4日目 フォンテーヌブローへ
 ディズニーランド・パリを後にしたわたしたちは再びハイウェイに乗り、来た道をいったん引き返した。
 そしてハイウェイを乗り継ぎ、フォンテーヌブローへと向かう。ディズニーランド・パリからの距離は約70キロである。
 フォンテーヌブローはセーヌ・エ・マルヌ県、パリの南約90キロほどのところにある街で、11世紀から歴代の王が狩猟を楽しんだ広大な森に囲まれている。
 約250平方キロメートルにも及ぶ森の中心にあるフォンテーヌブロー城は、フランスで最も大きな宮殿だ。1981年、「フォンテーヌブローの宮殿と庭園」としてユネスコ世界遺産の文化遺産に指定されている。
 森を貫く一本道を通って、街に到着。古い建物が連なる小さな街で、大きなビルはない。
 道も狭くてちょっと渋滞気味だ。
 小さいが素敵な邸宅も建っている。
 フォンテーヌブロー城は、もとは王族が狩猟をするときに滞在する別邸として建てられたものだった。
 フランソワ1世の時、城は豪華絢爛たるルネッサンス様式の大宮殿へと生まれ変わった。イタリア遠征で本場ルネッサンスの芸術や建築に魅了された王は、ロワール地方のシャンボール城など数々の城を造らせた。
 フォンテーヌブロー城は建築オタクだったフランソワ1世の集大成とも言える。
 ナポレオン1世もこの城を愛し、革命の影響で荒れ果てた城をこまめに修理した。
 1814年、敗北したナポレオンが退位を言い渡されたのもこの城の中であった。 
ホテル・ナポレオン part1
 街の中心であるグランド通りを走ると、やがて今夜泊まる「ホテル・ナポレオン」の前を通り過ぎた。
 あっいけない、行き過ぎちゃった。
 数十メートル先をUターンして戻る。
 やれやれ無事に着いた。最後はちょっと行き過ぎちゃったけど、今回も迷わず到着できたよ。ネバー・ロストのお陰だね。
 しかし、ホテル前に横付けしようとするが、植木鉢でガードされていて舗道に乗り上げることができない。
 これじゃあ車寄せって言えないじゃん。おかげで道路を半分占拠して荷物を降ろすハメになった。渋滞を作ってしまったが、許してね。
 このホテル・ナポレオンは3ツ星クラスで、フォンテーヌブロー城のすぐ近くにある。
 選ぶ際、なにより重視したのは立地で、歩いてフォンテーヌブロー城に行けることが第一条件だった。
 Booking.comでも予約できたがトリプルの選択がなかったので、公式サイトから予約フォームを使って直接予約した。24カ国語対応の広汎な予約システムで、日本語で予約することができる。韓国語まで選択でき、小さなホテルのわりにはHPに力を入れているようだ。
 ホテルのロビー。なかなかゴージャスで綺麗だ。あちこちにナポレオンの絵が掲げられているが、彼が滞在したというわけではない。
 フロントでは愛想のよい女性が一人で番をしていた。ポーターはいないようで、わたしが「誰かに荷物を運ばせてもらえますか?」と頼むと、「わたしがお手伝いします」という答えだった。
 そこで彼女と義母らにあとを任せ、わたしは車を置きにホテルをいったん出た。
 ホテルに駐車場がないので、わたしは地下の公共駐車場に停めるよう言われていた。
 またもやパリと同じパターン。今度も恐い場所じゃなければいいけど・・・と思いつつ恐る恐る入っていくと、恐くはなかったが駐車スペースがまったく空いていなかった。
 非常に広く、地下3階くらいまである大規模な駐車場だが、完全に満車だったのである。
 地下2階から地下3階をぐるぐるまわりながら、地下1階へと戻る。
 小さな街なのにこんなに混んでいるのは、やはりフォンテーヌブロー城のすぐ近くだからだろう。
 はてどうしたものかと、地下1階でいったん停まる。このあたりで誰かが出てくれるのを待つより他はないだろう。そう思案していると、やがて一人の女性が歩いてくるのが見えた。
 わたしがいる場所から近い、柱の陰にある角っこの車に乗りこもうとしているようだ。
 しめた、と思って見ていると、彼女が軽くうなずいてくれた。
 出るわよ、と言っているようだった。わたしも笑顔でうなずき返した。
 女性の車が出た。
 しかし、そこは非常に狭いスペースだった。まわりのメルセデスなどの大きな車がレーンをはみ出して停まっており、太い柱も邪魔をして縦のラインからは入れられない。
 彼女の車がコンパクトカーだから停められたような感じで、わたしのセダンでは無理がありそうだ。
 だが、この場所を逃したくはない。縦のラインではなく、柱の横から縦列駐車の要領で入れればなんとかなるかもと思い、何回も切り返しをして少しずつ入れることにした。
 だが、慣れない車でバックバンパーの距離感が掴めないし、隣のメルセデスにぶつけてしまいそう。いったん降りて柱との距離を確認し、こりゃ無理かなあと溜息をつく。
 運転席に戻り、切り返しを再開した。
 それにしても「渡る世間に鬼はなし」とは、よくぞ言ったものだ。
 通りすがりの紳士がどこかの車から降りてきて、いったんは外に出ようとした。もう出口に手をかけて奥さんと一緒に出るところだったのに、ふとこちらの窮状を見てとるや、彼は戻ってきた。
 そして、なんと誘導を始めたのだった。
 心から感動した。
 彼は「あともうちょっと」「ストップ」などと隣の車との間合いを確認してくれて、手助けしてくれた。
 お陰で、数十回の切り返しのあげくにプジョーが入った。
 あとで見たら、柱とメルセデスとのあいだはそれぞれ数センチずつ。そんなぎちぎちのスペースに、よく横から入れられたと思う。
 わたしは窓から顔を出して、彼と奥さんにフランス語と英語の両方で礼を言った。(相手がイギリス人かもしれないので、念のため)
 彼がいなくても時間さえかければ入れられただろうけど、手助けしてくれた親切さがとても嬉しかった。
 ホテルに戻った。エレベータで階上に上がると、廊下にはなぜか鳥のエサの匂いがたちこめている。
 ドアをノックすると、娘が開けた。
 部屋は広かった。ダブルベッドにエキストラベッドが一つずつ。
 娘はエキストラベッドの方で寝たいと主張し、わたしは義母と一つのベッドで寝ることになった。
 しかし、バスルームをチェックして、電気がつかないことに気がついた。
 わたしは義母とフォンテーヌブロー城に行く前フロントに立ち寄り、先ほどの女性に電気がつかないことを告げた。
 そして、城は何時まで見学できるか訊いた。
 このとき時刻は4時ちょっと過ぎ。ガイドブックによると5月までは5時で閉まるとのこと、これでは見学できない。
 しかし、わたしのガイドブックは一昨年のものなので、ひょっとしたら変更になってないかなあと思って尋ねてみたのだ。
 彼女は観光パンフレットを引っ張り出し、城のインフォメーションを調べてくれた。
 それによると5時で閉まるが、特別にナイト・ミュージアムがあるとのことだった。夜間開場みたいなものだろうか。
 そう思って、近いこともあるし、義母と歩いて城に向かうことにした。娘は部屋にお留守番だ。
 最初は一人で行こうと思ったのだが、義母も行きたいと言うので、二人で行くことになった。本当にタフな人である。
フォンテーヌブロー城 part1
 グランド通りに出て少し歩くと、鉄の門があった。壮大華麗な城の門にしてはしょぼいが、きっとここだろうと思って中に入ってみる。
 中はひっそりとした庭園になっていた。鳥の声が鳴り響き、緑の香りが清々しい。
 ここは「ディアナの庭園」と呼ばれるところで、広大なフォンテーヌブローの庭園のほんの一角に過ぎない。
 「白馬の中庭」と呼ばれる中庭に出た。フォンテーヌブロー城にある4つの中庭のうちの一つである。
 ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの騎馬像の複製がここに置かれていたことに由来し、その名がある。
 かつてはここにルイ9世が建てた古い修道院があった。ルイ9世はカペー朝第9代国王(1214年〜1270年、在位1226年〜1270年)で、非常に信仰の篤い理想的なキリスト教徒の王であった。その死後、カトリック教会によって列聖され、Saint-Louisと呼ばれた。
 日本語のガイドブックには聖王ルイと書かれている。
 複製の騎馬像はカトリーヌ・ドゥ・メディシスの時代に設置されたが、1626年に撤去された。
 現在宮殿の入り口となっている「馬蹄形の階段」の下では、1814年4月20日、エルバ島に流刑となるナポレオンが、彼の親衛隊に向かって別れの演説をした。
 この階段、1632年から2年かけて、痛みがひどかった16世紀の階段を取り壊して建て直したもの。
 「馬蹄形の階段」に登ってみる。左が「ルイ15世の翼館」と呼ばれる翼館だ。
 下の画像はフォンテーヌブロー城の売店で買ったガイドブックから転載したもの。「ルイ15世翼」とは反対側の翼館が写っている。
 
 「馬蹄形の階段」から見た風景。
 レンガと石造りでできた「ルイ15世の翼館」。1739年から1740年、さらに1773年から1774年にかけて建てられた。
 もとからあった16世紀の古い建物を壊して建て替えられたもので、歴代の王たちはこのように自分好みに改築・改装してきた。 
 正門側から全景を見る。
 ところで、「馬蹄形の階段」上の入り口は閉まっていて、入ることができなかった。他の入口を捜して庭園を歩き、やっと見つけたドアのところで男性職員に尋ねる。
 「入り口はどこですか?」
 すると彼は「4時半で閉まりました」と、済まなそうに答えた。そして、「このあと夜9時からナイト・ミュージアムがある」と教えてくれた。

 城の中に入れなかったので、イギリス式庭園の方に向かって散策してみることにした。
 途中、ジェラートの屋台があった。
 このまま帰ったのでは悔しいから、ひとつジェラートでも食べてみようか。
 義母も食べたいというので、ふたりで1コずつ買ってみた。わたしのはカシス。
 おいしかったが、ちょっと寒くなってしまった。
 
 「鯉の池」に出た。名前はアンリ4世の時代にフォンテーヌブローに持ってこられたとされる鯉に由来している。王はロレーヌ公シャルルから贈られた60匹の鯉を、この池に放したという。
 16世紀からこの池は祝祭の舞台となり、水上槍試合や花火大会が行われた。池の中央にあるあずまや(パヴィオン)はルイ14政治代の1662年、ル・ヴォーによって建造されたもので、ナポレオンの時代に修復されている。
 ここでは国王や王族に夜食が用意された。
 1717年には、ロシアのピョートル大帝がここを訪れたという。
 イギリス式庭園は18世紀のイギリス式庭園の伝統を生かして1812年頃に改造され、現在の形になった。

 わたしたちはいったんホテルに戻り、今度は娘を連れて再び街に出た。
 ファーマシー(薬局)に行って足に貼る湿布薬を買うのが目的だった。
 義母が整形外科でもらって持ってきていた湿布薬は2袋あったが、毎日2回ずつ交換していたため残り少なくなってしまったからだ。
 だが、教会を見ると信者でもないのにフラフラと入りたくなってしまうわたしは、このときも例外なくサン・ルイ教会に足を踏み入れていた。
 先に述べたルイ9世、聖王ルイの名前を冠した教会である。 
 内部はあっさりとシンプルながらも厳かな雰囲気。信者がたくさん集まっていたのでウロウロできず、すぐに出ることにした。
 ファサードの上部には聖人の彫像が収められている。中央がおそらく聖王ルイであろうと思う。

 グランド通りにファーマシーは2軒ほどあった。わたしはホテルのすぐ前にあるファーマシーに入り、「湿布ください」と言った。しかし、それはほとんど通じなかった。
 電子辞書で「湿布=compress」というのを調べていき、さらに足に貼ってある現物まで見せたというのに、ファーマシーのマダムは初めて見たかのような対応であった。
 フランス人は湿布を知らないのか? という疑問は、モノプリに行って決定的なものとなった。
 モノプリはオールマイティなスーパーで、日常生活に必要なほとんどの商品が売られている。
 カットバンや包帯などが並ぶ医薬品コーナーもある。だが、湿布だけはなかった。
 隅から隅まで探したが、なかった。
 なぜ?
 日本だったら必ず置かれている肩コリ用の温熱シップや痛みを取る冷感シップは一つもなかった。
 以前、「欧米人に肩凝りの人は少ない」という新聞記事を読んだことがある。肩凝り持ちのわたしは「へええ、いいなあ」と思い、その記事を丹念に読んだ。
 それによると、肩凝りのない欧米人でも、封建的な縦社会の伝統が残る日本社会で生活すると、肩凝りを訴えるようになるという。
 人間関係に気を遣う心労が、肩凝りを作り出すのだそうだ。
 だから、労働条件に恵まれた横社会であるフランスで肩凝りになる人は少ない。従って、肩凝りシップを貼る人もいない。そして、それが関係して鎮痛作用のあるシップも存在しない。
 という結論にわたしは達した。
 ところで関係ないが、毛染めだけはやたらと品揃えがよくて感心してしまった。
 わたしもヘアカラーには関心があるのでじっくり見たかったが、今はそれどころではない。
 結局湿布を買えないまま、ホテルに戻った。
ホテル・ナポレオンのディナー
 ホテルに戻ったわたしたちは、7時からオープンするホテル1階のレストランに行く。公式サイトによると名前は「La Table des Marechaux」といい、「元帥のテーブル」という意味のようだ。
 レストランがオープンすると、さっそく中に入り、ウェイターに「先週、Eメールで予約したスギエです」と告げる。
 しかし、通されたテーブルは残念ながら窓際ではなかった。
 そこで、せっかくセッティングされていたのに申し訳ないと思いながらも、「窓際の席がいいんですが・・・」と申し出て、替えてもらった。
 HPでは「荘厳なプライベート・ガーデン」と宣伝している。まあそれほど素晴らしいというほどではないものの、やっぱり中庭に面した窓際は気分がいい。最初に案内された席は奥の壁際だったので、やっぱりこちらに替えてもらってよかったと思う。
 料理もなかなかよかった。HPによると「その季節の新鮮な材料だけを使い、伝統的で洗練された料理を提供している」とのことだ。
 直前までコース料理を頼もうと思っていたが、それほどお腹が減っておらず食べ切れそうになかったので、それぞれアラカルトで注文することになった。
 ←これは義母とわたしが頼んだ魚料理。右端にある緑色のつくしみたいなつけ合わせは、見た目は道ばたに生えている雑草みたい。ねばねばしていて不思議な食感だった。
 娘にはフレンチフライたっぷりのチキン料理。
 
 ←デザートのミルフィーユ。ケーキのように分厚く重なってはいないが、ぱりぱりとしたパイ皮と中のカスタードが大変おいしかった。
 義母が頼んだデザート。チーズケーキなのだが、なんとパフェ形式で登場して驚いた。
 クリームチーズがこってり、とろりとしてたいそうおいしい。
 でも、お腹いっぱいで食べきれなかった。残念だったなあ(義母のだけど)。
 ところで、娘の後ろの席には老夫婦がいた。わたしが英語でオーダーすると、奥さんの方がぱっと振り向いてこちらを見るのが、やけに気になった。
 奥さんが何事か言うのに応えて、ご主人がジャパニーズだかジャポネーゼだとか言ったような気がした。
 睨まれているのだろうか。ただでさえアジア人は声が大きいという評判なので、わたしはかなり気を配って小さな声で会話を交わし、食事をした。
 気難しそうなご主人はそれが地顔なのか、終始不機嫌な顔つきで食べものを口に運んでいた。いっさい笑うこともなく、「ゴッドファーザー」のドン・コルレオーネみたいなしゃがれ声でしゃべる。
 そういえば、顔や雰囲気もマーロン・ブランドみたいだ。
 デザートの時、再び英語でオーダーすると、彼女はやはりこちらを見た。
 もしかしたら、フランスで英語を使うなってガン飛ばしているのかしら!?
 義母はブラックコーヒーを、わたしはカプチーノを飲み、最後にお勘定を頼んだ。
 するとウェイターが「部屋につけておきます」と言うので、わたしたちは席を立とうとした。
 すると、くだんの初老のマダムがわたしに「どちらから?」と尋ねてきた。
 日本から、と答えると、「ほお」という表情になった。
 わたしはそれで、彼女がこちらを気にしていた理由を理解した。
 わたしたちが日本人なのか、中国人なのか、はたまた韓国人なのか、とても気になっていたのに違いない。
 わたしたちがアメリカ人、イギリス人、フランス人を見分けられないように、逆に彼らもアジア人を見分けられないのである。
 わたしは「日本に行ったことはありますか?」と訊いてみた。
 「残念ながら、ないのよ」と、彼女は柔和な笑みを浮かべた。続いて、「わたしたちはフランス人なんだけど、カナダに住んでいるの」と言う。
 カナダのフランス語圏に住んでいるのかと思ったら、英語圏なのだそうだ。英語で生活しているから大変、と言うので、わたしも「わたしたち日本人にも英語は難しい」と言うと、「フランス人にもよ」と彼女は笑った。
 別にこちらに対して悪感情を抱いて見ていたわけではないと知り、わたしはホッとして席を立った。マダムと気難しそうなムッシュに挨拶をして、部屋に戻る。
フォンテーヌブロー城 part2
 部屋に義母と娘を残して、わたしは独りフォンテーヌブロー城に戻った。ナイトミュージアムとやらに行ってみたかったのだ。
 先ほど義母と通った「ディアヌの庭園」入り口の門は、時間外で閉まっていた。さらにずっと歩いて、城の正門まで行く。
 この時、時刻は9時6分。なのにこの明るさ、驚異的な日の長さだ。
 正門をくぐり、庭園を奥に進む。突きあたりにある「白馬の中庭」にある「馬蹄形の階段」を登る。
 階段の上の入り口は開いており、中に入ることができた。ちなみに無料である。
 入り口から奥に進むと、いきなり「フランソワ1世の回廊」に出た。この城でもっとも有名な場所の一つだ。
 この回廊は、王の住居棟と、聖王ルイが城の横に建てた三位一体礼拝堂とをつなぐ目的で、1528年に建てられた翼館の中にある。
 その装飾にあたり、フランソワ1世はミケランジェロの心酔者であったイタリア人芸術家ロッソを招いた。
 ロッソはフランスやイタリアなどから画家や彫刻家を集め、羽目板にフレスコ画やスッタコの彫刻を施す装飾パターンを展開した。
 ところどころにフランソワ1世の頭文字「F」を装飾したものや、彼の紋章であったサラマンダ(火とかげ)の彫刻が見られた。
 
 ※城の内部については翌日の旅行記で詳しくアップします。
 回廊を進み、いくつか部屋を通り抜けた先では四重奏のコンサートが行われていた。
 夜間に公開されていたのは、城の一部だけだったようだ。出てきたのは「泉の中庭」と呼ばれる場所だった。
 これは「美しき暖炉の翼館」という建物で、1565年から1570年頃のプリマティッチョの作。
 その巨大な外階段はイタリア式の手すりで、ヴァチカン宮殿のブラマンテの作品から影響を受けているという。
 「白馬の中庭」に戻ると、階段下のドアのところに長蛇の列ができていた。
 これがナイトミュージアムとやらかもしれないと勝手に思いこみ、わたしは最後尾に並んだ。
 ミュージアムというからには博物館みたいなものだろう。「ナポレオン博物館」かな? と考える。
 だが、ガイドブックの地図にある「ナポレオン博物館」はちょっと離れた場所に位置していた。先ほど行ったサン・ルイ教会の裏手にあたる。
 いま思えば周囲の人に「これはなんの列ですか」と訊けばよかったのだが、もしかして英語が通じないかも、なんて余計な気を回しすぎた。
 もう開くだろう、もう開くだろうと思いつつ、最後までなんの列かわからないまま、わたしは30分も並んでいた。
 10時になって、とうとう扉が開いた。人々がぞろぞろと中に吸いこまれていく。
 わたしはバッグから「パリ・ミュージアム・パス」を取り出して、入り口の職員に見せた。
 すると、わたしの前後の人たちが手を振り、「イッツ・フリー」と報せてくる。
 えっ、無料? と、ここまでは何も疑わず中に入る。
 通されたのは、教会の礼拝堂みたいなところだった。後でわかったのだが、「三位一体礼拝堂」と言い、16世紀に聖王ルイ(ルイ9世)が建てた礼拝堂を引き継ぎ、造られたもの。
 装飾の主な部分はアンリ4世とルイ13世時代のものだという。
 人々が礼拝用の横に長い椅子に座ったので、わたしも空いている席に腰を置いた。
 非常に絢爛豪華な礼拝堂で、天井の装飾などに思わず見とれてしまった。
 この時点までは、いやあこんな素晴らしいところに入れてよかったわあと、真剣に思っていた。
 やがて祭壇の前に、一人の紳士が現れた。
 何事か説明するが、小さな声で聞こえない。というか、フランス語なので聞こえたところでチンプンなのであるが。
 わたしの2列前の夫婦が連れていた1歳くらいの赤ちゃんが、ぐずりだした。大きな悲鳴を上げるが、夫婦は意に介さず説明に聞き入っている。
 説明が終わると、弦楽器を携えた3人の男性が登場した。一人はアジア系であった。
 コンサートでも始まるのか、と思っていると、なにやら説明しながら弦を一本だけかき鳴らしたり、不思議な旋律を奏でたり、とにかく普通のコンサートとはまったく違う状況が進行していた。
 音楽の歴史でも説明しているのだろうか。
 赤ちゃんのぐずり声がますます大きくなってきた。たまりかねた老婦人が振り向いてキッと睨みつけ、何事か注意した。
 それまで平然とぐずる赤ちゃんを抱いていたパパも諦めたのか、赤ちゃんを抱いて退出していった。ママは当然のように残っている。
 フランスの男性は奥さんを大事にするので、育児のこういう大変なところを受け持ってくれる、きわめて優秀なパパでもある。日本だったらこんな場合、90パーセントの確率で赤ちゃんを引き受けるのはママになってしまうことだろう。
 一方、祭壇前では3人の演奏家たちが相変わらず奇妙な演奏を続けていた。
 いや、演奏と呼べるものではない。1人か2人がぎーっと和音を奏でたりするばかり。
 そのうち、観客の中からざわめきと失笑が起こった。
 わたしと同様の失望を味わった人々もいたようだ。数人がさっさと席を立って出て行った。
 それを「信じられない」という非難の眼差しで見送る女性もいる。
 わたしも出たかったが、そのせいで出るに出られなくなってしまった。期待していたのとは北極と南極くらい違いすぎる展開であった。
 いくら待っても、普通の演奏は始まらなかった。
 たまりかねて、とうとう退出した。旅の恥はいっときの恥。って格言、なかったっけ?
 職員が「また戻るか?」と訊いてきたので、「ノー」と答える。
 うううう〜ん。
 あれはいったいなんだったんだろう。いまだによくわからない。
 しかも、あの礼拝堂、翌日の見学でちゃんと入ることができたのだから、わたしが並んだ30分は一体・・・。


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