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 平成20年キャンプ
 
平成20年8月17日(日)〜
* 夏 休 み 東 北 キ ャ ラ バ ン *
 
 夜通し東北自動車道を走りに走って、昼前、宮城県塩竃市にある塩釜漁港に到着した。
 ここ塩釜はマグロの水揚げ量が日本一という。人口比に対する寿司屋の数もまた日本一だとか。
 前回の東北キャラバンで行った本州最北端の大間もマグロで有名だが、今回はそこまで行かない予定。
 なので、ガイドブックに載っていた「塩釜前 大入寿司」という店に立ち寄ることにした。
 「大入寿司」はなんとも閑散とした一角にあった。港町という風情もなく、ただ道路だけが広い倉庫街の一歩手前。
 周囲に歩く人影もなく、昼前ということもあってか店はガラガラだ。なんとなく不安になって中に入り、カウンター席へ。
 店内には芸能人の写真が多数貼られており、テレビの取材で人気の店であることを伺わせた。
 そのせいか、カウンター奥に立つ大将にはなんとなく取っつきにくさを感じてしまった。
 わたしたちを見下しているのではという気がして、居心地が悪い。元々寿司屋のカウンター席って緊張してしまって苦手なんだ。
 間もなく漁港で働いているらしい人たちが入ってきたが、最後まで居心地の悪いままだった。
 おまけに、少し前に高速道路のサービスエリアで買った菓子パンを食べたせいで空腹感も少なく、食が進まない。
 それでもウニや大トロ、中トロなどを注文して美味しくいただいた。
 せっかくマグロの名所に来たというのに、なんとももったいないことだった。これが空腹だったら、もっと色々頼んでくつろぐこともできたのかもしれない。
塩釜前 大入寿司
■宮城県塩竈市新浜町1-7-12 / TEL 022-366-2721
■休業日 火曜日
■営業時間 11:30〜15:00、17:00〜22:00
 
 
 「松島や ああ松島や 松島や」という歌を一度は見たり聞いたことがあるという人は多いだろう。
 江戸時代の俳人・松尾芭蕉が松島を訪れた際、あまりの美しさに驚いて何も思い浮かばず詠んだとされる句である。
 実はこれ後世の川柳だそうで、本当のところ芭蕉は何も詠まなかったとも、詠んだことは詠んだのだが、できばえがあまりよくなかったので紀行本「奥の細道」(原文は「おくのほそ道」)に記載しなかったとも言われている。

松原観光協会のHPより転載した五大堂と福浦橋
 旅の冒頭では「松島の月まづ心にかかりて」と、松島の月が見たくて旅に出たような記述になっているのに、その月を見たという話は一切書かれていない。
 松島湾に浮かぶ島の形や連なり方などは詳細に描写しているが、句は詠まずに「造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽くさむ(造化の神の仕業は、例えどんな人が絵筆を振るい詩を吟じたとしても、表現することはできない)」などと、言い訳めいたことを書いて締めくくっている。
 その「どんな人でも表現しきれない」素晴らしいもの美しいものを、俳句の「五七五」に込めて表現するのが俳諧師の仕事でしょうが。時には目に見えないものすら情感たっぷりの句にまとめてしまうアナタが、できないってどういうことよ、芭蕉さん。
 などと思いつつ、芭蕉が絶句したほどの絶景とは一体どんなものか? という好奇心を満たすため、わたしは塩釜湾の北に位置する松島を訪れた。
 この日は時おり雨が混じる曇り空で、灰色の雲が低くたちこめている。海も同じような灰色で、ちっとも綺麗じゃない。
 そのせいか、芭蕉を黙らせた松原の景色ってこの程度? と、いささか戸惑う。
 おまけに運悪く花火の上がるお祭りの日に当たってしまい、どこもかしこも車や人でいっぱいだ。
 駐車場は満車、道ばたにちょっと停まって景色を眺めるなんてこともできない。そのままメインストリートを通り過ぎてしまった。海抜1メートルの陸地で見たところで松原の良さはわからないのでは・・・と思い、わたしたちはトレーラーをUターンさせた。
 実は後で知ったのだが、松原には「松島四大観」と呼ばれる修景地点が散在しており、いずれも小高い山などにあるのだ。その存在をこの時は知らず、どこかに展望台があるはずだと海岸沿いの坂道を再度登っていった。
 湾に突き出た半島を下る脇道に「展望台」という看板があった。同時に「味処双観山」とも書かれていて、さっきは素通りしたのである。
 それに道も細い。それでもわたしたちは意を決して、その道を下っていった。
 松林のあいだを抜ける道はどんどん海岸線まで下っていき、浜に行き着いた。ちょっとしたスペースがあったのでトレーラーを停め、しばし湾を眺める。
 すでに乗用車が一台停まっていて、子どもが三人、両親に見守られながら波打ち際を歩いていた。
 空の色は相変わらず灰色。ここも思ったほど絶景ではないが、沖に無数の島々が見える様子はなかなか趣がある。
 小さな島にも松の木が生えていて、なるほど松島とはよく言ったものだ。
 再びトレーラーを牽いて走り始めると、今度は道が登りになった。すると、「展望台」と書かれた看板と木の階段が見えた。
 階段の前にトレーラーを停めて、わたしたちは階段を登っていった。
 頂上には念願の展望台があった。
 傍らには「味処双観山」というレストランも建っているが、もちろん食べて行かなくても展望台は利用できる。
 後から知ったが、この高台は双観山というれっきとした山なのであった。塩竈と松島海岸の両方が望める場所なので「双観」という名がついた。しかし、前述の「松島四大観」ではないためか、そこからの眺めは・・・おっと、それは後で書くことにする。
 ちなみに観光協会の画像に写っている赤い橋は福浦橋といい、通称「出会い橋」。しかし、ここを渡ったカップルは必ず別れることになるという曰くもあるそうだ。
 ↓松島と双観山の地図。松島のシンボルとも言える五大堂は「県立自然公園松島」という島にあるため、短い橋を渡っていくそうだ。さらに橋は福浦島に向かっても架かり、それが福浦橋である。
 せっかく登った双観山ではあったが、展望台からの眺めはあまり大したことがない。天候の悪さが強く影響しているのは明白だったが、やはり松島海岸の景色には劣るようだ。
 次はぜひとも雲ひとつない晴天の時に訪れ、松原海岸を見下ろしてみたいものだ。そして、五大堂などをゆっくり見学してみたい。
 ちなみに「奥の細道」には弟子の曾良が詠んだ句、「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」が代わりに載せられている。
 意味は、「この素晴らしい松島には鶴こそふさわしい。ホトトギスよ、鶴に姿を変えて飛んでみよ」という、言いがかりに近い無茶苦茶なもの。
 以下はわたしの勝手な妄想なのだが、原稿を前にした芭蕉と曾良は次のような会話を交わしたのではないだろうか。
 曾良「先生。なんでもいいから、松島は行ったことにして句を詠んでくださいよ」
 芭蕉「嫌じゃ。実際行ってもいない、見てもいない風景を詠むなんぞ、わしの流儀に反する」
 曾良「しかし、松島に行ったことにしておかないと、読者に怪しまれます」
 芭蕉「なんと言われても、わしは行ってない場所の句なんぞ詠まんぞ」
 曾良「お願いしますよ、先生・・・」
 芭蕉「では、曾良。おぬしが句を詠め。それを紀行文に載せればよかろう」
 曾良「えっ、わたしが、ですか」
 芭蕉「そうじゃ、おぬしが松島の句を詠むのじゃ。うむ、名案名案。それで松島に行ったことにしてしまおう」
 曾良「はあ・・・」
 実はこの2人、松島ではたったの一泊しかしていない。ここへ至るまでは那須野ヶ原、黒羽、白河の関、須賀川、仙台と、結構ゆっくりペースで連泊している。中でも黒羽では一体なにが気に入ったのか18日間も滞在した。須賀川では8日間である。
 「松尾芭蕉隠密説」では、「奥の細道」は曾良が幕府の密命を帯びて仙台藩の様子を探るための旅であり、芭蕉はそのカモフラージュであったとしている。
 先に言っておくが、この「隠密説」はあくまでも仮説であり学術的にはまったく認められていないので、ご注意を。
 そんなわけで(どんなわけだ)、彼らは松島をあまりゆっくりとは見物していない。従ってその場で句も読んでおらず、後から慌ててこさえた。島々の描写は他人の紀行文を参考にし、とり繕ったという次第である。
 (これはあくまでもワタシの創作なので、あまり真剣にとらないでください(笑))
 
 さて、舞台はいきなり岩手県二戸市へと飛ぶ。
 東北道を一気に北上し、おととし訪れた一関や平泉を通過。この辺りは3ヶ月前に起こった岩手・宮城内陸地震の被害がもっともひどかった地域だ。
 松島を出発してから4時間半後、わたしたちは金田一温泉に到着した。
 金田一温泉は別名、湯田温泉とも呼ばれている。田んぼから湯が沸いていたことに由来するという。
 江戸時代の寛永3年、徳川将軍は三代・家光の頃に発見されたと言われる。南部藩の湯治場だったため「侍の湯」とも呼ばれて湯治客で賑わった。
 湯田温泉から金田一温泉に変わったのがいつ頃のことかははっきりしないが、「金田」はアイヌ語のキムタ(山の中の)からきている地名だそうだ。
 その金田一の地に南部氏の一族が移り住んで金田一氏を名乗り、領地を与えられた。言語学者の金田一京助(1882年〜1971年)はその領主の末裔だという。
 ちなみに、横溝正史の推理小説に登場する探偵「金田一耕助」はもちろん、この高名な言語学者の名前を拝借したものだ。
 金田一温泉には10のホテル・旅館がある。
 わたしたちが訪れた緑風荘は「座敷わらしが住む宿」として代表的な存在で、時々テレビにも登場する。人形で埋めつくされた奥座敷を観たことがあるという人も多いのではないだろうか。
 わたしも昨年の夏、座敷わらしが出るという部屋にレポーターが寝て、照明が消された深夜の部屋を赤外線カメラで撮影するという企画の番組をたまたま視聴していた。その時は座敷わらしなんて写らなかったし、特に泊まりたいとは思わなかったのだが・・・。
 今回、夫とわたしは縁あってこの緑風荘に一泊させていただくことになった。夫がたびたび利用している飲食店のオーナーが、なんと緑風荘の経営者と親戚だったのである。
 実は座敷わらしが現れるという奥座敷「槐の間(えんじゅのま)」の宿泊予約は、3年先まで一杯だとか。そこまで粘り強く待てる人は固定ファンだけで、たいていの人は予約が3年後と聞いて諦めてしまう。だから、「槐の間」に泊まるお客さんはほとんどが常連さんだという。
 で、オーナー氏が年末「槐の間」に泊まるので一緒にどうですかと、うちの夫を誘ってくださったというのだ。こんな機会はめったにないので、夫はもちろん二つ返事でうなずいた。
 今日ここに来たのは、奥座敷以外の部屋ならいつでも宿泊可というので、年末まで待ちきれない夫が「夏休みに泊まりに行こう!」と言いだしたからなのだ。
 →これが母屋の建物。あとで女将さんから伺ったところ、築300年を経た古い建物で昔はワラ葺き屋根だったそうだ。
 座敷わらしが出る「槐の間(えんじゅのま)」はこの母屋にあり、一般の部屋のある棟とは建物で繋がっている。
 母屋の前にある「座敷わらし」の文字。
 その下にある説明によると、「座敷わらしは東北地方の旧家に住んでいるとされる家神で、5〜6歳の子どもの姿をしているとされています。(中略) 大きな家の奥座敷にいて、時々いたずらもしますが、いる間は家が繁盛し、いなくなると家が傾く前兆とされます」
 
座 敷 わ ら し と は
「座敷童子」は東北地方、主に岩手県に伝わる妖怪、あるいは精霊的な存在である。
 
イタズラ好きで、寝ている客人の布団の上にまたがったり枕をひっくり返したりするが、見た者に幸運をもたらすと言われている。男なら出世し、女なら玉の輿だ。
 今のご時世で玉の輿というのも古いので、男女平等に女性も出世し成功するということにしておこう。
 
小さな足跡を灰やさらし粉の上に残し、夜中に糸車を回す音を立てるともいわれ、奥座敷で音を立てて遊ぶことがある。
 
また家人が一人で縫い物をしていたとき隣の部屋で紙がガサガラして鼻を鳴らす音がするので板戸を空けると、誰もいないなどの話が伝わっている。
押さえつけようとすると、相撲が強くて歯が立たない。緑風荘では、十段所有の柔道家が負けたという伝説がある。
子どもの目には見えて一緒に遊んだりもする。姿は家の者以外には見えず、子どもには見えても、大人には見えないとする説もある。
 
家人は座敷童子の住んでいることを迷惑がらず、むしろ神として保護し、周囲の人間も座敷童子のいる家に対して一種畏敬の念を持って接する」という。
その家を守る守護神的存在でもあり、座敷わらしが棲みついている間は家が栄え、出て行かれると傾くと言われる。
  
座敷わらしは柳田國男の「遠野物語」や劇団四季のミュージカル「ユタと不思議な仲間たち」などで一躍有名になった。「ユタ」は主人公の少年の名前だが、金田一温泉の地名「湯田」から取ったものかもしれない。
 
緑風荘の座敷わらしは妖怪とは違ってもう少し高貴な存在だが、それは後で説明する。
 
 新館玄関前の一角に、金田一京助氏の歌碑が残されていた。
 氏は1882年(明治15年)、岩手県盛岡市の生まれ。國學院大学教授、東京帝国大学教授、國學院大学名誉教授。文学博士にして言語学者、民俗学者、さらにアイヌ語研究の第一人者でもあった。
 氏は先祖発祥の地をたびたび訪れ、旅館業を開業する前の緑風荘に投泊したという。
 表と裏には氏の揮毫で「なつかしき 故郷の丘の石の面 我が名をきざむ とわのあかしに 京助」と刻まれている。
 玄関に入ると番頭さんらしき男性が応対に出た。「○○さんのご紹介で」と予約している旨を告げると、「ああ、△△君のお知り合いね」と話が通じた。
 ○○さんの名前は緑風荘のHPを見ればわかるのだが、ここでは伏せさせていただく。○○さんではなんなので、Aさんとしておこう。
 番頭さんが荷物を持ってくれて、2階の部屋に上がる。
 案内されたのは「初音」という部屋。なぜか床の間に縫いぐるみが置かれている。
 新しくはないが、掃除が行き届いていて清潔な雰囲気だ。
 窓の外は農園になっており、明るい日差しが差しこむ。畑にはたくさんのブルーベリーが植えられていた。
 荷物を置いて一息ついた頃にやってくるのは仲居さんと決まっているが、ここでは女将自ら挨拶にやっていらした。
 お愛想笑いをしないところは、いかにも東北人らしい。憂いを秘めた表情と静かな口調は、やはり座敷わらしを住まわせる家の住民だからだろうか。
 女将によると、この「初音」にも座敷わらしは時々現れるという。
 夫は「ほお、そうですか」と、いかにも嬉しそう。わたしは内心、「えー、いいよ。現れなくて」と思っていた。
 わたしはこう見えてかなりのビビリなのだ。子どもの頃はテレビや雑誌で心霊写真を見てしまうと、夜はトイレに行くのも、お風呂に入るのも、階段登るのも怖い、鏡なんて当然見られないという怯えた日々がしばらく続いた。一人っ子で個室だったため、余計怖さが倍増したのだと思う。
 今ではテレビの心霊番組、雑誌やネットの心霊写真のたぐいなど、いっさい見ることを避けている。
 それでいて、幽霊を一度も見たことがないため霊魂・幽霊否定派でもある。霊感があると思ったこともないし、恐がりのわりには何も遭遇してこなかった。
 それが否定派になった一番の理由だ。自分が実際に見たもの以外は信じない、という、よくあるタイプの人間なのである。
 そのくせ、やっぱり恐がり。今回も座敷わらしは見たいが怖い、怖いが見たいという狭間で大きく揺れていたのだった。
 さて、時刻も夕方の6時を回り、そろそろ夕飯時だ。「槐の間」は滞在客が食事で不在の時に限って見学できるというので、わたしたちは母屋に向かうことにした。
 旅館建物と母屋を結ぶ渡り廊下。左側は厨房のようで、調理の匂いや女性の話し声などが漏れてきていた。
 廊下をずんずん進むと、のれんが見えてきた。この奥が「槐の間」である。
 そこに男性が一人立っていて、見学したいと申し出ると「どうぞ」と案内してくれた。
 この方は緑風荘の若旦那で、先ほどの女将の息子さんだそうだ。A氏とは従兄弟になるのだろうか。
 「槐の間」に入った。床の間には隙間なくぬいぐるみや人形が供えられている。
 それを見た瞬間、全身に鳥肌が立った。
 夫にそれを告げると、「ほら、やっぱり感じるんだよ」とニヤリ。
 違う違う、たくさんの人形が怖いんだってば。
 ドキドキしながら、写真を撮る。すると若旦那が「フラッシュを焚くとオーブが写りますよ」と教えてくれた。
 オーブとは写真に写りこむ白い球体のことだ。 
 霊体だと言う人もいれば、空気中の埃だと言う人もいる。肉眼では見えず、フラッシュを焚かないと写らない。
 実は上の画像では床の間にひとつ、左の画像にも天井にひとつ写っている。
 こちらの画像ではオーブがわんさか写っている。まるで乱舞しているようだ。 
 若旦那さんに頼んでシャッター押してもらいました。
 年末、この部屋で寝るのか・・・。
 なんか怖いよ。座敷わらしじゃなくて、人形が。
 夕食を7時に頼んであるので、わずかな時間だが急いで温泉に浸かる。浴室はいったん旅館棟に戻った1階にあるが、男女に微妙な段差が。
 中に入ってみて、謎が解けた。
 こちら、男湯。階段は女湯に続いているのだった。女湯から男湯が見下ろせる構造なのだが、木の板が打ちつけてあって見えないようにされていた。
 かつては自由に行き来ができたのだろうか。
 ふと四万温泉の「四万たむら」の一番大きな浴室を思い出した。同じ構造なのだが、あちらは女湯から完全に覗けるようになっている。
 こちら女湯。なんか桁外れに違うんだけど。
 お湯は無色透明、無味無臭。弱アルカリ性の単純泉で、岩手県で唯一放射能を含む湯だという。
 循環と放流式を併用しているそうで、消毒臭のようなものは感じられなかった。非常によく暖まり、それが長時間にわたって持続する。
 しかし男湯との格差はなんとかならないかな。
 簡単に汗を流すだけにしてお風呂から上がる。
 母屋の大広間に行くと、夫がすでに食卓に着いていた。
 畳の上に置かれたお膳が低くて、足が痛いわたしにはちょっと辛い態勢。
 食事は素朴だがいずれも美味しいものばかり。無理に皿数を増やそうとしていない点も好ましい。
 ご飯やお茶はセルフになっている。
 食事が進んだところで女将がやってきて、母屋の建物やご先祖のことなどを話してくれた。
 ご先祖は鎌倉時代の末期、後醍醐天皇に仕えた万里小路藤房(藤原藤房、1296年〜1375年?1380年?)だそうだ。
 南北朝の乱で足利尊氏に敗れたために、この地(岩手県二戸金田一)まで落ちのびてきた。
 藤房の息子、亀磨が六歳で病死し、この家の守り神となって座敷わらしとして姿を現すようになったという。
 旅館の開業は1955年(昭和30年)と、比較的新しい。しかし、それ以前にも大正時代の内閣総理大臣・原敬や金田一京助など多くの著名人が宿泊したという。
 ちなみに先祖代々の言いつけにより、主人とその家族は奥座敷「槐の間」で寝てはいけないことになっているという。女将に「座敷わらしを見たことがありますか?」と質問したら、こういう答えが返ってきて、見たとも見ていないとも聞くことはできなかった。
 先ほども書いたとおり、この母屋は築300年という古いもの。今は天井が張られているが、元は屋根のてっぺんまで吹き抜けで、梁が多重構造を成しているという。
 大広間の隅にはたくさんのおもちゃが置かれていて、隣の席の3人の男の子が賑やかに遊んでいる。ちょっとうるさい。(w)
 誰もいなくなった後で広間をフラッシュ撮影したら、またたくさんのオーブが写ってしまった。
 隅の棚には裏の川でとれたという化石が展示されていた。
 二戸市のHPによると、この地方の地層は主に新生代第3紀層中新世で構成され、海棲動物や樹木類の化石を多く含んでいるそうだ。
 代表的なものとして、淡水棲の亀としては世界で1個体が確認されている「ユダクサカメ」や、約1,580万年前に棲息していた体長3メートルのイルカ「ニノヘイルカ」(二戸市歴史民俗資料館蔵)、約1,500万年前に北太平洋沿岸に棲息していた大型哺乳類「パレオパラドキシア」など。
 大雨で増水して水が引けた後には、ノジュールを発見しやすいという。ノジュールは、何年か前に「鉄腕Dash」でやっていた「恐竜の化石を発掘する」企画を観た人ならお馴染みだろう。
 動物や植物などの遺体を核として凝結した球体で、ハンマーで叩き割ると中から化石が現れるのだ。
 食後、続きになっているもう一つの大広間に案内された。舞台があるところを見ると、こちらが本当の大広間で、わたしたちが夕飯食べたほうが続きの間のようだ。
 こちらも食事をする所になっていて、先ほどまでは賑やかな声が響いていた。お客さんたちが部屋に帰ったので、どうぞごゆっくり見学なさってくださいと言われて見せていただいた。
 とにかく大きな母屋で、女将によると滋賀県の宮大工を招いて建てさせたものだとか。
 先月の岩手県沿岸北部を震源とするM6.8の地震では震度5強の揺れに見舞われたそうだが、頑丈な建物はビクともしなかったそうだ。
 さすがに匠の技である。
後 醍 醐 天 皇 と 万 里 小 路 藤 房
 後醍醐天皇は皇位継承に関する鎌倉幕府の調停結果に強い不満を抱き、倒幕を志した人物。倒幕計画は2度も発覚し、正慶元年(1332年)には捕らえられて隠岐島に流された。
 足利尊氏(当時は高氏。鎌倉幕府の有力武将)が加勢したことで、後醍醐は京に復帰し、「建武の新政」を始める。
 ところが恩賞の不公平など様々な不備から、武士だけでなく公家の不満も増大し、後醍醐の親政(天皇みずから政治を執ること)は失敗に終わった。
 建武2年(1335年)、足利尊氏の離反によって後醍醐は現在の奈良県にある吉野に逃れ、そこで朝廷を開いた。
 尊氏は京に新たな天皇を擁立したので、ここに朝廷が京(北朝)と吉野(南朝)に分裂する南北朝時代が始まった。この状態は室町時代に入って、足利幕府の三代将軍義満の手により統合されるまで56年間続くことになる。
 
 さて、史実の藤原藤房に焦点をあててみる。
 後醍醐が隠岐島に流されたとき、一緒に捕縛された藤房は下総国に流されていた。
 後醍醐が京に返り咲いたことで、藤房も復帰。「建武の新政」開始後も後醍醐天皇の忠実な側近であった。
 しかし、後醍醐の側近重用政治や大内裏造営にあたっての増税などを諫言したが聞き入れられず、失望して出家したという。
 滋賀県湖南市には藤房の墓所とされる妙感寺もあり、関東以北に下ったという史実は見あたらない。つまり、南北朝時代に突入する前に後醍醐の元を離れているため、「南北朝の乱で足利尊氏に敗れて」という事実はないのだ。
 「建武の新政」以前の流罪については「落ちのびてきた」のではないし、間もなく中央に復帰しているため、金田一に落ちのびたのは万里小路藤房ではないのではないかと思える。
 本当に尊氏に破れた一族だとしたら、その後も南朝に留まって抵抗を続けた公家であろう。
  
 夕食の後、もう一度浴室に行って本格的に入浴。帰りは一人だった。
 窓の外は真っ暗で廊下にも人気がない。ちょっと怖い。
 わたしたちの部屋「初音」はトイレなしなので、廊下にある共同トイレに行かなくてはならない。昼間はなんてことないのだが、夜は背中がざわざわする。
 わたしは鏡や窓の外をまったく見ないようにして、急いでトイレを後にした。
 おまけに1階の廊下にこんなポスターが貼られているのだから、よけい怖い。
 「槐の間」にたたずむ座敷わらしの姿だ。もちろんモデルを使って撮影したものだが、こんなのを見て就寝すれば、夢うつつに見たような気がするのではないだろうか。要するに視覚的な暗示である。
 これ、最初は緑風荘の宣伝ポスターかと思っていたら、右下に大きく「にのへ」の文字が。要するに二戸市の金田一温泉を宣伝するポスターなのだ。本当に見られるかどうかわからない座敷わらし一人に、金田一温泉の隆盛がかかっているのかも。
 1階廊下の壁には地元情報関連のポスターの他、宿のオーナーが芸能人と一緒に撮った写真がたくさん貼られていた。知っている人もいるが、知らない人も多い。有名芸能人というよりレポーターっぽい感じの人が多いようだ。
 ちなみに昨年わたしが観た番組では、テレビ局の女子アナが「槐の間」に宿泊した。
 消灯し、アナウンサーが眠りに就いて数時間後。午前1時だか2時だかをまわった頃、いきなりアナウンサーが目を覚まし、むくりと起き上がった。
 しかし、当人はこのことを覚えていないという。その時、ビデオカメラはひとつのオーブを捉えていた。
 という一シーンがあったことくらいで、座敷わらしらしい姿が現れることはなかったのだが。
 本当に映像に写っていたら凄いよね。
 お風呂から戻ると、部屋には布団が敷かれていた。
 就寝の支度をしながら、トレーラーから持ってきた梅酒や焼酎で晩酌開始。おつまみはシャケの乾きものかなんかだ。
 ここで夫はオーブを撮る!と言って、部屋中バチバチ撮影し始めた。フラッシュを使って撮ってはノートパソコンで確認する。
 翌朝も夜明けとともに起きだして、廊下やらトレーラーの中やら撮影していたようだ。
 もちろんオーブがたくさん写っていた。
 布団に入って消灯した後も、わたしはなかなか寝つけなかった。
 夫は大イビキをかいている。その騒音のせいもあるが、やっぱりナーバスになっていた。元々わたしは寝つきが悪い方なのである。
 いや、やっぱりイビキがうるさいせいだ。
 わたしは足を伸ばして、夫の腰のあたりをボカッと蹴った。夫が目を覚ましたので「イビキ、うるさい」と注意。その後、わたしが眠りに就いてからも2〜3回それを繰り返しつつ、熟睡できない時間が続いた。
 午前3時頃だろうか。ふと目が覚めた。夫は隣で高イビキ。部屋は真っ暗だ。
 えーん、怖いよ。
 わたしはなにも見ないように硬く目を閉じて、再び眠りが訪れるのを待った。だって、目の前に座敷わらしが現れたら嫌じゃーん!
 でも、アレ。待てよ。わたしは翌朝、はたと考えた。
 みんな座敷わらしが見たくて「槐の間」に泊まりに来るんじゃない? 「槐の間」が無理でも、他の部屋に来るかもしれないと期待して、これだけの宿泊者がいるのだ。
 座敷わらしを見た者は、男なら出世し、女なら玉の輿に乗れると言われている。
 夫はぜひ見たいと言う。わたしも玉の輿には乗りたいし(おいおい)、一社会人としても成功したい。しかし、座敷わらしを見るのはちょっと・・・。
 幽霊というより精霊のようなもので悪い存在じゃないと夫は言うが、やっぱ怖いよ。だってこの世のものじゃないんだもの。そもそも幽霊とお化けと妖怪と精霊って、いったいどこが違うの?
 でも、ちゃんと見ておけば良かったかなあ。あのとき目をしっかりと開けて起きていれば、ひょっとしたらひょっとして・・・。
 翌朝、夫は言った。
 「座敷わらし、来たよ」
 目が輝いている。
 「ええー、うっそぉ」
 「ホントだよ。ボクの体をポンと蹴ったもの」
 がくっ。
 「・・・それ、わたしだよ。イビキがうるさいって、何回か蹴ったもの」
 「いやいや、君が2度ほど蹴ったのはわかってる。3回目は間違いなく、座敷わらしだったよ」
 「それも、わたしだって!」
 夫が心から座敷わらしを見たと思いこみたがっている様子が、本当におかしかった。
 「わたしが蹴ったの! わらしじゃなくて、わたし!」
 ダジャレを言っている場合か。しかも、夫はこんなことまで言い出した。
 「昨日の夜、一人で廊下を歩いていたら、耳元を子どもの声のようなものがフーッと吹き抜けていった」
 ああ、はいはい。見たことにしておきましょ。きっと成功者になれるよ。 
 午前8時。朝ご飯を食べに、母屋の大広間に降りていった。今日は舞台のある方の広間にわたしたちのお膳があった。
 襖の向こうの広間では、昨夜とっても元気だった男の子たちが今日もさらに賑やかな声を響かせていた。
 別の部屋にしてくれてありがとう、女将さん。
 わたしは普段朝食を食べないのだが、この日はシャケから何から全部おいしくいただいた。
 食後、「槐の間」の前を通りかかると、宿泊客がすでにチェックアウトした後だというので、また見学していくことにした。
 しかし、8時半でもうチェックアウトなんて、早い人たちだなあ。
 それにしても、おびただしい人形の数だ。ここに泊まって座敷わらしに出会った人が、次に訪れる際に人形を持参して供えていくとも聞いた。
 年末に再び来るので、そのとき何か持ってこようかしら。喜んでもらえたら姿を現してくれるかも。(結構、期待してたりして)
 川で化石が採れると聞いて、前々から楽しみにしていたわたしたちはお散歩がてら出かけることにした。
 その前に母屋の中庭に置かれているノジュールを見学し、亀麿神社へのお詣りをする。
 前述した通り、この金田一に逃れてきた万里小路藤原藤房の長男、六歳の亀磨が病を得て亡くなった。その亀磨を祀ったのが、この亀磨神社である。
 お詣りを済ませ、いざ川までお散歩に出発だ。トレーラーでいい子に留守番していたレディも一緒である。
 ところで、ここから約50キロ北のところに航空自衛隊とアメリカ空軍の基地である三沢飛行場、通称三沢基地がある。そのせいだろう、ときどき上空のわりと低い位置を音速戦闘機が通過して、わたしたちを驚愕させた。
 2回ほど小松航空祭でF15のアクロバットを見たことはあるが、こうして偶然に音より早く飛来し去っていく姿を目撃して、シビレてしまった。
 「すごい! 音速だよぉ」
 口をあんぐり開けて無邪気に見送る。後には細く長い飛行機雲が残されていた。
 金田一の空に飛行機雲が多いのは、戦闘機が通過するせいなのかな。
 わたしたちは田んぼのあぜ道をずんずん歩いた。
 緑風荘の裏手にある川・・・と聞いていたが、実はとっても遠かった。彼方の、背の高い木が並んでいるところが川だったのである。
 遊歩道はあるが、緑風荘からは小川の向こうになるので渡れない。田んぼのあぜ道を行く以外なくて、草が生えていたり斜めになっていたりする所を進む。サンダルなので非常に歩きにくい。
 川の上流では釣り人の姿が見えた。
 流れは穏やかそうだが、奥の方には深みがあって流れも強そうだ。
 夫がサンダル履きのまま川に入ってみた。水はかなり冷たいらしい。見渡したところ、ノジュールは見あたらない。
 レディのリードを離してやると、河原を大喜びで走りまわり始めた。岸辺を走り、バシャバシャと水を跳ねる。
 無邪気なその姿は無条件にかわいい。
 以前も奥日光の光徳沼にザバザバと入ったことのあるレディだが、今回もそのノリで川の中に駆けこんでいった。浅瀬がずっと続くと思っていたのだろう。
 しかし、レディが飛びこんでいった先は、いきなり深くなっていた。突然に四肢がつかなくなって、レディの体が水に沈みかけた。
 レディはこれまで一度も泳いだことがない。海や沼に行っても波打ち際で遊ぶだけ。このままでは溺れる、と思った瞬間。
 レディが犬かきを始めた。そして、真剣そのものの表情で泳ぎながら、慌ててまわれ右をして岸に戻ってきたのである。
 夫とわたしは大笑いしつつも、動物の本能にいたく感心した。誰も教えていないのにちゃんと泳げたんだから、エライ! これが人間の子どもだったら、浮き沈みしながらたちまち流されていたことだろう。
 初めての水泳でいきなり溺れかかったレディ。
 しかし、ちゃんと自力で泳いで戻ってきた。なかなか逞しい子である。
 ずぶ濡れになってしまったが晴天だったので数時間で乾き、風邪をひかずに済んだ。
 わたしたちは化石が見つからなかったので、逆方向の支流に向かった。番頭さんによると、先週あたり大学生のグループが来てたくさん採っていったとのこと。もうないかなあと首を捻っていたが、本当になかった。
 めげずに宿を挟んで反対方向にある支流に行ってみることにした。そちらの方が採れると番頭さんが言っていたからだ。
 支流の川は宿のすぐ前だったが、護岸工事が施されているようなキッチリした川で、やはり何も発見できなかった。
 ところで、宿の近くには足湯が2箇所あった。
 そのうち目立たない場所にあるのがこちら。空き地なのか道ばたか判然としない場所にポリケースが無造作に置かれ、少しぬるめのお湯が注ぎこまれている。
 ふと近寄ってみると、なんとも芳しい硫化水素臭を漂わせた良泉ではないか。それが惜しげもなく掛け捨てられている。
 我慢できずに足を入れてみた。すると、細かい気泡が肌に付着してくる。いいじゃん、いいじゃん!
 緑風荘では無個性な半循環だし、このあと入った「スパドーム」という日帰り温泉も完全循環だった。なのに、こんないいお湯を誰も入らない足湯に掛け捨ててしまうなんて。
 ああ、もったいなや、もったいなや。
 ぜひ掘ったて小屋でいいから周囲を覆って、入浴できるようにしてほしいものだ。ぬるいままでいいから、このお湯に浸かりたい!と心から思った。
 ちなみに、「割烹旅館おぼない」の前にある足湯の方はパラソル付きでとっても綺麗。あんなセメントをこねるようなポリケースじゃなく、風情のある木の湯桶だ。
 でも、お湯に匂いも泡付きもない。
 入るなら、やっぱりポリケースの湯だ。あの泡付きを楽しみながらゆっくりと楽しみたい。
 緑風荘に戻り、お借りしていたハンマーを返却した。これはモジュールを叩き割るために借りていったものだが、結局使われることはなかった。
 玄関の前に、大量採取していった大学生らが置いていったという貝の化石が山積みになっていた。番頭さんがどれでも好きなのを持っていっていいよというので、一つ二ついただいてきた。
 まるでカタツムリのような巻き貝の化石。
 このあたりの地層は「新生代第3紀層中新世」で構成されていると前に書いたが、それだけでは一体どれくらい前の昔のことなのかピンとこないので、ちょっと調べてみた。
 「新生代」とは、約6,500万年前から現代までの時代を指す。恐竜が絶滅してから現代に至るまでなので、意外と新しい印象だ。
 そのうちの「第三紀」は、6,430万年前から160万年前までの期間にあたる。
 最後の「中新世」は新生代の第4の時代で、新第三紀の第1の世。約2,300万年前から約500万年前までの期間を指す。この時代、大陸はほぼ現在の形を整えたが、北アメリカ大陸と南アメリカ大陸は離れていた。アルプス山脈とロッキー山脈の造山運動が始まり、日本はユーラシア大陸から離れていく。
 つまり、この貝の化石はおおよそ500万年前から2,300万年前、日本が独立した列島になり始めた頃のもの。海と陸の生物はかなり現代に近い状態にまで進化しているため、この地層からは見覚えのある二枚貝、巻き貝の化石が採れるというわけだ。
 化石ではもっとも有名なアンモナイトは古生代から中生代のもので、およそ2億から4億万年前の生物。それに比べると、「新生代」の化石ははるかに近い時代のものだと言えよう。

金田一温泉 緑風荘    金田一温泉 浴宴処スパドーム
  
 

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