6日目 パリ発、レンタカーの旅7 |
最終日、ロワール地方の古城めぐり |
本日最初の城を目指し、渋滞するトゥールの街を走りながら、あれこれと考える。できるだけたくさんの城を見学したいが、飛行機に乗り遅れるわけにもいかない。
3時くらいに最後のシャンボール城を出発できれば大丈夫だろうか。パソコン・カーナビでの検索時間を参考に、頭の中で計画を練る。
空港に早く着けばそれだけ見学できる城が減るし、待ち時間が長くなるのも嫌だ。パリ・シャルル・ド・ゴール空港の免税店はあまり広くなく、買い物はすぐに終わってしまう予測。ローマ空港だったら店舗数も品数も豊富なので、何時間でもOKなのだが。
が、かといって、ぎりぎりで到着して焦るのも嫌だ。今回は自分で運転して空港に着き、レンタカーを返却しなくてはならないので、時間が読みづらい。わたしは焦るとパニクりやすいので、なるべく焦らないよう用意周到なプランニングが必要だった。 |
アンボワーズ城〜Chateau de Amboise |
 |
8時40分頃、アンボワーズ城に到着した。ロワール河に架かる橋からも優美なその姿を眺めることができる。
アンボワーズ城の歴史は古く、503年の西ゴート族とフランク王国の王同士の謁見にさかのぼる。
1437年、シャルル7世の時代に王領となり、15世紀末にはイタリア遠征から戻ったシャルル8世がルネッサンスの粋を集めた華麗な城に改築した。 |
16世紀初頭には、これまたイタリア好きのフランソワ1世により、アンボワーズは全盛期を迎える。王城に定められ、ヨーロッパの政治の中心として華やぎ、「豪華城」と呼ばれた。
ルネッサンスを奨励したフランソワ1世はレオナルド・ダ・ヴィンチを城に招き、手厚く待遇した。
ダヴィンチはすぐ近くにクロ・リュセという館を与えられ、そこで天寿を全うする。亡骸はアンボワーズ城のサン・ユベール礼拝堂に埋葬された。
フランソワ1世の孫にあたるフランソワ2世下の1560年、城は血なまぐさい宗教戦争の舞台となった。ギース公爵ら旧教徒(カトリック)が数百人ものの新教徒(プロテスタン)を虐殺し、塔から吊るしたり、生きたままロワール河に投げ込むなどの「アンボワーズの虐殺」を行う。
これによりアンボワーズの名は歴史に長く名を留めたが、宮廷がシュノンソー城へと移ったため、二度と華やかな時代を取り戻すことはなかった。
|
巨大なミニムの塔。王の居室があった塔に隣接しており、別名「騎兵塔」と呼ばれている。
内部が直径21mもあり、馬や馬車で上がることができる螺旋斜路になっている。 |
 |
城壁に突き出すように建てられたサン・ユベール礼拝堂。シャルル8世が創らせ、1496年に完成した。フランボワイヤン・ゴシック様式の傑作と言われている。。
この礼拝堂にダ・ヴィンチが埋葬され、現在もその墓碑が残っている。 |
 |
 |
時間がなかったので城の中には入らず、周辺の見学のみだけにした。
ガイドブックから「ルイ8世翼」の美しい姿を転載。 |
 |
アンボワーズ城の城下町。可愛らしいお店が軒を連ねる。
この道をずっと行ったところにダ・ヴィンチの館「クロ・リュセ」があり、前を車で通りがかった。
外から一目見るだけでもと思ったが、駐車場のずっと奥に位置するようで、その姿は拝めなかった。時間がなくて焦っていたので見学を諦めたが、次回はきっと中に入ってみたい。 |
Chateau de Amboise
場所:トゥールからN152号線で約25キロ。
時間:9時〜18時30分(季節によって異なる)
休館日:なし
料金:7.70ユーロ |
|
|
シュノンソー城〜Chateau de Chenonceau |
 |
ロワール河の支流シェール河の上をまたぐようにして建てられた、繊細で女性的な印象の城だ。
駐車場からまっすぐ延びる並木道を抜けたところに白く優美な姿を認め、思わず息を呑んだ。
シュノンソー城には「6人の奥方たちの城」という別名がついている。
16世紀初頭に財務長官ボイエの妻カトリーヌ・ブリソネが夫に替わって築き、次にアンリ2世の愛妾ディアヌ・ドゥ・ポアティエのものになった。
アンリ2世の死後、王妃カトリーヌ・ドゥ・メディシスはディアヌから城を取りもどし、溜飲を下げる。そして、自分の趣向を凝らして館や庭園を増築、ディアヌが架けた橋をの上に回廊を作らせたりした。
その後もアンリ3世の王妃ルイーズ、デュパン夫人、プルーズ夫人となぜか女城主が続き、今日ではムニエ家が所有するに至っている。
|
 |
男性的なシャンボール城に比べ、女性的で優美と言われるシュノンソー城。元は要塞として築かれたシノン城、アンボワーズ城などとは比較にならないくらい綺麗である。
だが、その優美な外観とは裏腹にドロドロとした女同士の愛憎が渦巻いていたシュノンソー。ディアヌとカトリーヌが執着した気持ちもよく理解できる。
女としてはこんなお城をプレゼントされたら嬉しいし、正妻の側にしたら、夫が愛人にこんな城を贈ったら悔しいに違いない。
策略を巡らせて所有権を我がものにしたディアヌの気持ちも、素知らぬ顔を続けながら耐えに耐え、夫の死後おもむろに反撃に出て奪い返したカトリーヌの気持ちも、両方よく理解できるのである。 |
 |

↑これがカトリーヌド・メディシスが創らせた、河に架かる回廊。水辺に羽を広げた白鳥に例えられるゆえんだ。 |
 |
入場料を支払って、城内に入る。後世のわたしたちにとって幸いなことに、デュパン夫人がフランス革命の嵐の中で守り抜いてくれたお陰で略奪を逃れ、多くの装飾品や各調度品が残された。寝台、タピストリー、家具調度などの見所が多い。 |
 |
シュノンソー城内に入る。この城はフランス革命での略奪を逃れたため、多くの装飾品や各調度品が残されており見所が多い。
ディアヌ・ドゥ・ポアティエとカトリーヌ・ドゥ・メディシスのコインが展示されており、その描かれ方がそれぞれに興味深かった。
そもそも、王妃でもないディアヌがコイン化されているということ自体驚きなのだが、「永遠の美女」と謳われ、年を経ても若さを保っていたという女性像とはちょっと違う印象の横顔であった。
一方、丸っこい顔で不美人だったと言われているカトリーヌは、確かに丸顔なのだけれど多少美化されているように感じられる。 |
 |
ディアナ・ドゥ・ポアティエの寝室 |
 |
 |
1階にある、2代目の女城主ディアヌの寝室。王妃を差しおいて正妻気取りだったディアヌを最初に取り上げるというのも、なんだか気が引けるのだが(わたしはカトリーヌびいき)。
暖炉はジャン・グージョン作と伝わっている。暖炉の上に掛かっている肖像画は王妃カトリーヌと思われるが、愛妾の寝室に王妃の肖像画という不思議。あたかも、憎い愛人を城から追い払ったカトリーヌが高らかに勝利宣言をしているかのようだ。
もっとも、シュノンソー城を返還させるかわりにショーモン城を与えているのが、忍耐強いカトリーヌの真骨頂である。ショーモン城の方が領地から入る収入は大きかったのである。
だが、ディアナはショーモン城に住むことなく、生まれ故郷に帰っていった。彼女の意地がそうさせたのだろうか。 |
回廊 |
 |
シェール川の上に建つ回廊の内部。長さ60メートル、3階建ての回廊は、ディアヌによって架けられた橋の上に、王妃カトリーヌが華麗なギャラリーを創ったもの。床の市松模様が美しい。
この場所は第一次世界大戦中、傷病兵の看病として所有者ムニエ氏によって提供されたそうだ。 |
ルイ14世の大広間 |
2階にある、ルイ14世のサロン。豪奢な暖炉の左側には「ルイ14世の肖像」が飾られている。
しかし、この時代になると、王家の人々はあまり訪れてくることもなかったという。
ヴェルサイユ宮殿みたいなキンキラキンの館を創り、そこでの享楽的な生活にどっぷりと浸かってしまったら、もう動く気がしないに違いない。
それに、ここはヴァロア王朝の城だ。ブルボン王朝の時代になって忘れられていくのも仕方がないことだろう。
白い暖炉の上の方に刻まれた紋章は、左がフランソワ1世の「火とかげ(サラマンダー)」、右が王妃クロードの「白てん」である。 |
五王妃の寝室 |
賓客用の寝室。「五王妃」とはカトリーヌ王妃の娘たちと、フランス王家に嫁いできた花嫁たちを表す。
マルグリット・ドゥ・ヴァロア(アンリ4世妃)、エリザベート(スペイン王フェリペ2世妃)がカトリーヌの二人の娘たち。
マリー・スチュワート(スコットランド女王、フランソワ2世妃)、エリザベート・ドートリッシュ(シャルル9世妃)、ルイーズ・ドゥ・ロレーヌ(シャルル3世妃)がカトリーヌの義理の娘たちであった。
緞帳つきの寝台、大きな暖炉、食器棚、革張りの肘掛け椅子などの調度品も格調高い。
壁のタピストリーは飾りもあったが、保温用として石造りの壁には欠かせないものであった。 |
カトリーヌ・ドゥ・メディシスの寝室 |
一見するとディアヌの寝台の方が華やかなようだが、カトリーヌの寝台は天蓋や本体部分に彫り込まれた細工など細部がとても手が込んでいて豪奢だ。
ディアヌを追い出したカトリーヌは、フランス国内が宗教問題により内乱状態だったにもかかわらずたびたびここを訪れ、豪奢な祝宴を催した。
1560年3月末「アンボワーズの虐殺」のあと、フランソワ2世とメアリ・スチュアートがこの城に移り、それにともなって宮廷が置かれた。
カトリーヌは息子シャルル3世の王妃ルイーズにシュノンソーを譲ったと言われている。 |
ガブリエル・デストレの寝室 |
ガブリエルはアンリ四世の愛妾である。彼女を描いた有名な絵画がルーブル美術館にあり、昨年わたしも見てきた。それがこちら。
ガブリエルは王との間に3人の子を儲けたが、この城に住んでいたわけではなかった。
後に息子セザール・ドゥ・ヴァンドームと、アンリ3世の未亡人でこの城の女主人ルイーズの姪が結ばれて城を受け継いだため、この部屋の名があるということらしい。
アンリ4世はナヴァール女王の嫡男で、のちのナヴァール王エンリケ3世。父はフランス王室のブルボン公であったため、後にブルボン公アンリとなり、ヴァロア王朝の断絶に伴いブルボン王朝の初代国王となった(在位1589年〜1610年)。
1572年、アンリはアンリ2世とカトリーヌ・ドゥ・メディシスの王女マルグリットと結婚した。このとき数千人の新教徒が虐殺されたサン・バルテミーの大虐殺がおき、プロテスタンであったアンリは強制的にカトリックに改宗させられる。
アンリとマルグリットの結婚はうまくいかず、二人の間に子もなかった。アンリはガブリエル・デストレを寵愛し、3人の子が生まれた。
1589年、アンリ3世がカトリックの修道士によって暗殺され、ヴァロア王朝の血統は絶えた。ナヴァール王にしてブルボン公であったアンリがフランス国王となり、ブルボン王朝が開かれた。
1598年、アンリ4世はナントの勅令 を発表し、カトリックをフランスの国家的宗教と定めたが、プロテスタントにも同等の権利を認め、フランスにおける宗教戦争の終息を図った。
翌年ガブリエルが急死し、正妻に迎えたいとのアンリの願いは叶わなかった。
マルグリットとの婚姻が無効と認められたアンリは、メディチ家のマリー・ド・メディシスと結婚。二人の間に生まれた男子がルイ13世(いよいよ「三銃士」の時代である)、さらにその子がヴェルサイユ宮殿を造営したルイ14世である。アンリ4世はブルボン王朝のその後の繁栄の、いわば基礎を築いた王であった。 |
セザール・ドゥ・ヴァンドーム公の寝室 |
 |
アンリ4世とガブリエル・デストレとの間の息子、セザールの寝室。彼はアンリ3世王妃ルイーズの姪と結婚し、1624年にこの城の主となった。 |
ルイーズ・ドゥ・ロレーヌの寝室 |
 |
ルイーズは、カトリーヌ・ドゥ・メディシスの息子たちの中でフランス国王になった最後の一人、アンリ3世の王妃である。
1589年、夫君が暗殺されると、ルイーズは王妃の喪服の色である白を生涯着続け、壁紙を黒地に百合(フランス王家の紋章)の暗いものに変え、シュノンソー城に籠もったという。
余談だが、スコットランドから輿入れしたメアリ・スチュアートは母国のしきたりによって白の花嫁衣装をまとい、カトリーヌを驚かせたそうだ。今でこそフランス人の花嫁も白を着るが、当時は王妃の喪服の色だったのである。
なるほど、フランス革命で処刑されたマリー・アントワネットが白い服を着て刑場に向かったというのは、喪服を着ていったんだなあと、今ごろ知った次第。最後までフランス王妃であることを示したかったのだろう。
太陽光による劣化を抑えるためか、室内は薄暗かった。フランス人の団体客を引き連れたガイドが説明を始め、思わず聞き耳を立てたが、もちろんわかるはずもない。 |
 |
|
 |
ディアナ・ドゥ・ポアティエの庭園。隣にはカトリーヌ・ドゥ・メディシスの庭園もあって、やっぱり張り合っている。 |
すべての見学を終えて庭園を見回し、改めて城の方を振り返ってみる。
ディアヌは40歳も年上の伯爵と結婚して16年後に死に別れ、美貌を伝え聞いたフランソワ1世に召し出されて寵愛され、次にはその息子アンリ2世の寵姫となったという。アンリ2世より19歳も年上でありながら愛され続けた「永遠の美女」。60歳近くになってもなおアンリ2世の愛情を一身に集めていたというから、いったいどんな女性だったのか非常に興味がある。
なんでも城にはディアヌの幽霊や、「白い貴婦人」の幽霊が現れるという。
幽霊なんて信じてないけど、本当にいるなら会ってみたいものである。特にディアヌの、父子二代に渡って虜にしたその美貌がどんなものなのか、ぜひともこの目で見たい。 |
駐車場に戻るとき、トイレ(有料)に立ち寄るため少しだけ回り道したら、農園や牧草地のような広い場所を通りかかった。おそらく所有者の農園だろう。壁際にロバの姿が見えたので、最初は壁に描かれた絵だと思っていた。が、近づくと動いたので、本物だとわかって驚いた。
前にフランスの観光地の側にはキャンプ場もあって羨ましいと書いたが、このシュノンソーも駐車場のすぐ隣がキャンプ場なのだった。
いつかキャンピングカーでのんびりフランス各地を回ってみたいなぁ・・・という憧れを抱く。 |
Chateau de Chenonceaux
場所:トゥールから在来線で約25分。
時間:9時〜19時(季節によって変動あり)
休館日:無休
料金:8ユーロ |
|