3日目 パリの観光 Part3
 
  ルーブル美術館
 数々のトラブルを乗り越え、パリに辿り着く。オルセー美術館近くから路線バスに乗り、ルーブル美術館横に到着。
 ここで昨年来たとき見られなかった絵画を見ようと、昨日に続きルーブルに入る。
 その絵というのが、この「ポンパドゥール夫人」である。ルイ15世の公式愛妾として歴史にその名を残した女性だ。
 
 彼女の本名はジャンヌ・アントワネット・ポワソン。1721年12月ブルジョワ階級に生まれ、高い教育を受けて成長した。20歳で結婚、当時の一流文化サロンに出入りするようになる。当時のフランスの上流階級では、女性は結婚して初めて一人前として認められ、社交界デビューができるようになるのである。
 
 やがてルイ15世の目にとまったジャンヌは、侯爵夫人の称号を授かり、夫と離婚。1745年、ルイ15世の公妾として正式に宮廷入りした。
 公式愛妾というのは、文字通り公式の愛人であった。本来日陰者の愛人が公式というのも変な話だが、公認されない愛人も当時たくさんいた。公妾は正式な地位であり、王妃を初めとする王の家族にも紹介され、政治にも口を出した。
 当時の王妃、皇太子妃は外国の王女がほとんどで、気だてはよいが目立たない地味な女性が多かった。公妾は王妃をも凌ぐ華やかな存在であり、事実上のフランスのファーストレディであった。
 
 ポンパドゥール夫人は芸術、学問を愛好し、百科事典を編纂させ、啓蒙思想にも傾倒した。その一方で政治に関心のない王にかわって外交問題にも関わった。
 オーストリアのマリア・テレジア女帝、ロシアのエリザヴェータ女帝と結んでプロイセンのフリードリッヒ王に対抗、包囲網を結成した。
 ポンパドゥール夫人はその美貌で王の寵愛を勝ち得ただけでなく、30歳を過ぎて同衾しなくなったのちも、王の愛と信頼を保ち続けた。
 
 1764年4月、42歳の若さで惜しまれつつこの世を去った。マリー・アントワネットが愛したプチ・トリアノンは、もともとポンパドゥール夫人のために建造されたものである。
 この5年後、ルイ15世はデュ・バリー夫人を公妾にしている。
 
 ポンパドゥール夫人を描いたこの絵画、前回ルーブルに訪れたときはなかなか発見できなかった挙げ句、職員に「今は見られない」とか言われて、結局見ることができなかったもの。
 今回再挑戦ということで、くたくたになるまで探しまわった。
 なぜそんなに見つけづらいかというと、本当にわかりにくい場所にひっそりと隠されているからだ。いや、まさか本当に隠しているとは思いたくないが、わざとわかりにくいところに置いてるんでしょう!と言いたくなるほど、変な場所に掛けられている。

 場所は、シュリー翼3階。18世紀のフランス絵画を紹介する一角にあるが、なぜかポンパドゥールの夫(?)、ルイ15世の肖像画の近くには位置しない。普通なら並べて飾るか、その近くに置きそうなものなのに。さらに、通常歩く通路よりひょいと入った小さな小部屋に彼女は飾られている。
 リシュリー翼から歩いていって、ブーシェ作「ディアナの水浴」、シャルダン作「赤エイ」が見えたらもう間もなく。
 上の二つから少し先、右側にひょっこりある小部屋に注意。その中にポンパドゥールはひっそりと飾られている。
 また、日本で言う1階はフランスでは0階なので、ますますややこしく、こんがらがる要因となる。シュリー翼の3階に行くまでも迷路のよう。ポンパドゥールを見たい人は・・・いや、そもそもルーブル美術館を見学しようという日は気力・体力ともに充実している時を選び、心してかかりましょう。
 
  サン・ジェルマン・ロクセロワ教会
 ルーブル美術館の横隣りに建つ、いかにも歴史ありげな「サン・ジェルマン・ロクセロワ教会」。ホテルとはルーブル通りを隔ててほど近く、一度中に入って見学してみたかった。夕方5時の鐘の音は音楽の旋律を奏で、とても良い感じ。
 最後の機会になったこの夕方、ルーブルを早めに切り上げ、立ち寄ってみた。
 シテ島のノートルダム寺院とよく似た外観とステンドグラス窓。素敵だなあと撮影したものの、塔の左側は第一区役所の建物なんだとか。教会は塔の右側の建物だった。
 14〜16世紀、王家の教会として多額の寄進を受けて繁栄した。1572年に起きたサン・バルテミーの旧教徒による新教徒の虐殺は、この教会の鐘を合図に始まったという。
 入口は閉ざされていて、少し入るのに躊躇してしまう雰囲気。
 柱には天使の彫刻が施された器が。中には水が入っていた。聖水か?
 内部は、ノートルダム寺院を小規模にしたような感じ。ゴシック様式の梁天井、その奥のステンドグラス、思っていた以上に素晴らしい教会だ。ノートルダム寺院より明るく、素材が白っぽいので、とても美しいという印象である。
 見学目的の観光客は皆無で、2〜3人が椅子に座って祈りを捧げているだけ。ひっそりと静まりかえり、なんとも厳かな雰囲気である。
上2枚は、入ってすぐの左右上部にあるステンドグラス。  
上2枚は、奥側のステンドグラス。
 1572年のサン・バルテミーの虐殺は、1559年に亡くなったアンリ2世の王妃、カトリーヌ・ド・メディシスが裏で糸を引いていたと言われている。
 当時のフランスは宗教戦争の真っただ中にあり、旧教徒(カトリック)と改革を唱える新教徒・ユグノー派(プロテスタン)が対立し、血なまぐさい闘争を繰り広げていた。
 カトリーヌ王太后は初めのうち、カトリックである政敵ギーズ家の勢力を弱めるため、プロテスタンのブルボン家に肩入れをし、両勢力のバランスを取ろうと計った。
 アンリ2世の後を継いだフワンソワ2世は15歳、妃のメアリ・スチュアート(スコットランド女王)と、その叔父ギーズ公爵のいいなりであった。プロテスタン弾圧は熾烈を極めた。
 1年後、病弱なフランソワ2世が死去すると、かわって10歳のシャルル9世が即位する。摂政の地位に就いたカトリーヌはギーズ家の台頭を抑え、政治的権力をふるい始めた。
 カトリーヌはカトリックとプロテスタンの融和を図るため、シャルル9世の妹マルグリットと、プロテスタンであるナヴァール王家アンリ(ブルボン家)との婚姻を取り結ぶ。
 1572年8月24日のサン・バルテルミーの日、結婚を祝うためにパリに集まっていたプロテスタンの中心人物や貴族らが襲撃を受け、虐殺された。
 一説には、プロテスタン勢力の拡大を恐れたカトリーヌがギーズ公と結び、王にプロテスタン虐殺の勅命を出させたとも言われている。
 虐殺は祭りの鐘を合図に行われた。犠牲者の数はパリだけでも3千〜4千人、フランス全土では1千人、あるいは1万人とも(ずいぶん開きがあるが)言われている。
 わたしは、カトリーヌはカトリックとプロテスタンの勢力を噛みあわせ、均衡をとらせつつ乗り切っていくという策をとっていたはずだと思うので、彼女がこの大虐殺を指示したとは思いたくない。あるいは、プロテスタンの勢力増大により、新教徒であるイギリスになにか不穏な動きでもあったのか・・・。真相のほどはわからない。
 翌日、レンタカーでサン・ドニ大聖堂を訪れたわたしは、王家の霊廟で再びこのカトリーヌに出会うことになる。
カトリーヌ・ドゥ・メディシスについて詳しくはこちらをご覧下さい。
 
晩ご飯
 夕方の6時。まだちょっと早いが、教会を出たわたしたちは晩ご飯にすることにした。
 ホテルのまわりにあるブラッスリーのうち、表に日本語メニューがあると書かれてあった店に入る。
 日本語のメニューをもらい、いろいろ頼んでみた。娘はオムレツ、わたしは鴨肉、サラダ。
 鴨の味はまずまず。モッツァレラチーズは塩味がなく、塩を振りかけて食べた。
 つけ合わせのポテトは量がすごく多くて食べきれなかったが、カリカリしていて美味しかった。
 オレンジ風味のビールもなかなか美味しかった。



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