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| カトリーヌ・ド・メディシス |
イタリア・フィレンツェの大富豪、メディチ家の娘。1519年4月、ウルビーノ公爵ロレンツォ・デ・メディチを父に、フランス国王フランソワ1世の従姉妹にあたるマドレーヌ・ド・ラ・トゥールを母に生まれる。
生後まもなく両親を亡くし、ローマ教皇クレメンス7世に養育された。
1533年、フランス国王の次男アンリとの婚約が調い、フランスへの輿入れが決定。クレメンス7世は第一王子フランソワと結婚させたかったらしいが、フランス側は「商家の娘」を王太子妃として迎えるのに難色を示し、結局「次男の嫁」に収まったようだ。
アンリはカトリーヌが嫁ぐ前から、19歳も年上のディアヌ・ド・ポアティエを愛人としていた。カトリーヌはなかなか子どもができず、また商家の出ということで蔑まれ、隅に追いやられたような存在だった。
やがて兄フランソワが毒殺され、アンリに王太子の座が回ってきた。このときカトリーヌが黒幕として疑われたらしいが、舅フランソワ1世と大変仲がよかったため取りなしを受けたとされる。
11年間子どもに恵まれなかったカトリーヌだったが、1544年 待ち望んだ長男を出産する。のちのフランソワ2世である。
1547年、フワンソワ1世の逝去に伴い、アンリ2世即位。アンリ2世、カトリーヌともに28歳であった。
子どもも順調に生まれ、10人の子をなした。そのうちフランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世と3人の男子が王位に就いている。
1559年の馬上槍試合で、アンリ2世は頭部に傷を受けて逝去。長男フワンソワ2世が15歳で後を継ぐ。
このときからカトリーヌが摂政として権力をふるったかのような記述があちこちで見受けられるが、当時はまだギーズ公爵家の勢力が強く、カトリーヌは手出しできる状態ではなかった。
フランソワ2世の妃でスコットランド女王を兼任するメアリ・スチュアートの母親は、ギーズ家の出であった。叔父にあたるギーズ公爵らがメアリを通じてフランソワ2世を支配、勢力を強めていた。
かろうじてカトリーヌができたことといえば、夫を独り占めにしてきた長年の愛人、ディアヌ・ド・ポアティエからシュノンソー城を取り上げたことだろうか。
シュノンソー城は、アンリ2世が領主権とともにディアヌに贈ったロワール地方の城である。元々は財務長官ボイエが建てた城だが、死後に国庫金の横領が発覚したため息子によって物納された。
ディアナはこの城をたいそう気に入って改修を施したり、橋を架けさせたりして手を加え、アンリ2世と幸せな時を過ごした。だが、王家から賜ったものは、いつか王の死によって返却しなければならない。
ディアヌは一計を案じ、書類上のつじつまを合わせて城の正当な所有者となった。
この小細工をカトリーヌは許さず、城の返却を迫ったのである。ディアヌにはかわりにショーモン城が与えられたが、誇り高いディアヌは故郷の城に戻っていったという。
即位から1年後、病弱なフランソワ2世が死去すると、かわって10歳のシャルル9世が即位した。摂政の地位に就いたカトリーヌはギーズ家を退け、政治的権力をふるい始めた。
当時のフランスは宗教戦争のまっただ中にあった。旧教徒(カトリック)と改革を唱える新教徒・ユグノー派(プロテスタン)が対立し、血なまぐさい闘争を繰り広げていた。
カトリックのギーズ家はフランソワ2世に勅令を出させ、プロテスタンに熾烈な弾圧を加えてきた。
メアリ王妃のスコットランドもカトリックであったが、廷臣の中にはプロテスタンに改宗するものも出てきていた。エリザベス女王の英国王室はプロテスタン(正確には「英国国教会」に属し、教皇から破門されていた)、スペイン王国はカトリックと、二つの勢力に挟まれ、フランスは揺れに揺れていた。どちらの介入を許さないためにも、新旧いずれの勢力をも一方的に強めるわけにはいかない危うい情勢であった。
カトリーヌ王太后は初めのうち政敵ギーズ家の勢力を弱めるため、プロテスタンのブルボン家に肩入れをし、両勢力のバランスを取ろうとしていた。
シャルル9世即位から10年後、シャルル9世の妹マルグリットと、プロテスタンであるナヴァール王家アンリ(ブルボン家)との婚姻を取り結ぶ。カトリックとプロテスタンの融和を図るためだ。
1572年8月24日のサン・バルテルミーの日、結婚を祝うためパリに集まっていたプロテスタンの中心人物や貴族らが襲撃を受け、虐殺された。
一説には、プロテスタン勢力の拡大を恐れたカトリーヌがギーズ公と結び、コリニー提督の暗殺をはかったという。シャルル9世がプロテスタントであるコリニー提督を重用し、父のように慕っていたのが原因という説もある。
虐殺は祭りの開始を報せる、サン・ジェルマン・ロクセロワ教会の鐘を合図に行われた。犠牲者の数はパリだけでも3千〜4千人、フランス全土では1千人、あるいは1万人とも(ずいぶん開きがあるが)言われている。
シャルル9世はこの2年後に死去する。
カトリーヌはカトリックとプロテスタンの勢力を噛みあわせ、均衡をとらせつつ乗り切っていくという策をとっていたはずだと思うので、彼女がこの大虐殺を指示したと、わたしは思っていない。あるいは、プロテスタンの勢力増大により、イギリスやスペインになにか不穏な動きでもあったのか・・・。真相のほどはわからない。
1574年、アンリ3世が即位。この頃からカトリーヌの勢力が衰えを見せ始めたと言われ、また隠然たる力を持っていたとも言われている。
1589年1月、摂政を辞していたカトリーヌはブロア城にて息を引き取る。奇しくもその年の8月、アンリ3世が暗殺され、後継のいないヴァロア朝は断絶した。
ひたすら王家の栄えのため権力闘争を繰り広げてきたカトリーヌにとっては、非常に不本意な終焉であったことだろう。
最後に、カトリーヌと夫アンリ2世の不仲説について。
二人の間には最終的に10人の子どもが生まれている。今に残るカトリーヌの肖像画があまり美人でないことから、一般的に夫に見向きもされなかったようなことが書かれているが、本当に振り向きもされなかったら、こんなに子だくさんにはならないのではないだろうか。せいぜい一人か二人生まれて終わり、である。
王妃の立場として、美人だから愛され不美人だから顧みられない、というものでもないだろう。当時の王は愛人持ち放題だったが、王妃との間に生まれた子ども以外は庶子とみなされ、王家を継ぐことはできない。王妃は美醜に関わりなく、それなりに尊重されたはずであった。
カトリーヌが不妊だったと言われる11年間と、子どもが生まれるようになった10数年間、あわせて20数年間も夫婦の中はそれなりに親密だったのだろう。
確かにアンリ2世は年上の美しい愛人に首ったけであったかもしれない。精神的に愛していたのはディアナの方だっただろうが、20数年間まめに本妻のもとを訪れていたわけだ。
二人が揃って埋葬されている墓所の模様はこちら→「サン・ドニ大聖堂 王家の霊廟」 |
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