コンシェルジュリ
 セーヌ川沿いに建つゴシック様式の建物。隣りの最高裁判所やサント・シャペル教会同様、シテ島内にある。
 フィリップ4世(美貌王)によって14世紀始めに王宮として建設され、16世紀までは王室管理府の建物となっていた。
 フランス革命時には牢獄として使用され、延べ4千人もの囚人が収容された。ここから約7割がコンコルド広場のギロチン台へと送りだされたという。
 王妃マリー・アントワネットも最後にはここに収監され、隣りに建つ最高裁判所で裁判を受けた。また、ルイ16世の処刑に賛成した革命の指導者ロベス・ピエールらも抗争に敗れ、ここに収容された末に処刑された。
 その裁判となるや非常に雑で一方的なもので、国民から徹底的に憎まれていたアントワネットなどは最初から有罪が決まっていたようなものだった。
 入ったところにある展示コーナー。いきなり老けこんだマリー・アントワネットの肖像画があった。なんだか普通のおばさんという印象だが、これで38歳だというから、いかに悲劇的な運命を辿ってきたかわかるというものだろう。
 1789年のフランス革命勃発後、パリに連行された国王一家は3年弱をチュイルリー宮で過ごしたあと、国外への逃亡を図った(ヴァレンヌ事件)。だが、国境近くの村で正体がばれ、パリに連れ戻されてしまう。
 この緊張と恐怖のストレス体験により、マリー・アントワネットの髪は老婆のような白髪に変わってしまったと言われている。
 敵国オーストリアへの逃亡を図ったということで、国王への信頼は完全に失墜した。翌年の王政廃止によりルイ16世は王権を剥奪され、ただのルイ・カペーとなった。それまでは立憲君主国という道も残されていたのだが、人心は完全に国王から離れてしまった。逃亡事件は完全な裏目となったのである。
 民衆にチュイルリー宮を襲撃され立法議会場へ逃れたあと、一家はタンプル塔に幽閉される。使用人や料理人も同行したというから、案外優雅なものだ。
 1793年1月、ルイ16世処刑。半年後、次男ルイ・シャルル(ルイ17世)が引き離される。そして8月、マリー・アントワネットは長女マリー・テレーズと義妹エリザベス内親王を残し、裁判を受けるためコンシェルジュリに移送された。カペー夫人と呼ばれていた彼女は、このときから「女囚208号」となる。
 展示コーナーを抜けて、いよいよ監獄エリアへと足を踏み入れる。
 暗がりに人の姿があってドキリとさせられるが、座っていたのは蝋人形である。受付のお役人らしい。
 なんだか豊島園遊園地の「ミステリーゾーン」や、いまはもうない「アフリカ館」を見ているような気分だった。
 牢獄の廊下。部屋を覗いているのは、うちの長男だ。
 各部屋の中を蝋人形で再現したもの。ここはもっとも最低ランクの相部屋で、ベッドがない。床に敷いたワラの上に直接寝るのだ。
 バケツのようなものはトイレである。
 こちらは少しマシなランクの部屋。ベッドがあるだけまだいい。
 これは一番いいお部屋。ベッドはもちろん、書き物用のデスクもある個室である。
 これら部屋のランクは囚人の財産に応じて決められた。カネがなければ家畜以下の扱い、王族や貴族などは個室が与えられた。「地獄の沙汰も金次第」とは、まさにこのことである。
 「自由、平等、博愛」の思想を掲げた革命であるにもかかわらず囚人の扱いが金で決まるというのは、ちょっと矛盾していないだろうか。
 しかし、蝋人形が古びているのはしょうがないが、積もり積もった灰色の砂埃はぜひ掃除してもらいたいもんだ。
通路に掲げられていた肖像画。「Madame de la Motte(1755〜1791)」と題されている。
 マダム・ド・ラ・モットとは、前ページにも書いた「首飾り事件」の首謀者、ジャンヌ・ヴァロア・ド・ラ・モット(自称)伯爵夫人のことである。
 名門ヴァロア家の後裔を名乗るジャンヌは、伯爵号を金で買ったとされるラ・モットと結婚して社交界に出入りし、フランスを揺るがす「首飾り事件」を引き起こした。
 ヴァロア家はカペー家の支流の一つで、1328年カペー朝が断絶したため、ヴァロア泊シャルルの子、フィリップ(フィリップ6世)がヴァロア朝を興した。
 百年戦争がおこり、かのジャンヌ・ダルクによるオルレアン解放、シャルル7世の即位、そして新教徒(プロテスタン)と旧教徒(カトリック)による宗教戦争、アンリ2世の事故死後、カトリーヌ・ドゥ・メディシスが息子の摂政として権力をふるい、サン・バルテミーの虐殺が起こるなどといった事件があったのもヴァロア朝の時代である。13代目のアンリ3世で断絶し、1589年からブルボン朝となった。
 悪事が露見し、裁判にかけられたジャンヌは最高裁判所の中庭で鞭打ちと焼きごての刑を受けた。サルペトリエール監獄に投獄されたが、脱獄してイギリスに逃れた。そのあまりに鮮やかな手口のため、オルレアン公が手引きしたという噂が流れたのは前述の通り。
 ジャンヌは逃亡先のロンドンで「回想録」を発表し、マリー・アントワネットを中傷するなどして世間を騒がせた。1791年、自宅の窓から謎の転落死を遂げる。暗殺されたという噂が飛び交ったが、真相は闇の中である。
 「首飾り事件」のせいで王妃マリー・アントワネットの評判は地に落ち、フランス国民の嫌悪が増大した。まさにフランス革命前夜におこった、王家の屋台骨を揺るがす大事件であった。
 贖罪礼拝堂。アントワネットの遺児・アングレーム公妃マリー・テレーズが王政復古後にフランスに戻り、亡き母を偲んで造らせたもの。
 実はここがマリー・アントワネットの独房があった部屋だということである。
 「5月の庭」と呼ばれる中庭。女囚が散歩を許されていた場所である。
 いつも牢屋の中にいたわけではなく、こうして散歩を楽しみ、時には男の囚人と柵越しに言葉を交わすこともあったという。
 狭くて小さな空しか見ることのできないこの庭で、囚人たちはなにを思って最後の時を過ごしたのだろうか。とても切ない気分にさせられる。
 ちなみにマリーアントワネットは処刑される日、ここから馬車に乗ったのだそうだ。
 さて、ここからがコンシェルジュリの目玉である、マリー・アントワネットの独房の再現コーナーである。
 実は実際に独房があった場所はここではなく、先ほど出てきた祭壇が設けられた部屋になる。
 独房は二つに区切られ、半分を見張りの憲兵が使い、残りが王妃の生活空間にあてられていた。
 小さなベッド、テーブル、椅子2脚、足台が1つあるだけの質素なもの。薄暗い独房の奥には黒いヴェールを被ったアントワネットが背を向けて座っている。
 常に監視の目が光っていたのは、アントワネットが幾度も脱走計画を企ててきたためである。彼女を救出しようとする王党派と手紙や暗号文のやりとりがなされ、手紙が壁の中から発見されたりした。またカーネーション事件といった脱走計画なども発覚したため、こうした窓の少ない闇牢に移され、監視が置かれるようになった。
 心静かに祈りの日々を送ったというイメージを持たれているアントワネットだが、実はけっこう最後まで救出の望みを捨てていなかったのである。
 アントワネットの遺品。愛用していた水差しと十字架である。処刑の日にもこの水差しで水を飲み、断頭台へ向かったという。
 革命裁判で答弁を行うマリー・アントワネットの絵(右)。彼女の罪状はオーストリアと通じて革命をつぶそうとした罪と、息子ルイ・シャルルにみだらな行為をしたという罪だが、その有罪を証明する証拠はなに一つ出てこなかった。
 アントワネットの熱弁により後者の罪は認められなかったが、それでも有罪はあらかじめ決していた。
 死刑判決を受けて独房に戻った彼女は、タンプル塔に残してきたルイ16世の妹、エリザベート内親王にあてて有名な遺言書を書きしたためたのだった。
 左側にある絵は、アントワネットがコンコルド広場に据えられたギロチン台の上で処刑される模様を描いたもの。
 処刑後、アントワネットのなきがらはマドレーヌ墓地に運び込まれ、亡き夫と同じ共同墓地に埋葬されることになった。だが、役人たちは両足の間に首を置いた遺体を草むらに放置したまま昼食に出かけてしまい、ようやく埋葬されたのは2週間後のことだった。
 1814年の王政復古を受けて、国王夫妻の遺体は王家の霊廟サン・ドニ大聖堂に改葬された。マドレーヌ墓地の跡地には、王弟アルトア伯によって贖罪教会が建てられた。
 このアルトア伯は、タンプル塔に幽閉された国王一家の中でただ一人の生き残りであったマリー・テレーズの結婚相手アングレーム公の父。のちにシャルル10世として王位に就いた。
 マリー・テレーズはタンプル塔から出されてオーストリアに渡ったが、意に染まない結婚を拒んでアルトア伯の元に身を寄せ、従兄弟と結婚した。そして、王政復古によって19年ぶりに故国の土を踏み、やがて最後の王太子妃となるのである。
 わかりにくいので王位の順序を書いてみると、こんな風になる。 
ルイ16世→ナポレオン1世→ルイ18世(ルイ16世弟・プロヴァンス伯)→シャルル10世(ルイ16世弟・アルトア伯、マリー・テレーズの舅)
 最後に見学したのが、処刑された囚人の名前を刻んだプレート。コンコルド広場で処刑台に上がったのは2500人を超えるというから、ここにそれだけの名前が刻まれているということになる。
 部屋いっぱいに刻まれた名前の一つ一つにかけがえのない人生があったかと思うと、革命のむごたらしさを改めて感じる。
 この中には、ルイ16世の処刑に票を投じたロベスピエールやダントン、ルイ15世の最後の愛妾デュ・バリー夫人らの名前もある。そして、タンプル塔にあって最後まで国王夫妻やマリー・テレーズの側にいた王妹エリザベート内親王の名前も刻まれている。エリザベート内親王は孤児の少女たちの支援を行うなどした慈善家で、心優しい女性であったという。
 なんの罪も犯していないはずの彼女が処刑されたのも、王の妹に生まれたからに過ぎない。
 マリー・アントワネットが遺言書を彼女にあてて書いたことからも、信頼の深さが偲ばれる。だが、その遺言書もエリザベートの手に渡ることはなく、1794年5月10日に処刑される。
 警吏たちは彼女を哀れに思って最初に処刑しようとしたが、革命裁判所検事タンヴィルはあえてエリザベートの順番を最後にまわした。エリザベートは他の死刑囚がギロチンにかかるのを見せられ、怯えながら待たされたという。
 これもマリー・アントワネット憎しの感情から見せしめにされたのだろう。気の毒なエリザベートは、憎まれ役の兄嫁のとばっちりを受けた最大の被害者かもしれない。



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