5日目ホテル・ナポレオン part2
 フランスに来て5日目の朝である。
 7時に朝食を取るため、昨夜と同じレストランにやってきた。
 コンチネンタルスタイルのため、かりかりベーコンや暖かいスクランブルエッグはなし。でも、サラミや穴の空いたチーズ、ハムなどが非常においしくて何度となくおかわりをした。さすがに酪農国家フランス、この手のものはスーパーで買った安いのでも非常においしいのである。
 クロワッサンもとてもおいしかった。
 昨夜と同じテーブルでエレガントな朝食をとるわたしたち。
 お皿にはナポレオンの紋章が入っている。
 ロビーでは紋章入り食器セットがかなりのお値段で販売されていた。お皿2枚くらいで売ってくれたら、買ったかもしれない。
 上から見た中庭。静かでとてもいい雰囲気。
フォンテーヌブロー城 part3
 朝食後、昨日から3度目のフォンテーヌブロー城見学に出かける。今回も娘は留守番すると言うので、部屋に置いていくことにした。娘にとってお城や宮殿は、歩くばかりで楽しいことのない場所でしかないようだ。
 見学の途中で疲れただのジュースが飲みたいだのと言われても嫌だし、はたまたヴェルサイユ宮殿のときみたいに迷子になられても厄介なので、残念だが引き下がることにする。
 昨日と同じ「ディアナの庭園」の小径を通る。
 昨日は見かけなかったシロクジャクのつがいが、先導するかのように前を歩いていた。
 ところで、フォンテーヌブロー城というとフランス好き以外にはあまり馴染みのない名所だろうと思う。しかし、この城ではフランスの歴史上重要な出来事が数々起こっている。
 フランソワ1世は、この城をルネッサンス様式の華麗な宮殿に増築した。熱を入れて建造したシャンボール城より、彼は次第にフォンテーヌブロー城の方に魅了されていって、シャンボール城から足が遠のいた。
 また、レオナルド・ダ・ヴィンチの名作「モナ・リザ」はダ・ヴィンチの死後、フランソワ1世によってこの城に飾られていた。
 ダ・ヴィンチはフランソワ1世によってイタリアから招聘され、アンボワーズ城近くの「クロ・リュセ」という館で暮らしていた。その死後、フランソワ1世が「モナ・リザ」を所有したというわけである。
 その後、いつのことかはっきりわからないが、「モナ・リザ」に魅せられた使用人がそれを盗み、くるくると丸めてベッドの下に隠したという。
 やがて「モナ・リザ」はベッドの下から発見され、ルーブル美術館に保管された。その使用人はどんな処罰を受けたのであろうか。
 それから、ルイ16世の父親・ルイ王太子が亡くなったのはこの城であった。
 ルイ王太子が生きていれば彼が王位を継承し、王に向いていなかったルイ16世とは違った王家の歴史が創られていったかもしれない。
 もしかしたらフランス革命も起きなかったかも、という仮定は無意味なものには違いないが。
 また、ナポレオン1世の退位が決定されたフォンテーヌブロー条約が締結されたのも、この城であった。ナポレオンは城の一室で退位を言い渡され、エルバ島に流される日の朝、「馬蹄形の階段」で別れの演説をした。
 そして、愛した城に二度と戻ることはなかった。
 さて、9時半になったので入場口から館内に入る。
 しかし、ここの入場口、ぱっと見ただけではどこなのかわからない。看板とか標識といった親切なものがほとんどないので、カンに従って行動するよりない。
 ちなみに見学者入り口は、上の全景図の「ルイ15世翼」の真ん中(文字があるところ)となっている。
 わたしと義母はほとんど一番乗りで入場し、パリ・ミュージアム・パスでフリー入場することができた。
 ルイ15世翼 
 だが、日本語のオーディオガイドを借りようとして、10分近くもロスすることになってしまった。
 実は、入り口の券売窓口で「オーディオガイドを借りたいんですが」と申し出ると、廊下の突きあたりにあるクロークみたいなところに行けと指示された。
 そこで行ってみると、今度は「窓口に行って」と言われる。ここは貸し出し所なので、まず窓口でお金を支払わないといけないのだ。
 行ったり来たりしては義母が疲れるので、そこの椅子で待っててもらい、わたしは再び窓口の方に戻った。
 だが、窓口の女性では同じことを言われると思い、廊下に立っている支配人のような男性職員に訊くことにした。彼は女性客とおしゃべりしていて、親しい間柄なのか、おしゃべりはなかなか終わらなかった。
 ようやく終わったので、同じことを彼に申し出た。
 わたしは、なにも無料にしてくれとは言っていない。「お金は支払います」と伝えると、「1ユーロだが、いいか?」と彼。
 もちろんOKに決まっている。1ユーロなんて安い方だ。たいてい4ユーロとか8ユーロとかするんだから。
 彼は、窓口の女性に「オーディオガイドの券を売るように」と指示してくれた。
 もしかすると一般の入場券を買った人が1ユーロをプラスして、オーディオガイドを借りられる仕組みのようだった。わたしのパリ・ミュージアム・パスだと入場は無料だが、オーディオガイドは借りられない。そういうことのようだった。
 それを、この髭の紳士は特別に(?)一般客と同じ1ユーロで借りられるようにしてくれたのだ。
 再び廊下の突きあたりまで行き、チケットを出してオーディオガイドを借り受ける。
 階段の下で待っていた義母とともに、「ルイ15世翼」の階上へと上がる。
 1866年から1868年に建造された階段は、大理石風のスタッコという素材でできているそうだ。
 大住居棟 
「暦の回廊」の控えの間
 
 ナポレオン3世は1867年の万博で、「芸術家」と題するローラン・シャルル・マレシャル作のステンドグラスを購入した。
 皇帝のイニシャルと日付の部分を加えて大きくした後、1869年にここに飾られた。
 オーディオガイドを聞きながら、回廊を進む。
 様々な絵画が飾られ、第二帝政時代末期の部屋の様子を示している。
「絵皿の回廊」
 
 ルイ・フィリップ時代の1840年に作られたこの回廊は、宮殿のこの部分を通りやすくするためにテラスのあった場所を改装したもの。
 ルイ・フィリップは、ルネッサンス様式の板張りにセーブル陶器の絵皿128枚をここにはめた。
 これらの絵皿には宮殿や森の景観、この地で起こった出来事、国王の結婚、王室の他の館やルイ・フィリップが訪れた外国の風景などが描かれている。
 天井や壁には画布から漆喰に移し替えられた油彩画が描かれている。この油彩画はもともと「ディアナの回廊」にあったものだという。
 ルネッサンスの部屋 
「フランソワ1世の回廊」
 
 王の住居棟と、聖王ルイが城の横に建てた三位一体礼拝堂とをつなぐ目的で1528年に建てられた翼館の中にある回廊。
 その装飾にあたり、フランソワ1世はミケランジェロの心酔者であったイタリア人芸術家ロッソを招いた。
 ロッソはフランスやイタリアなどから画家や彫刻家を集め、羽目板にフレスコ画やスッタコの彫刻を施す装飾パターンを展開した。
 ところどころにフランソワ1世の頭文字「F」を装飾したものや、彼の紋章であったサラマンダ(火とかげ)の彫刻が見られる。 
 回廊は長さ60メートル、幅6メートル。完成した当初は両側に照明があった。
 1785年に翼館を増築した際、北側に窓が作られた。
「舞踏会の広間」 
 フランソワ1世の時代に着工された、ルネッサンスの香りいっぱいの大広間。ルイ13世の時代まで、そしてその後、19世紀になってからもこの部屋で多くの祝宴や祭典が催された。
 広間の長さは30メートル、幅は10メートル。
 大型のガラス窓が10個あり、北側は宮殿最古の楕円形の中庭に面している。
 フレスコ画や絵画による装飾は1550年代、ニコラ・デルラバーテらがプリマティッチョの下絵を元に行ったもの。
 フレスコ画の中心テーマは神話と狩り。数世紀を経て痛みが激しくなったため、数回にわたって修復されている。
 広間の随所には、フランソワ1世の息子、アンリ2世のイニシャル「H」が刻まれている。彼は父親に引き続いて城の装飾に力を入れ、未完だったこの部屋を舞踏の間とした。
 王のイニシャルには、必ず王妃カトリーヌ・ドゥ・メディシスの「C」か、愛人ディアヌ・ドゥ・ポアティエの「D」の文字が添えられている。
 暖炉はドロルムの作で、その両側にはブロンズ製の男性の像がある。フランソワ1世時代に、プリマティッチョが古代彫刻を鋳造複製したものである。これはフランス革命時代に溶解されてしまったが、1966年に復元された。 
 
 華麗な天井。
「エタンプ公妃の寝室」
 
 フランソワ1世の寵姫だったエタンプ夫人の寝室だったところ。壁のフレスコ画とスタッコ装飾は、1541年から1544年にかけてアレキサンダー大王とロクサーヌの物語をテーマに作られた。
 1749年にルイ15世のために階段へと改装された。

 
 もともと王の寵姫の寝室だっただけに、壁と天井の装飾がひじょうに見事だ。
 
 「自然」と題された、トリボロ作の代理石像。1529年、フランソワ1世のために発注された水盤の支柱。
 おっぱいがたくさん付いている。
 王の大住居棟 
「衛兵の間」
 
 国王や王妃が宮廷生活を送った一連の部屋は「大住居棟」と呼ばれる。入室の際には礼儀作法(エチケット)が求められ、宮廷人の地位によって入室できる部屋が決まっていたという。
 この部屋は、入室者をチェックする国王の衛兵の間として使用された。
 1834年から1836年に行われたルネッサンス様式の壁面装飾は、16世紀から17世紀にわたる歴代の君主、フランソワ1世、アンリ2世、アンリ4世、ルイ13世に関係したもので満たされている。
 そこには彼らの紋章、彼らとその王妃のイニシャル、エンブレムと銘句、勝利した戦闘名とその年月日が記されている。
 第二帝政時代には食堂として使用され、家具調度品はそのとき置かれた。
 暖炉の上には、アンリ4世の彫像が飾られている。1600年頃の作品。
「聖王ルイの第1室」
 
 聖王ルイ(ルイ9世)の滞在を偲んで名前をつけられた2つの部屋。中世から16世紀にかけて「国王の広間」と「国王の寝室」があった。
 17〜18世紀には、国王の公式晩餐の際の配膳の間と食堂として使われた。
 奥に見られる騎馬像は「騎馬姿のアンリ4世」。1600年頃の大理石浅彫りで、ジャケ作。
 アーケード型にくりぬく構成はルイ15世が造らせたもの。内装と天井の格子模様は当時のものだが、1800年代に金箔や絵画などで装飾され、豪華になった。
「ルイ13世の間」
 
 1601年9月、のちにルイ13世となる赤ん坊が誕生した。
 父親であるアンリ4世はこの慶事により部屋の装飾をリニューアルし、ギリシャ神話の物語をテーマに壁と格間天井を飾る絵画を仕上げた。
 ルイ14世時代、国王の夜食後に廷臣の一部がこの部屋に集まった。
 ルイ15世の時代は国王の執務室として使用され、王はここで公務や謁見を行った。やがて控えの間として使用されるようになり、4つの大扉が拡張された。
 家具調度は17世紀と19世紀のもので、第二帝政時代にこの部屋がサロンとして使用されるようになった際、ここに置かれた。
「フランソワ1世の間」
 
 16世紀、フランソワ1世の2番目王妃エレオノール・ドートリッシュ(カール5世の娘)のために作られた寝室だった部屋。
 1565年頃に控えの間となり、17世紀と18世紀には王妃の「公式晩餐の間」や「コンサートの間」になり、帝政時代には食堂として使用された。
 暖炉と天井は16世紀のものが、そのまま残っている。
「タペストリーの間」
 
 長い間、「王妃の衛兵の間」として使用されていたが、ルイ・フィリップの時代に広間となった。北フランス産の樅の木を使用したルネッサンス様式の天井画新たに作られ、タペストリーで飾られた。
 これらのタペストリーは17世紀、パリで織られたもの。
「ディアナの回廊」
 
 もともとはアンリ4世の時代に王妃のために建てられた部屋であった。その装飾はディアナの神話と国王の戦勝を中心としたものとなっている。
 19世紀初めに廃墟と化していたものをナポレオン1世が再建し、王政復古時代に新たな装飾が完成した。
 1858年、ナポレオン3世によって図書室に改造された。
 図書室となった回廊には、かつて城内のサン・サチュルナン礼拝堂にあったナポレオン1世の図書室の1万6千冊近くの蔵書も所蔵されている。
 1861年にここに置かれた地球儀は、もとは1810年にナポレオン1世のために制作され、チュイルリー宮殿で使用されていたものである。
 回廊の長さは80メートル、幅は7メートル。中には入れず、見学者は手前の位置から覗き見るだけになっている。
「白の間」
 
 ここはマリー・ドゥ・メディシス(アンリ4世王妃、ルイ13世の母)のためにデュボアが装飾した小部屋であったが、ルイ15世の時代に取り壊された。
 現在の部屋は1835年にルイ・フィリップが王妃マリー・アメリーの小サロンとして改装したもので、ルイ15世時代の木彫り細工とルイ16世時代の暖炉が使われている。
「王妃の遊戯室」または「皇后の大広間」
 
 もともと「王妃の大執政室」と呼ばれたこの部屋では公的な謁見が行われ、コンサートが催された。
 マリー・アントワネットは1786年、建築家ルソーに命じて新古典様式の装飾に改装した。広間は王妃の遊戯室として利用されるようになり、それが部屋の名称となった。
 広間には12のテーブルがあり、ロトやプレランなど様々なゲームが行われた。
 帝政時代になると、この部屋は「皇后の大広間」となり、厳格な礼儀作法に合わせて家具調度品が新調された。
 天井画には美の女神たちに栄冠を与えるミネルヴァが描かれている。
「皇后の寝室」
 
 16世紀末から1870年まで王の妃たちの寝室として使用されていた。
 ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌのために改装された時代や、最後の皇后として住んだナポレオン3世皇后ウージェニーの時代が偲ばれる。
 この部屋の壁布は1790年頃にリヨンで作られ、1805年からこの寝室で使用された。
 1968年から1989年にかけて、当初の形をもとに縫い直された。その図柄は菱形の水草模様に囲まれた4つのモチーフで構成されている。
 この寝台はマリー・アントワネットのために作られたものだが、結局彼女はこれを一度も利用することはなかった。
 帝政時代、ナポレオンは2番目の皇后であるマリー・ルイーズに、昼夜を問わず女官と一緒にいることを礼儀作法(エチケット)として課した。
 これは想像だが、ナポレオンは若い妻が浮気することを恐れたのだと思う。
 デュラン将軍の回想録によると、「宮廷が移動するときはいつも第一女官長が皇后の隣の部屋で眠り、皇后の部屋に行くにはどうしてもその部屋を通らねばならなかった」という。
「王妃の私室」
 マリー・アントワネットの希望により遊戯室と同時に改装された、隠し部屋的な私室。大住居棟の宮廷生活と一線を画しながら、アントワネットはこの部屋で暮らした。入室を許されたのはごく親しい仲間だけであった。
 ヴェルサイユ宮のプチ・トリアノンや「王妃の里村」で、堅苦しいしきたりから逃避して暮らしたアントワネットの性格傾向が、ここでも見ることができる。
 壁の装飾は古代ポンペイ様式と呼ばれるもので、ヴァチカンにあるラファエルの外廊を真似たもの。
 1786年のマリー・アントワネットの滞在のために、この私室は巻き込み蓋付き机、鉄や金箔張りブロンズ、螺鈿でできた裁縫台、椅子などの家具調度類、木工細工などが装飾された。
 この年が、アントワネットのフォンテーヌブロー滞在最後の年であった。
 フランスのみならずヨーロッパを震撼させたフランス革命は、この3年後に勃発する。
「玉座の間」
 
 アンシャン・レジーム(旧体制)時代、この部屋は王の寝室だった。1808年にナポレオン1世がここを「玉座の間」に変えた。
 通常、毎週日曜日にここで推薦の儀式や宣誓の儀式が行われた。
 装飾にはいくつかの時代のものが含まれており、天井の中央部分、壁の羽目板、ペジメント付き扉は17世中頃のもの。残りの木工細工部の装飾は1752年から1754年にかけて施されたもの。
 家具調度品の多くはナポレオン時代に置かれた。
「会議の間)
 
 ルイ15世の時代に「会議の間」となり、現在のような広さと形になった。ここで王は国事を司った。
 現在の家具調度はナポレオン1世のために発注されたもの。ダマスコ織り、ブロケード織り、および絨毯は本物を模して織り直された。
 ナポレオン1世の住居棟 
「皇帝の寝室」
 
 ルイ16世のために建てられた翼館にあるこの部屋とそれに続く部屋は、国政を司る部屋と区別するため国王の私室住居と呼ばれていた。
 その後、ナポレオン1世の時代に皇帝の住居棟となった。1808年にナポレオンがこの部屋を寝室とし、それ以降1870年まで歴代の君主の寝室となった。
 木工細工、暖炉、彫刻を施した扉の枠、扉上部の額縁装飾などは1786年のものである。
「皇帝の小寝室」
 
 実際にはナポレオン1世の執務室であった。金箔張りブロンズ製の王冠型天蓋付きの鉄製寝台は、この部屋を第2寝室として使用することを望んだ皇帝の意向に沿って、1811年に置かれた。
 ナポレオンはここで執務をこなしながら、小刻みな仮眠をとったという。
「皇帝の私室」
 
 1814年4月6日、ナポレオンは「退位の間」とも呼ばれるこの部屋で退位を決意した。
 ファン男爵はその際、副司令官らに囲まれた皇帝が発した言葉を次のように記している。
 「諸君は休みたいだろう。では休むがいい! 残念なことだ! 羽布団の寝台で諸君が味わうことになる悲しみや危機がどれほどのものか、諸君は気づいていないのだ!」
 シャンデリアは水晶製で、ショーモン作。
 部屋の内装を含めて、すべてが皇帝が暮らしていた当時のままであるという。
「浴室の通り抜け」
 
 ルイ16世の「英国風の場所」があったところに、1806年にナポレオン用の浴室が設置された。
 壁面装飾は1985年から1988年に復元された。マホガニー製の椅子は当時のもので、帝国時代の習慣に従って白の面の布地で補強されている。
 ナポレオンは深夜の執務時に風呂を好み、朝5時に仮眠をとり、遅くとも7時には目を覚ましたという。
 様々な暦を示す時計盤が9枚連なりあって構成されたナポレオンの時計。
 三位一体礼拝堂 
 6世紀に聖王ルイ(ルイ9世)が建てた礼拝堂を三位一体修道会が引き継いだ。装飾の主な部分はアンリ4世とルイ13世時代のもの。
 昨夜、わたしが30分も並んだ不思議なコンサートを拝聴した場所である。
 ヴォールト天井の絵はアンリ4世の命を受けた画家マルタ・フレミネの作品。「ノアの前への神の出現」から「最後の審判のキリスト」、「受胎告知」まで、人間の贖罪をテーマに描かれている。
 ←↑国王と王妃は1階に降りる大祝祭の日以外は、この階上席でミサに参列した。
 
 さて、これで一般の見学コースが終了した。
 日曜日だったので混んでいるのではと心配したが、驚くほど空いていてゆっくり見学できた。
 他に「ルイ15世翼」にある「皇后ウージェニーのサロンと中国博物館」、「ナポレオン1世博物館」があるが、これは別のガイド付きの有料見学コースでしか見学できない箇所らしい。

 外に出ると、「白馬の庭園」にナポレオン時代の軍服を身をまとった一軍が現れ、掛け声にあわせて行進した。背中にリュックを背負っているので、遠征の時のスタイルのようだ。
 いったいなんのイベントだろうか。
 こちらは将軍とか元帥といった偉い人たちらしい。「馬蹄形の階段」の前に立ち、将兵らの到着を出迎える。
 フォンテーヌブロー城を立ち去ろうというときに、おもしろいものを見学できた。
 義母とわたしは城を後にし、午前11時少し前、ホテルに戻った。
 わたしたちはすぐにチェックアウトできるよう荷物をまとめておいたので、ただちに階下へ降ろし、チェックアウトを行った。
 ポーターさんのいないホテルなので荷物の運搬は大変だったが、フォンテーヌブロー城に近いのはたいそう便利だった。わたしみたいに3回も足を運ぶ人間にはうってつけだ。
 しかし、バスルームの照明が点灯しないのを指摘したのにも関わらず、修理の人はとうとうやってこなかった。フロントの女性は「わたしの仕事が11時までで、それまでここを離れられない。終わったら伺う」と話していたが、12時過ぎまで待っても彼女は現れなかった。
 そういう点では大きなマイナス。たった一晩の客とはいえ、ちゃんと対応して欲しかった。
 また、朝食もホッとビュッフェだったら、もっとポイント高かっただろうと思う。


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