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ルーブル美術館の横隣りに建つ、いかにも歴史ありげな「サン・ジェルマン・ロクセロワ教会」。ホテルとはルーブル通りを隔ててほど近く、一度中に入って見学してみたかった。夕方5時の鐘の音は音楽の旋律を奏で、とても良い感じ。
最後の機会になったこの夕方、ルーブルを早めに切り上げ、立ち寄ってみた。 |
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シテ島のノートルダム寺院とよく似た外観とステンドグラス窓。素敵だなあと撮影したものの、塔の左側は第一区役所の建物なんだとか。教会は塔の右側の建物だった。
14〜16世紀、王家の教会として多額の寄進を受けて繁栄した。1572年に起きたサン・バルテミーの旧教徒による新教徒の虐殺は、この教会の鐘を合図に始まったという。 |
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入口は閉ざされていて、少し入るのに躊躇してしまう雰囲気。
柱には天使の彫刻が施された器が。中には水が入っていた。聖水か? |
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内部は、ノートルダム寺院を小規模にしたような感じ。ゴシック様式の梁天井、その奥のステンドグラス、思っていた以上に素晴らしい教会だ。ノートルダム寺院より明るく、素材が白っぽいので、とても美しいという印象である。
見学目的の観光客は皆無で、2〜3人が椅子に座って祈りを捧げているだけ。ひっそりと静まりかえり、なんとも厳かな雰囲気である。 |
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| 上2枚は、入ってすぐの左右上部にあるステンドグラス。 |
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| 上2枚は、奥側のステンドグラス。 |
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1572年のサン・バルテミーの虐殺は、1559年に亡くなったアンリ2世の王妃、カトリーヌ・ド・メディシスが裏で糸を引いていたと言われている。
当時のフランスは宗教戦争の真っただ中にあり、旧教徒(カトリック)と改革を唱える新教徒・ユグノー派(プロテスタン)が対立し、血なまぐさい闘争を繰り広げていた。
カトリーヌ王太后は初めのうち、カトリックである政敵ギーズ家の勢力を弱めるため、プロテスタンのブルボン家に肩入れをし、両勢力のバランスを取ろうと計った。
アンリ2世の後を継いだフワンソワ2世は15歳、妃のメアリ・スチュアート(スコットランド女王)と、その叔父ギーズ公爵のいいなりであった。プロテスタン弾圧は熾烈を極めた。
1年後、病弱なフランソワ2世が死去すると、かわって10歳のシャルル9世が即位する。摂政の地位に就いたカトリーヌはギーズ家の台頭を抑え、政治的権力をふるい始めた。
カトリーヌはカトリックとプロテスタンの融和を図るため、シャルル9世の妹マルグリットと、プロテスタンであるナヴァール王家アンリ(ブルボン家)との婚姻を取り結ぶ。
1572年8月24日のサン・バルテルミーの日、結婚を祝うためにパリに集まっていたプロテスタンの中心人物や貴族らが襲撃を受け、虐殺された。
一説には、プロテスタン勢力の拡大を恐れたカトリーヌがギーズ公と結び、王にプロテスタン虐殺の勅命を出させたとも言われている。
虐殺は祭りの鐘を合図に行われた。犠牲者の数はパリだけでも3千〜4千人、フランス全土では1千人、あるいは1万人とも(ずいぶん開きがあるが)言われている。
わたしは、カトリーヌはカトリックとプロテスタンの勢力を噛みあわせ、均衡をとらせつつ乗り切っていくという策をとっていたはずだと思うので、彼女がこの大虐殺を指示したとは思いたくない。あるいは、プロテスタンの勢力増大により、新教徒であるイギリスになにか不穏な動きでもあったのか・・・。真相のほどはわからない。
翌日、レンタカーでサン・ドニ大聖堂を訪れたわたしは、王家の霊廟で再びこのカトリーヌに出会うことになる。
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