サン・ドニはパリの北約10キロのところにある小さな街で、斬首された聖ドニが自分の首を持って歩いていき、倒れた場所として有名だ。最近では1998年サッカーのワールドカップの試合が行われ、フランスが優勝を果たした”サッカーの聖地”フランス・スタジアムで有名となっている。
フランス王家の霊廟がある大聖堂(バジリスク)を見学してみたかったが、観光地としてはマイナーなのでツアーでは立ち寄らない。電車で行くという手もあったが、この際モン・サン・ミッシェルに行く途中に立ち寄ってしまえ、ということで、行ってみることにした。
パソコン・カーナビのお陰でサン・ドニにはつつがなく到着した。だが、かんじんの大聖堂がどれで、どこの駐車場に停めたらいいのかがよくわからない。
街中をウロウロしていたら一方通行の異常に狭い小路に入り込んでしまい、おまけに行き止まり。突きあたりは立体駐車場であった。
一通だから引き返すこともできない。
わたしはその駐車場に停めることにし、中へと乗り入れた。
空いているスペースに車を停め、鍵を掛ける。薄暗い駐車場なので、緊張と不安とで全身が引き締まる感じだ。
車を離れるとき一番心配だったのは、盗難である。ハッチバックだったためトランクがなく、載せたスーツケースが外から丸見えになっていたのは大変な計算外であった。
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トイレで大ピンチ! |
立体駐車場を出て街中を歩き出すと、急に尿意を催してしまった。折良く、公衆トイレが目の前に建っている。だが、なんと有料だ。ドアにコインを入れるようになっており、それがまたピッタリのコインじゃないと開かない仕組み。
確か20セントだったと思うが、わたしは20セントコインを持っていなかった。
どうしよう〜とコインを手に立ち尽くしていたら、通りがかりの年配女性が声を掛けてくれた。
そして、わたしの手のひらから10セントほど集めると、自分の20セントと交換してくれたのだった。
フランス人はお節介ではないが、困っている人にはたいそう親切である。案外、一緒にいた娘の方が漏らしそうになっていると思われ、それで同情されたのかもしれない。
それにしてもお金を入れないと入れないトイレ、なかなかにスリリングな代物である。
親切といえば、もう一人親切なフランス人に会った。
大聖堂(バジリスク)の場所がわからず、街角にあった大きな地図を眺めていたら、そばにいた男性が大きな声で「バジリスク?」と聞いてきた。うなずくと、「あっちだよ。この道をまーっすぐ!」と大きなジェスチャーつきで教えてくれた。 |
男性が指さす方を見ると、道路の突きあたりにそれらしい建物が見える。わたしは正反対の方にある教会がてっきりバジリスクだと思いこみ、逆に来ていたのだ。
「メルスィ、ムスィュ」と礼を言い、バジリスクへと向かう。
この日は日曜日だったためか、街は大変な活気に満ちていた。道路は歩行者天国になっており、ずらりと屋台が出店していた。衣服、花、果物、おもちゃ、水道用品??? そしてなぜか派手なきんきらベルトの店がたいへん多い。
人種的には黒人とアラブ系が非常に多く、一種独特の雰囲気だった。まるでパリじゃないみたい。治安はよくないという向きもあり、日本人がカメラをひったくられたとも聞く。幸い、わたしたちの身には何事も起こらなかったが。
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サン・ドニ大聖堂 |
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250年頃に聖ドニが殉教し、その墓所に最初の聖堂が建てられたのが475年。以来、改修を重ね、7世紀には王家の霊廟となった。
メロヴィング朝、カロリング朝、カペー朝、ヴァロア朝、ブルボン朝の代々の王族がここに埋葬された。
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フランス・ゴシック建築の原型としても有名で、天井の高さが29メートルもある。19世紀に大改修が施されてから今日に至るが、ファサードのバラ窓や扉は現在のものが残っているという。 |
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中に入ると、なんとミサの真っ最中(そう言えば、日曜日だった)。
厳かな祈りの声、パイプオルガンの音がこだまして響き渡る。 |
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明るく美しいステンドガラスをじっくり見学。チャペルでは2ユーロでロウソクを買い求め、火を灯してみた。
下は、ルイ18世が戴冠式の時にまとっていたローブ。フランス革命後、共和制、帝政時代を経て王政復古となった1814年、即位した。 |
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さて、王家の霊廟はいずこに・・・? と探すと、案内の看板が見つかった。看板が示す矢印の先にはドアがあるものの、鍵がかかっている。実は王家の霊廟の見学時間、日曜日はミサがある関係で12時からなのだ。
現在午前11時。仕方がない、どこかで時間をつぶしてくるか。
娘とわたしは再び街に戻り、先ほど通りがかったケンタッキーフライドチキンに入って、早めのランチをとることにした。 |
| ↑わたしが注文したフィレサンド。お姉さんが「スパイシー?」と訊いてきたので、「ノン・スパイシー」と答えたら、いつも日本で食べるのとお同じ味が出てきた。なんとなくボロボロでジューシーさに欠けたけど。 |
頃合いをみて、再び大聖堂に戻る。
門の所にアラブ女性の物乞いが数名座りこんでいたのが印象的だった。
ここはキリスト教の聖堂なのに、イスラム教の人間に施しをする人なんているのかしら、と疑問に思った。
大聖堂のゴミ集積所でも、ゴミの袋をあさるアラブ女性がいて、フランス人の男性が「そんなことをするな」と英語で叱っていた。 |
大聖堂に向かって右側にある「王家の霊廟」入口。大聖堂の中からも、外からも行ける。
霊廟の入場料は5.5ユーロ、オーディオガイド4ユーロ。日本語ガイドがなかったので英語のガイドを借りたが、今ひとつよくわからなかった。日本語で書かれたパンフは有り、それによると475年、聖ジュヌヴィエーヴにより最初の聖堂が建てられ、5世にになる頃からサン・ドニは巡礼の地となった。
7世紀、サン・ドニ修道院が創建され、殉教した聖人たちの聖遺物が保存されてきた。
中世の初期からメロビング朝の王たちにより墓所とされ、ユーグ・カペーの時代からはほとんどすべての王たちがここに埋葬された。
70以上にも及ぶ横臥像を最初に石で創らせたのはルイ9世(在位1226〜1270年)だったが、金銀細工で装飾された墓は百年戦争中に破壊されてしまった。
46人の王、32人の王妃、63人の王子・王女がフランス革命までここに永眠。革命後は王政のシンボルであるとして破壊され、遺骸も共同墓穴に捨てられた。 |
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その後、ルイ18世により修復され、ルイ16世やマリー・アントワネットの遺体も移送させ、納骨堂に収めた。
さて、入ってみてビックリ。王墓は、先ほどミサが執り行われていた祭壇の後ろ側にあった。
祭壇より後方には仕切りがあって地続きではあったが、そちら側に入るにはお金を払わないといけないのである。 |
王家の霊廟 |
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ショッキングだったのは、その祭壇の後ろ側の王墓がすべて剥きだしだったこと。
こんな風にお棺があっちにポン、こっちにポンと置かれている。見て見て、このリアルな足。 |
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埋葬者の名前も書かれている。シャルル・マルテル、イザベル・ドゥ・アラゴン、フィリップ4世とか言われても、誰だかわからない。日本人にはまだ馴染みのない時代の人々だ。
馴染みがないといえば、こういうスタイルの墓所にはまるで縁のないわたしたち日本人。ちょっとしたカルチャーショックを受けた。
そう言えばナポレオンの墓所(パリにある「アンヴァリド」。紹介ページはただいま制作中)も広い吹き抜けのホールにぼんと棺桶が置いてあって、いかにも唐突な印象を受けた。これがフランス式のお墓なんだなあ。
娘も驚いていたようだが、今頃うなされていないかしら。いやなんともデ・カルチャー。
←順路に従って地下に降りる。案内板の写真は、下の方にあるルイ16世が祈っている彫像である。 |
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地下の霊廟に降りる。空気がひんやりと冷たい。 |
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ルイ14世の墓所。太陽王だけあって、さすが一番広くもっとも豪華な造りである。 |
ルイ17世(1785〜1795年)のお墓。
彼はルイ16世とマリー・アントワネットの次男で、兄ルイ・ジョゼフの早世にともない王太子となった。洗礼名はルイ・シャルルであるが、父の処刑後、反革命勢力によりルイ17世とも呼ばれる。
フランス革命により両親、姉らとともにタンプル塔に幽閉。父の処刑後は母親から引き離され、靴屋のシモン夫妻に預けられた。その後、シモン夫妻からも引き離されて劣悪な環境に置かれ、結核によりタンプル塔の一室で亡くなったとされる。
しかし、シモン夫妻によってルイ・シャルルのすり替えがなされ、死んだのは別の少年だという説もある。自分はルイ17世だと名乗る人間が何人も現れ、姉のマリー・テレーズ、アングレーム公妃はこの問題に悩まされたが、誰にも会おうとはしなかったという。
2000年、2箇所で保管されていたマリー・アントワネットの遺髪と、ここサン・ドニに安置されていたルイ・シャルルのものとされる心臓のDNA鑑定が行われた。
なぜルイ・シャルルの心臓が残っていたかというと、解剖医が心臓を切り取ってアルコール保存した上で乾燥させ、保存したという。鑑定材料として、他にマリー・アントワネットの姉やその子孫らの遺髪などが用いられた。
鑑定の結果、「タンプル塔で死んだ少年は、マリア・テレジア(マリー・アントワネットの母、オーストリア女王)の子孫と同じ型のミトコンドリアDNAを持ち、ルイ17世と考えられる」とのことだった。一方で、ルイ17世と名乗り1845年に死去したドイツ人のノンドルフのDNAは、何度鑑定しても一致しなかった。 |
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これがその乾燥したルイ・シャルルの心臓。骨かと思うほど干からびていて、まさかこんなものが見られるとは思っていなかったので、非常に驚いた。
王家に生まれたために不幸という不幸をすべて体験してしまったルイ・シャルル。替え玉説が本当ならどんなによかっただろう。すり替えの話は非常にリアルで真実味があり、わたしもほとんど信じていたのだが・・・。ここにこうして本物の心臓があることは、実はとても残念なことである。 |
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次に、ルイ16世(中央右側)、マリー・アントワネット(中央左側)らの墓所。6基ある棺の、真ん中二つがルイ16世夫妻の棺である。なぜか600年も古い、ブルボン王家ではないカペー朝ルイ7世の墓も一緒にあり、事情がよくわからない。
ここを創らせたルイ18世は、兄の足元、画像の右下の棺に眠る。おそらく彼自身は王の御代がまだまだ続くと思っていたに違いないが、ここに眠る最後の王となった。 |
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地下の一角に、発掘されたままの状態の墓所が。初期の頃の棺と思われる。 |
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このあと矢印に従って再び地上に戻り、またまた横臥像を見て歩く。こんな小さな子どもの棺とか、名前のわからない王子・王女の棺などもある。 |
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圧巻だったのが、ヴァロア朝のルイ12世(1462年〜1515、在位1498年〜1515年)の墓所。痩せこけた裸体の王が中に横たわっていて、かなりリアル。屋根の上にいるのが王と、2人目の妃アンヌらしい。ちなみにアンヌは先王シャルル8世の后であった。 |
同じ形式の、アンリ2世(1519年〜1559年、在位1547年〜1559年)とカトリーヌ・ドゥ・メディシス(1519年〜1589年)の墓所。
カトリーヌはイタリア・フィレンツェの大富豪メディチ家から嫁いだが、アンリ2世は20歳も年上の愛人ディアヌを愛し、夫婦仲はよくなかったという。なのに、こうして2人仲良く葬られているとは、皮肉なものである。(もっとも、夫に愛されなかったと言われながらも11年の不妊期間を経たのち、10人の子どもに恵まれている。けっこう仲良かったんじゃないか)
皮肉といえば、美人でなかったと言われるカトリーヌが妙になまめかしく体をよじらせ、足を剥きだしにした彫像であること。アンリ2世も王らしからぬ薄着である。死んだときの状態そのままを描いているのだろうか。
ちなみに、アンリ2世は1559年に行われた馬上槍試合で不慮の死を遂げるが、ノストラダムスはその死を予言していたと言われている。ノストラダムスは王妃カトリーヌのお抱え予言師だったという説もあり、藤本ひとみ著「王妃とノストラダムス」はこの説にのっとって物語が展開する。
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見学の最後に、祈りを捧げるルイ16世夫妻の彫像がある。サン・ドニ大聖堂というと紹介されることの多い彫像である。
これを見られただけでも、はるばる来てよかったと思った。だけど、なんだか二人とも微妙に似ていない。 |
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見学を終え、大聖堂を出る。
マルシェで活気溢れる街へと再び戻り、人波にもまれながら駐車場へと戻っていく。 |
駐車場へ戻る目印に覚えておいた角地のマクドナルド。ついでに立ち寄ってポテトやチキンナゲットなどをテイクアウトした。(英語ではテイクアウェイと言うらしい)
日本では細くてカリカリのポテトが太くて、文字通りフレンチフライだった。
ちなみに大聖堂を背にしてこの角を右に曲がると、例のトイレと駐車場がある。
立体駐車場に入り、車に戻る。ガラス窓を割るなどの盗難が心配されたが、何ごともなく無事であった。
だが、出庫の際、思わぬ事態が起きた。ゲートの機械に券を入れると料金が表示されるが、コインを入れる口がない。わたしはすぐに、駐車場への入口にあった精算機を思い出した。
日本の駐車場はよくできていて、精算機で事前に支払いを済ませておくこともできるし、出庫の際に支払うこともできる。だが、ここのは例外なく精算機で支払いを済ませておかないと出られないらしい。
ゲートにある呼び出しボタンを押したが、オフィスにいる職員らはこちらを見てはいるものの、出てこようとしない。
「しょうがないなぁ、働かないフランス人め」と毒づきながら、わたしは車をバックさせ、通行の邪魔にならない所に停めた。
そして、精算機に走った。
精算機に表示される料金を入れ、出てきた券を持って車に戻る。幸いというか、当然といえば当然というか、ここの精算機はちゃんとお釣りが出てくるタイプであった。
券をゲートに入れれば、バーが開いた。
こうしてようやく駐車場を出ることができたのだった。 |