4日目 モン・サン・ミッシェル1日観光 |
今日はパリから西へ400キロのとろこにある、ノルマンディ地方のモン・サン・ミッシェルに1日観光。例によってマイバス社のツアーだ。朝7時半の出発でパリ帰着は9時過ぎという、かなりハードなスケジュールとなる。
フランス旅行のツアーにはよく組み込まれているモン・サン・ミッシェル、実はそんなに凄く行ってみたいというわけじゃなかったが、その外観だけはぜひ一度見てみたいと思っていた。
こ日のパリは雲がかかり、薄寒い気候。バスがブローニュの森を抜けてパリ郊外に出ると、ぽつぽつと雨が降ってきた。
高速道路をひた走り、バスはノルマンディの海岸を目指す。ノルマンディと言えば、第二次世界大戦時の連合軍のノルマンディ上陸作戦が有名だ。映画「プライベート・ライアン」で、トム・ハンク ス演じるミラー大尉が命からがら上陸したオハマ・ビーチのあるところである。
午前9時頃。地平線の向こうにサン・マロ湾に浮かぶモン・サン・ミッシェルが見えた。雨雲がかかって、てっぺんの尖り屋根までは完全に見えない。
道路の周囲はひたすら牧草地が広がっていて、わりと牧歌的な光景だ。牛や羊の姿なんかも見える。もともとはモン・サン・ミッシェルの修道僧が自給自足のために牧羊していたものが始まりなんだそうで、塩分を含んだ牧草を食べて育ったここのヒツジは大変美味しいらしい。 |
途中見かけたキャンプ場。キャンピングカーがたくさん泊っていた。これよりさらにモン・サン・ミッシェル寄りの大きな駐車場にも、オフ会でもやってるんですか? と聞きたくなるほどたくさんの数のキャンピングカーが停車していた。皆そこらへんにC.Cを停めて、歩いてモン・サン・ミッシェルに行くのだろうか。
8月のバカンスシーズンというのが災いして、モン・サン・ミッシェルに行く一本道は大渋滞だった。車をどこか遠くに停めて、延々と歩いている親子も数知れず。もしかしたら、キャンプ場のキャンピングカーのファミリーかもしれない。あるいは、ここに来る前に見かけたプチ・ホテルの宿泊客か。とにかくとっても凄いモン・サン・ミッシェルの人気に驚いた。
モン・サン・ミッシェルは湾に浮かぶ天然の岩山に築かれた人工の要塞であり、修道院を中心とした村でもある。
カトリックの巡礼地のひとつであり、その景観や建築技術の見事さなどから「西洋の驚異」と称された。
そして、かつては海の潮が引いたときにだけ現れる陸橋でのみ、陸と繋がっていた。1877年にこの道路が造られ、1979年には「モンサンミッシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産に登録された。
わたしたちのバスは何十分もかかって駐車場に入った。降りて直に仰ぎ見るモン・サン・ミッシェルは大変な迫力。でも、晴れていたらもっと綺麗に見えただろうに・・・。ちょっと残念だ。 |
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| 塔のてっぺんに付いているものは、大天使ミカエルの黄金像。8世紀初頭、ミカエルはノルマンディの大司教オベールの夢に現れ、「この岩山にわれを祭る聖堂を建てよ」とお告げをした。それゆえにここはモン・サン・ミッシェル、日本語に訳すと「聖ミカエルの山」と呼ばれている。 |
ちなみにミカエルとミッシェルは同じ名前だ。ロシア語圏ではミハイル、英語圏ではマイケルになって、これは妙に親しみが湧くが、もとは大天使からいただいた名前なのである。同様に、ピエール、ポールもイエス・キリストの弟子・パウロから来ている。(さらに余談になるが、ミッシェルは男でも女でも使われている名前だが、女性だとミシェールと延ばして発音するそうだ。)
ところでこの景色、なにかに似ている。ジブリ・アニメの「天空の城ラピュタ」? いや、やっぱり「ルパン3世〜カリオストロの城」かな。実際は城ではないのだけど一見お城風で、とにかく美術的にインスパイヤされやすい存在であることは確かだ。
ここからガイドさんの引率でモン・サン・ミッシェルの中へと入っていく。だがその前に、大事な注意事項をしかと念押しされた。8月なので中は押すな押すなの大混雑、万一はぐれたときのためにこちらでお待ちください、とか、あちらのどこそこのお店の前でお待ちください、などの話を聞く。また、スリが非常に多いのでバッグには気をつけるように注意を受けたりもした。で、ガイドさんからよいことを聞いたのだが、ファスナーの付いたバッグの場合、開けられないよう金具を中に押しこめてしまう方法があるのだそうだ。ふむふむ、これはナイスなアイデア。 |
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モン・サン・ミッシェルの周囲の潮が引くと、こうして干潟のようになり、カモメが歩いていたりする。この泥がくせ者で、道路を造ってしまったためにどんどん溜まっていく一方となり、一部草が生えてきているそうだ。このまま放っておくと完全な陸地になってしまい、海に浮かぶ孤島の景観が失われてしまうため、泥を一掃する計画が進行中だとか。
また、この泥の上をうっかり歩いたりすると底なし沼のようにズブズブと沈んでしまうので、決して行かないようにと釘を刺された。過去にも、こうして消えた観光客が何人かいたそうなのだ。
このモン・サン・ミッシェルに小さな聖堂が置かれたのは708年。先にも書いたように、オベール大司教が大天使ミカエルのお告げを受けたのがきっかけだった。だが、オベールは最初お告げを聞いても悪魔の悪戯だと思い、信じようとしなかった。そこでミカエルは3度目でオベールの頭に手を置き、頭蓋骨に穴を開けた。驚いたオベールはやっとこさ聖堂を建てたという。
その後、11世紀から500年もの歳月をかけてロマネスク様式からゴシック様式へと移行する中、建物の増改築が繰り返された。特に13世紀、ゴシック様式が完成したことで建物の強度が増したため上へ上へと増改築され、どんどん複雑な造りになっていった。ベネディクト派の修道院としての威信が高まるとヨーロッパ中から訪れる巡礼者が増え、その相手も修道僧の仕事だったそうだ。 |
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| 13世紀からは要塞化が進み、英仏の100年戦争では難攻不落の要塞として陥落を逃れた。上の画像にある2門の大砲の筒は、1433年イングランド軍が島を包囲し、砲撃してきた際のもの。花崗岩の玉を打ち込んで激しく攻撃したが、やがて潮が満ちてきてイングランド兵は逃走、この2門の大臼砲が残されたという。 |
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そして、フランス革命が起ると修道会は散会させられ、激しい打ち壊しと略奪にあった。その後1863年までの間、修道院は監獄として使用され、「海のバスティーユ」として恐れられたそうだ。
これは「王の門」と呼ばれ、城塞時代の面影をとどめる城門。ここが島への唯一の入り口だ。かつては王が派遣した衛兵が詰めていたという。 |
グランド・リュと呼ばれる、唯一のメインストリート。中世からすでに旅籠や土産物屋さんが並び、賑わっていたという。
モン・サン・ミッシェルの名物は、やっぱりオムレツ。どこのツアー会社のパンフレットにも書いてある。「昼食は名物のオムレツをご賞味ください」と。
ところが何十名もの団体客が一挙に押し寄せてオムレツを頼むと、とんでもないのが出てきたりする。焦げたのとか、生なのとか。そのため、JTBマイバス社ではオムレツを止めたそうだ。ガイドさん曰く「食べたい方は昼食の時に個別に頼んでください」とのことで、卵好きのわたしとしては、食べずにはおくものか。という心境になっていた。
→わたしたちが入ったレストランとは違うが、外にオムレツの写真入りメニューが出ていたので撮影した。ここがモン・サン・ミッシェルでオムレツを始めた最初の店「ラメール・プーラール」(プーラールおばさん)、ガイドさんによると少々お高めということだった。
ランチの画像はこちら |
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お昼を済ませた一行は、いよいよモン・サン・ミッシェルの内部へと入った。ここからチケット買いの行列が始まっていたが、わたしたちはガイドさんから渡されたチケットを持っていたので、そのまま先頭から入ることができた。
普通に修道院内の階段を登っていくと大変な混雑で進まないので、ガイドさんの秘策により、城壁沿いの階段を登っていくことになった。
それにしてもよくもまあ、こんなに隙間なくギッチリと建てたもんだ。
イタリアやギリシャでも、高いところに密集する建造物をたくさん見てきたが、フランス人もどうやら高いところが好きなようだ。というか、神に近づきたい一心が高いところに教会を造らせるのだろう。建材を運ぶの大変だったろうになあ・・・。などと、当時の労働者を偲んでいる場合ではない。後生、見学に来るわたしたちも大変である。
小雨が降る中、日傘を急遽雨傘にして差しながら足場の悪い石段を登る。
モン・サン・ミッシェルというと修道院だけとばかり思っていたが、城壁の横がいきなりレストランだったり、お土産物屋さんだったりする。
ホテルもあるので、そこに泊ることも出来る。観光客が去って静かになったモン・サン・ミッシェルもまた格別だそうだ。ガイドさんに聞いたら、現在も修道院には修道僧がいるそうだが、姿は現わさないのだとか。
下の画像は、上から覗いたグランド・リュ(大通り)。わ、すごい人。まるで年末のアメ横みたいだ。 |
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城壁をのぼり続け、だんだん黄金の大天使ミカエル像が近くに見えるようになってきた。
あーん、でも工事用のネットと足場が景観ぶち壊し。せめて壁と同じ色のネットで覆えばいいのに。
この工事、1874年に歴史建造物に指定され修復工事が始まってから、ずーっと続いているものらしい。イギリスと100年も戦争するようなお国柄だけに、気が長いやらのんびりしているやら。突貫工事してさっさと完成させてしまえ〜。
この修道院は11世紀に建築が始まり、ロマネスク様式と16世紀のゴシック様式が混在している。
外観は簡素なロマネスク様式。だが建物が何度も崩れ、建て直しているうちに内部には丈夫なゴシック様式が増えていった。
4層になる二つの棟が傾斜した岩に立て掛けるようにして建っている。13世紀の建築家たちの高度な建築技術によるもので、ラ・メルヴェイユ(傑作)と呼ばれている。 |
修道院の中に入った。黄金のミカエル像がある塔の最上階の部屋である。海抜は約80m。
修道院付属の教会で、奥の窓が東向きになるように建てられ、朝の礼拝時に神の象徴である朝日が差し込むようになっている。
窓から出た柱が梁となって天井を支えるゴシック様式の特徴が現れている身廊。ここは1421年に崩壊したロマネスク様式の内陣を、100年戦争後(16世紀頃)に再建したもの。ゴシック様式になったことで天井を高く造ることができるようになったものだ。
天井は「板張りヴォールト」という、薄い板で覆われた曲面天井となっている。 |
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同じ身廊の後ろの方はロマネスク様式だ。低い天井、分厚い丸窓などが特徴。
このようにひとつの部屋でありながら、古いロマネスク様式と、新しいゴシック様式が混在している。 |
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| 側面の窓には繊細な印象のステンドグラスが。サント・シャペル教会やノートルダム寺院の色彩鮮やかなステンドグラスに比べたら地味に見えるが、淡い色彩がなかなか綺麗だった。 |
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剣と秤を持った大天使ミカエル像。
ミカエルは中世の宗教観念の中では天使の軍団長であり、新約聖書の「ヨハネの黙示録」では悪魔の象徴である竜と闘ってこれを打ち負かした。最後の審判では死者の魂を秤に掛け、選ばれたものだけを天国に導いたという。
ちなみにミカエルはジャンヌ・ダルクの前にも現れお告げをし、それによりジャンヌはフランス王を助けて祖国を奪回すべく、イギリスとの戦争に参加したとされている。
ジャンヌ・ダルクについての詳細はこちら |
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別の部屋に置かれていたミカエル像。モン・サン・ミッシェルの尖塔に輝く黄金像は1897年、エマニュエル・フレミエによって製作されたが、それと同じものだそうだ。これの黄金版が尖塔に乗っかっていると思えばいいのだ。
足で踏みつけているのは、退治したドラゴン。思い切りやっつけてるわりには、ちっさなドラゴンでした。 |
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中庭をはさむ回廊。祝祭日にはここで礼拝の行進が行われた。西側には海に面して大きな窓があり、当時もガラスがはめ込まれていたという。
中庭は、昔は何も植わっていなかったらしい。花などを植えたくても、土を入れて花壇を造ったら重くなってしまい下層部分に負担がかかるからだ。その代わりに列柱部分に花の装飾を施したのだという。 |
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重量を軽くするために、列柱の骨組みには木材が使われている。瀟洒な細工がとても美しい。
少しずつズレながら2列に組まれた小円柱が、動きを伴う視覚的効果を生み出している。 |
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回廊を進んだ先にある食堂。59の小窓から光が差し込む明るい部屋で、聖職者専用の食堂だ。
当時の身分制度に従い、聖職者は最上階、王侯貴族はその下、一般市民はさらにその下で食事をした。
南壁の司教座で一人の層が読唱する間、他の修道僧たちは沈黙のうちに食事をとった。 |
階段で下に降りる。
ここは聖職者の食堂の真下にある「迎賓の間」。巡礼にやってきた王や貴族たちを迎える部屋で、ゴシック最盛期の様式美がよく出ている。 |
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| 部屋の後ろにある暖炉では食事を作るための暖炉が2つあり、カーテンで仕切って隠せるようになっている。 |
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| 「太柱の礼拝堂」。上の教会を支える土台として15世紀半ばに造られた部屋である。 |
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| サンテティエンヌ礼拝堂。ここも上の教会の南側の土台として1000年に建設された。 |
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もとは修道僧の納骨堂だった部屋。大きな車輪は、ここが牢獄として使われていた1820年、囚人用の食物を上階に運搬するために設置されたもの。中世の工事現場で使用されていた車輪のレプリカだという。
車輪の中に入った囚人が、ハムスターのように歩いて滑車を動かしたそうだ。運動と運搬を兼ねることができて、一石二鳥・・・なんて言うのは不謹慎かな。囚人にとって、外界に触れることのできるこの作業が唯一の楽しみだったというから哀れだ。 |
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修道士たちが聖書の写本の作業を行った部屋。「騎士の間」と呼ばれている。印刷技術のなかった当時、聖書を書き写すことは聖職者にとって大事な仕事のひとつだった。また写本によって天に近づくことができると信じられていたという。
ここは「貴賓の間」の隣で、回廊の真下にあたる。大きな暖炉を備えた部屋だが、贅沢のためにあるのではないそうだ。真冬に写本するとき手がかじかんで字が書けなくなったり、保存した写本が湿気でダメになるのを防ぐためだっという。
→「騎士の間」の暖炉。人が5〜6人くらいすっぽり入れそうな大きさだ。

通路の一角に天然の岩肌が露出している。モン・サン・ミッシェルが岩山の上に築かれた建物だということが実感できる箇所だ。 |
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これで中階を一周し終えたので、らせん階段を下りて一番下の階に降りていく。
この階段は侵入者が攻めこんで来ても、一人ずつしか上がれない狭さに造られてある。
また回転の向きは、下から登ってきた人間が右手で持った剣を振るいにくく、上から防御する人間は闘いやすい向きになっている。要塞としても機能した修道院の一面を垣間見ることのできる箇所で、とても感心した。 |
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最下層にある平民のための食堂。現在は土産物屋さんになっている。
歩きながら撮ったのでピンぼけになっちゃった。それも、窓が少なくて暗いせいだ。聖職者が最上階の朝日が差し込む明るい部屋で食事し、平民はこんな薄暗い部屋で食べさせられる。
時代とともに聖職者はだんだん堕落していき、やがて身分制度の矛盾が一気に暴発したフランス革命勃発。彼らはモン・サン・ミッシェルから逃げ出したり、牢獄に放り込まれてしまったという。 |
ところで、大天使ミカエルに頭蓋骨に穴を開けられた大司教オベールはその後、どうなったのだろうか。実は信じられないことに、穴が開いたのちも十数年生き続けたという。その頭蓋骨は「サン・ヴェルジェ教会」というところで公開されているというが、年代的につじつまが合わないそうだ。(この教会や頭蓋骨の公開についてWeb検索をかけたが、確かなものは引っかからなかった)。
やっぱねえ。頭蓋骨に穴なんか開いたら、ふつー死ぬよ。いったい、なにがどうなったらそういう伝承に形づくられるのだろうか。信仰の伝播とか奇跡の捏造といった面からも非常に興味がある。
そもそもミカエルのお告げを聞いても直ちに実行に移さなかったズボラな司教である。そんな不信心ものの司教が、どうして大天使ミカエルの夢なんか見たんだろう。普段から信仰篤い司教ならば、たちどころにお告げを実行に移すに違いない。それほど、この岩山に建設するというのは、実現不可能な大工事だったのだろうか。 |
修道院の建物から出てくるころには、この建物がいかに素晴らしいかなんてことよりも、オベールという人物に対しての興味の方が大きくなっていた。だが、手元にデータがない。Webで調べても出てこない。このオベールって人、いったいどういう人物だったのだろう。
ところで、帰ってきてから調べたところによると、オベールが建てた聖堂はその後、聖職者の腐敗により荒れたそうだ。そのためノルマンディー公リチャード1世は966年、不敬虔な聖職者たちを追放し、あらたに厳格敬虔なベネディクト派の修道僧11名を入れ、ここに修道院が誕生したという。
このモン・サン・ミッシェルは、リチャード1世の曾孫であるウィリアム征服王とその3人の息子たちとの骨肉の争いにも深く関わり、イギリスとの泥沼の100年戦争の折にも要塞としての機能を果たした。 |
この建物の壁の下の方が斜めに傾いているのは、その名残である。登ってこようとした敵に石を投げつけやすくするため、わざと傾斜をつけてあるのだそうだ。
聖職者の祈りの場と、闘いのための要塞がミックスされた不思議なモン・サン・ミッシェル。いつかまたここに来て、中のホテルに泊ってみたい。そう思った。 |
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| ※翌年5月にモン・サン・ミッシェルに泊まった時の模様はこちら |
※モン・サン・ミッシェルさらに深く知るためのお役立ちリンク
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PART4「ロンドン憶良の世界管見」にノルマンディー公とモン・サン・ミッシェルについての
詳しい歴史解説が載っています。
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