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白糸ノ滝に通じる道を上がり、旧三笠ホテルに向かう。そこは軽井沢でもっとも高級な別荘地、三笠地区と呼ばれる一角だ。あの麻生太郎さんも軽井沢に別荘をお持ちだそうなので、おそらくこの辺りにあるのではないだろうか。
大学時代にタクシーをチャーターして軽井沢観光したとき、このカラマツ並木が一直線に続く通りを走ったことがある。芸能人の別荘がたくさんあって、女優の森光子さんなど有名人を何度も乗せたと、運転手さんが話してくれた。 |
あれからウン十年間、一度もこの道を通ることはなかったので、非常に懐かしい想いで並木道を走った。
木々の奥には壮麗な豪邸が建っている。これだけの別荘を構える人の年収は、一体どれくらいなのだろう。
旧三笠ホテルに到着した。駐車場は300メートルほど離れたところにあって、かなり不便。そのせいかレンタサイクルで訪れる人も多いようだ。
旧三笠ホテルは日本郵船、明治製菓、十五銀行などの重役を務めた実業家の山本直良(1870年〜1945年)が明治39年(1906年)に創業した、純西洋風の木造ホテルである。
直良は未経験のホテル経営を始めるにあたって、万平ホテル(軽井沢町軽井沢925)の経営者に頼みこんで監督になってもらった。 |
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設計・施工にあたったのは、アメリカで設計を学んだ設計士や軽井沢随一の棟梁などの純日本チームであった。
完成したホテルにはシャンデリアによる電気照明に英国製のカーペット、英国製タイルを貼った水洗トイレ、プールまで完備されていたというから、明治時代後期としてはまさに最高品質・最先端の超豪華ホテルであった。初めのうちは外国人が多く宿泊したが、次第に華族、文人、財界人などが多く滞在するようになった。 |
これは「軽井沢の歴史」でも紹介したように、寂れた軽井沢を最初に避暑地としたのが外国人だったことと一致する。そこに目を付けた直良の実業家としての才覚は大したものだ。
多くの外国人が滞在するため、軽井沢には海外経験のある政財界人も訪れるようになり、次第に華族、文人、芸術家なども増えていった。こうして三笠ホテルは一大社交場として栄え、「軽井沢の鹿鳴館」と異名をとるようになったという。 |
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竣工当初の約半分の建物が現存していたため、昭和55年(1980年)、国の重要文化財に指定された。日本人の手による純西洋式木造ホテル、それも「西洋風」ではなく純粋な「西洋式」建造物をこの時代に造りあげた点が高く評価されたものである。
八角の塔屋、非対称形による荘厳な造形とともに、デザイン的にも優れた手のこんだ装飾が随所に見られる。
外装でいえば、軒を支える湾曲したブラケット(腕木)や窓の太い縁どりなどである。内装については後述する。
ちなみに、童謡「一年生になったら」や「大きいことはいいことだ!」で知られる音楽家の山本直純(2002年他界)は、直良の孫である。
また直良夫人の愛は作家・有島武郎の妹で、三笠ホテルより少し奥には有島家の別荘「浄月荘」があった。
その有島武郎は1923年(大正12年)、「浄月荘」において人妻と心中死を遂げ、世間を驚かせたという。 |
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資料展示室で展示されていた宿帳。東京都が「東京市」になっていたり、外国人の名前が見られるのも興味深い。
この宿帳には皇太子妃になる前の美智子さまの名前や、元幕臣で実業家の渋沢栄一、三井財閥の総帥であった團琢磨、住友財閥の創業者・住友吉左衛門、陸軍大将・乃木希典、清朝最後の皇帝”ラストエンペラー”溥儀の名前も載っているそうだ。
では、こんなお歴々が泊まったこのホテル、宿泊料は一体おいくらなの? |
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と、一般平民としては大変気になるところである。
部屋によっても違ってくるだろうが、軽井沢商工会の資料によると12円だったそうだ。大正時代初頭の換算で「1円=現在の5千円程度」だというから、一泊6万円ということになる。
当時、一般の旅館で1円、万平ホテルは8円だったそうなので、一般庶民とは住む世界の違う人々の集うところだったようである。
なおパンフレットには3,000円と書いてあるが、これは昭和初期くらいの料金だと思われる。 |
さて、「軽井沢の鹿鳴館」と異名をとっただけあって、ここ三笠ホテルではたびたびパーティが開かれた。時には仮装舞踏会のような華やかな催しもあったという。
→ここが晩餐会や舞踏会が開かれたラウンジ。質素な印象を受けるが、当時はまだ障子・ふすまの家屋がほとんどだったのだから、格段にゴージャスなものだったに違いない。 |
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これは↓ラウンジに掲示されている写真で、明治末もしくは大正始めに開かれた晩餐会の模様。「軽井沢の鹿鳴館」というわりには、服装がすごく地味なのが印象的だ。
このテーブルの一番左に本来なら山本愛が写っているのだが、なぜか近衛文麿の所ですっぱりカットされてしまっている。別の部屋にある同じ写真には夫人が写っており、なぜオーナー夫人の姿がカットされているのかわからない。
で、愛の左隣(向かって右)に写っているのが近衛文麿。のちに公爵の爵位を継ぎ、三たび内閣総理大臣に就任した人物だ。戦後、GHQからA級戦犯の容疑をかけられ、荻窪の自宅で服毒自殺した。
なんとこの方、あの”熊本のお殿さま”こと細川護熙氏のお祖父ちゃんにあたるそうだ。
現在(2008年9月)、福田首相の「政権投げだし」がトップニュースになっているが、近衛文麿も太平洋戦争開戦直前に政権を投げだしているし、細川氏も突然退陣している。
お祖父ちゃんと孫だから2人は容貌もよく似ており、「政権投げだし」まで同じだと評する向きもある。しかし、「政権投げだし」がこの2人に限ったことではないのは、福田さんや安倍さんの例を見ても明らかである。
さて、近衛文麿から2人置いて右、立派な髭をたくわえた和服の男性が山本直良である。このメンバーの中で最も堂々として自信に満ちあふれ、一番偉い人のように見える。
その右が尾張徳川家当主で侯爵の徳川義親。彼は越前藩主であった松平春嶽の五男だ。
暖炉の前に座る毛利夫人は、下の名前がわからないので詳細不明。ネットで調べたところ、毛利子爵夫人(元・豊後佐伯藩主家)ということだ。
近衛文麿の夫人、千代子(画像右端)は毛利子爵家の出だそうなので、彼女の母親か誰かではないだろうか。この晩餐会は子爵夫人を囲んでのものなので、あるいは彼女の誕生日会かもしれない。
そして、次に座るのがこの写真より12年後に情死することになる有島武郎。その最期を象徴しているわけではないだろうが、後ろの方にぼんやりと写っている状態である。そのすぐ隣りは有島の実弟でやはり小説家の里見ク(さとみ・とん)。
その隣りの徳川慶久夫人は、有栖川宮威仁親王の第2王女・實枝子(みえこ)。夫の慶久は徳川幕府最期の将軍、慶喜の7男で、嫡男として父の家督(徳川宗家ではない)を継いだ人物だ。
なぜかこの写真に写っておらず、最初は晩餐会に出席していないのだろうと思っていた。
しかし、この時代、というか現代の日本でも欧米でも同じだが、フォーマルなパーティは男女ペアでの出席が基本である。この席に夫の慶久もいたはずだと考えると、カメラを構えシャッターを押したのは慶久だったという可能性もある。
父の慶喜はかなりのカメラ好きだったそうだから、慶久もよいカメラを持っていたのではないだろうか。
毛利子爵夫人の左隣の席が空いているように見えるので、彼はそこに座っていたのかもしれない。
そして、右端に映る女性が前出の近衛文麿夫人、千代子だ。女学校一の美女だった千代子を文麿が見初めて結婚したという。確かに愛らしい細おもて顔の、チャン・ツィイー似の美人である。
さて、一部割愛したが改めて晩餐会のメンバーを見てみると、ホテルオーナーの妻、妻の兄弟といった親しい家族・親類の他は、すべて華族で占められている。
山本家、有島家はともに藩士の家柄だ。世が世なら、徳川家、近衛家、毛利家、黒田家の当主やその奥方とは直に話をすることもできない身分である。
将軍の息子や親王の娘、関白の孫、殿さまの息子といったやんごとなき人々をゲストに迎え、一緒の写真に収まる直良の晴れがましさが、こちらにまで伝わってくるようなシーンだ。
それにしても女性がすべて和装で、しかも慎ましやかに目を伏せている様子は非常に興味深い。現代であれば堂々とカメラ目線で満面の笑みをつくり、さらにはVサインなんかしてしまうところである。
着物が地味なあたりも、華族といってもこんなものだったのかという思いがする。
日本が近代的国家であることを西洋諸国に示すため日比谷に鹿鳴館(明治16年〜明治23年)が建てられ、ドレスをまとった上流夫人がダンスをした時代である。
明治の末なら当然、みんな普通に洋装していたのだろうと思っていたが、それはあくまでも外国向けのパフォーマンスであって、多くの上流女性はまだ着物を好んでいたのに違いない。 |
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これはラウンジを別の角度から撮影したもの。
ソファは当時のものを修繕・修復して展示しているそうだ。 |
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ピアノと暖炉。暖炉は各客室にも設置されており、寒さ厳しい冬の間も宿泊はあったのだろう。 |
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太い縁の窓枠と、幾何学模様のガラス窓。
このガラスには歪みがあって、当初からのガラスがそのままはめこまれているという。
カーテンボックスは鶴と松を組み合わせた浮き彫りになっている。 |
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カーテンボックスをアップにしたもの。鶴と三つの松かさ、三笠ホテルのイニシャルである「MH」があしらわれている。
下の2枚はイギリス製のカーペットが敷かれた階段。お城の天守閣もビックリといった急勾配の階段は現在使用されておらず、当時のままのカーペットが現存している。 |
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ラウンジを出て、客室を見てまわる。
ここも壁はやはり真っ白なままで、まるで病院のよう。当時も壁紙で飾ったりははしなかったのだろう。
客室はシングル、ダブル、スイート、ベビーベッドのある部屋など、様々なスタイルで構成されていた。
ここが1号室、ここが2号室、ここが11号室・・・と各部屋のドアの上に刻まれた部屋番号を見ていくと、13号室がないことに気がついた。
「そうか、西洋式のホテルだから13号室がないんだ」と思わずつぶやく。 |
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バスタブ。すべての部屋にお風呂があるわけではなかったようだ。 |
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廊下にある共同トイレ。このタイル張りってところが、当時の日本では画期的だったのだそうだ。タイルはイギリス製で、もちろん水洗だった。
うちの田舎なんか、昭和にも関わらず板張り・落としのトイレだったのに。
しかし、上流階級向けの豪華ホテルでもトイレが共同ってところは、ちょっぴりカワイイ。 |
見学を終えて、玄関から出る。マイペースなIさんはここでも早々と見学を終えており、外のベンチで待っていた。わたしと区議が最後のようだ。
玄関でスリッパを脱ぎ靴に履き替えていると、区議がこんなことを言いだした。
「1号室に幽霊が出るって書いてあったわねえ」
「ええ? そんなこと、いったいどこに?」
「最初にあった資料室。1号室に出るって。わたしその部屋に入って、なんか暗いなあと思ったのよね」
「・・・」
わたしはしまった、見逃したと、ほぞを噛んだ。説明も読んでなかったし、その部屋のことも気づかなかった。これはもう一度、その部屋に戻ってみなければ。
しかし、一人では心細い。すでに靴を履いていた区議を道連れに、わたしは1号室に戻っていった。
1号室は2階にあるため、先ほど降りてきたばかりの階段をまた昇っていかなければならない。わたしは苦笑いする区議を引っぱって、階段を駈けのぼった。
←パンフレットより転載 |
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←階段の上から踊り場を見たところ。かつて、この踊り場の向こうには渡り廊下があって、その奥にも建物が続いていたそうだ。
ところで、資料室にあった説明は以下のようなものであった。
『この三笠ホテルにも、コワイ話がございます。2階にあるスウィートルーム、No.1とNo.2・・・
見物客が一瞬途絶え、あなたとお友達だけになり、シーンと静まり返ったとき・・・
スキップをする女の子や、渋沢栄一に会えるかもしれません』
2階の奥まったところにあるスウィートルームに到着。区議の言うとおり、確かに薄暗い。うっそうとした森に面した北側の部屋なので、なにやら出そうな印象を受けるのだろうと思う。
それにベビーベッドの存在が、なんだか妙に怖い。そこはかとなく楳図かずおの世界。
部屋には区議とわたしの他には誰もおらず、ひっそりと静かだ。だが、スキップする女の子も渋沢栄一も現れない。
いや、本当に出たらマジで怖いが。 |
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渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれた実業家で、現在の埼玉県深谷市の農家の生まれ。徳川慶喜の家臣となり、慶喜が将軍になったことで幕臣となった。学校教育や慈善事業など社会活動にも力を注いだ立派な人物だったようで、91歳の長寿を保った。
どう考えても化けて出るような御仁ではないのだけど。
わたしたちは再び階下に降り、玄関の外にあるベンチに腰かけた。そこで夫や他のメンバー達に「幽霊の出る部屋」について説明していると、さっきから館内を撮影していたカメラクルーが近づいてきた。
どこの局かは知らないが、「ベンチで談笑しているシーンを撮らせてください」と言う。よほど楽しそうに見えたのだろうか。
いいですよ、と応じて、わたしたちは素知らぬ顔をしてお喋りを続けた。
いったいどこのどんな番組で放送されるのだろう。軽井沢の観光スポットを扱った番組か、それとも夏の心霊特集だろうか。 |
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旧三笠ホテル |
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■長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢1339-342
■TEL 0267-42-7072(旧三笠ホテル) / 0267-45-8695 (教育委員会文化振興係)
■営業時間 9時〜17時 (入館は16:30分まで)
■休館日 年末年始
■料金 大人400円 子ども200円 |
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