14世や王太子にも使用された。
ルイ14世は1688年から1715年の間に、右翼棟から左翼棟、再び右翼棟へと3度にわたり居室を変えている。
帝政時代には皇后の書斎として使用され、その調度品のいくつかがここに置かれている。 |
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4.「ルイ14世の寝室」。その後、王太子の寝室となった。帝政下では皇后の寝室および第2居間として使われた。
欄干や椅子などは皇后のために作られた。
ベッドはチュイルリー宮殿のナポレオンの寝室のもので、ルイ18世は1824年にこのベッドで逝去した。 |
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大理石の暖炉。とても綺麗なマーブル柄だ→ |
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次の5.「礼拝堂の間」にも同じ暖炉が見える。
この部屋は帝政下では、皇后の第1広間として使用された。奥の扉が祭壇に向かって開くようになっているという。
ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの肖像画が掛かっている。 |
次に、7.「柱廊」を通って反対側の右翼棟へ移動。 |
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グラン・トリアノン右翼棟 |
8.「円形広間」。ルイ14世の第1居室の玄関ホールとして使用された。
ナポレオン帝政下には皇帝の守衛の間となった。 |
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9.「皇帝の家族の間」。当初は劇場だったが、ルイ14世の第3居室では控えの間となった。
ルイ15世のときに遊戯の間となり、帝政下では家族の居間となった。 |
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11.「音楽の間」。ルイ14世の第1居室での控えの間。帝政下では皇帝の重臣の間となり、その後、ルイ・フィリップ時代にはビリヤードの間となる。
扉の上部分が開いて、食事中に隣の部屋で演奏される音楽が聞こえるような仕掛けになっている。 |
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12.「皇帝ルイ・フィリップの家族の間」。もとは二間だったものを、ルイ・フィリップにより1部屋にされた。
ルイ14世の第1居室では控えの間と寝室、その後、ブルゴーニュ公妃の控えの間となった。
帝政下では皇帝の王子の間と重臣の間と使用された。
黄色を基調とした、王族らしい華やかさと威厳を備えた部屋である。 |
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13.「孔雀石の間」。ルイ14世のときには夕日の間として使用された。その後、王太子妃・ブルゴーニュ公爵夫人の寝室となり、帝政下には皇帝の間となる。
ロシア皇帝アレクサンドル1世からナポレオンに贈られた孔雀石の家具類が置かれているため、この名が付いている。
カーテンや椅子の布に使用された華やかなピンク色と孔雀石の緑色が対照的で、とても美しい部屋である。 |
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14.「冷涼の間」。ルイ14世の時代はブルゴーニュ公妃の大広間だった。
こうして頻繁にブルゴーニュ公妃の部屋が登場することからわかるように、ルイ14世は孫の嫁である彼女を非常に可愛がっていた。
ブルゴーニュ公爵夫人、すなわちサヴァワ公女マリー・アデライドが王太子の長子ブルゴーニュ公と結婚したのは1697年。15歳の花婿と12歳の花嫁という若々しいカップル誕生により、宮廷はたいへん活気づいた。ブルゴーニュ公妃を楽しませるために「千一日物語」(「千一夜物語」とは違うらしい)が書かれたと言われている。
だが、1712年、公妃は宮廷で流行した麻疹により、26歳の若さで急逝してしまう。その1週間後にはブルゴーニュ公も死去。前年に王太子を失っていたルイ14世の晩年に、いっきょに暗い影が差したのだった。こうして残されたブルゴーニュ公夫妻の遺児が、後にルイ15世となる王子なのである。
この「冷涼の間」、帝政下には皇帝顧問の執務の間として使われた。神話を題材にした絵画や、ヴェルサイユ四景が飾られている。白い壁に深みのあるグリーンのカーテンが掛かり、たいへん落ち着いた印象の部屋である。 |
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16.「コテルの回廊」。
ヴェルサイユの庭園とトリアノン宮の風景画がずらりと飾られている。
絵の作者はアレグラン、マルタン、そしてコテルで、回廊の名はこのコテルに因んでいる。
白を基調としたこざっぱりとした回廊で、ヴェルサイユ宮殿の絢爛豪華さとは違った美しさがある。 |
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この回廊を抜けた突きあたりにあるのが、17.「庭園の間」。立ち入りはできず、入り口から覗いて見学するようになっている。
部屋から直接、庭園に降りられるようになっている設計は、これまでにはないスタイルだという。
この先にある「トリアノン森の翼棟」に通じているが、見学は不可だ。 |
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11.「音楽の間」から13.「孔雀の間」に平行して存在する皇帝の内殿は、ガイド付きの見学が許されているそうだ。わたしたちはそれらの部屋に案内されなかった。
また、9.「皇帝の家族の間」と10.「ベルギー王妃の寝室」は見学できないこともあると、パンフレットに書いてある。わたしたちは9は見学できたが、10は見られなかった。
豪華絢爛なヴェルサイユ宮殿に比べるとずっと簡素で、爽やかな印象を受けた。小ぢんまりとしているので、見学してもあまり疲れないのもいい。
ヴェルサイユ宮殿は夏は嫌になるほど暑く、冬は死ぬほど寒くなるため、たいそう住みにくかったそうだが、こちらはそんなに悪くないのではと思う。ピンクの大理石づくりの建物も、シンプルな庭園も目に心地よい。
ただし、ちょっと捉えどころのない外観で、どこがメインのファサードなのかわからない点が物足りないといえば、物足りない。 |
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